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稲村月記 vol.03   高瀬がぶん
いつも通る道で、なんか気になって仕方がないという場所がいくつかあって、

そこを通るたびに、なんとなくそっちに視線が行ってしまうのだけれど、
かといって立ち止まるわけでもなく、ツツーッと通り過ぎてしまう。
そんなことを幾度となく繰り返しているのだけれど、
これからはちょっと立ち止まってみることにした。

「タブラ・ラサの秘密」
 

「タブラ・ラサの秘密」・がぶん@@作


2001年5月×日

気になる場所と言っても、常に現実の風景とは限らない。
今回の気になる場所は、自分の頭。その頭の中のどこかはよく分からないけれど、とにかく、そこには色んな思いが人知れず(人って自分のことだけれど)詰まっている。
潜在意識の風景とでも言うか・・・・むにゃむにゃ。

今から10年くらい前のある年の三ヶ月間、なぜかボクは自称ハリガネ造形作家だった。もっともその三ヶ月間だけがそうであって、それ以前も以降もそんなことは一切ない。
ある時ハリガネの束を手にして、それはたぶん本棚とかが壊れて直す必要があったからだけれど、なんだか知らないけどクルッと曲げてみたくなった。そうすると、なんか顔みたいなものができた。あっ、これは面白い、そう思うと、次から次へとクルックルックルックルックルッ。うまく曲がらないときは色鉛筆とかコーヒーカップとか大和糊やキンカンのフタとか、ようするにサイズの違う円柱形のものならなんでも利用して、意味のないものをどんどん作っていった。作りながら思っているのだけれど・・・・これからどんなものを作ろうか、とか、あーしようこうしよーなどと、ほとんど考えてないない。でも自然に或る形ができあがってくる。これはひょっとしてアートかもしれないと、そのとき思った。
ボトムアップ・アートと勝手に命名しよっ!。

話は変るけれど、ボクの友人で芸大出の美大受験予備校を経営しているやつがいて、一時ボクはそこで論文講師みたいなことをやっていた。(今はどうか知らないけれど、当時の芸大では小論文という受験科目があって、採点比率も実技と半々だったのだ)
その彼自身も立体造形作家なのだけれど、仕事柄アートの話をよくする。
そこで、ボクが以前から抱いていた疑問。
「どんなアートでも、世界の、いや、その人の世界観の再現だよね?」
すると彼、
「世界とか世界観の再現っていうと、その人が体験したこととか、考えたことを頭の中で再構築して絵画なり立体なりに再現する、といった作業になるよねぇ」
「そうそう。でも見て感じた通りに再現されるとは限らない。ひょっとして、その再現作業のときにあれやこれやをわざと落っことして、自分にとって意味があるものだけを集めて再構成するのがアブストラクトってことか?」
「まあそうなんだけど、そうなると、アブストラクトっていうのは、元々は全ての要素をきちんと把握していて、それを敢えて壊し、あらためて取捨選択するといった作業になるだろ?」
「そだね、ほんとはピカソも写実がうまいぞ、みたいな」
「ところがね、最近のうちの生徒を見ていても、そうじゃないんだよ。もう最初からアブストラクトやるってやつが出てきてるしね。手が動くままに描く・・・・と」
「それって、だれ?」
「××とか○○とかさ」
「おー、あいつらか、ほんとにあいつらときたら『名前欄は文字で埋め、絵なんて描かないこと!!』といくら注意しても、いつも名前のとこにわけのわかんないイタズラ描き? を書いてくんだよな」
「うーん、いくら才能があっても、それじゃ芸大は受からない。名前が分かんないんじゃーねぇ(笑)」
「じゃーさ、彼らにとっては、何かを壊す必要なんかもなくて、もう壊れたところから始めるってわけだ。それじゃあ、赤ん坊のいたずら描きと同じじゃん」
「同じかもしれない。でも、それでいいって最近思ってる。世界の再現なんていうのはもう古くて、世界の創造を目指すのが新しいアートかもしれないと・・・・」
「こりゃまた大きく出たね、神様じゃあるまいし」

・・・・と、このように会話は続いたわけだけれど、考えてみると、ボクのハリガネ作品も、その若者のように、ほとんど勝手に手が動いてできたものであって、完成予想図とか目論見とか、そんなものもないし、それらの根拠を成すマトリクス(母型)もなかったと、自分ではそんな風に感じている。だからこそ『タブラ・ラサの秘密』なのだけれど。
それにしても、ボクの無意識にはこんなに変なものばっかり詰まっていたのかと思うと、ちと情けない。
でも、厳密に考えれば、まったくの予定調和なしにハリガネを曲げることなんかあり得ないだろう。たとえそれがほんのちょっと先の未来にしろ、ボクの脳が何らかの根拠によって、ハリガネをこう曲げろあぁ曲げろと、ボクの手に司令を下していることは確かだ。ただ、僕の顕在意識がそうすることの確信的な理由を見つけられないだけの話。
ようするに、長いこと生きてきた人生の中で見聞きした色んな出来事の記憶が醸造されて、その結果、意識しようとしまいと、そういう形の発酵に辿りついたというわけだ。
だから、やっぱり世界の創造なんかではあり得ない。

このハリガネ作品を見て、フロイトなら「性心理発達の幼少期から引きずっている未解決の部分の葛藤を反映した強迫神経症のあらわれ」とでも言い、
ユングなら「これは個人に属する個的無意識と、魂の深層を表す全人類共通の集合無意識のアーキタイプ」とでも言うかもしれない。
ほんとに、うるせぇよ二人して。


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