小説論

          第0回 序論・兼・弁明

                        保坂和志

 8月17日のホームページの正式アップに合わせて、この『小説論』の第1回を書き上げる予定だったのですが、7月末から8月前半にかけて想定外の用事がいろいろと入ってしまって、ゆっくり書くことができません。そこで今回は、全体の見取り図、というよりもこれから書こうと思っていることのいくつかを、ザーッと書いていくことにします。掲示板にcrystaldogさんから、口調がいままで違うという指摘がありましたが、この連載がどういう口調になるのかは今はまだわかりません。hp上では、決定稿という概念は(送り手にとって)存在しないわけですから、2回目に1回目の分も書き換えるというようなことが、頻繁にあるかもしれません。というか、遠慮なくそうしていくつもりです。ですので、いちいち追っていたい方は、こまめにチェックしてみてください。

【1】小説にはどうして人間が登場し、特定の風景や時刻(季節etc.)が設定されるのか――絵画に抽象画があり、音楽もすべてが歌曲というわけではなくて電子音楽まであるというのに。

 それはおそらく人間の認識というか思考の回路と関係している。結局、「特定」という設定があるものが、「小説」となり、その設定のないものが、「哲学」となっていったのではないだろうか。プラトンなんかではまだ未分化(?)なので、哲学と言っても、人物の対話になったりしていることが多い。

 『生きる歓び』の中でも、ちらっと書いたけれど、人間には目の前にある現実に対処することで思考を訓練するという特色がある(視覚が脳の働きのすごく大きな比率を占めていることがもともとの要因だと思う)。目の前にある現実を消して、思考の訓練(?)の過程だけを書いていくと、哲学になる。小説は、目の前にある現実(「目の前にある現実」というフィクションでも同じこと)に対処することを、読者に要請するという作りになっている。目の前にある現実に対しては、理屈を言うのでなくて何か行為をしなければならない。「どう行為していいかわからない」という態度も、もちろん行為なわけだし、小説の中で理屈が並べられるとき、その理屈もまた“行為としての理屈”となっている(“行為の代わりの理屈”ではないことに注意)。

 人間というのは、おそるべき量の情報を発散している。人間と同じように、風景も時刻もおそるべき量の情報を発散している。その情報の多さに(「大いなる」と形容したいくらいだが)、読者以前にまず書き手が助けられ、導かれる。――書き手の何がどう導かれるかについては、【2】でさらに述べる。

 しかし、これではまだ疑問の半分にしか答えたことにならない。「なぜ、かくも小説は、「特定」の設定にこだわるのか」の残りの半分は、連載を書きながら考えていくことになる。「書きながら考える」というのが、つねに私の方法で、書く以前にわかっていたら、書く必要はない(ここから先は、『小説論』本論でなく、「私の小説の場合」)。だから、私の小説の読者はほとんどどの小説でも、書き手が考えるプロセスにつき合わされるという負担を強いられることになる。私の小説を「嫌い」「つまらない」という人たちは、結局、書き手が考えるプロセスに読者としてつき合わさせられる負担に耐えられないということだと思う。「そんなことどうでもいいから、早く結論を言えよ」というような感じ。あるいは、「結論がわかってから書くのがプロというもんだろう」というような感じ。しかし、結論なんてじつはたいしたことない。大事なのは、プロセスなのだ(これは私の小説のことではなくて、一般として)。

【2】人間や風景や時刻(季節etc.)が発散する情報の多さに、書き手はどう助けられ、導かれるのか。

 まずこれが描写の必要性ということ。描写は、書き手が読者に設定を伝えるためにあるのではなくて、書き手が読者と設定を共有するためにある。そしてそれ以上に、書き手自身が自分の記憶を掘り起こしていくためにある。ここで「記憶」というのは、おもに本人が意識化していない記憶の方であり、フロイトだったら「無意識」と呼んでいるけれど、「無意識」という言葉は実体を持っているかのような印象を与えがちなので、私は「無意識」という言葉をいつも極力避けている。「無意識が私にそれを選択させた」とか「私の無意識と太古の人々の感性が響き合った」というような「無意識」の用法は、無意識を実体化しているとしか考えようがない(この、「無意識」のことと「実体化」のことは、とても大事なことなので、本式に書いていくときに、丁寧に書くことにする。ひとはいろいろな事象をつい実体化してしまうが、これは概念(=思考の部分)の簡略化ではなくて、思考全体の簡略化を意味していて、なんと言えばいいか一番簡単に言ってしまえば、つまりは、正しく考えられなくなる)。

 たとえば『季節の記憶』の舞台は、鎌倉の稲村ガ崎で、私は稲村ガ崎の風景が好きだけれど、なぜ稲村ガ崎の風景を好きなのか、私はその理由を完璧に書き尽くすことはできない。真ん中を通っている道の両側に山が迫っていて、その山に木が生い茂っている様子は、一番わかりやすい理由だけれど、その道のわずかな傾斜もたぶん私は好きなのだろうし、海が近いという気分(見えていなくてもつねに前提としてそう思っている)も好きなのだろう。稲村ガ崎には便利屋の松井さんのモデルになった××さんと△△さんが住んでいて、私が稲村ガ崎に行くということは、その人たちと話をするということも意味していた。……と、こういう風に書ける部分は「私自身でわかっている」部分だけれど、「私自身でわかっていない」部分も稲村ガ崎を好きな理由には含まれている。私自身でもわかっていないのだけれど、稲村ガ崎を舞台にして書くという過程で、私は私自身でわかっていないことも動員して、「僕」やクイちゃんがそこの風景を見たときに何かを感じさせたり言わせたりしている。私は書きながら、「どうして“真ん中を通っている道の両側に山が迫っていて、その山に木が生い茂っている様子”を私が好きなのか」ということも考えていて、そのことも小説のどこかに反映されているに違いない。

 いまここでは、とても大ざっぱに言ってしまうけれど、人間は感じていることや判断していることの理由をすべてわかっているわけではない、というかほとんどわかっていない。自分の感じることを事前にじゅうぶんにわかってはいない。計算で完全に導き出すことなんかできないわけで、自分の計算を超えるために、風景の力を借りる。書くときに必要な計算があるとしたら、「これを書けば事前の計算を超えるだろう」という計算だ。描写していくというのはとても面倒な作業で、その面倒な作業を通じて書き手は自分自身に、書く以前に考えていたこと以上のことを考えるように仕向けることになる。

【3】文体というのは、センテンスの長短や言葉遣いの堅い/柔らかいなどのことではない。

 文体ということが特に強調されるようになったのは90年代になってからではなかったかと思う。しかしそこで言われていたのは、「保坂和志の文体は、『……で、……で、……』と『で』でつないでいくようにだらだらしている」というようなことで、小説の最も表層の、機械でもわかるいわば物理的な特徴のことだった。しかし、本当の文体というのは、文章に含まれている情報量のことだ。たとえば蓮實重彦の文章は、「きわめて甘美な」とか「比類なく美しい」というように形容詞・形容動詞・副詞がやたらと多く、それに対して事実を的確に記述する言葉が非常に少ない。つまり、全体として空疎である、というのが蓮實重彦の文章の特徴で、それを文体と言う。

 最近、近所で猫を飼っている人たち(おもに4、50代の女性)と道で話をする機会が多いのだけれど、彼女たちの話は「わかりにくい」という共通した特徴があることに気がついた。たとえば、その家に3匹の猫がいる場合、黒トラはしょっちゅう喧嘩ばっかりしていて、茶トラは人懐っこくて道を通る人の足許にすぐに寄ってきて、鯖トラは最近どういうわけか2、3日に1度しか帰ってこなくなってしまった、というような話はえんえんとつづくのだけれど(しかも、同じ話題が繰り返されることも多くてそれも特徴なのだけれど)、その3匹がどういう関係なのか(親子なのか兄弟なのか血縁はないのかなど)、どれがオスでどれがメスなのか、というような基本的なことが、いくら話を聞いていてもだいたい全然わからなくて、訊こうとしても何故だか答えはズレてしまう。理由は、彼女たちにとってあまりにわかりすぎている前提であるために、その説明に頭が回らないとかいろいろ考えられるけれど、ともかくこの特徴もまた彼女たちの文体と言えると思う。

 ――と、まあ、いま思いつくことというかいままで私が小説について考えていたことをザーッと書くとこんなところですが、こんなこととかそれ以外のこととかを、この『小説論』でじっくり丁寧に書いていこうと思っています。               以上



第1回 小説を小説たらしめている一番深いところにあるものとは

「物語作者」というベンヤミンのエッセイの中にこういう一節がある。
「小説は口伝えの伝統から生れるものではなく、また、その伝統のなかに合流することもないという点で、他のすべての散文芸術の形式――童話(メールヘン)、伝説、いや短篇小説(ノヴェレ)までふくめて――とは対照的なのだが、とりわけ小説がきわ立った対比を示すのは、物語ることにたいしてである。物語作者は、その語ることを経験からひき出してくるが、それは自分自身の経験であることもあるし、報告された経験ということもある。そして、それをまた、かれの話に耳をかたむけるひとびとの経験とする。小説は、それにたいして、自己を切り離してきた。孤独のなかにある個人こそ、小説の生れる産屋(うまや)なのだ。かれは自己の最大の関心事についてさえも、証拠となりうるような発言をおこなうことはもはや不可能であり、他人の助言を受けいれることも、また、他人に助言を与えることもできない。小説を書くとは、人間生活の描写を通じて、公約数になりえぬものを極限までおし進めることにほかならない。充ち溢れる生命のさなかに、また、この充溢を描くことによって、小説は、かえって生きているひとびとの心の底にある、深いよるべなさをあらわにする。」(『文学の危機』晶文社刊ベンヤミン著作集第7巻)(注1)
 これは小説の中身と関わる以前に、まず小説を書くときの書き手の自己像や態度に関わるものとして読んでほしい。小説とは孤独の中にある個人が書き、孤独の中にある個人によって読まれるもので、その途中に社会や共同体は介在しない。もちろんこれは一種の理想論で、現実の問題としては100パーセント潔癖にそれを遂行することができる小説家も読者もいないだろうけれど、「現実に100パーセントそれをすることができない」ということが、即座にその理想を放棄していいということにはならない。潔癖に遂行しようとしてもどうしても社会や共同体の価値が混じり込んでしまうのが現実なので、一番最初の姿勢からそれを放棄していたら見るも無残なものしか出来上がらない。――と、ここを読んで、「同じことじゃないか」と感じる人がもしもいるとしたら、その人には、低レベルの自然科学でもやっていくことを勧めたい。これから私の書くことは、たぶん一貫して、「現実は理想のようにはいかないけれど、それでも現実よりも理想の方を強調する」という態度によって書かれていくはずだからだ。
 個人の中には「誰からも理解されないかもしれない」という思いや経験が必ずある。“母の死”とか“恋人の裏切り”とか“40日連続した真夏日の午後2時にふと感じた気分”とか“3月の半ば頃に1日家の中にいて、夕方窓を開けてみたら、外の空気がこちらの体が予期したのよりずっと暖かかったときの気分”とか……、ある出来事に出会ったときにその人が感じた思いが、つねに事前に誰かの言葉によって書かれているのだとしたら、人は辞書をめくるようにして、世界中にある書物を探せば、それを見つけ出すことができるけれど、人には絶対に「いままで誰も書いていない」と感じ、それゆえに「誰からも理解されないかもしれない」と感じる思いや経験が必ずあって、「これを書いても誰からも理解されないかもしれない」と思いつつも、それでも「自分の孤独の中での作業が誰かの孤独と響き合うこともあるかもしれない」という期待をかすかに抱きつつ書くことが小説の原型なのではないかと思う。
 だから小説を書くことに向かない性格というのがある。自分の感じていることをすぐに既成の言葉に当てはめてしまおとする人。または逆に(同じことなのだが)既成の言葉を使って自分が感じつつあることを次々に説明していってしまう人。つまり、言葉で説明できない不安定な状態のままに気持ちを保留させておくことに耐えることのできない人は小説を書くことに基本的に向いていない。こういう性格の代表格がカウンセラーなのではないかと思う。
 カウンセリングというのは、個人と共同体の折り合いをつけるために存在している。いくら「あなたはあなたのままでいい」とカウンセラーが言っても、カウンセラーの言葉の底には「それで共同体(会社や学校)があなたを認めてくれる」というメッセージが歴然としてある(だから安心できる)。「共同体はあなたのことを認めないよ」なんて、平然と言えるカウンセラーなど想像できない。「言葉で説明できない不安定な状態」というのがまさに「孤独」のことであって、「孤独」とは、会社や学校でみんなが口にする感想や評価と違うものを感じている状態のことだとも言い換えることができる。
 小説が近代市民社会の成立と呼応して生まれた、という説が本当だとしたら、小説とカウンセリングは同じ社会状況から生まれた、ひどく性格の違う兄弟ということになる。まあ、順番から言って小説の方が兄だろうけれど、それはともかく、小説は孤独を好み、カウンセリングは孤独を嫌う。しかし、ところが小説は広義の心理療法だとも言える。小説家は小説を書くことで救われている。小説を書くことで小説家は、彼の孤独から逃げ出さずにそこに踏みとどまることができているのではないか。繰り返しなるが、ここで言っている「孤独」とは、友達が誰もいないとか恋人がいないというような状況としての孤独のことではない。会社や学校という共同体の中でスムーズに流通している言葉や概念をどうしても共有できないと感じる時間のことだ。それを「ズレ」と言い換えてもいい。「孤独」が大げさだと感じるなら「ズレ」でいい(本人が大げさと感じる概念を使って考えていたらろくなことにならない)。
 その「ズレ」や「孤独」を、ある人たちは「個性」とか「独自性」と呼ぶかもしれないけれど、私はそうは思わない。「個性」や「独自性」という言葉を使ってしまうと、それは(いまの社会では)守るべき何かになってしまう。ここはとても微妙な点なのだが、私がさっきから使っている「ズレ」や「孤独」は守るべき何かではない。小説家は共同体なり社会なりでスムーズに流通している言葉や概念を使わずに、自分の考えたことや感じたことを書いて、それで、それを読んだ誰かと響き合うことで、「孤独」や「ズレ」が解消されることを期待しているはずなのだ。だから、小説家の書く言葉や概念とは、いつまでも彼一人が独占しているのではなくて、彼の小説を理解する人たちに共有され、そこではいつかあたりまえの言葉や概念となっていく。だから、これは大切に守っていたいと考えられがちな「個性」や「独自性」とは、志向の根底が違う(だいたい私は「個性」や「独自性」なんて、近代に生まれた泡のような幻想だと思っている。人に共有されることの方がずっと幸せだと思う)。
 しかし小説家の言葉や概念を(面倒なので以下、「概念」は省略)共有する人たちは、「どこそこにいる」と、共同体を指し示すように示すことはできない。小説の言葉を共有する人たちは、学校や会社というような既成の集団とは全然別のところにいる人たちなのだから、「集団」という言葉を使うこともできない。ちょっと変なイメージだけれど、小説から見えない線がひょろひょろひょろひょろと何本も出て、その線の先っぽを掴んだ人だけが小説の言葉を共有する。だから、「共同体」とはあくまでも無縁だし、「集団」として指し示すこともできない。

 しかしここで「孤独」というとき、小説家は本当に誰からも見られていないのだろうか。このことを私は一般化して話すことができない。一人一人の心のかなり説明しがたいところで、恒常的に作動しつづけているプログラムのようなもので、「私の場合にそうならたぶん他の人の場合も同じだろう」という程度の推測はできるけれど、直接誰かから聞いて確かめたことがないので、もしかしたらまるっきり私一人に特殊に起こっていることなのかもしれない……。
 私は小説を書いているときにつねに誰かから見られている。明確にそう感じているのではなくて、「誰かから見られている」というプログラムに乗っかって、意識や心が考えたり感じたりしている。「誰かから見られている」はたぶん意識や心に先行している。「意識や心に先行するものが、人間の内部にあるのか」というのは、大問題だけれど、たぶんある。他の文章(特に『世界のはじまりの存在論』)で何度か書いていることの繰り返しになるけれど、人間は言語というシステムに参入することで人間としていわば完成する。ということは、言語というシステムは「私」という個体に先行して存在していた。しかしそれ以上に重要なこととして、人間は言語を習得する以前に固有の肉体を持って存在を開始している。人間はそれぞれに備わった固有の肉体を駆使して、母親を中心とする周囲の人間とのコミュニケーションを行ないつつ言語を習得した(=言語というシステムに参入した)。
 意識や心というのはやっぱり言語抜きに語れない次元のものだろうと思うけれど、言語を習得して人間として完成する以前の、肉体だけのような状態が人間にはあって、そのときに「私」という存在を個体として認知しているメカニズムが確実にある。これはラカンの鏡像段階の理論とも関係しているだろう。「鏡像段階」とは乳幼児期のあるときに起こる現象で、鏡像段階以前乳幼児は自分の体をばらばらなものとしか把握できていないが、鏡像段階を境に自分の体が統一されたひとまとまりのものであると理解するという理論だ(注2)。これは脳科学の身体イメージともだいたい同じことなのではないかと思う。脳科学によると、頭頂葉に身体全体の情報を結びつける機能があって、それによって個々の身体イメージが維持されているとされている。ラカンの説も脳科学の説も、自己の身体の統一感なりイメージなりが言語の習得に先行している。私の言う「誰かから見られている」というのはたぶんこのことの言い換えなのではないかと思う。こんなことを理論的に後付けようとする必要はないのだが……。
 そんな理論的なことよりも、「誰かから見られている」と漠然とイメージする時間が、もしかしたら、「孤独」ということなのかもしれない――ということを考えてみる方が、いまはずっと役に立つことかもしれない。「私は誰かから見られている」。それは私に先行して完成された、私とは微妙に違う何ものかだ。私はその何ものかに簡単に誰かを当てはめることもできるかもしれない。たとえば、母。たとえば、恋人。たとえば、熱心な読者。ある時代のある人たちは、「神」と言ったかもしれない(私と同じことが他の人にも起こっているとして)。
 しかし私を見ている誰かは私に先行していて、そして同時に一度も明確に私の前に現われたことがないのだから、私の知っている誰かを当てはめることがすでに間違いなのではないかと思う。確かな(?)ことは、その誰かはこうして書いているときやものを考えているときの私を見つづけてきた、ということだけだ。
 もちろん、これはホラーのような話ではないから、私はそれに怯えないし、私がそれに飲み込まれることもない(たぶん)。そのような否定的な何かではない。それはもっどすっと仄暗く茫漠として説明できないものなのだけれど、それによって私は肯定されている。――ここで「肯定」という言葉が出てくる展開に読者は意外な感じを持ったかもしれない。ここで書きつづけている「私に先行する何ものか」に、怯えたりして否定的な想像を働かせると、容易にホラーやミステリーが生まれてくるのかもしれないけれど、それは言葉でうまく説明できないものを受け入れようとしない現在の社会コードが生み出した想像ということではないだろうか(そういえば私に「おまえはホラー小説を書いたら面白いよ」と言った友人がいた)。
 とにかく、私はこのようなイメージを基底音として持ちながら、小説を書いている。そして私は読者もまた自分自身に対してこのようなイメージを持ちながら小説を読んでいることを想像している。小説とはこのような場から生まれて、このような場で読まれる――というのが、小説に対して持っている私のイメージだ。

■注1■エッセイや評論の中で、このような引用が出てきた場合、この引用された文章が、読者の中で無条件に“権威”を持ってしまう可能性がある、ということに注意してほしい。たとえば自然科学の論文の中で、E=mc2 という式が使われる場合には、それは公認されたものとして積極的に権威を持つ。しかし、文学や哲学の場合、その引用文献がどれだけ長い歴史に耐えてきたものであっても、引用自体の権威はいま書かれようとしている文章の外にある何によっても保証されていない。これはほとんどの評論がやってしまっている間違いで、「下部構造は上部構造を規定する」というようなマルクスのフレーズを引用することで、引用箇所自体の真偽は問われなくなるという一種の詐術が起こる。(これはさらにつっこんで言うと、人間の情報の処理の許容量に起因していて、たとえば「この服、このあいだバリに行ったときに買ってきたんだけど、やっぱりちょっと縫製がよくないみたいなんだよね。あなた、どう思う?」という会話を考えた場合、「このあいだバリに行ったときに買ってきたんだけど」の部分は主部に対して副部(関係節)の関係となって、聞き手にとって真偽の判断が素通りになりやすい。人間は文脈全体の意味をとるのに思いのほか忙しくて、主部に対して払うのと同じだけの注意を副部に対して払うことができない。そこで、「下部構造は上部構造を規定する」というような、主たる文脈を補完する役割を担っている部分に対しては、いちいち真偽を検証せずに往々にして無条件で“真”として通り過ぎてしまうことになる。)
 しかし私はここで、ベンヤミンの言葉を単純に権威あるものとして引用して、その権威に寄り掛かってこの『小説論』を書き進めるつもりはない。ベンヤミンという権威によって私がこの言葉を記憶したわけではなくて、ベンヤミンのこの言葉が私が抱きはじめていた小説観と重なったから記憶したわけで(ほとんどの場合、記憶する文章や出来事は、そのときの受け手の関心と響きあうから記憶される。そうでなければ、よっぽど突飛な不意打ちだから記憶される)、私はこれからこの『小説論』を書くことを通して、ベンヤミンの言葉の正しさを証明するということになる(これは同時に、私がこの言葉を記憶しつづけた十何年間のことも肯定することを意味する)。
 文学や哲学では、「正しいから引用する」のではなくて、「正しいと論証したいから引用する」ことしかできない。ここで文学や哲学は、自然科学からみると許容しがたい“結論とプロセスの混乱(相互の先取り)”がはじまる。これは使う思考の形式が自然科学と文学・哲学とで違っているからで、文学や哲学の場合、あらかじめ提示されているかにみえる“結論”も、全体を読み進めたときにはやはり“結論以前”のものとなっている。そもそも文学や哲学の文章に“プロセス(証明)”“結論”という自然科学の概念をあてはめることが間違っているのではないだろうか。そしてもちろんいまさら言うまでもないことだけれど、私がさっきからさかんに使っている「正しい」という言葉も仕方なく便宜的に使っているもので、本当はもっと別の言葉が必要になっている。
■注2■『精神分析辞典』(弘文堂)によると、「鏡像段階」とは「6ヵ月から18ヵ月の間に位置する人間存在の構成の一段階であり、この期間は神経系の未熟性を特徴とする。この人間における特有の出生時の未熟性は、分析治療で見られるような寸断された身体の諸幻想によって証明される」と書かれている。生後1年前後の乳幼児が自分の体が鏡に写っているのを見て、それが「自分だ」とあるとき突然理解して、劇的に喜んだというような情景がラカンによって書かれ、そこから「鏡像段階」という名前がつけられた。『精神分析辞典』には「人間における特有の……」と書かれているけれど、ラカンの本では(『エクリ』だったと思うが、忘れました。もしかしたら私は原典を読まずに、流布されている説明を信じているだけかもしれない……)、1羽だけで飼われていた鳩がずうっと成熟しなかったのだけれど、あるときもう一羽の鳩に合わせた途端に成熟を開始した、というようなことも書かれている。この「もう1羽の鳩」というのは、実際の鳩でなくて鏡に写った自分自身でもいい。――と、こういうことを並べてみると、自己像・自己イメージ(ないし成熟)にとって“視覚”がとても大きな役割を担っていることがわかる(ただし、カエルの卵は、本物の精子が入らなくても細い毛の先でチョンッと、突くだけで分裂を開始するそうで、視覚は自己像や成熟にとって、細い毛の先程度の役割なのかもしれないが……)。ここ3、4年の私の視覚に対する過剰な興味の一端は、この「鏡像段階」にある。
 余談だが、『ヒサの旋律の鳴りわたる』のラスト間近で、夜中に「ぼく」が眠れないでいると、唇が異様に膨れ上がり、指が掴んでいた布団が「0点何ミクロン」の薄さになっていく、というところがあるが、小説を一種の症例報告として読む場合、「ぼく」に起こったあの夜中の事態は、「寸断された身体」に似たものだったのではないかという想像が成り立つ。さらにそれに先立つ部分で、「ぼく」は子どもの頃の病気のときに繰り返し見た悪夢と同じ光景にも出会っている。あの夜中、「ぼく」は、短時間のうちにどんどんと乳幼児返りしていた、ということだろうか。
 もう一つ余談だが、ここで私は「鏡像段階」を(注1)でふれたアインシュタインの公式のように「権威あるもの」として出してきている。私は「鏡像段階」まで保留して、自分の論旨の展開と一緒に自分の力で肯定しようとは考えていない。理由はいくつかあるが、一つに精神分析とは科学だからだ。科学とは文学や哲学と違って内側の力で証明するものではなくて、外にある事実によって証明される。20世紀の最大の思想であるところの精神分析が、哲学と科学の両方にまたがりつつも、結局は科学であるというところに、哲学と文学の暗い将来がすでに予感されているではないか。

                               

(第1回了)

なんとも居心地の悪いような、並べた材料ばかり多くて結論が感じられないような第1回になりましたが、まあそれはともかく(これ以上書くと、もっとずっとわかりにくいものになってしまうかもしれない)、私のこの『小説論』を読んで、わからない点、不鮮明な点、不正確な点などがあったら、どうぞ、遠慮なく、掲示板かがぶんさんへのメールで何か伝えてください。直せるところは直し、直せないところはそのままにして、この連載をつづけていきます。