黒い犬のうそ日記:万リー


●準備号0匹目

梅雨月五日(月曜日)

 今日から日記を書くことにする。ノートを買いに行って、あれにしょうか、これにしょうかと迷っているのが楽しかった。縦書きと横書きでは趣が違ってきそ うなので考えてしまったが、とりあえずこれでいこうと思う。ブルーの表紙の6号30枚、中紙、再生紙、古紙の含有率は80%というやつで、ノート売り場で は一番ありふれていた。

 黒い犬と買いに行ったので、黒い犬にもノートを買ってやった。

 二匹の黒い犬たちは、交換日記を始めるという。字も書けないくせにと言うと、馬鹿にしたような顔で笑った。黒い犬たちはうれしそうにノートをくわえて家 の中をうろうろしている。早く書いているところを見たい。一日中注意して見ていたけれど、とうとう現場は押さえられなかった。残念だ。夜寝るとき、枕の下 に隠しているのを発見したので、夜中にトイレに起きたついでに探したけれど、もうどこかに隠されていて見つけることが出来なかった。気づくと私の筆箱も無 くなっていて、机の上には消しゴムのかすが大量に落ちている。やはり犬も机で書き物をするらしい。それも夜中に。



梅雨月六日(火曜日)

 池のポンプがこわれた。電話をすると、電気屋が新しいポンプを持ってきてくれると言う。ただし、二、三日かかりますけど、と言われて悩んでしまう。池の 鯉が苦しそうにしている。苦しそうですと言うと、電気屋は家族なんだから何とか考えて工夫しなさい、と応えた。

 鯉は丸く大きな口を開けて縦になったり、横になったりして泳いだり、休んだりしている。こんな日に限って晴れていて、日射しも強くなってきて苦しさはひ としおだと見受けられる。仕方がないので、日傘をさして池に入ることにした。日傘の影が池の真ん中に出来た。日陰に入ると少しは楽になるらしく、鯉は丸い 傘の日陰の中に並んでいる。それを見ていた黒い犬たちが、お父さんの傘やお兄ちゃんの傘を持ってきた。手伝うつもりらしい。心のある奴らだと感心している と、黒い犬たちは池の周りでチャンバラを始めた。叱ると、傘の先で地面に漢字で鬼婆と書いた。

 私たち三人は池の中に立って、お日さまの巡る道にあわせて傘を捧げ持っていた。鯉たちはお礼のつもりか、尾びれを振ったり、胸びれで私たちの足を撫でて くれた。夕方になって、池全体が日陰になったので私たちは池から上がり、すっかり冷えていたので温かいお茶を飲んだ。池のこと日記に書くんでしょうと黒い 犬に言うと、黒い犬たちはそそくさとどこかへ行ってしまった。

 パートのある日なので、早めに夕飯の仕度をしていると池で大きな音がしている。行ってみると鯉が苦しそうにバシャバシャと跳ねている。酸欠らしい。ポン プが動かないので酸素が足りなくなっているのに違いない。目玉が血走っている。えらもめくれて痛々しい。

 お父さんの会社へ電話をして相談する。指示に従って、お風呂場からシャワーをはずしてきて庭の水道につなぐ。家の外壁に梯子を立てかけて一番上まで上 り、水を出す。水は威勢よく出て、池は雨が降ったようになった。しばらくたつと鯉は楽になったようで、水をバシャバシャ打つのを止めて横泳ぎを始めた。一 安心する。見ると家の中では、黒い犬が机に向かって何か書いている。たまに振り向いてこちらの様子を見ては、また机に向かう。いやな感じだ。

 十時を過ぎ、パートへ出かける時間が迫る。腹も空くし、夕飯の仕度も途中のままだった。明け方までほとんど立ちっぱなしのサンドイッチ工場のパートを思 うと、なんとかカップラーメンの一杯も腹に収めておきたい。夜学から帰ってくるお兄ちゃんにも晩飯はラーメンにしてもらおう。しかし、どんなに省略しても 池に雨を降らせることだけは止められない。黒い犬たちに雨降らしをしてもらわなければならない。

 黒い犬たちはあまりいい顔をしなかったが、家族でしょと言うとしぶしぶ承知した。しかし、いざ雨を降らす段になるとどちらが先にするかでもめ始めた。い つものことだ。ジャンケンにしな、と言うとすぐにジャンケンを始める。グーとパーしか出せないくせになかなか勝負がつかない。

 三回戦が好きなのだ。待っているとパートに遅刻しそうになるので、後は任せて出かける。パートの休憩時間に戻ってみると、梯子のてっぺんに所在なげに 立ってシャワーを出している黒い犬がいたので、そっと仕事に戻った。

 明け方、仕事から戻ると、梯子の上には黒い犬はいなくて、お兄ちゃんが座っていて、半分眠りながら雨を降らせていた



●1匹目

梅雨月九日(金曜日)

 なにか変だと思っていたら、熱が出た。どんどん悪くなりそうな予感がしたので、体にむち打って洗濯をする。流しも磨いて、掃除もする。家の周りを掃いて いたら隣の横田さんにゴミ回収場所の清掃と廃品回収の当番を代わってくれと頼まれる。来週もっと具合が悪くなっていたら困るので、交代することにしてゴミ 収集場の掃除をする。黒い犬にも迷惑を掛けるので、いつもよりもずっと遠くまで散歩する。食べるものもなくなるといけないし、料理も出来なくなるかも知れ ないので、買い出しに行き、いろいろ作って冷凍した。午前中、そこまで働くとプチンと音がして体が動かなくなった。いよいよだと思った。解熱剤を飲んで布 団に潜り込んだ。

 例の夢をみた。雪山を蟻が一列に並んで歩くやつだ。すごく気持ちが悪い。遠く野山からくねくねと曲がりながらやってくるのだ。蟻は一匹として同じではな い。顔や腹ではなく、足が違う。足の長さが違うのだ。途中で夢だと気づいた。覚めるためには、早く蟻に消えてもらうしかないと夢の中で考えている。寒さに 震えながら蟻のやってくるあたりに穴を掘る。シャベルで掘るうちに熱くなり、上着を脱ぐとまた寒くなる。着たり脱いだりしているうちに蟻はどんどん近づい てくる。万匹もの蟻が触覚を振り振りやってくる。

 必死に作った穴に先頭の蟻が落ちた。落ちたと思ったら次の一匹が落ち、次々と続いて落ちる様は、まるで穴を目指してやってくるようにさえ見える。最後の 一匹が穴に消えると目が覚める。いつもはそうなのだ。だが、今日は違った。最後の一匹がしぶとかった。 その蟻は、後ろ足を穴の縁に引っかけてふんばって いる。髪の毛のように細い足だった。穴をのぞくと、その蟻が前の蟻の後ろ足を握っているではないか。雪に掘った穴は明るくて、ずっと奥まで見える。蟻は数 珠繋ぎになってぶら下がっている。まるで鎖のようだ。蟻の鎖はゆらりゆらりと揺れて、先頭は見えない。こんなことは初めてだ。罪深い気になる。縁につか まっている蟻の足を持って引っ張ると、ずるずると蟻の鎖が穴から出てくる。ものすごく気持ち悪い。目覚めたとき、二度と眠るのはよそうと思った。が、また 寝てしまった。今度は夢を見なかった。うれしいのでまた眠った。ほんとうの夜になって、もう眠れなくなった。仕方がないので本を読もうとしたら、字が蟻に 見えて困った。

                   

梅雨月十日(土曜日)

 夕方になってもよくならないので、とうとう医者にかかった。かかりつけの医者は和田先生といって、小学校がお父さんと同窓だった人なのだが、どうも行き にくい。和田医院が小児科だからということもあるが、ついついわがままになりすぎるということもあって気も引けている。どうしましたかと訊かれれば、風邪 ですとか、インフルエンザですとか、勝手に病名を付ける。薬も指定して、何日分必要だということもこちらで言い渡す。和田先生はにこにこしながら、はいは いと返事をして、その通りにしてくれる。しかし、どうしても和田先生が譲らないこともあるのだ。胸を診るという医者としては当然の診察がいやなのだ。肺が 痛いからちょっと診てくれと言うと、いやいや今日は曇っているので無理だとか、待合室が混んできたので次回にとか言う。なんだか、心細くなる。今日は待合 室には誰も居らず、よく晴れた日だったので、胸を診てもらおうと強く思った。ところが、どうも和田先生の顔色が優れない。

 彼は定年はまだなの、と訊く。彼というのはお父さんのことだ。なによ、同じ年でしょと言うと、医者は定年がなくてよく分からないのだと言う。気力と体力 の限界を自覚した時が、辞め時なのだそうだ。特に病気になったら駄目だと寂しそうに言う。癌になって風邪の患者を診るのばからしくなるもんと言ったので、 癌なのと訊いたら、驚いたような顔をして私を見つめたまま、固まってしまった。じゃあやっぱり胸を診てもらわなくちゃとブラウスを脱ぎ捨てると、今日は聴 診器が壊れているからと言いながら立ち上がって、和田先生は診療室を出ていってしまった。



梅雨月十一日(日曜日)

 梅雨月になって今日初めて雨が降る。お父さんが雨の中で朝顔を植えている。私は布団の中からそれを見ている。手伝おうかというと、いいから見てなと応え た。

 木箱に種を蒔いて、双葉が出て、本葉が一枚二枚と出てとうとう五枚になったのだ。それを地面に直植えにしている。お父さんはをレインコートを着ている。 頭には手ぬぐいをかぶっていたが、足下は庭のサンダルでズボンの裾まで泥で汚れていた。私たちには、雨樋からネットを垂らして蔓を這わせようという壮大な 計画があった。真夏の朝に目覚めてはすぐに咲き誇る朝顔を数え、昼は葉陰に蚊取り線香でも焚き、夕べに蕾を数えながら翌朝には開く花の色をあれこれと予想 する。そんな、夏を過ごしたいと二年越しの計画であった。種から五十個以上のしっかりした苗が出来ていた。寝ていなさいと言われたけれど、我慢できず起き て、お父さんの姿と植えられた苗の写真を撮る。だんだん元気が出てきたのでパートは休まずに行った。



●2匹目

梅雨月十二日(月曜日)

 和田先生から電話があった。先日は失礼しました、少し加減が悪かったものでと言った後、もしよろしかったらお昼ご飯をご一緒しませんかと誘われた。訊い ていただきたいこともあるし、と言ったわりに連れて行かれたのは蟹料理の店だった。簡単なランチでも食べるのかと思っていたら、小部屋に通されてりっぱな お膳が出た。

 しかし、どんなにりっぱでも蟹は蟹である。食べ始めると解体作業になり、細かく裂けた身や汁が飛ぶ。それを逃すまいとすすり込む。手は無論、顔中、甘い ような、しょっぱいような、生臭いような汁で濡れる。見れば、和田先生も扁桃腺をのぞき込むように、蟹の足をのぞいている。これでは話もなにもあったもの ではない。四十分ほどそうして食事をした後、私たちは店を出た。コーヒーを飲むことにしたが、喫茶店はどこも満員でビアホールへ行くことになった。よほど 話しにくいことがあるのか、和田先生のピッチは早い。仕方がないので、つき合って飲むうちにすっかり出来上がってしまった。和田先生も目が怪しい。もみあ げから繋がって生えたりっぱな髭も、各自好きな方向へそよいでいて気持ちよさそうになっている。しかし、訊いてもらいたいという話は、まだ始まらない。

 ビールにもそろそろ飽きてワインをたのもうとする頃、やっと和田先生は本題へ入った。実話、この頃家庭がうまくいかない。そう言って和田先生は爪を噛ん だ。フムフム、原因はと問えば、自分が恋をしているからで妻がそれに気づいているからだと言う。色恋沙汰なのである。うまいつまみをあてがわれたように酒 が進む。相手は看護婦か、薬剤師か、はたまた乳児を診察に連れてきた若き人妻か。頭の中で次々と、和田先生に、先生の周辺で見かけたことのある女をあて がってみる。咳払いで私の注意を自分に取り戻すことに成功した和田先生は、とつも切なそうな声で、相手は金魚のA子なんですが、このところ風邪気味なうえ に少々ノイローゼで弱っているのだという。それには訳があって、ふたりの関係に気づいた妻が嫌がらせの電話を日に何十回もするものだから、食事も喉を通ら なくなってしまったのだそうだ。さらに悪いことには、A子は妊娠していて流産の危険もあるという。和田先生のお子さんなんですかと尋ねると、うなだれて首 を振りながら、残念ですが僕の子ではありませんと応えた。しかし、と顔を上げた和田先生は激しく興奮していて顔は苺のように赤くて、ぽつぽつと毛穴が開い ていた。もう一度しかしと言って、上体を延ばして胸を張り、A子の子ならば僕は喜んで面倒を見るつもりです。認知をしてもかまわない、と言った。それじゃ あ、奥さんの気持ちも収まらないのじゃないんですかと尋ねると、妻だって、妻だって、つい最近とんびの子を産んだばかりで、僕はその子も認知しましたと応 えた。話は複雑になってきた。で、私にどうして欲しいのですかと尋ねると、少しの間A子を預かった貰いたいというのだった。

 私はその日、金魚鉢を抱いて帰宅した。金魚鉢の中には赤い出目金のA子がいた。A子の腹には包帯で作られた腹帯が捲かれていて、そこには油性ペンで犬と いう字が書いてあった。



梅雨月十三日(火曜日)

 おはようと声をかけると、A子は食堂のテーブルの上に置かれた金魚鉢の中で振り向いて笑った。魚なんだから池に入れればいいじゃんとお兄ちゃんが言っ た。鯉に食われるでしょうと黒い犬たちがわめいた。面倒なことはいやだなあ、とお父さんがいい、震えるようにひれを動かすA子を見て黒い犬たちは金魚鉢を 持って食堂を出ていってしまった。

「私はお兄ちゃんが嫌いだ、デリカシーというものがないもの」「お父さんは、言いたくないけど正義感がないのよねえ」「母さんだって蟹でつられただけだと 思う」

 黒い犬たちの話し声は筒抜けだった。黒い犬たちは金魚鉢を縁側に置いて、金魚鉢に額を寄せるようにして話し込んでいる。さらに、ノートを持ち出し、A子 から聞き取りもしている。声をかけようにも、いやな目つきで私を睨むので無視するしかない。

 父さんが会社に行き、お兄ちゃんがアルバイトに鍼灸医院に行くと、私は家事を手早く済ませて少し長めの昼寝にはいる。サンドイッチ工場は立ち仕事で、深 夜働くというのは昼間寝るということだから、堂々と昼間布団にはいる。しばらく寝たら、黒い犬たちが起こす。買い物をしてこいとメモを渡された。定規を当 てて書いたような角張った字で、眼帯と書いてある。近所の薬屋さんで眼帯を買ってやると、黒い犬たちは「ありがとう」と久しぶりに礼儀正しく言った。パー トに行く前に金魚鉢を覗くと、眼帯が吊されていて、そのうえでA子が横になっていた。



 ●3匹目

梅雨月十四日(水曜日) 

 廃品回収の日だった。玄関先にどんどん新聞紙の束が置かれて気づいた。風邪を引いて隣の横田さんと当番を交換したのだった、何日か前に。風邪は治ったよ うな、治らないような妙な具合なので、廃品回収もおちゃのこだ。廃品回収といっても昔のように、本とか雑誌などは持っていってくれなくなっていて、瓶や缶 と新聞紙と布のぼろだけになっている。瓶缶は分別ゴミで出してしまうし、ぼろも出し方や内容が細かく指示されるので、嫌って誰も出さないので、新聞紙だけ が新聞屋さんのくれる袋に入れられて並ぶ。もう少し考えて置いてくれればいいのに、お気軽に置くものだから、玄関先は大変なことになっていた。父さんは新 聞の束を跨いで出かけていった。跨いだついでに、ちんまりと積まれていた山も蹴飛ばしたので、乱れ方はひとしおになった。片づけていると雨が降ってきた。 新聞紙は濡れていると回収してくれないし、第一、雨の日は回収がない。ひと月先の次の回収日まで廃品回収は延期になる。だから、雨が降ると各々が引き取り に来るのが決まりになっている。しかし、決まりにはなっているが誰も取りに来ない。このままでは、濡れた新聞紙を次の回収日まで預からねばならなくなる。 雨は強くなる。

「大雨になるってよ」とお兄ちゃんが怒鳴る。風も出てきて、新聞紙を入れてあった袋がひしゃげ始め、中からはみ出した新聞紙が風にはためく。はためきに合 わせて鳥の羽ばたきを思わせる音がしはじめた。風が鳴る。新聞紙の羽ばたきも大きくなる。ふたつの音が共鳴して大変なことになっている。一際大きな風が来 て、雨で濡れたアスファルトの道に新聞紙を押し出した。黒々とした道の上を灰色の固まりが転がる。じきに、道に降った雨水も吸って、灰色から黒色へと変 わった新聞紙は、瀕死の白鳥を思わせる姿で、道の角にうずくまった。袋からは次々と新聞紙が飛び立つ。道はわずかの時間で、黒鳥だらけとなり、風はますま す強まって、袋から囚われの鳥を解放しようと唸りを上げていた。大きなビニール袋を持ってくる。黒鳥を拾って袋に入れていると、空に稲妻が走った。発光す る白い線にも、黄色い花火にも見える稲妻は、遠くのビルの避雷針に口づけするように触れて落ちた。大きな音がした。

「そのまんま、捨てちゃいけません。日によく当ててやりゃ、生き返りますから。首のところを洗濯ばさみで止めて、裏表まんべんなく」町内会長の水谷さんが 不意に現れて、掌をひらひらさせて、そう言いながら歩いていってしまった。

 夕方に雨が上がった。物干しに黒鳥を干そうとして、考えてしまった。首を洗濯ばさみで止めろといわれても、どっちが頭なのか足なのかが分からない。まし てや、首など分かりようもない。黒い犬たちがやってきて、見分け方を教えてくれた。ここぞと思うところを持って二、三回振り、バサバサと羽ばたくのは足を 持たれたときで、首を掴んで振っても黒鳥はおとなしくしているという。試しにして見せてくれた。そして、頼みもしないのに協力して黒鳥を干してくれた。黒 鳥は百六羽いて、物干しは大変なことになった。干すところを作るのも大変だったが、洗濯ばさみを買い足さなければならなかった。少しもいやな顔をせず、黒 い犬たちが手伝ってくれたのが、不思議だった。

  パートに出かける前に金魚のA子の様子を見ると、体調がすぐれないようで、ため息のような泡を吐いてばかりいる。和田先生からはなんの連絡もなかった。黒 い犬たちは連絡をよこさない和田先生のことをあしざまに言い合っていたが、眼帯の上で寝返りを打ったA子の背中を見て、黙ってしまった。



梅雨月十五日(木)

 朝からよく晴れていた。洗濯をしたかったが、物干し場が一杯なのであきらめる。袖をつかまれてキッチンの端っこまで連れて行かれ、和田先生からなにか連 絡があるか、と黒い犬に訊かれる。ないと応えると、黒い犬はむっとした顔をして、お母さんの方から連絡してくれと言う。だいたい、と黒い犬は声をあらげ た。「どういうことなの。もう産まれるというのに、誰も、心配したり、励ましたりしないのは、どうしてなの。お母さんもよ、同じ女じゃないのよ」黒い犬の 理屈は通っていた。和田先生の医院へ電話をするが、今日は休診だと告げるテープの声がいやに大きく響くばかりだった。自宅へかけてよと黒い犬たちは言う が、なんだか和田先生の奥さんに遠慮してしまう。黒い犬たちに自宅の電話は知らないと嘘をついた。

 パートが休みなので夕方から図書館へ行く。一緒に行くというので犬たちも連れて行く。行ってもどうせ中になんか入れないのに、図書館が好きなのだ。図書 館の前の手すりに寄りかかっている黒い犬たちを見たガードマンの人に「ここは図書館の敷地なので犬は出て行って」と言われる。がっかりして尻尾も下がった ままの黒い犬たちをつれて帰ってくると、物干しの辺りがざわついている。どこからか、猫が集まってきて物干しを見上げている。一瞬にして垂れた尻尾が立ち 上がり、背中の毛を膨らませて黒い犬たちが吠え始めた。猫たちは風のように消えたが、風もないのに物干しの黒鳥がしばらくの間揺れていた。



 ●4匹目

梅雨月十六日(金)

 梅雨月なのに朝からよく晴れている。洗濯をしたかったが物干場は黒い鳥でいっぱいなのであきらめる。庭の雑草を抜いていると、黒い犬たちが手伝ってくれ る。もっと手伝って欲しいのでお世辞なんか使っていると、じきに様子が怪しいことに気付く。二匹は庭の真ん中に植えられているワイルドベリーの辺りの草ば かり抜いてように見える。それもこちらに背を向けて、手元が見えないように気を配っているらしい。ちらちらと肩越しに振り向いては、私を見たりする。こそ こそしている。しばらくすると、今度は苺のポットの方へ移動した。そこでも手元を隠すようにしている。気のせいか口の周りが膨らんで見える。なにか食べて いるのと訊くと、思いっきり横に頭を振るので、食っていたのがわかった。見ればワイルドベリーの小指の頭ほどの真っ赤な実もなくなっている。今朝は三十個 も実をつけていたのに。苺のポットの苺も減っている気がする。お父さんの老眼予防のブルーベリーの実にいたっては、ひとつも残っていない。プチトマトは緑 の実しかなくなっていて、フリルレタスもずいぶんと小さくなっている。ちょっと、と言うと、二匹は気配を察して後ずさりを始める。犬のくせにと言うと、ハ ラスメントだと怒った。自分たちも食べてどこが悪いのだと機関銃のようにしゃべる。口からベリーの種と、赤い汁が飛ぶ。

「差別はされた者からしか告発されないのです」そう言って、目からも水を流した。とりあえず謝った。





梅雨月十七日(土)

 黒い鳥は、まだ生乾きである。すっかり乾いたらどうなるのだろうかと、いろいろ心を巡らせるが予想もつかないので、夜干ししたままパートに出かける。

 パート先のサンドイッチ工場に新入りが三人入った。三人とも日本に来ている東南アジアの留学生で男子だった。日本語は少しはわかるらしかったが、三人は 母国語で話すことが多くて、なんだかなじめなかった。さらに、三人はすごくおしゃべりで、マスクはかけているけれど声は大きくて、なにがなんだかわからな いけれど笑ったり、怒鳴ったりしているのだった。

 本当は主任でもなんでもないが、二十年も勤めていて、工場のパートの大先輩の野口さんは、みんなから主任さんと呼ばれて一目置かれていた。その主任さん が、三人のおしゃべりを見かねて注意しても、三人は一瞬肩をすぼめるだけで、三十秒もしないうちに、また笑ったりこづいたりしている。私たち二十人ほどの パートは少しずついらいらがたまっていて、明け方の四時前にはいつもの二倍も三倍も疲れていた。空調の入って締めきりとなった工場の四角い空間も、脈打っ ているような、そんな感じがしていた。主任さんは留学生にも厳しい声をかけていたけれど、私たちにも容赦なかった。確かにその日はミスが多かった。まず、 茹で卵の茹で時間は一定のはずなのに、半熟に近い物や茹ですぎて黄身の縮んだ物などがあって、殻をむく作業や細かく刻む作業に手間取った。おまけに、野菜 サンド用のレタスが一箱も少ない上に、トマトは小さくて枚数を作るのにうすく切らねばならず、時間がかかった。トンカツ用の肉の筋切りが不十分だったり、 チキンカツのチキンの枚数を間違えたりするトラブルも起こった。そんな中、疲れもピークに達した午前四時頃、その事件は起こった。

 ここではカツは、天麩羅屋さんが使うより大きな大鍋を火にかけて揚げていたので、揚げ物をしている間は鍋の周りはもちろん、工場中が注意深くなるのが常 だった。主任は鍋に油を注ぎながら、新人を恫喝していた。三人は一瞬口を閉じた。そしてすぐにしゃべり始めた。あんたたちいいかげんにしなさいよ、と誰か が怒鳴った。主任は油を注ぎながら振り向いて口を開きかけた。舌打ちしたのかも知れない。耳にその音が残っている。そして、主任は油を少しこぼした。油は 床に小さな水たまりを作ったのだと思う。すっかりトンカツを揚げ終え、チキンカツも、メンチカツも、海老カツも揚げ終えて、主任は出来上がった海老カツを 入れた笊を持って、調理台へ向かおうとしていた。そして、新入りのおしゃべりを止めようと大きく口を開けたその時、床の油に足を滑らせて転んだ。例えばそ れが私であれば、手に持っていた海老カツを放り投げ、なんとか体を支えようとしただろう。海老カツ全部がそれで使い物にならなくなっても、そうしたと思 う。しかし、主任は、とっさに海老カツの入った笊を胸に抱きしめて守ろうとし、そのために後ろに身をひき、鍋を引っかけてしまった。幸いなことに、本当に もうそうとしかいいようがないが、油を浴びたのは三角巾をかぶった頭部だけだった。

 主任は救急車で大学病院へ運ばれ、手術を受けた。私たちは朝になってもサンドイッチを作っていた。海老カツを作り直し、海老カツサンドを作った。三人の 新入りはすぐに首になったが、こんな仕事はもう嫌だと、今まで働いていたパートの二人がやめた。



●5匹目

梅雨月十八日(日)

 家に戻ったのは午前十時を過ぎていた。日曜日はお父さんもお兄ちゃんも家にいて、こんな時間になっているのに二人ともパジャマのままでコーヒーを飲んで いる。サンドイッチはと訊く。それどころじゃないのよと説明するが、じゃあなにを食べたらいいのさと自分たちのお腹のことばかり言う。頭に来たのでさっさ と寝る。黒い犬たちがガンガン吠えるので目覚めると、午後の二時で、こんなことでは身が持たないと思ったが、犬も吠えているし、なにやらお父さんの声もし て騒がしい。家族は物干しにいた。お父さんは片手にデジカメを持っていて、犬たちは喉をあげて空へ向かって吠えていた。見れば、空には見慣れない鳥が大き な翼をゆっくり羽ばたかせて屋根の上を飛んでいる。一羽ではない。上空には何十もいて、みな螺旋をかくように旋回しながら、上へ上へと上っていく。白い鳥 だった。黒い鳥たちを下げておいて物干し竿には、わずかに二羽が洗濯ばさみの先にぶら下がっているだけで、残されたたくさんの洗濯ばさみは、白い鳥たちの 羽ばたきでできたつむじ風にカラカラと互いにぶつかって音をたてていた。

 そうか、すっかり乾いて生き返ったのだと再び空を見上げると、鳥たちは気持ちよさげに飛んでいて、白い体からわずかに灰色の足の甲がゆさゆさと揺れて見 えるのだった。いいんだよあれは、と言うと黒い犬たちはあきらめて立ったまま、空を見上げている。少しずつ白鳥は高く上っていって、親指の爪くらいの大き さになると、突然見えなくなってしまった。お父さんはその空へ向かってシャッターを押した。もう家に入ろうというと、黒い犬たちは目で、あれは何かと私に 問うている。視線の先には洗濯ばさみで止められた二羽の白い鳥らしいものが下がっていた。それは半分新聞紙に見えた。だが目を凝らすと、かすかに翼の辺り を動かしている。そっと触ってみるとわずかに湿り気があった。ほかの鳥たちの陰になつて日光が足りなくて、乾ききれなかったに違いない。このままにしてお こうと言って、家へ入ったが黒い犬だけはついてこなかった。

 パートの仲間から電話があり、主任のお見舞いに行こうと言う。主任は一人暮らしで寂しがっているに違いないと言われると、こっちまで寂しい気持になっ て、六時に病院の前で待ち合わせをする。しかし、少し時間がたつと、たとえ一人暮らしでも親戚縁者はいるわけで、昨日の今日にパート仲間というだけで寂し いに違いないと行くのもおこがましい気がしてくる。考えていると、二階の物干しを走り回る物音が天井に響き、犬が吠えだして止まらない。行ってみると、ど こから集まったのか隣の屋根に、カラスが並んでこちらを見ている。電線に止まっていた別のグループのカラスが、一列になって物干しへ向かって飛んで来る。 カラスは白い鳥でまだ半分新聞紙に見える洗濯ばさみの先の鳥をねらっていた。黒い犬たちはそれに向かって吠えていたのだった。たぶん何度か、カラスの襲撃 があって、その度に黒い犬たちは吠えたり走り回ったりしてたカラスを追っ払っていたに違いない。二羽の白鳥を取り込んで玄関の帽子かけにかけておく。やは りお見舞いに行こうと思う。 

 主任は個室の窓際のベッドで眠っていた。入院患者が着せられるらしいピンクの寝間着を着せられて、頭をネットで包まれ、額には熱を下げるシートが貼られ ていた。左腕には点滴の針が刺さっている。点滴の液は黄色で、点滴の袋に貼られたラベルにはノグチモモヨと大きく書いてあった。それで主任はモモヨという 名前なのだと知ったのだが、その愛らしい名は主任にとても似合わないようであり、しかし、こうしてピンクのお仕着せを着せられて目を閉じた姿には、似合う ようでもあり、不思議だった。そしてモモヨという名を知ってしまったことで、すごく主任を知ってしまったような気持になっていた。

 主任は目覚めて口を開いた。第一声は、今日は仕事じゃないのという問いだった。私も同行した仲間も、我先に今日は休みの日だと告げる。主任は顔をゆがめ るようにして、少し笑う。髪はだめらしいよ、毛根が熱でやられたから。でも、他は何ともないと言うのよ医者は、と主任はさっぱりとした口調で説明した。 えっ、つるっぱげですかあ、と仲間が声を上げたが、すぐに、カツラいいのあるからと、別の仲間が言うと、主任はあんた一緒に買いに行ってくれると私に訊い た。そしていつになるかなあと天井を見上げてつぶやいた。主任は熱が高いらしく、ベッドの周りの空気には薬の臭いと共に、かすかな熱の臭いがあった。私た ちは社長の悪口を言い合い、社長の妻で工場長の職務にありながら化粧の臭いと少しも親しみを示さない高飛車な態度の女の物まねをしたりして、一時間ほど過 ごした。私が一番似ていると言われてもうれしくなかった。帰り際に、主任さん誰か身内の人来るのと訊くと、主任は唇の端に力を入れて首を引いたが、それは いるともいないともとれる仕草で、私は家の電話番号を書いたメモをベッドの横の小さなキャビネットの引き出しに入れた。その時、引き出しの中には何も入っ ておらずティッシュ一箱もなく、小銭一円も持たずに救急車で運ばれたまま、ここでひとりで横になったいたのだと知った。私は、財布と別に持っている小銭入 れに、千円札を畳んで入れた。そしたらみんなも畳んだのや、紙じゃないのを入れたので、閉まらないくらいになったが、閉まらないままに引き出しの端におい て、引き出しを閉めた。明日来るからと言うと、目を閉じたまま、今度ははっきりと頷くのが見えた。


もどる