脳腫瘍手術一周年勝手に記念、短期不定期連載コラム(がぶん@@)

◆ドラマティックが止まらない◆


人生には失敗がつきものである……。
600万円以上もかかる全歯インプラントをタダでやってもらう、っていうのもかなりインパクトある話だが、それ以上に、あなたは脳腫瘍ですといきなり、しかも歯医者さんから言われる方がもっと衝撃的な出来事だ。言ってみれば、後頭部をガツンと一発殴られたような、と思いきや、いきなり殴られるとこれが案外そうでもない。はぁそうなんですか、という感じ方だったと思う。
しかし、単に脳腫瘍と言われただけではいったい何がどうなってどうすれば全く見当がつかないものだ。告知したほうもなんせ歯医者さんなもんでよく分からない。だからというわけではないが、告知されたその足でそのままパチンコ屋に向かい、しばらくはいつも通りに時間を過ごした。相変わらず出やしないし、そのうち、そうだネットで詳しく調べてみたらどうだろうと思いつき、夜になってパソコンを開いた。病名は確か「下垂体腺腫」。脳下垂体にできる腫瘍のことだ。 でも脳下垂体っていうのはどこ?
なるほど、文字通り脳の下に垂れ下がるように、ちようど眉間の奥の辺りに位置している器官だ。でなにをするところ?なるほど、体に必要なホルモンを作り出し供給する器官なのね。で、そこにできる腫瘍は…ほぼ良性であるが、腫瘍そのものがホルモンを過剰に作り出してしまうタイプの場合は、成長期に発症した場合は巨人症、成人してからは末端肥大症などを引き起こす。兆候としては男性の場合インポテンツ、乳首から乳が出たりすることもある。
んー、よく立つ(多分)し、乳も出ない。ってことはホルモンを産生しない一番シンプルな腫瘍っていうことか。といっても放っておくわけにもいかないらしい。腫瘍が大きくなるにつれ視神経を圧迫し始め、やがて外側からの視野狭窄が起き始め、丁度半分ほどの視界が失われるのが特徴的な症状である、とある。
正式に脳外科医からの診断を受けたのは4月12日のこと。
やはり、ホルモン非産生型の良性の下垂体線種、最大径は14ミリ。これは小さいとは言えないが、大きすぎるとも言えない程度だという。少なくとも、視野狭窄などの自覚症状は一切ない。
手術の必要性はもちろんあるが、今すぐというわけではない。手術までの執行猶予期間は最長で2年といったところらしい。でも僕にはインプラントをする予定もあるし、やるなら今すぐという手もある。だったらワールドカップもあることだし、できればワールドカップ開催前に退院できるようなスケジュールで手術してもらうか。
医師との話し合いの結果、結局入院は5月16日、手術は5月22日、退院予定は6月3日ということになった。約束通りワールドカップ開催前に退院という予定を組んでくれたのだ。手術は開頭手術ではなく鼻の穴から行なうという思ってもみなかった方法で、これなら負担も軽く、術後、美容的にも問題ない(笑)ということだ。なんせ「見掛け倒し」が去年の僕の座右の銘だったもんで、開頭手術ともなれば術後見掛け上もそりゃあ色々大変だろうと推測されるではないか。
そうと決ればもう突っ走るしかない。止めようと思ったって止まらない、さあ入院だ!予定はほぼ3週間。だったらバイク(デカスクーター)でそのまま入院して、帰りもそれで帰ってきたほうが都合がいい。というわけで、入院当日はスポーツバックひとつ持ちバイクで病院へ向かう。病院近くで、世界一おいしいパスタ屋(自称)で最後の昼餐をとる。余談だが、心から余談だが、このパスタ屋はTV番組の「マネーの虎」で美空ひばりの息子から見事1000万円を借り受けることに成功した店主が開いた二軒目の店である。聞けばそのお金は金利なしできちんと返済したという。

2006年5月16日、入院。
さて、手術前の一週間は検査入院というやつで、CTだのMRIだのレントゲンだの血液検査だの尿検査だのカテーテル造影血管撮影検査だの、とにかく様々な検査を受けさせられる。こんなことされたら脳腫瘍だけじゃなく色んな病気が発覚しちゃうじゃないかと心配になったが、幸いにも脳腫瘍以外には特に身体の異常は認められなかった。この一週間は極めて快適な入院生活だった。そりゃそうだ、本人に自覚症状はいっさいなくまったくの健康体のようなもので、好きなもん喰って飲んで散歩して、今のうちに体力つけとかなくっちゃ。入院中といえどバイクに乗ってパチンコ屋行ったり家に帰ったり杉山台にコーヒー飲みに行ったりと…あ、杉山台で思い出したことがある。ベッドの頭のところに酸素吸入のバルブとバキュームのバルブがついていて、それが赤と緑のコックなのだが、その緑のコックを見ると、つい杉山台で働いている坊やのことを連想してしまうのだ。なんだかよく似てるからだ。コックに似ている人間っていうのもちょっと変だけど、それにどこがどう似ているのかと言われてもうまく説明できないが、とにかくそう思えるのだから仕方がない。 いつか本人に「きみは病院にある酸素吸入バルブのコックにそっくりだ」と告げようと思う。

5月22日、手術
この日の手術のことを書くには、あとから誰かから聞くしかないのが残念だ。脳腫瘍の開頭手術の一部では覚醒手術と言って、意識を保ったまま頭を開くという手法があると聞く。なんでも患者の反応が必要不可欠な手術らしいのだが、なんだか怖い画が浮かんでくる。よかったよ全身麻酔でさ。さて、ストレッチャーに乗せられ病室から手術室に行くまでの気分というのは特別なものだ。もちろんふつうにドキドキはしているが、それ以外に、廊下や受付を通過するときに、なんだかとっても誇らしげな気分にもなるのだ。周りでウロウロしている患者らしき連中に対して、横目で睥睨しながら、なんだお前らは単なる治療か?、こっちはこれから手術だぜ!みたいな、勘違いもはなはだしい誇りを感じたりしたのだ。これはおそらく怪我自慢病気自慢につながる、人間が本来持っている屈折した性分の現れなのである。
それはさておき、全身麻酔というのを初めて受けたが、僕は前から興味があった。ふつう睡眠をとって目が覚めると、あーよく寝たと思いつつ、およそどれほどの時間が経っているのかは見当がつくものだ。意識がない時間もちゃんと潜在意識が経過時間をカウントしているんだろうと思う。その点、全身麻酔というのはどうなのだろうか? 部分麻酔や睡眠と決定的に違う点は呼吸を自らしなくなるので、酸素の管を直接口から肺へ突っ込むということ。つまり身体も完全に寝ちゃうということだ。とすると、時間感覚はどうなる? 麻酔が効いた瞬間から目覚めるまでの時間感覚はゼロなのか? よく寝た感もなく、あれ今意識失ったと思ったらもう三時間も経ってるの?みたいな感じになるのだろうか?
で、実際はどうだったかというと、これがよく分からない。「はい高瀬さん手術終わりましたよ、分かりますか?分かったら返事して下さい」。手術台の上で医者からそういわれて目覚めたが、なんだかぼーっとしてるだけで、時間経過もくそもありゃしない。
それより、なにかものすごいダメージを身体に受けた感覚が強い。手も足も試しに動かしてみると、それなりにちゃんと動くのだが、自我というか、具体的に自分の頭が10倍ほどに膨張しているイメージ。いや、物理的な意味での頭ではなく、脳というか意識が占める空間認識。
手術室を出て二人部屋に移されたが、点滴のかわりに血液袋がぶら下がっているのが見える??? 担当医がこう言った。「高瀬さんの場合、あるべきはずのない所に静脈がありまして、、、それをカットして思わぬ出血をみました」と。それで輸血をしたのだという。で、止血処置はもちろんしたのだが、術後も出血が止まらず、輸血を続けているというわけだった。「あり得ねぇ〜!」と実感し、この手術は失敗だった、と即座に確信した。医者が認めるかどうかは別の問題だが、とにかく「無事手術は成功しましたよ」という言葉は聞けなかった。
鼻をフンッ!とやると両方の鼻の穴から血がドバッ!と出る。自分の顔は見えないが、頬から顎から血がドロドロと流れてシーツや布団を染めて行く。看護師たちは、流れ続ける血を止めようもないわけで、そのままにしておくものだから、まるで殺人現場のようになっていたらしい。従兄弟がそれを見かねて文句を言い、ようやく看護師たちも気をつかって血をふき取るようになる。看護主任は「あらあらほんとこれじゃお見舞いに来た人もびっくりしちゃうわよね」と言っ た。
とにかく手術は終わった。これであと二週間もすれば退院できる、、、と思ったのだが、ほんと人生は分からない。油断すると、時として思ってもみない展開が待っているものだ。



連載2回目
※動画サービスすっかり飽きたので前回にて終了いたしました。

5月23日〜
手術の翌日。
体が異常に重い。62キロの体が体感体重100キロくらいで、糸の切れたあやつり人形みたいに、重力に逆らえずベットに貼り付いている。まさにアインシュタインの発見を身を以て感じる瞬間だ。地球上で物質は常に落下状態つまり地球の中心に向けての加速状態にある。確かに自分の体がいま下に向かって落ち続けている感覚がある。運がいいよベッドがあって、もしベッドがなかったら床がなかったら……健康体の時にそんな感覚を持つことはまずない。こんな状態だからこそ地球の1Gという重力の強烈さを感じ取ることができる。これも体力と重力の特殊相対性理論と言えなくもなくもなくもない?
相変わらず血は止まらず鼻血ブーブーブー!状態が続く。でも本人はあまり気にならない。どうせ輸血してる血だしオレんじゃないや、ってなことにはならない かもしれないが、とにかく輸血しつつ出血してるわけで、体の気分は水道管だが、出入り計算が正しければ体内の血が少なくなってしまう心配はない。ところで僕は輸血同意書なるものを初めて見た。最初の一行でびっくり! そこには「輸血は臓器移植の一種です」と大げさなことが書いてあるんだもの。それと、同意したつもりもなかったのにそんなものが存在していること自体にびっくりびっくり! 明らかに事後承諾だなこれは。目を通すとがぶ姉が承諾の欄にサインしている。本人が昏睡状態の場合は近親者のサインでもよいみたいなことが書いてある。手術前に僕自身がサインしているわけじゃないので、、つまり、、この出血 は医師としても想定外だったことを意味しており、手術途中かあるいは術後か、あわててがぶ姉にサインさせたものだ。そのあわてぶりは明らかで、執刀医の氏名欄のところに手書きで「高瀬雅文」と大間違いで書かれていた。執刀者と被験者が同じ(笑)って、こんな書類通用するのかー? ま、それもよしとするしか ない。なんせしなきゃ死んじゃうんだから。ほんとよかった、がぶ姉が宗教上の理由から輸血を拒否したりしなくて。ところが心配は他にあった。担当医は術後こう言ったのだ。「術中に硬膜に傷がついたらしく髄液漏れが発見できましたので、パッチを当てて来ました。数日間は髄液が鼻から漏れることがあるかもしれ ませんが、ふつう一週間もたてば止まります。止まらないことは稀ですから心配ないと思いますが、念のためということもありますので、大便でトイレ行くとき 以外はベッドで安静にしていて下さい」。てめぇで切っといて発見もくそもないもんだが、なんとしても自分のせいにしたくないもんだから、こんな妙な言い回 しになるのだ。
で、実際の話、鼻血がひどいので髄液が漏れているのかどうかはよく分からない。あいにく自分の髄液をこの目でみる機会に恵まれたことはないが、髄液というのは透明で無味無臭の液体だというので、血に混じってしまえば確認のしようがない。担当医は「鼻の奥から直接咽にすーっと入ってくる感じはありません か?」と尋ねるが、確かにそれはある。でも血も一緒に入って来てそうで、それが髄液なのかどうか僕には断定ができない。だいいちおい医者、お前はその感覚を自分で確かめたことがあるわけじゃないだろ。こっちも髄液漏れバージンだものそんな微妙な感覚をかぎ分けられるはずがないでしょ。
夜になり担当医が「今夜から食事が出ます。おもゆでもおかゆでも、高瀬さんはなにが食べたいですか?」
そう聞くから、
「カレーパン食べたい」
「えーっ! カレーパンはちょっと、、、刺激がありますし」
「刺激があろうとなかろうとカレーパンが食べたい! 手術が終わって最初に口にするものはカレーパン! と決めていたんですから」
「んー、しょうがないなぁ、、まいいでしょう」
というわけで、売店でカレーパンを買ってきてもらいおいしくいただいた。あー、おいしぃ!!…ような気がした。というのも、嗅覚ゼロ状態なので正直味がよく分からない、、、けどおいしぃ!
それから数日の間に幸い鼻からの出血は止まったようだった。しかし、赤い血の代わりに両方の鼻から透明の液体がときおりスルリと漏れて出る。やっぱり漏れ てる〜! そして38度台の発熱が続く。点滴、点滴、点滴、医者は髄膜炎の心配もし始め、僕の体はいまや抗生物質漬けと化している。髄液が漏れているということは脳室内部と外界がつながってしまっている状態なわけで、破れた硬膜の傷口からウイルスやバイキンが脳内に入り込んでしまう可能性が常にあるのだ。 通常、そんなふうにして髄膜炎にかかると40度を超える高熱に襲われると言われている。その点まだだいぶ熱が低いので、少しホッとする。しかし、術後二週 間で退院できるというのは単なるおとぎ話に過ぎなかった。これでは当分退院できそうにないじゃないか。

5月27日
相変わらず髄液漏れは止まりそうにない。朝目が覚めるとシーツに半径30センチぐらいの円が描かれていることがある。寝てる間に知らず知らずのうちに顔を横に向けるため、鼻から髄液が漏れ放題になっているのだ。真上を向いていればそれほど髄液が漏れることはない。しかたがないのでその晩からは自分で両手首 をベッドの左右のパイプにそれぞれ縛りつけ、ひとりSMみたいにして寝返りを打たないようにした。だから隠れタバコを吸うのもひと苦労だ。ティッシュを鼻に詰め、顔を下に向けず、天井を見上げたままベッドを降り、手探りで引き出しからタバコとライターを探し出し、まず床に直に仰向けに寝る。それから掃き出しの窓まで仰向けほふく前進をし、頭だけをベランダの外に出し一服。そしてまた同じようにしてベッドに戻る。とても疲れる。
それにしても、自分の体の中にある限られた液体が知らず知らずのうちに外に流れ出てしまうという感覚は、とても奇妙というか不気味なものだ。単なる恐怖感とはちょっと違う。真綿で首を締められるようなスローな恐怖。ある一定量の髄液が体外に流れ出たら、そりゃ死んじゃう。しかし医師の説明によると髄液は体 内で毎日500ミリリットル(なんとペットボトル一本分)作られるそうだ。脊髄で作られた髄液がズズッと頭の方に上がっていって、脳みそを外部の刺激から守るように周りを取り囲み、脳みそはその液体の中心に浮かんでいる状態なのだという。作られた髄液が溜まる一方だったら、当然のことながら頭はパンクし ちゃうわけだから、そうならないように? 溜まった髄液が、脳圧が下がらない程度の速度でゆっくりと体全体に染み込んで行く。というわけで、誰が考えたの か、いや誰も考えちゃいないが、ほんとに僕の体はうまくできている。他の人の体のことは知らない。

5月29日
髄液が止まりそうにない様子を見かねてついに医者が決断する。脊髄に直接穴をあけそこにパイプを突っ込んで髄液を抜くという治療法を実施することになった のだ。こうすると、脳内の髄液の水位が下がり、傷口が渇き癒着しやすくなるという。しかし、この治療法は髄膜炎の可能性をさらに増大させるというデメリッ トもある。そりゃそうだ、体内部と外部とをつなぐ傷口が背中にもう一つできるのだから。さて、その脊髄に穴をあけるのはいいが、医者が背中に穴をあけパイ プを差し込んだ瞬間、まるでカミナリに打たれたような衝撃が右半身、特に右足全体に走った。
「いててて、ダメそこ、先生そこダメだって!!」
「あ、ごめんごめん、じゃここは? こっちはどう? それとも…」
そうやって、パイプの先で痛くないところを探りながら位置を決める。
しかし、時既に遅し、右足にしびれと痛みがズシッと残ってしまった(この痛みは一年たった今でも残っている)。
以後その治療を二週間を目安に続けるという。それを超えると髄膜炎の可能性が飛躍的に増えるので、それが限度だそうだ。その間は超絶対安静を強いられる。 枕を外し真上を向いたまま過ごすのだ。顔の両わきには砂袋を置かれ、45度以上は顔を傾けられないようにされていた。僕の視界は天井だけに限られ、その天 井の模様がまた失敗だと思うのだけど、なんだか人のゆがんだ顔がいくつもいくつも浮かんでは消えるようなデザインなのだ。悪霊天井と名付けよう。

6月3日
生まれて初めてベッドで寝たままウンコしたが、これが案外いい気持ち。
6月5日
二週間どころか、治療一週間足らずで挫折? こうなれば再手術しかない!と医者が決断。えーなんでぇ、やだー、まだ二週間たってないじゃんかー、という声は届かず、こうして2回目の手術を6月12日に行なうことが決まる。詳しい事情は分からないが、なにか大きな負の力が働き始めているような気がしてならな い。手術は同じ場所(左の鼻の穴)から行ない、今度は僕の身体の一部から筋肉組織と脂肪を採取し、ミンチ状態にしたそれを破れた硬膜の傷口全体に貼り付け てくるというものだ。もちろんそれで確実に止まるという保証はない。しかし、再手術しないという選択肢はなかった。
いざ再手術が6月12日と決まると、なんだか気分が落ち着かなくなってきた。また血管を切られたらどうしようという不安があるからだ。周囲のみんなも、こ のさい転院を考えたらどうだろう、と言い出す始末。でも現実的にそれは不可能に近い。なんせ脊髄に穴があけられベッドに張り付いている状態なのだから、も し病院を変えるとなれば、まずそれを解決しなければならない。それに新たな医者にかかるとすれば最初から検査も何もかもすべてやり直しだろうし、第一、こ んな状況の患者を快く引き受ける医者がいるとも思えない。
執刀医とは別の、主治医の老医師に尋ねた。
「今度は血管、、、大丈夫でしょうね?」
「一回目で血管の場所もちゃんと分かってますから、今度はうまくいきますよ」
確かに、一回失敗してんだから、っておいっ! ともあれ、技術に対する不安を除けば(除けない!)このままここで手術を受けたほうがより安全に違いない。
でも、念には念をという意味で、執刀医にはきつく言っておく必要があるだろう。というわけで、6月10日に行われることになった執刀医から家族への手術の 説明会には、関係者一同に集まってもらうことになったのだが…。

※ まあこんな感じで画像サービス復活!


6月9日
髄液まみれのイン・ザ・スープな朝、「死」について考えていた。特に深刻になっているわけじゃない。こんな手術をすれば、誰でも一度くらいは考えること だ。
でも、浮かんできたのは自分の「死」ではなく、少年時代からの親友H君の死についてだった。いや、彼は死んでしまったわけではない。56年間の生涯4度目の心臓手術をこの一月に終えて、現在は、葉山にある心臓外科専門のハートセンターという病院に入院している。それなのに彼の死を想像するなんて、ほんとに僕は不謹慎なやつだが、実は人はよくそういった禁を犯すもので、縁起でもないと、そんな思いを追い払い、なかったことにしているだけだ。ほんと、人は自分にうそをつくのがうまい。ところで、彼は僕の手術のことはもちろん。病気そのものについても何も知らない。H君が4度目の手術をしたと知ってすぐに病医に 駆けつけたが、H君は僕の顔を見るなり号泣してしまった。H君はもうボロボロの体になっていた。以前から不自由になっていた左足に加え、今度の手術では右 腕が動かせなくなり、おまけに舌が壊死したため半分ほど切除され、泣きながら「うれひーうれひー」と言っていた。この時のH君の姿を思い出すと、自分の手術なんかちゃんちゃらおかしいように思えてしかたない。鼻からちょこっとメス入れて2時間ほどで手術は終了。それに較べH君の手術は26時間もかかったそ うだ。それも同じ者が一人で執刀するものだから、途中2時間ほど医者も仮眠しなければならなかったという。しかも、それでもやるべきことの半分しか処置ができず、今後も5度目の手術が予定されているのだ。でも、その時点でのH君の体力は手術後三ヶ月も経つというのに、実質的には術後一週間程度にしか回復しておらず、とうてい再手術に耐えられるものではなく、このまま半年間ぐらいは手術用の体力を回復させることに専念する必要があるのだという。えー、また 手術、今でも死にそうに見えるのに、ほんとにもう死んじゃうかもしれない、と僕は思っていて、実現不可能なことを承知で、「治ったら野沢温泉に連れてって やるから」と、少年時代に二人で一ヶ月ほど滞在したことがある温泉町の街並みを想像した。「源泉近くの肉屋のしんちゃん元気かねぇ、あいつももう六十くら いになってるな、会えたら楽しいねぇ、またマージャンでインチキやってカモろう! あいつの金がなくなると、店の肉賭けてさ…よーくステーキ食ったよ ねぇ」。そういうとH君はまたまた泣き笑い号泣したので、悪いことしたなと反省。おためごかしなんか言うもんじゃない。
一方で僕はH君に対しこんな悪魔な想いも抱いていた。
「こんなことになるんだったら、あのとき彼女と一緒に死んであげちゃってもよかったかもね」と。
H君は十数年前にある女性と心中旅行に出たものの死にきれず、お互い別れてそれぞれの家に帰って二週間後に、彼女は自宅で自ら命を断ってしまった。縊死 だった。思えばH君の号泣姿は、そのことを知ったあのとき以来のことだと思い当たる。
ところで、僕は別にH君の容態の悪さを想像することで、自らの容態を楽観視したいわけではない。
一回目の手術のあとの血だらけの僕を見て、まわりの人は、もしかしたらほんとにこのまま死んじゃうかもしれないと思ったそうなのだが、実のところ、たいし たことないのに大袈裟な反応だと思っていた。僕は見かけほど死んじゃいなかった。それ に、心底まったく死に対する恐怖というものはなかった。いや、本人の自覚とは所詮そんなもので、実態はどうだったのかというと、それは医者にしか分からな い。もちろん命の危険がある、もしくはあったという話も聞いていない。大きな負の渦に巻き込まれ始めているのではないかと書いたが、「死」は、そのずっと ずっと先にあるような気がしていて、まだその影さえも見えて来てはいなかった。その点、悲しいかなかつての目力を失ったH君は、その影をすでに踏んでし まっているように僕には見えていた。
僕は想像する。死んだら自分がどうなるかじゃなくて、僕が死んだあとの、関係者それぞれがどんな反応をするのだろうか、という不謹慎な想像。そして一致するのは「あいつほど好き勝手して生きた人はいない」という意見だ。一方で「あのときゃまいったよなぁ」と、みんなで入院中のことを笑いながら話している自分の姿を想像したりもする。そんなことを考えていること自体、やっぱりナーバスになってるのかしら。


6月10日
カンファレンスの時刻が迫ってくると、声をかけた人たちがぞろぞろと集まってきてくれた。
結局、がぶ姉、保坂、けいと、がじん、親戚4人、、、それに、がじんの場合は勢い余って舎 弟まで連れてきたもんだから、合計9人も参加することになったのだった。
残念ながら僕自身は背中から管が生えているのでベッドから動けず、あとで録音データを聴くしかなかったのだが…。
それはそれは、話の逸脱やとんちんかん満載で楽しいものだった。最初のうちこそ、けいとや保坂が先陣を切って、これから行なう手術の安全性とか成功率と か、ごくごく当たり前の質問をしていたのだが、、、徐々に雲行きがあやしくなり、、、特にがじんは目の前にいる本来畑違いの脳外科医に、自分の指の治療方法について詳しく聞き始めたりしたのだった。というのも数カ月前にこんなことして右手の小指 と薬指を第一関節から先を失っていたのだ。嘘ですぅ、実は家庭(ファミリー)の事情で自分で一気に二本の指を詰めたのだ。まだ詰めたてのせいもあって傷口がなんだかいつもぐちゃぐちゃしているらしく、これもひょっとして髄液漏れの一種じゃないかと不安に、、、なったかどうか知らないけれど、、、とにかくな んとかスッキリ止める方法はないかと、しつこく先生に尋ねていた。先生も先生で案外真剣に相談に乗ったりして、ヨーロッパの方じゃそういう傷は消毒だけしてほっておくんです、それが一番早く治る、、とかなんとか真面目に答えているのが笑えた。肝心の手術については結局のところ先生に任せるしかなく、一回目 の手術は実は医療ミスではなかったかとハッキリ尋ねることもなく、カンファレンスは終了。結局こういう場合、患者の命を人質にとられている状態での交渉な ので、悲しいかな、最後は、よろしくお願いしますという他はないのだ。
そんな録音テープを聞きながらじわじわと手術を受けることの現実感がやってきて、少なくとも今後10年間ぐらいは再手術しなくてよかったはずが、なんと三 週間も経たずにもう一度やらなくちゃいけない不運?不幸?なんかの因果?を痛感したのだった。
脳下垂体線種になるのは、一年間で約10万人に一人、そのうち髄液漏れが発見されるのは100例に一人、これで100万人に一人になる。その上、髄液漏れ が止まらず再手術することになるのはさらに100人に一人だという。こうして事態はどんどん期待外れの方向にむかい、最終的に僕は1億人に一人の存在!? なんだよ〜だったら当たれよ宝くじ!! もっとも、買わなきゃ当たらないけれど。


6月12日
そしていざ二度目の手術。一ヶ月に二度も全身麻酔して大丈夫なのかとちょっと不安になり、やってきた麻酔医に尋ねると、「はい、100回やっても大丈夫ですよ」と自信たっぷりに答えた。一ヶ月に100回じゃ、一日3回、食後のたびに全身麻酔!? あ、全身麻酔はご飯食べちゃいけないから…ま、どうでもいいかそんなこと。
結果、今度ばかりはたいした出血もなく、手術はとりあえず無事終了!
それでも不安は残る。僕もだが医者もだ。万が一髄液漏れが止まらない場合は止まるまで再手術するしか方法はないという話を前もって医者から聞かされてい る。しかも三度目からは頭開手術の可能性が高いという話だった。
この日からはナースセンターに近い二人部屋に移される。そこで絶対安静に超がつくほど厳重な監視を受けることになった。まず、一週間程度は点滴だけで栄養補給して水以外は一切口にしてはいけないという。しかも、今回は手術中に脊髄にもう一度穴をあけられ、再び身動きとれない状態となる。その上、再び頭の左 右に砂の袋を置かれ、ちょっとでも横を向こうとするとそれがほっぺにぶち当たる。ようするに悪霊天井を向いたまま寸分たりとも動くな、ということ。実際、 この状態のまま9日を過ごすことになった。ほんとにもう天井眺め過ぎ!でもそれほど辛いわけではない。それより、横を向いたときに鼻からズルッと髄液が漏 れてくる感覚が残っていて、こうなりゃ、よしと言われるまで悪霊天井を眺め続けていようと決心していた。
(本来ここでワールドカップ、日本対オーストラリア戦の話が入るはずだったが間違って第一回に入れてしまった。この際、カット!)
それに辛いことは他にもあったのだ。辛いことの原因は隣のベッドで寝ているサクマさんというおじいちゃん。脳卒中で倒れて入ってきたのだが、症状なのかどうか、とにかく毎夜毎夜機関車のようないびきをかき続けるのだ。そのせいで最初の五日ぐらいはほとんど僕も眠れず。そしてある日ついに僕がキレて、「なん とかしてくれ〜!」。その翌日から、夜の消灯時間になると看護師さんがやってきてサクマさんを部屋からベッドごと連れ出すようになった。サクマさん、ナー スセンターの真ん中あたりで女性たちに囲まれて夜を過ごすことになったのだ。それでもいびきは聞こえている。たぶん、このフロアー全室にサクマさんのいび きは轟き渡っていたに違いない。
そして、正真正銘眠れぬ夜を過ごしつつ、手術から一週間がたち、6月19日に腰から管を外す。
顔の横の砂袋を外し、ためしに頭を左横に傾けてみなさいと言われる。そう、もし漏れるとすれば左の鼻の穴からズルッと出てくるはずだが……髄液は漏れてこない。「やった!」と小さく声に出して喜んだのは僕ではなく執刀医のほうだった。
ところが翌日、別の重大な問題が発生したのだ。やっぱり人生をなめてるとひどい目にあうと いうことなのかもしれない。
脊髄から髄液を抜く治療法の第一日目に、予定量より多く髄液を抜きすぎてしまったために、脳室内部の圧力が低下し、脳室そのものが縮んでしまったというのだ。するとどうなるかというと、頭蓋骨そのものは縮むことはできないので、その内側の硬膜が頭蓋骨から剥がれるように縮んでしまい、その硬膜と頭蓋骨の間 に隙間があいてしまったのだ。その隙間に血が溜まると、なんたら血腫といって、これまたやっかいな病気になるらしいが、幸い!? 水のようなものが溜まっているだけですから、、、血は吸収されませんから抜かなきゃなりませんが、水は大丈夫です、そのうち吸収されちゃいますから、というのだ。 自分の失敗を棚上げして、水でよかったですねぇ、ほんと高瀬さんは運がいい、とでも言いたげな口調で頭にきちゃうぞ。
その二日後、ベッドの角度を水平から30度アップさせる。正確を期すため看護師がボール紙で作った即席の分度器で角度を確認する。いやぁすごい、それだけでもう世界がくるくるくるくるくるくるくる回る!普段経験する立ちくらみなんか目ではない。気のせいなんかじゃない、世界は実存的に回っている〜。
ひどい目まいはさておき、この頃になると多少余裕も出てきて、病院の駐輪場に置きっぱなしになっているスクーターや自宅アパートの駐車場に置いてあるバイ クのことが気になりだした。がぶん動物園のことも気掛かりではあったが、友人のSさんが世話を引き受けてくれていたので、さほど心配はしていなかった。 もっとも彼女には、入院は二週間だからと、そうお願いしたわけだったが、それがそれがこの通り、まったく申し訳ないと思っている。でも、Sさんも一度引き 受けちゃった以上、二週間で世話をやめるわけにはいかず、ずるずると。でも、ウサギやらカメやら熱帯魚やら、ハムスターやら、なんだってそんなにいっぱい 飼っているんだろうか。んー、見てると動物のしぐさってなんかかわいいんだよなぁ。で、スクータだが、もうバッテリーが上がっているのではなかろうか。だとすると退院してもスクータでは帰れない。しょうがない、バイク屋に電話してスクーターとバイク両方を一旦店のほうに引き上げてもらい退院まで保管しつつ整備してもらうことにしようか。そう思ったので、即、携帯でバイク屋に電話をかける。そういえば、この病院は不思議なことに病室で携帯を使っていても、よほど大声で話さない限りオッケーなのだ。それよか、看護師が点滴の交換に来たときなど、「あ、すみませんメール中」といったりすると、遠慮したりするから面白い。


6月24日
バイク屋が病院にスクーターをとりに来る。顔見知りのお兄ちゃんもびっくり! まさか脳外科病棟に入院中とは!って。
6月25日
ひょんなことから携帯から掲示保板にアクセスできることを知り、病院からの初書き込みをする。「♪人生楽ありゃ、クモ膜下♪」
6月26日
医者から車イスでの移動の許可が出る。とりあえずトイレに行ってみるが、わずか十数メートル先のトイレに行って帰ってくるだけでフルマラソンをした後のよ うな疲労感。もっともフルマラソンなんてしたことないが。
6月27日
CTの結果、頭蓋骨と硬膜の隙間が多少狭くなってきていることが確認される。ま、ちょっとづつ隙間は埋まってくるでしょうと医者は言う。そして、今日からリハビリも始まる。車イスで病院の食堂まで行ってみる。帰りがけにタバコを吸う。タバコのせいでなくやっぱりめまいでフラフラする。頭を起こしている姿勢だとまったく静止していられない。ベッドに横になるとスッとめまいはとれる。
6月29日
車イスから歩行器へと進歩したけれど、足も腰も頭もふらふらして、そっちじゃないだろ!と いう方向に歩いちゃったりするのでびっくり。それに進むのが遅いのでいらいらする。ナースセンターの前に置いてある体重計に乗ってみたら、入院時64キロ あった体重が、59キロしかない! たぶん30年ぶりくらいに60キロを割ったんだと思う。これはなんとかしなければ、と思って、その後二週間病院食の摂 取以外に、けいとが持ってきてくれたプロテインを食事毎に飲み続けたら、あっというまに6キロ近く回復。すげ〜ぞプロテイン、すでに入院時の体重を超えて いる。このまま飲み続けたらデブになっちゃうので、即中止。あー、少しは退院が見えてきたかしら…。

1111111111111111111111

※ 気に入った動画が見つからないので、今回はいぢわるしてサービスしません!

6 月30日
人間、気力体力ともに最悪な状態を経験し、そこから立ち直りかけた時にはじめて、自分の人生にとって何が一番必要なのかが見えてくるものだ。それはおいし い刺し身とコーヒー。ははは、そんなもんなんだよ食事制限されている病人は。ようするに目先の小さな欲望に人生最大の価値があるということ。その先には やっぱり吸いたい放題のタバコ、自由に歩ける健康体、妄想ではないエッチ、いい具合ほどのお金、というふうに続いて、その100万光年くらい先に世界平和 とかがあったりするのかもしれない。
いとこが入れ替わり立ち替わりお見舞いに来てくれていて、いつもおいしい刺し身を持ってきてくれる。相変わらず鼻はまったく利かないけれど、幸い刺し身と いうものは香りで食べるものじゃないのでおいしくいただける。一方、コーヒーはやっぱり香りだけれど、香りを想像しておいしく飲むことはできる。毎週の週 末にたこりん(けいとのご主人)が、杉山台のコーヒーをちっちゃな魔法瓶に入れて持ってきてくれる。コーヒーそのものは杉山台のマスターの差し入れだ。刺 し身もコーヒーもどっちもうまい。しかし、頭の中で不確定性原理と不完全性定理がごちゃごちゃになることはよくあることだが、口の中で刺し身とコーヒーが ごちゃごちゃになることは極めて稀だ。
で、それをやってみた。ん? ぜんぜんいける。刺し身とお醤油とコーヒーがマッチして、これはまさに味覚のメリーゴーランドや〜。ところで、こんなことは 僕にとってさして珍しいことではない。子供のときからよくコーラを飲みながらごはんを食べていた記憶があり、あんたそんなことしてよく気持ち悪くないわ ねぇ、と呆れられていたっけ。
それで思い出した。すでに亡くなっているが、痴呆症になった父がある時ざるソバをコーヒーにつけて食べていたことがあった。そばつゆもちゃんと用意して あったのだが、それに気づかないのか、飲みかけのコーヒーにじゃぶじゃぶつけて、ごくふつーに食べている。「おやじ、うまいか?」「あー、うまい」「そ か、ならいい」。脳がうまいと感じ取るならなにも問題はない。脳が幸せと感じるなら確実に幸せなように。


7月1日
さ〜てひとっ風呂浴びてくるか! とそんなふうに軽々しく入浴できるのは恵まれている人たちだ。僕の病室の隣にある風呂場までは、窓際のベッドから距離に してざっと10メートル程度のもの。それでもこれからお風呂に入るとなると、人生最大の試練に立ち向かうための勇気や根性やひょっとして愛とかが…、とに かくそんなもんがやたらと必要なのである。日々のリハビリのおかげで歩行器の扱いも脳外科病棟で一位二位を争うほどに上達し、10メートルを20秒フラッ ト程度で走破するようになっていた。しかし、歩行器を体から離したとたん、体がへにゃへにゃしちゃう。脱衣所に置いてあるイスにとりあえず腰かけ、シャツ とパンツを脱ぐ。あーなんということだ、右足が左足に較べ極端に細くなっている。髄液漏れ防止パッチに使うために切り取った右太ももの筋肉の傷跡が生々し いが、その傷跡を中心に周囲20センチほどの皮膚表面がなんか冷たくなっていて、手で触るとビリビリと痺れるのだ。もっとも右太ももからはカテーテルも挿 入しているために、その影響もあるかもしれない。それに、脊髄に管を差すときに走った衝撃も右足だ。そんなこんなで右足が痛めつけられ退化していることは 間違いない。たぶん血のめぐりが悪くなっているのだろう。そういえばH君の左足が完全にマヒしてしまったのは、最初の心臓手術のときに五分間だけ左足に血 液が回らなくなったことがあって、その間に酸欠を起こし左足神経がいわば窒息死してしまったためだという。
脱衣所から浴場までの1メートルは歩行器もなにもなしで、5分ほどかけて慎重に移動。洗い場にもイスが置いてあるので、まずはそこに腰かけ、イスに座った ままシャワーを浴びる。お風呂場そのものは広くてキレイでとても快適。見た目も清潔だが、入るのは病人ばかりと考えるとちょっと憂うつになる。でもまあこ のフロアーは脳関係の人たちばかりなので、院内感染みたいなことにはなりにくいだろうと勝手に安心。湯船につかると温泉気分。それに体が1Gから解放され るので、身体的ストレスからも即解放される。たぶん魚は、肩凝りとか腰痛とかないんだろうな、でもどこが肩やら腰やら…と想像する。
浴室の窓から外を眺めると隣の鎌倉芸術館の駐車場がよく見える。そこに極彩色の歌舞伎絵が描かれた20トン車くらいの大型トレーラーが止まっている。横腹 に中村勘三郎とどでかい文字で書いてある。そうか歌舞伎公演があるんだ。しばらく眺めていると、突然「カキーン!」と附けが鳴り響き、トレーラーの後部扉 が開き、なんとそこから連獅子の衣装を身にまとった勘三郎が「トントントントン」と六方を踏みながら出てきたではないかなんてことはないかやっぱり。


7月2日
このフロアーには看護士(男性)が二人いる。一人は看護士長のいい歳のおっさんで、がじんがあっち系の人だと知ると、すぐにファンになって、それ以降、僕 のことはがぶん親分と呼んでなにかと気を使ってくれるようになった。彼はベテランだしすべての作業にそつがなく、患者としては極めてありがたい存在だっ た。しかし、誰しも最初からそうであるはずはない。さて、もう一人の看護士はまだ見習いのボーヤ。
点滴の針を換えるというのだが、見るからに自信なさ気で頼りない。
「よろしくお願いします」
点滴されるだけなのに、よろしくお願いされても…。
「おいおい落ち着け、手が震えてるって。けっこう分かりやすい見習いだな〜」
「どうもすみません、なんか緊張しちゃって」
「そか、まいいや、じゃおてやわらかに」
「はい、、プチッ!」
「痛ぇ〜、なんか痛ぇ〜」
見ると針を差したところがプク〜ッとふくれている。
「おいおい、血管に刺さってないって!」
「あ、すみません!」
そう言ってすぐに針を抜く。
「もっとさ、血管を浮き立たせてから刺さないとうまく行かないんじゃない?」
「はい、わかりました、ペシッペシッペシッ!」
「痛い痛いそれも痛いって、叩きすぎ〜!」
「はい、すみません」
そして2度目の挑戦。彼の手はまだ小さく震えている。
なんとまた失敗。プク〜!
「あ〜、ごめんなさい。やっぱりダメだ〜」
そういって再び針を抜き、
「ほんとにどうもすみません、いま、もっとうまい人呼んで来ますから…」
すごすご帰ろうとする彼に、
「ばか、ふざけんなよ。おまえがやれよ、こうなったら成功するまでお前がやれって!」
「え〜、でも…まだやっぱり自信がないんですよ〜」
「なに言ってんの! みんな患者一人二人殺して立派な看護士になるんだからさ!」
「…え!?」
「そんなわけねぇだろ、、、とにかくやれ〜!」
というわけで、3度目のトライでようやく成功。
「勉強になりました、ほんとうにありがとうございました」
すっかりオレの体で勉強されちゃったよ。どうせなら学校でもっと勉強してきたらよかったのに。
たかが点滴、されど点滴。

7 月3日
さらにリハビリに精を出した甲斐あって、今日から歩行器ではなく杖に変った。しかし歩くのはかなり難しい。右足が弱いからそっち側に杖を立て、ひょこり ひょっこりと言った感じで歩く。いやまだ歩くという表現はオーバーだ。少しづつ体の位置を前方に移動させるといったほうが適切だ。たぶん時速100メート ル位の速度だと思う。リハビリを終え部屋に戻ったところで、ハタと気づく。なんだよこの杖カッコわりぃ、安っぽいプラスチック製の茶色い杖で、白マジック で○○病院リハビリ科と書いてある。しかも下手くそな字。こんなの僕の美学に反する! というわけで、さっそく病院から150メートルほど離れた所に位置 する、元松竹大船撮影所の前にあるイトーヨーカ堂までの大旅行を決意! 確かあそこには介護用品売り場があったはず。そこでカッコいいMY杖をゲットする のだ!!
それがいかに無謀な計画で果てしない道のりであるかをやがて思い知ることになる。病院を出て恐る恐る歩を進めていると、八十歳くらいの杖をついた老人が僕 の横を走り抜け、もとい、歩き抜け、そこから更に50メートルぐらい進んだところで僕は一歩も動けなくなってしまった。右足を一歩前に出し地面に触れたと たん、ジーンという激痛が背中まで達し、冷や汗がたらたらと落ちてくる。おまけに健康サンダルのぶつぶつが足の裏にめり込んで極めて不健康な状態に陥る。 ベンチに腰掛けしばし休憩。この速度で移動しているといつもと景色が違うことが分かる。世界は様々な時間のレベルが混在してできているのだ。たぶん僕はい ま足下に点々とうごめくアリさんたちと同じような速度でしか動けていない。そうしたとき、世界はやたらと広いと感じるのだ。つまり空間認識も当然のごとく 変ってくるということ。例えば今目の前に幅6メートルほどの道路がある。これからイトーヨーカ堂に行くためにはいずれにせよこの道路を渡らなければならな い。信号などはないので車が来ないことを見計らって渡るわけだが…いつものようなタイミングでは安全は確保できない。自分の移動速度とやってくる車の速度 と距離を対比し、これなら間に合うという瞬間を見極めなければならない。これが意外に難しい。普段なら頭の中でパッパッと計算できるのだが、今の自分に とって車はまさに暴力的な速度でこちらに向かってくる凶器。ためしに今遠くに見えている車でシミュレーションしてみる。車がこっちに向かって走ってくる。 僕は立ち上がりずるずると動き始め、車道に出て二歩三歩…キィーッ! ドン! あー、轢かれた! ほらな。って、でも杖ついた人がよろよろしてたら車は止 まるぞフツー。そのフツーに期待を込めて実際に道路を渡ることにした。幸い車はやって来なかった。再び50メートル進んだところでベンチで一休み。このあ たりの道路のいいところは歩道の至るところにベンチが置いてあることだ。なんかモデル地域とかになっているらしい。これで全行程の3分の2を過ぎたことに なる。ぜいぜいしてやたらと咽が乾いている。缶コーヒーを買って飲む。ダイドードリンコ。だから、なぜ君はドリンクじゃなくてドリンコなのだ?
なんやかんやでようやくイトーヨーカ堂に到着!! ふぅ、ものすごーい達成感だ! こんなことで感動できるなんて素晴らしいことだ。してみると、感動の人 生を送りたかったら体を弱らせておくに限るな。
そしてこの古代絵柄の杖、7900円したけど、かっこいいぃぃ!
健康サンダルがどうにもこうにも痛いので、かっこいい杖とださい杖と裸足で病院まで帰る。残念ながら総合するとダサい姿だ。それにしても帰りの分の体力も 計算しとくべきだった。ふぅ、疲れた。お風呂入って寝よ。


7月4日
なんか臭い。おっ、嗅覚がちょっと戻ってきた。髄液ももう漏れそうにないし、こりゃ順調だ。それにしてもどこが臭いのか。ベッドのわきの小型冷蔵庫を調べ 引き出しを調べ、なにも腐っていそうなものはない。ん? ひょっとして、オレだよ臭いのは! そう、自分の鼻の奥からその悪臭はやってきているのだ。なん だよ、おでこ眼鏡でメガネメガネと探し回ってるおっさんだったのね。医者がやってきたときにその臭さを訴えると「そうか、鼻洗浄してなかったんだ、しな きゃね」。おいバカ、早く言え。
午後から耳鼻科に行く。すご〜い! 出るわ出るわ、何が出てきてるのかよく知らないけれど、小指の先ほどの大きさの不明物のかたまりが10個くらい出てき ちゃった。まさか脳みそじゃないだろうけど、そんな感じの膿が混じったような、鼻くそと言えば立派過ぎるほどの鼻くそが。聞けば手術跡からの組織の老廃物 らしい。本来術後一週間ぐらいした時点からこの鼻洗浄をしなければならなかったそうだ。ほんとに間抜けな話だ。もう手術から二十日以上も経ってるだろが。
それにしても洗浄したあとの、この恐るべきスッキリ感。地球の大気ってメンソールだったっけ? 空気入りすぎ〜!ってほどに鼻が通る。こうして臭い匂いは とれたが、いやぁ、世の中ってのは実に色んな匂いがするものだったんだと、またまた新発見。病院だけに病院臭さが基本だけれど、隣に座っている女性の髪の シャンプーの匂いや、右隣のおやじの加齢臭もなぜか懐かしい。
この日の夕方、がぶ姉帰国。そう、言い忘れていたが、がぶ姉は6月27日に病床の哀れな弟を置いて一人渡米していたのだ。ひとり娘の陶子の結婚式に参加す るためにニューヨークへ行ったのだ。アメリカですでにグリーンカードを取得し、もう日本には帰って来ないだろうと思われる陶子。相手は同じロックバンドの 相方ジョン。陶子はベーシスト兼ボーカル。ジョンはギタリスト兼ボーカリスト。まあ、末長く仲良くやってちょうだい。

も うすぐて七夕がやってきて、それから一週間もすれば退院できるじゃないか、うれしいな。

 

※ ごめん、ほんとに画像は飽きた。っていうか書くのもちょっと飽きてきたかも。でも続けるよ。

7 月5日
脳細胞がブラウン運動のように不規則に震えているのがはっきりと分かる。
ひょっとして、これは、今回の手術のおかげで僕に備わった特殊能力なのかも。
最近よくテレビでやるサバン症候群の人たちが見せる強能力? 100万年分のカレンダーを覚えてるとか、一度聴いただけのメロディーを正確にピアノで弾い てみせるとか、ほんの短い時間見た風景をまるで写真のように正確に描いてみせるとか、サバンではないけれど、少年野球で頭にデッドボールを受けて以降、翌 日から十数年分の天候をすべて覚えてるとか、ま、先天的か後天的かは別にして、いずれも脳にダメージを受けているという点では共通している。僕の場合も頭 の中を金属棒でいじくり回されたのだから、なんか少しぐらいおまけがついてもいい。
その割にたいした能力じゃないが…、とにかく、最近、脳自体の重さとか揺れとか脳そのものの存在とかを、単に想像するだけじゃなく、具体的に実感すること ができる! ような気がするのだ。
簡単そうに思えてこれは案外難しい。例えば目をつぶって自分の右手をイメージすることは誰にでもできる。イメージしながら目をつぶり、右手を実際に動かし てみることももちろん可能だ。でもこれが、すい臓とかだとこうはいかない。そもそもすい臓がどこにあるかもよく知らないし、普段、自分にそんなものがある なんて気にしたこともないので、あ、確かにすい臓がここにある! というような感覚を持てたためしがない。ま、この場合は、僕の意識が及ばなくても脳が ちゃんと管理してくれているだろうし、もしかして神経細胞があるとかないとかの関係かもしれないし、これはこれでよし。所詮、すい臓は脳の支配下にあるか らだ。
ところが、脳となるとちょっとばかり事情が複雑だ。脳の場合は場所もはっきり分かってるし、ビジュアル的にもイメージできる。でも、それはどこかで目にし たことのある図版の脳のイメージのコピーにすぎず、自分の頭の中に現実に存在している脳を直接的に実感できているわけではない。だから、それができる!  ような気がするだけでもなんだかすごいぞ。なぜなら、脳をイメージしその存在を実感するという行為自体、脳の機能に依っているのだからだ。どんな体系にで も言えることだけれど、その内側にいながら、外側から見た全体像をとらえることは、幽体離脱でもしない限り、原理的に不可能ってこと。言ってみればそれ は、鏡を使わずして自分の顔を直接見るようなもの。はたまた、自己修復可能なロボットが修復プログラムの故障さえも自ら修復してしまうようなもの。だから それができるなどと言ったら、それこそ不完全性定理とか自己言及のパラドックスとかが黙っちゃいないのだ。
ついでにもうひとつ子供じみた悩みが…。僕の手、僕の足、僕の胃、僕の……そして僕の脳、こんな具合に体のあらゆる部分を言い尽くせたとして、もっと言え ば、僕の体を構成している70兆個ほどの細胞のひとつひとつを数えあげたとして、「僕の細胞1、僕の細胞2、僕の細胞3…僕の細胞70兆」、そう言ってる 「僕」はいったいどこにいたのだ、その中にいなかっただろお前は! という疑問。
体の部分部分をいくら探しても無駄。「僕」は僕の肉体全体に染み込んでいるのだから。そう、染み込んでいると言えばアレ。「自我とは、全身に染み込んでい る髄液が作り出すひとつの作用である」。おー、ナイスアイデア。 誰かこれを立証してくれ、ノーベル賞とれるぞ。
というわけで、そうなるともう心身二元論は通用しなくなって、そこから派生する、肉体は滅びても…うんぬんかんぬん系に関わる概念はすべて排除! ってこ とになるけど、僕はそれでぜんぜんオッケーです(笑)。
まとにかく、「僕」は自分の体の中のどこにいるのか? この初歩的でありながら難しい問題については、モギケン先生あたりがきっと楽しい答を知ってるん じゃないかと睨んでいる。でもな、「こないだ手術で摘出したちっちゃなヤツがそうですよ」とか言われたらヤだよ。そりゃ探してもいねーはずだよ、なんて。
なにはともあれ、「僕」がどこにいようと、訓練次第では、脳に力を入れて二の腕に力こぶを作るみたいに、なんか脳に物質的な変化を与えることができるよう になるかもしれないとも思う。もっとも、アルファー波を自在に出したりするナントカ名人とかエライ坊さんとかは、既にそれに近いことをしているのかもしれ ない。おまけに脳内麻薬物質を自在に出し入れして、好きなときにラリることがきるようになれたらそりゃサイコー。
話はちょっとずれるが、いつだったか本で読んだことがある。外国の男性ストリップショーで、全裸の男が自分の性器にいっさい触れることなく射精までして見 せるそうな。これがほんとだとすれば、これはこれですごい脳力だ。想像妊娠した人が想像出産で子供産んじゃったみたいなものだから。


7月6日
リハビリが徐々にハードになってきた。カッコイイ杖を使わず、背の低い平行棒に両手を添えて3往復。それが終わると、このリハビリルームがある2階から自 分の病室がある5階まで、カッコイイ(いちいち言う)杖を使って、階段を歩いてあがる。しかし初日の今日は3階にあがったところでギブ。右足がまったく言 うことをきかなくなるのだ。いや、正確に言うとまったくというわけじゃなく、「お座り!」とかだとよく言うことをきいて、すぐにその場に座っちゃうんだけ どね。
ってわけで、いま心と体のバランスにズレが生じてる状態だ。健康を取り戻すのに肉体のほうはまだまだ時間がかかりそうなのに、心のほうはもうかなり健康体 気分になっている。そこがもどかしいっ! ま、たまたまいま僕はこんなふうだからそうなんだけれど、本来はその逆。57歳くらいになると、肉体的老いより も精神的老いのスピードが遅くて、折りにふれ「こんなはずじゃ」みたいなことに出くわす。で、レベルの変化はあるものの、いつまでたってもそのギャップは 埋まらず、いざ死ぬときだって「こんなはずじゃ」と思うのじゃないかと思う。それはやっぱり不自然で、もとはと言えば、人間を精神と肉体に分けたデカルト の二元論が悪い。心と体の状態がピッタリひとつに重なってごく自然に一元的に弱って行って死ぬのがいいな。というような理屈はさておき、それでも僕の体は 徐々によくなっているんだろうなと思う。
階段の途中で休み休み、なんとか部屋までたどり着き、ベッドで一時間ほど休憩していると、再び歩いてみようという気持ちになる。
そう、社会復帰しなければ!って、僕が復帰すべき社会とはいったいどこだ? そりゃ決ってるよパチンコ屋。というわけで、大船駅に向かう道の途中にあるパ チスロ屋に行ってみることに。距離的にはイトーヨーカー堂よりもだいぶ遠いだろうか、病院から400メートルくらいだ。それに、大きな交差点を渡って行か なければならず、果たして一回の青信号で渡りきれるかどうかは自信がない。ま、なんとかなるだろう。
本来外出許可をとらなきゃいけないのだけれど、まさかパチスロ行ってくるじゃ許してくれないだろうし、病院内の散歩の延長ってことで…。
パジャマの上下にジャージの上だけ引っかけて、スリッパのまま杖ついて出発! 歩く速度はいくらか早くなっている。歩幅が計測できるほど両足の動きは大き くはできないが、たぶんアリよりは早くゴキブリよりは遅く、ムカデくらい。交差点に差しかかり心の準備を整え青信号を確認するやいなやいっきに渡りきろう としたものの、やっぱり中間地点くらいでアウト! 信号が赤に変り車も来ている。しかし慌てず騒がず、止まってくれている車に一礼しながらゆっくりと前 進。いやぁ、世の中けっこう弱者には親切なものだ。フォーンなんかもちろん鳴らさず、運転者の目も、ごゆっくりどうぞと言っている。やっぱり病人姿とカッ コイイ杖が効いている。しかし、こうなってみると車道と舗道の段差も高いよなぁ…。んー、バリアフリーはいったいどこまで進むのだろうか、とかも思うのだ けれど、こうなって初めてそのことに気付き声高に叫ぶのもどうなのよ。いるよな、そういう国会議員も…。
途中にあるコンビニによりタバコを買い、再び歩き始めたところでふらふらっとけっこう大きな目まい。ベットで仰向けに寝ているとき以外は慢性的にめまいは しているのだが、面白いもので、その揺れ幅の感覚がいつしか身に付き、あらかじめその幅を頭に入れておくことで、人や物にもぶつからず、身の安全を確保し ながら行動することが可能だということが分かってきた。道端の長ベンチで横になると、途端に目まいは止まる。5分ほど休んで再出発! 結局目的のパチスロ 屋につくまでに合計3回ほど休んでようやくたどり着くことができた。およそ40分ほどかかっただろうか。思ったよりも体力を消耗し、右足も徐々に重たく なってきている。このままおそらく数十メートルも連続して歩けば、またしばらくは動けなくなるに違いないと思う。
店に入りまずびっくりしたのが、異常なほどに大きい騒音だった。えっ、こんなにうるさいところでいつも一日過ごしていたの? 懐かしいかと思ったらうるさ いや。
入口から一番近い台に座ってゆっくりと打ち始める。おー、目押しはぜんぜんできるじゃん、とひと安心。知らない人のために簡単に説明すると、目押しとは、 回っているリールの中から特定の絵柄を思った場所に止めることです。もちろん、コンピュータ内部で当選していなければ、いくら正確に狙っても、狙った場所 の一個下とか上に強制的にずらされますけどね。とにかく手術の影響がまったくないことが確認できてほっとする。だからというわけじゃないが、一万円スッて も、まあまあこんなものかと、さほど悔しがらずに退店。
よし、病み上がりの体だから今日はこれくらいにしといてやるが、次はこれじゃすまねぇーぜ!、、、と僕じゃなく機械のほうが言ってそう。次はマイナス3 万? やだよー!!


7月7日
この病院に入院する前に、この病院のウェブサイトを見たら「最先端医療機器による最先端治療を…」とか書いてあり、それ見てゾッとした。だって、最先端と いうことは、その定義上その先はまだ真っ暗で、現状は手探り状態ってことだからだ。いずれにせよ、正直言って現代医学なんてそんなにたいしたものでもない と思う。日進月歩で医学が進歩しちゃうこと自体あやしい。裏を返せば、急激に進歩する余地があるくらい、まだまだ分からないことが多いということでしょ。 人体の不思議を、ついでに女体の神秘もなめちゃいけません。
で、最先端医療機器のひとつである看護士お手製のボール紙分度器再登場!!!
「高瀬さん今日から60度にしますからね、ギリギリギリギリ」
「あ、けっこう角度きついなぁ。いいよしなくて」
「でも先生がそうしなさいって、家に帰ってからの生活に慣れなくちゃ!」
「だったら、真っ平らでもいいよ。だって、家にいるときはだいたいベッドに寝っ転がってるんだから」
「どこか他に体の具合でも…」
「いやいや、自主的寝たきり生活してんの」
「…?」
「部屋がせまくてね…。」
部屋中動物のゲージだらけの、がぶん動物園の話するのめんどくさいから、話をてきとーに切り上げる。
さて今日は、たなからばたもちの七夕(我ながらくだらねぇけどこういうの好き。庭には2羽にわとり、裏庭には5羽ごわとり、とか、伊豆ワナナバニ園、と か、ひとやまの黒だかり、とかさ意味なくて面白い)。
ナースセンターの受付カウンターの隅に七夕飾りが置いてある。
いくつもぶら下がっている短冊は、このフロアーの患者かその家族が書いたものだ。
そのすべてをメモしておいた。
面白くもないけど全部書き出してみる。
もちろん、この中には僕のもある。
・毎日楽しく元気で暮らしたいね
・元気で退院できますように
・天国にいる我子よ お星さまに乗って会いにきておくれ
・お金が貯まりますように
・今年の七夕は晴天に恵まれますようお祈りしております
・織姫と彦星が会えますように
・世界に平和を あなたに健康を
・皆で手を取り合って 美しいそして安心して暮らせる国を作ろう
・家族が元気で暮らせますように 笑いがたえませんように
・本間さんが結婚できますように
・次のワールドカップまでには退院できますように
・母に意識のかけらを戻して下さい 一粒でも二粒でも
・皆が元気でいられますように
・それぞれの思いを込めてささの葉に むすぶ楽しさたまばたの宵
・ここにいるみんなが幸せになりますように
・早くみなとおしゃべりできますように
・入院している患者さまがみんな元気になり早く退院できますように
・ヴェランダで皆と歩む七夕を病床で送る寂しさ
・父の病気が早く治るようにお願いします
・5人のまごたちが健康で優しい人に育ってくれますように
・生命は宝なり
・一日も早く家族みんなが幸せに暮らせるように
・車がほしいです
・毎日笑顔でいられますように できればいやなるべく宝くじ一等があたりますように
・おじいちゃま またあそぼうね
・天の川美しい美しい紅になれ
・小名木先生が早く結婚できますように
・元気で退院したいね

あ と一週間でいよいよ…。

 

※最終回

2006 年7月15日
三食賄いつきで保険効かせれば結構安上がりで快適な生活が可能だということが分かったし、これなら病院に住んじゃうのも悪くないかもと思っていた矢先に退 院となった。
みんなありがとー!!
心配してくれたり面倒かけたり勇気づけてくれたり癒してくれたり優しくしてくれたり、しつこく言わないけどそれぞれの人に感謝してるから。


(あれよあれよで1年経過)
2007年7月15日
「不都合な真実」を観ながら大いに世界を憂いてみた後に「ニッポン無責任時代」で大いに笑った夜。
あれから一年。去年の7月15日を以て僕の入院生活は終わったけれど、タイトル通り、ドラマとしてはまだ完結していない。それをまただらだら日記で書いて いたら一年かかっちゃうんで、ここでいっきに一年時間を飛ばし現在に。ようするにここからは思い出話し。で、このコラムも大好評!?のうちに終了と相成 る。
そもそも脳腫瘍手術は全歯インプラント手術のための過程の出来事に過ぎない。そのインプラントをする経緯について知らない人もいると思うので簡単に説明し ておこう。以後、時制があっちこっち飛ぶんでついて来るんだよ。


2005年12月某日
通院していた稲村のT歯科でいつものように治療を受けていたところ、T先生がこう呟いた。
「これは高瀬さんにとっていい話しか悪い話しか分からないけど…」
「そりゃ悪い話に決ってる! と一応言っとく」
「そうかもねぇ…って、実はね、インプラントって知ってる?」
「うん、骨にグリグリってチタンかなんか打ち込んで歯を乗せるやつでしょ」
「そうそうそれ。高瀬さん歯がもう全部ないじゃない。まだ若いのに総入れ歯ってのもさ、そこで全部の歯をインプラントにしたらどうかと」
「うん、そりゃいいね、で君いくらぐらい用意すればいいのかね(笑)?」
「ほほほ、そうね、600万ちょっとかしら」
「どんだけ〜!」
この場合こう切り返すのが正しいのだが、当時この言葉は流行っていなかったので、結局、
「キャー!」
とひとこと叫んだだけだった。
「でも、高瀬さんお金ないでしょ?」
「うん、死ぬほどない」
「でも、ヒマはたくさんあるわよね」
「死ぬほどある。っていうか、死ぬまではヒマ、で死んでからはたぶんずーっとヒマ」
「そこで相談よ。全部タダでやってやるけどどう?」
「んー、手術しなくていいから300万ちょうだい」
「それはだめー!さー、どうする、高瀬さん」
「なんだか知らないけど、よしのった!」
すると先生、周囲のスタッフに向かって、
「やった、高瀬さんオッケーですって!」
「パチパチパチ(小さく)」
というわけで詳しい話を聞くことに。
要するに、現時点で一番新しいオールオンフォーという技術で全歯インプラントをするのだという。ヨーロッパのどこだったか、誰だったか、とにかくその技術 を開発した先生がいて、その先生のもとにT先生も何度か出かけて行って、その技術をマスターしてきたという話。従来の方法での施術は1000例ほど経験し ているというベテラン医師のT先生、「これはここ数年で世界の常識になる技術なの、だから安心して」。
安心なんかしないけど、なんか面白そうなので話にのった。
T先生はこの手術の結果を学会で発表する予定があるのだそうで、といっても600万以上払って実際に手術をする客もそう簡単に見つかるはずもなく、要する に僕はモニターとなって、術前、術中、術後の経過等を詳しく記録されることに同意したというわけだ。
ただ詳しく聞くと、インプラントというのは骨にチタンぶちこんで歯を乗せてはい終わり、っていうほど簡単ではないらしい。手術をした後もおよそ10ヶ月ほ どかけて足繁く通い、微調整を重ねる必要があるという。問題は噛み合わせで、この「噛み合わせ」というのは、写真業界のピントと同じで、この歯科学会でも 永遠のテーマと言えるほど微妙なものらしいのだ。だからほんとにヒマがないと、この全歯インプラントというのは実行できないということなのだ。お金だけ あってもダメなんだねこれ。


2006年1月某日
インプラント手術のための事前検査として顎骨格のCTを撮ることになり、T先生のところと提携しているO中央病院の歯科医院に行くことになった。もちろん お金はT先生の先払い、僕はただ行って撮ってもらってくればよいと。
そこで問題が発覚したというわけだ。O病院の歯科医師が顔面部のCT写真を見て、どうもなんだかアヤシイ影が写っていると気付き、同病院の脳神経外科の先 生に見てもらい、即、良性の脳下垂体線種と診断されたのである。
で、経緯を飛ばして…結局、2006年5月16日、そのO病院にそのまま入院することになったという次第。
しかし、もしインプラントするという目的がなかったら、おそらくあの時点で手術はしていなかったと今にして思う。そしてそれが正解だった可能性も少なから ずある。手術しないという選択肢はないと言ったけれど、実はその後の調べで、脳腫瘍全般的に言えることだけれど、特に自覚症状もなく偶然発見されたそれほ ど肥大化していない良性腫瘍については、手術をせず定期的に経過観察するという手があり、進行の速度と年齢を勘案すれば、そのまま手術しないでほっておい ていいというものも30%以上はある、ということなのだ。僕の腫瘍は直径14ミリで程度としては中ぐらいだったが、それでも担当医の予測では、手術しなけ ればならなくなるまで2年間程度の猶予はあった。それも不確実な予測だ、果たしてこれまで何年かかって腫瘍が14ミリまで成長したかはCTやMRIの検査 では分からないのだ。3年かもしれないし30年かかっているかもしれない。そしてほっておいて一年後に再検査してもまったく成長が止まっている可能性だっ てかなりある。止まっていないまでも僕の寿命がつきる程度の年数ぐらいをかけて極めてゆっくりとしか成長しない可能性だってかなりある。
いや、手術してしまったことを後悔してるわけでは決してない。とにかく即手術するということは始めから決めていたのだから。ただ、やっぱりなと思うこと は、まったく自覚症状のない病気を治されても、手術して治ってよかったという満足感が全くないということ。むしろ僕が闘わなくてはいけなかったのは、その 手術の後遺症とも言えるものであり、腫瘍そのものとは無関係だということ。
まわりの人から、元気になってなにより、とよく言われるけれど、それも脳腫瘍のせいで元気じゃなさそうだったからではなく、やれ髄液が漏れる足が痛い目ま いがするというような、肉体的ダメージに苦しんでいるように見えたからだろう。
いつかこの下垂体線種の原因も解明されるかもしれないけれど、今のところ何も分かっていないそうだ。少なくとも言えることは生活習慣病ではないというこ と。だから、タバコ吸ってるからとか野菜食べないからとか生活が不規則だからとか離婚したからとか、そう言ったことではないので、まず注意のしようがない ということ。先生曰く「運としかいいようがない」そうだ。みんなは偶然発見されるなんて運がいいと言うけれど、そうじゃないだろう、確実に運は悪い。飛行 機事故で奇跡的に助かった人の運のよさも同じで、運がよけりゃ落ちる飛行機乗ってないだろが、という話。


2007年7月某日
とにかく一年たって、あの61日間に及んだ入院生活を自分なりに総括しようと思い、「人生のいい骨休めになった」と呟きかけて、「あ、僕の場合年がら年中 骨休めだ。むしろ、入院中はなんやかんやで忙しかった」と思い当たり言葉をのむ。
退院して数日間は動物達との再会を喜んだり、久し振りにパソコンに向かって5000通(内スパムメールが4700通)ほど溜まったメールを整理したり、ヤ フーオークションで杖を4本買ったり、えーっ4本も!、、してた。
何事にも研究熱心な僕は、杖と言っても、折り畳み式、トレッキング用、仕込み杖、イタリア紳士風、と色々あることを知り、ついついそれぞれ一本ずつ購入し てしまったというわけ。
その頃は杖なしで歩ける日はほんとにやって来るだろうか、の感じがしていたし、どうせもうすぐ年取って普通に杖を使うようになるだろうと自分を納得させて いた。
これで杖は万全、では目まいのほうはどうだ。
退院二日目によろよろと外に出て、試しにスクータにまたがりエンジンをかけてみたものの、なんせ目まいがひどくてこりゃだめだとすぐに察知。ま、足の痛さ はシートに座っちまえばとりあえずなんとかなりそうだけれど、目まいはヤバイ。これはまず、目まいに慣れることが先決問題だと悟る。
結局、退院一週間後にスクータ走行に挑戦。さすがにドラッグスターは遠慮した。で、スクータだが、エンジンをかけ走り出すと多少目まいはするが、、、あら ら不思議、、停止状態ではかなりしていた目まいが、加速状態に入ると徐々に止まってくるではありませんか。スピードが出れば出るほど安定してくる。ところ が、例えば時速60キロの定速走行(つまり慣性運動状態)になると、再び目まいが戻ってくる。で、一番危ないのが完全に止まった状態での安全確認! 首を 左右に振るのが特に悪い。そして、再び加速し始めると面白いように目まいが止まる。
そうか分かった。目まいのやつは加速に弱い。すごーく論理的に分かった。入院中もそうだったがベッドに仰向け状態で横になっている時はまったくと言ってい いほど目まいはない。これは後頭部の方向にGがかかっているから、つまり前にも言ったように下方に対して加速状態にあるってことだ。で、頭が起きている状 態でも、これと同じ状態を作り出せば目まいは止まるという理屈。イコール、それが後頭部方向へGがかかるスクータでの加速状態なのだ。んー、絶対にそう だ。では、なんで後頭部にGがかかると目まいが止まるのか? それは分からん。でもそんなことはどうでもいい。とにかく止まればいいんだし、こういう変な 発見はすごく嬉しい。


2006年8月某日〜12月
H君が葉山のハートセンターから茅ケ崎のリハビリ専門病院に転院したと聞き、やはり同じ親友仲間のK君に車を出してもらって一緒にでかけた。相変わらず目 まいはするし杖は欠かせない状態が続いている。8月の終わりの頃だ。
H君が転院したのは、手術するためではない。来るべき手術のための体力作りが目的だった。
受付で部屋を聞き訪ねて行くとH君のベッドは空だった。そこにいた看護士に聞くと、ちょうどリハビリが終わったころじゃないかという。それで一階フロアー に移動しリハビリルームを探していると、広いロビーのソファーに座っていたH君が僕ら二人を発見し、立ち上がり、ニコニコしながらこちらに歩いてくるでは ないか。
「えー、まじー、こないだあんなに死にそうだったのに、こっちは杖でHちゃんは自力!?」
ちょっと感動の再会。でもいつかみたいにH君は号泣することはなかった。体力が次第に戻り自信が出てきた証拠だ。
K君がいう。
「Hちゃん、元気そうじゃないかー! まったく高瀬のほうがコレなんだもの、やんなっちゃうよねぇ」
H君が答える。喋り慣れてきたせいか言葉もハッキリ聞き取れる。
「ほんとほんと、高瀬が脳腫瘍で手術したなんて聞いて、もうびっくりだよ。葉山に来た頃はなんでもなかったもんね」
こうして三人で久し振りのあったかい時間を過ごしたのだが……。
次にH君のことを知ったのは12月も半ばに入った頃のある朝のことだった。
H君の息子から電話が入った。
「父が危篤になりました、ここ数日がヤマだそうです」
「分かった…」
H君は茅ケ崎から川崎のS病院に転院し、そこで満を持して手術を受けたのだという。葉山の病院に戻らなかったのは担当医に不信感を持ったからだ。実は僕も その担当医とのカンファレンスに参加していて、ちょっと奇妙な印象を受けていた。H君は手術をし職場復帰(大手銀行)を目指していたのだが、その医者はこ ともなげにこう言う。
「Hさんはそうおっしゃいますが、現実としてそれは無理だと思います。それに今回の手術を受ければ障害一級の資格を得るのは確実ですし、そうなりますと銀 行の方もこのことでHさんを解雇するとかそういうことにはならないと思いますよ。一級の障害者を雇用することにかなりのメリットもありますし、一方でHさ んも経済的に困るということにはならないと思いますし、ここは職場復帰ということは考えずににゆっくりと暮すことを考えたほうがいいんじゃないでしょうか ねぇ」
リアリストと言えばそうだが、患者の生きる意欲を削ぐような発言だと思った。
こうして、川崎で手術を受けることになったのだが、あえてその病院を選んだのにも理由があった。担当の医師がゴッドハンドと言われる心臓外科の名医であっ たこと。もちろんゴットハンドと自分で言ってるわけではない。テレビ局がそう呼んでいるのである。そして、僕がH君の息子から電話をもらったまさにその当 日、一ヶ月ほど前に実施したそのゴッドハンドによるH君の手術の様子が某テレビ局のドキュメンタリー番組で放送される予定だということを、後に知ったの だ。H君の息子はそのことについては何も言わなかったので、そんなこととは知らずに僕はとりあえず病院にかけつけた。
H君はまったく意識はなく目は開いているものの白濁していた。聞けば、手術は二度行われたという。一度目は心臓バイパス手術。そして数日後、感染症が体中 に広がり、その感染源を除去するための再手術。そしてこの感染症のための手術というのが実は外科手術の中でもいちばんやっかいだそうで、その手術のせいで 再び感染症にかかる確率がかなりあるという。しかも、感染が体全体に広がっているために、胸を袈裟斬りのように斜めに大きく切っている。この切り方だと布 地と同じで再び縫い合わせるときにスジ目が正確に合わず、引き攣れるようになるので、人の皮膚の場合、麻酔が切れたあとの痛さも尋常でないという。H君の 場合もまさにそれで、痛さに耐えられないので麻酔で眠らせておいて欲しいと、H君がそう希望したそうだ。
だからいま意識を失っているのは、あえてそうしているのであって、単なる昏睡状態ではないのだという。麻酔さえ使わなければ意識は戻り家族や僕とのコミュ ニケーションも可能なのだ。しかし、それをしてどうなるというのか。そんなことをして「あ、分かった、私のことを分かってくれた」と感激しても、それはこ ちら側の自己満足に過ぎないだろう。H君の体は再び感染症に侵されている。もう再手術するという選択肢もない。ただ黙って、静かに見守るのが一番いい。
二日後、再び危篤状態だという連絡を受けJR横須賀線に乗り、、あとで聞けば、そう、ちょうど大船を過ぎた辺りの時刻にH君は息を引き取った。
病院の裏口で霊柩車に乗ったH君を見送って、彼の遺品となった杖(英語のFの字みたいになってるやつで輪っかで肘を固定するアルミ製の本格的なやつ)をも らった。僕はもう杖を使わなくなっていたけれど、今日はかなり歩いたのでちょっと右腿が痛くなってきていたので、それを使って川崎駅までの道のりをK君と 二人でしょんぼりしながら歩いた。途中ちょっとお腹が空いたのでそば屋に寄ったのだが、ついうっかりその杖を忘れたまま店を出て、50メートルほど歩いた ところで店の女主人が、「あのー、お客さん、これこれ!」と追いかけてきてくれた。「あ、どうも」と言ってそれを受け取り、再び右手に添えて歩き始めたの だが、彼女は「きょとん」としていた。ひょっとして偽障害者と思われたかもしれないと思い、K君と二人で顔を見合わせ思わず笑ってしまった。H君の亡き骸 をみて散々泣いていたのでうまく笑えなかった。
H君が言っていたことを思い出す。和歌山カレー事件のダンナの方がこれと同じ杖を使っていたのだけれど、H君はテレビでその姿を見てすぐに偽障害者だと分 かったという。「あいつバカだねぇ、あの杖、後ろ前逆に持って平気でテレビ出てるんだもの」。そう、Fの字の横棒の部分は体の手前じゃなくて前方に来るの が正しい。つまりFを裏返しにした状態で使うものなのだ。そうしないと支点がうまく働かず体を支えることができないからだ。
後日、H君の手術中継を含むドキュメント番組をビデオで観た。
そこにはもちろん手術前の生きているH君や奥さんや息子が映っている。そして術中の様子もカメラが克明にとらえている。途中出血が止まらないというアクシ デントに見舞われるものの、十数時間におよぶ手術は無事成功に終わる。最後にこんなナレーションで番組は終わる。
「手術から一ヶ月、Hさんは今も懸命な治療に励んでいる…」
そんなもんだ。視聴者はHが死んだことは知らない。さすがゴッドハンド、手術はあくまで成功なのだ。ただし、感染症で死んでしまった。健康のためなら死ん でもいい、という言葉が浮かぶ。


2007年1月某日
最近はもう天気予報代わりになっている目まいにも慣れっこで、ドラッグスターにもバリバリ乗っている。杖をバイクの横に取り付けてはいるがほとんど使って ない。杖がとれたのは2006年の10月くらいだった。時々歩き疲れるとビビッという痛みとともに歩けなくなるが、その頻度も徐々に減ってきている。
その日もドラッグスターに乗って鎌倉駅近くの水道局まで出かけた。毎度のことなのだが、3ヶ月に一度の割り合いで水道局に支払いに来ることになっている。 水道代払わないでおくと3ヶ月目に水道が止まるのだ。それを合図に払いに行くというのがパターンになっている。止まったら払う! というとても分かりやす いシステム。しかも最近では止めてある元栓を自分で勝手に開けてから支払いに行くことにしている。元栓開けに来てくれと頼むと翌日になったりするので、 もっと早くこれないかと尋ねたところ、窓口の人が「お急ぎならご自分で…」ってなこと言うんで、それからはもっぱら自分で開けることにしているのだ。勝手 には開けられない仕組みならともかく、結局、わざわざ手間暇かけてやってきて水道止めるってのは、水道局の陰湿な嫌がらせに過ぎないのだ。
それはともかく、水道局の帰り道、偶然歯医者のT先生と受付の彼女を見つけ、バイクに乗ったまま「ヤー!」と挨拶した。むこうはすぐに僕だと分からなかっ たみたいだけど、分かったとたん、「えー、もうそんな元気になったの!」みたいな顔つきをしていた。
それから数日後にT先生から電話が入ったのだ。
「高瀬さん、そろそろ大丈夫みたいね、やるわよ!」
「オーッ!」
即座にそう答えたものの、実は本当にやるのかどうかよく分からなくなっていたのだ。一年前のあの時点でなら、最新技術のインプラント手術をすることにT先 生側にもメリットはあったのだろうが、今更やる価値があるのかどうか、、連絡も半年以上とっていなかったし、まーいいやと思い始めていたところだった。
約束通り二三日経ってT先生のところに行くと、何やら人が5人も6人もいて、僕を待ちかまえているようだった。一年前にやった事前検査を反故にして、最初 からやり直すという。
「まず今日はCTを何枚も撮らせてもらいますからね」
「えー、またO病院!?」
「そうじゃないの、あんなことになっちゃって縁起悪いから、歯科専門の最新式のCT装置を買っちゃったのよ」
「すげー! 高そう!」
「高い高い、3000万した」
というわけで、待っていた複数の人たちというのはそのCT装置を納入した会社の営業と技術者たちで、それから一時間あまり何度も何度も何度もCT撮影され たのだった。説明を聞けばそれは単なるCTスキャンの撮影機ではなく、コンピュータが僕の口に合うインプラントの下地となる型を設計し、スキャンした骨の 形状から、どこに何本どの角度でどれほどの深さでチタン螺子を打ち込めばよいかを、即座に計算し、図で表示してくれるのだという。これまで経験と勘に頼っ て一週間かかった仕事を5分程度でやってくれるというスグレものらしい。
それが終わって今度は麻酔医と会った。もちろん例の手術で全身麻酔も経験済みなので問題はない。もっとも、今回は部分麻酔でいいということだったが、それ でも意識があったりするとじれったくなったりするかもしれないので、「めんどくさいから、気がついたら終わってた、ってな具合に眠らせといてください」と 頼むと、「分かりました、じゃちょっと強めにしときます」と快諾してくれた。
最後に先生に、
「手術はいつですか?」
「えー、そうねぇ、2月14日にしましよう」
「わお、すごいバレンタインプレゼントだなぁ」
「ははは、そう言えばそうね」
その言葉通り、2月14日に手術は行なわれ、2時間ほどで無事終了。
それから今日(7月15日)までのおよそ5カ月間に、おそらく30回くらいは歯医者さんに通っていると思う。
普通はそんなことないらしいのだが、とにかく歯が(骨かな?)死ぬほど痛くてまいった! というのも、僕が抗生物質の飲み方を間違え、歯茎が腫れてしまい 毎日毎日消毒しに行く羽目になったからだ。
ちゃんと消毒の仕方も教わったのに、、、
「もう! 高瀬さんは信用できないから当分毎日いらっしゃい!」
「そうだよ、オレのいい加減さを甘くみたね先生は」
「ほんとほんと」
「ま、先生の気の済むまで通いますから」
「そうね、どうせチタンが骨と自然に接合するまで3カ月程度かかるから、それまではちょくちょく様子みないといけないし、それに今のは仮歯だし、あとで ちゃっんとしたの入れるから」
「はーい!」


2007年7月15日(再び)
未だインプラントは完成していない。7月18日にまた行ってようやく上の歯が完成を迎える。下の歯が完成するまではたぶん二、三週間くらいはかかるだろ う。
そうなってようやく、ひとしきり忙しかった僕のドラマティックライフも終焉を迎えることになる。
もっとも、人生はまだ終焉しないんで、僕のことだから、たぶんまた他のドラマがすぐに始まることだろう。その時はまた回りの人に迷惑かけるに決ってるん で、よろしく!!! 「がぶ孝行、したいときには、がぶはなし」ってな。



つづかない