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訪問> いつまでも手許においておきたい雑誌「銀花」 
編集長 山本千恵子さん  

(こどもの世界展ポスター)
2002年2月26日〜4月7日「江戸東京博物館」

(2002年2月25日発売の「銀花」129号 表紙:裏表紙)

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明治生まれのわたしのおばあちゃんは生きていた頃「戦争のせいで、いいものはなんでもかんでも手放さなくっちゃいけなかったんだよ」と言っていた。それでも、おばあちゃんは残ったものを大切にしていたし、おかあさんの着物をわたしの蒲団になおしてくれたり、風呂敷でそろばん入れを作ってくれたり、どんなものでも工夫しながら使っていた、、というのに、わたしときたらどうだろう。お正月に用意するしめ縄やおせち料理なんかもそうだ。おばあちゃんもおかあさんも毎年手を抜かず作っていたし、1月2日の朝にすったとろろいもを門柱にかけるというような、ちょっとわけのわかんない風習も、こどものわたしにとってはなんだかわくわくするような事だったのに、今ではすっかり忘れている。戦後50数年しかたっていないというのに、日本に生きるわたしたちはもうすでに、有形無形にかかわらず、失ったもの、残っているものの区別もつかなくなるほど、雑多な情報に囲まれているなあと思う。

「銀花」という雑誌を開くたびに、日本ってなんて美しいんだろうってちょっと誇らしくなってくる。春夏秋冬の年4回発行の季刊誌である「銀花」は今月で129号(2月25日発売)、つまり30年以上の歴史を持つ雑誌なのだ。編集長である山本千恵子さんを含めスタッフはたったの4人、毎号とりあげる題材の質のよさとボリュームを考えると、まったく信じられない。
文化出版局につとめたはじめたころ、山本さんは月刊誌の担当だった。そのころは、いつもいつも時間に追われる忙しさで、だからこそ、今の、年4回というスタンスが、作り手にとって非常に健康的に感じられると言う。山本さんのお話を聞きながら「銀花」のページをめくっていると、もしかすると、それは読み手にとってもそうなんじゃないだろうかということに気付いた。
「『銀花』って、折にふれて、読みたくなる数少ない雑誌のひとつなんですよね」と言うと、山本さんがおだやかにおっしゃった(おだやかっていう言葉は山本さんのためにあるような言葉、いつでも、にこやか、それでも、仕事場で怒ったりすることもあるんだろうか)。
「今の情報って、もういきどまりって感じがします。テレビやインタ−ネットの普及で、刺激的なこと、目まぐるしく変わることが与えられ過ぎていて、逆に新しい情報の中でドキドキすることが少なくなってる、、ちょっと振り返って自分の母の時代のことのほうが、全く知らなくて新鮮だったり、輝いていたりするんですよね」
山本さんがいくつかの月刊誌を経て、季刊の「銀花」に移る時、先輩に「いったいどんな雑誌なの?」と聞いたところ「人間の雑誌よ」という答えが返ってきたと言う。日本が戦争によって忘れてきた部分、捨ててきた部分を足元を照らしながらていねいに掬いあげる。「銀花」がとりあげるものは日本やアジアの文化の中で、手わたしで伝えられてきたいろいろな職人の仕事が多い。陶芸や書や画、織物や染め物、国宝級の有名なものというより、細かく分け入った何気ない生活の場所で揺るぎなくはぐくまれてきたもの、という感じ。わたしが興味をもって調べている絹や蚕にしてもそうだ。小さな村や名も知らぬ部族で生活の一部として営まれてきた養蚕や染、織りの仕事。調べられた内容の多さや細かさはもちろんのこと、とにかく写真が綺麗なのだ、これはこの記事に限ったことではないけれど。タサ−ル蚕の独特の金色の風合いから山繭の神々しいほどの緑色は、実物よりも確かな感触で伝わってくるような気がする。
「『手』という言葉が『銀花』にとってはキーワードなんです。手からいろいろなものが生まれ、手から手へと伝わっていく。『手』の持つ力を大切にしていきたいんです。読者からの手紙がページに反映されることも多く、そういう情報から取材に行ったりもします。本自体も派手な新聞広告をしたりするわけじゃなく、人から人に伝わっていってほしいと思っています」


ところで、2月26日から4月7日まで両国にある「江戸東京博物館」で「こどもの世界展」が開かれる。これは江戸博と銀花編集部が協同して主催するのだが、2月25日発売の「銀花」129号がその図録の形になっている。一年半前から準備をはじめ、通常より50ページの増刷、ちょうど、お話を伺った時に校了が済んだところで、その一部を見せていただいた。<初節句のころ-雛祭りのお国ぶり><文様を着るこども-祝い着・普段着・よそいき着><お伽の国の冒険家-武井武雄>という三部構成。とりあげる世界がこどもの世界ということもあって、いつもの「銀花」にしては写真がカラフルである。お雛様や鯉のぼり、羽子板やかるた、おままごとなどのおもちゃから、様々な模様の産着や祝い着。なにか、なつかしいような色合いの中に、もうすでに遠く手の届かないところに離れてしまったような寂しさが湧く。
その中で目についた端切れを繋いでつくった「百徳きもの」。今で言うパッチワークのような着物なのだが、これはこどもの着物を作る際に、子だくさんの家や長命な年寄りがいる家を一軒一軒、歩いて回って、100枚の端切れを集めて作るもの、これを着せると丈夫に育つということで親は願いを込めてつくったのだ。
また、出雲に伝えられる「孫ごしらえ」という風習。これは、鶴と松、麻の葉やいかりなどの独特の模様のおむつや産着や子負い帯のこと、嫁の里から婚家に贈るならわしなのだが、藍の手染めになっていて、その模様にはそれぞれ、魔よけや縁起をかつぐ意味が隠されている。日本では昔から神の子と呼ばれるあかちゃん時代はもちろんのこと、幼児期に病気や厄害でいつ何時、あの世に引き戻されるかわからないという恐れを抱いていたのだ。今のように薬や病院がなかったころなら当然の不安であるが、大人になるまでの節目の時期に行われる儀式のなんと多かったことか。三日祝い、お七夜、初宮参り、お食い初め、誕生してから一年になる間にこんなにあるのだ。
また、人知が及ばぬ強い力があると信じられてきた赤を産着に使うなど、それぞれ色にも思いを重ねている。それにしても、日本には様々な色を表わす言葉がある。
保坂さんからNHKの人間講座でおもしろいのがやってるよと連絡があり、染色家の吉岡幸雄さんの「日本人の創った色」という番組を見た。今では化学染料があり、どんな色でも簡単につくれ、誰に気兼ねすることなく何色でも簡単に身にまとえるようになったけれど、歴史の中では、色の持つ意味合いは権力や富みの象徴であったりして、鮮やかな色を一般の人が着ることを禁じられていたことがあったそうだ。それは逆に言えば、鮮やかな色を出すためには大変な手間とお金がかかったということで、高貴であるものだけが色を獲得できたということにもなるというのだ。とりよせたテキストに記されていたのだが、鼠色だけで、70種以上。桜鼠、素鼠、銀鼠、利休鼠、鳩羽鼠、小豆鼠、薄雲鼠、源氏鼠などなど、そのネーミングの美しさもさることながら、それらの鼠色の違いを識別していた感性はもうすでにわたしたち日本人が失ってしまったものではないだろうか。
わたしは前回のメルマガの「銀花」の特集記事の予告のところで、山本さんの文章について、「銀花」の記事を読んでいて、記名されてなくてもすぐに「あ、彼女の文章だ」とわかるほど素敵な文章を書くと書いたけれど、今回もあたり!記事を読んでてすぐにわかった。そんな山本さんに文章についてお聞きした。
「若い頃は書くことが苦痛だったけれど、いいものを書こうって気がなくなってから自然にかけるようになってきたかしら。それでも、気にかけているのは手垢にまみれたものは避けたいということ、素直な感動の中で自分なりの言葉を見つけだしたいなあって思いますし、わかりやすいのも大切だけれど、対象に合った的確な表現ができたらいいなと思っています」


なんでもかんでも美しいとか素敵とかすごいって言葉で片付けないで、的確な表現を探していったら、山本さんみたいな語彙の豊富な文章が書けるのかな、、と思うけれど、的確な言葉が使えないと文章が長くなるというようなこともおっしゃったような気がして、それなりに気を使ってたのに、書き終えてみると、ああ、いつもより長くなってしまいました。                                   by/けいと

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