◆◇◆遠い触覚 保坂和志 第三回 『インランド・エンパイア』へ(2)後半◆◇◆ 
真夜中」 No.3 2008 Early Winte

 私だけが「リンチ的なもの」を欲しすぎるあまり、ふつうに読めばカッコに入るそのカッコのはじまりの開きのカッコの信号に気づくはずのところを気づかないようにしているのかもしれない。たとえばこういうことだ。今回の最初のところをもう一度書くが、

 私は文芸誌の「新潮」で『小説をめぐって』という連載を二〇〇四年の一月号からずうっとつづけていて、それは二〇〇三年に長編の『カンバセイション・ピース』を書いた。

 この文は一読して全然おかしい。人によっていろいろ言い方があるだろうが、「それは」以下、話の本筋に対して条件節のようなところでブツッと切れるからだ。条件節のような部分は読みながら本筋を理解するのと別のところにいったんプールされる。そういうとても高等な技を人は何気なくやっている。カッコに入れているわけで、この機能が人間の頭になければフィクションが成り立たないということは間違いない。
 ではもう一つ。

 私は文芸誌の「新潮」で『小説をめぐって』という連載を二〇〇四年の一月号からずうっとつづけていて、二〇〇三年に長篇の『カンバセイション・ピース』を書いた。

 これがリンチの映画の場面のつなぎ方なのではないか。しかし今は異物性の話だ。

 八月七日にシアタートップスでFICTIONという劇団の『しんせかい』という芝居を見てきた。
 芝居がはじまると若者が一人、よれよれのTシャツに短パン姿で、膝をかかえるような姿勢で地面にすわってコンビニの弁当を食べている。若者の姿勢はたぶん最も体積を小さく見せる姿勢だ。芝居がはじまって一番最初に目に入ってくることなのだが若者はプロレスラーの覆面を被っている。特定の誰というレスラーではないだろうがプロレスラーの覆面だということは誰でもわかる。
 若者はとても貧乏くさく、弁当を少しずついつまでも食べている。それだけでネットカフェ難民的な感じがもろにこちらに伝わってくるのだが、弁当を食べ終わるとアルバイト情報誌のページを繰って携帯で電話をかけはじめる。
「あ、……もしもし、……あの……アルバイト、のを見て、電話したんですけど……。
 あ、はい、……あ、はい、……あ、そうです。
 あ、はい……。」
 こんな感じで、若者のしゃべり方はしゃべりより間の方が長く、シアタートップスは狭い劇場だから若者はふつうの声の大きさでたどたどしく電話の相手と話しつづける(しかし若者の声はふつうの声でもじゅうぶんよく通る)。
「……あ、はい。……あ、あの、……住所とかないとダメですか。……あ、はい。……あ、ええ、そうです。
 ……あ、はい。……やっぱりダメですか。……あ、はい。」
 住所がないと言うと断られるというバイト探しの電話が三つぐらいつづき、彼はあきらめて今夜の寝場所のネットカフェに行く。実際の舞台ではここまでで十分か十五分くらいかかり、その間、彼と直接に関わりを持たない人物が登場してもいるが全体の再現をしていたらキリがないし私にはそれは無理だ。
 ネットカフェの席に着くと若者は位牌を二つリュックから出して机の左右に並べる。それから若者は覆面は被ったまま着ていたTシャツを脱ぐ。すると彼は筋肉質の引きしまった体だ。
 この瞬間、彼は演じている役としての人物でなく役者自身の地を見せてしまった。ネットカフェ暮らしをしている若者なら筋肉のないもっと貧弱な痩せた体の方がリアリティがあった。それまでのたどたどしいしゃべりとも対応する。しかし私は彼の体が筋肉質であることを見てホッとした。
 舞台の上にいる彼の体が痩せてたら私は痛々しくて、そこから出られなくなってしまったんじゃないか。そういうリアリズムは私は困る。すでに私は舞台と共振していたのだ。「感情移入」という言い方があるが、感情移入ではないと思う。感情というような局所的なものでない、あの空間を形成していた何かの一員に私はなってしまっていた、とかそういうことだ。
 しかし筋肉質ではあったが彼の体は『パレルモ、パレルモ』のダンサーたちのように舞台という空間と拮抗しうるようなものではなかった。その意味では彼がそこにいたことは『パレルモ、パレルモ』よりもすごいことだった。『パレルモ、パレルモ』は踊らずただ立っているだけでダンスだったのだから、観客は「剥き出し」であろうが何であろうが意図された姿を見た。ダンサーは筋肉を鍛えるわけではなくて、動きを鍛え、立ち姿を鍛えるのだろう。『しんせかい』でのこの瞬間は意図されたものではない。さいわいにも彼は筋肉質だったわけだが、彼の体はダンサーのようには空間と関係を持てない。

 と、彼の携帯が鳴る。さっき電話したバイト探しの相手先の一つからの連絡だ。明日の朝十時、どこそこの駅前で待っていてくれ、そこで拾って現場まで連れていく、という話らしい。
 話ははしょるが、ここから芝居はどんどん不安な感じになっていく。覆面の若者中心に進行していた部分は動きが極端に少なく、「よるべなさ」の空気が全体に漂っていたが、仕事にありついた現場らしき場所の場面になると、それまでそれなりに安定していた舞台やこちらの気持ちの構えが短時間でどんどん壊されて、「不安定」どころか「不安」が舞台を支配しはじめる。観客として芝居を見るということは映画も小説もそうだが、つねに気持ちの構えを調節したり今後の展開をわからないなりに大枠として予想したりして多少なりとも観客としての安定を得るというセコいことをしているものだが、この舞台の上での出来事はどんどんそれを壊していった。
 舞台は、つまり芝居というより舞台上の即物的な出来事としての舞台は、加速度的に混乱し暴力性を増していく。ただ舞台上の暴力ということでなく、こちらの気持ちの構えを壊すという意味での暴力が重なったために、目の前の舞台はいっそう暴力の度を増していった。
 そこに最も暴力的なキャラクターであるイケタニという大男が登場し、舞台上にいる役者たち数人はイケタニに対する恐怖からパニックになる。そこで、パンッ! とイケタニが拳銃を発砲した。
 舞台上の役者たちのパニックはもちろん演技だが、シアタートップスは舞台と客席との境いが弱く、観客も役者たちのパニックに共振してしまっていた。そこに持ってきての発砲だ。客席からは悲鳴まであがった。
 舞台の上で演技として拳銃を撃つことは珍しくないが、その拳銃はいつも「拳銃という記号」の範囲内であって、この瞬間のように自分に向けて拳銃が撃たれたと思うことなんかない。電撃ネットワークという、舞台の上で実際に自分たちの体を痛めつけるパフォーマンスをするグループがいるけれど、彼らの舞台だってその痛みが自分に及ぶと思って悲鳴をあげる観客はいない。
 この発砲で舞台の混乱・暴力は飽和点に達し、しかしそこでばっと暗転して、次の場面になる。そこは覆面の若者・コタニがこうしてたどりついた場所で与えられた部屋で、コタニはさっきの恐怖で失禁したパンツを脱いではきかえ、そうこうしているとイケタニの前でパニックになった人たちが集まってきて、彼らの会話によってイケタニもこの職場の一員であることがわかり――しかし「職場」だと確信が持てるまで私はここは精神病院なんじゃないかと思っていた――、そうしていると、
「ピストルなんかオモチャに決まっとるやんけ。」
 という声とともにイケタニが再び登場してくる。
 この展開は「リンチ的」な意味で相当込み入っている。さっきの発砲シーンでは他の役者たちは芝居の中で本物の拳銃として演技していて、その真剣さによって本物の拳銃を向けられるはずがない観客までが、本物の拳銃が自分に向けて発砲された気分に陥って悲鳴まであげた。役者が芝居の中で悲鳴をあげたとしても、観客はそれと一緒に悲鳴をあげることなど芝居では求められていない。しかし進行中のフィクションであるこの芝居の中で起こった暴力は舞台という枠を破って客席までも支配した。
 その余韻が残っている中で、「ピストルなんかオモチャに決まっとるやんけ。」という台詞が言われることによって、観客はあらためて「本物の拳銃が発砲されたときの気分を味わったな。」と遡及的に自覚する。混乱した空間では自分が何をどう感じているかはっきり自覚しそこなうものなのだ。だから事後のこの台詞は、さっき自分が感じていたことを整理する意味で効く。
 そして同時に、さっきからいまここまでのあいだ、自分がイケタニという人物を、"本物の拳銃を持ち歩く男"なのかそうでないのか決めかねていたことも自覚する。つまり「ピストルなんかオモチャに決まっとるやんけ。」は、芝居の中にいる他の人物たちに向けて言われただけでなく、観客(の気持ちの構え)にも向けて言われたのだ。この構造は前回書いた『インランド』での助監督が、ローラ・ダーンとジャスティン・セローの台本の読み合わせの最中に発する「あれは何だ。」という一言にちかい。
 イケタニはいまださっきの暴力の不穏さを体から発散したまま舞台全体を見回す。すると、覆面の若者・コタニがネットカフェ同様、並べていた二つの位牌が目に止まる。イケタニが、
「なんや、それ? 位牌か? 誰の位牌や? おまえの親か?」
 と無駄に高いテンションで騒ぎ立てながら位牌の名前を読むと「コタニ・ミカコ」と書いてある。イケタニは、
「コタニミカコオ? 何や、おまえ、コタニミカコゆったらアレか? 水の中で体動かす、何てゆうた? ホラ、ホラ。そや、シンクロか。ほな、アレか? シンクロのあのコタニミカコがおまえのおふくろか?」
 と思いっきり大きな声で言い、こっちが「こいつは本気でそんなこと言って、コタニに絡もうとでもしてるのか?」と思ったところで、
「なわけねえよな。」と落とす。
 が、何故だかすぐにまたイケタニは位牌を見つけて位牌のところまで行き、名前を読んで「コタニミカコオ?」と同じことをしゃべり出す。同じことの繰り返しを見せられる観客は独特な不穏さに陥る。が、今度は途中で、
「デ・ジャ・ヴュか?」
 と、我に返る。が、イケタニは再び位牌を見つけて位牌のところまで行く。そして、「デ・ジャ・ヴュか?」まで同じ演技を繰り返す。
 この無駄に高いテンション! ここで私はこの劇団の作・演出家はリンチが好きに違いないと確信した。芝居が終わって劇団の人と話をすると、イケタニを演じた役者こそが作・演出家だった。そして彼・山下澄人は、私の「もしかしてリンチ、好きなんじゃないの?」という質問に、「ええ、好きです。」と答えたのだったが、彼が標準語でしゃべったのはそのときだけで、彼は演技でなく本物の関西人だったのだが、私のこの質問はマヌケで、「リンチ的」なものは好きで真似できるようなものではないのだった。が、最後に一つ。
 イケタニが拳銃を発砲したあと、覆面の若者・コタニが自分に与えられた部屋でひとり、恐怖で失禁した短パンとパンツを脱いで着替えるところで、彼は脱いだパンツをコンビニでもらう小さなレジ袋に入れる。それはポテトチップス一袋を買ったときに入れてくれるぐらいのかなり小さなレジ袋で、客席からはパンツ一枚入れたら一杯になると見えたのだが、彼はパンツにつづいて短パンもそのレジ袋に入れる。そして彼は、短パンにつづいてTシャツもその小さなレジ袋に入れてしまった。
 手品というわけでは全然なく、これはおそらくネットカフェ生活者の経験として、小さなレジ袋にもこれくらいまでは入るということを知っているからそうしているだけなのだろうが(といってもそれは芝居だが)、私はその量の予想をこえたあまりの不釣合いになんだかすごく驚いた。