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特集「松永耳庵(まつながじあん)展に行く」

                         by/けいと


 

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2/19から3/24まで上野の東京国立博物館で催されている「松永耳庵コレクション展」に、掲示保板によくきてくれる黒い犬さん、めざさんと一緒に行ってきました。黒い犬さんは「電脳出版リヴァ−ムーンJ社」というホームページを開設されていて、その中で御自身の小説の世界を発表しています。お会いすると「黒さんって、妄想癖あるよね、ね」となんどもしつこく聞いてしまうわたしですが、黒い犬さんは小説だけでなく、黒い瞳の奥になんともいえない深い慈愛の泉をかかえていて魅力的なのです。ホームページでは毎日「黒い犬のつぶやき」という日記が更新されていますが、2/20のおとうさんについてのところ、よかったなあ。めざさんは医療関係のライターさんです。掲示保板を覗いている方はわかると思いますが、めざさんはとにかく、話題への食い付きがしっかりしてて、知ってることと調べたとこと感じたことをうまくミックスさせて即座に書き込んでくれるのです。実際、会ってみると、中学時代の友達みたいに安心な人で、最高に色気がなくて(褒め言葉です)さわやかで話しやすい。あ、ここで、はたと気付きましたが、ハンドルネームだけでは性別ってわかりにくいですが、おふたりとも女性です。

松永耳庵展のことは、通っている江戸千家のお茶の御稽古の時に聞いていたのですが、黒い犬さんのホームページの掲示板でめざさんが「行こう、行こう」とさそっているのをみつけ、あ、わたしも御一緒したいなあ、と何気なく思ったのがきっかけでした。その時にふと、今回のメルマガの特集記事は耳庵展のことにしようかな、行ったメンバーで見たあとお茶でも飲みながらおしゃべりするみたいな感覚でリレートークでもできればおもしろいかも、、そうだ、いつも掲示板でやりとりするみたいにできるかしら、などと考えたのをがぶんさんに話し、三人だけが見られる小さな掲示板を作ってもらい、3/8に見に行ってから10日間、三人で書き綴ったことを「リレー書き込み記録板」として、ここに載せることにしました。

茶人松永耳庵については、実業家である本名松永安左エ門についても含め、何冊か本が出版されていて、また、雑誌などでも、時折、特集が組まれるので、知っている人は知っていると思います。亡くなられてから30年経ちますが、御自身の著書も店頭に並んでいます。
耳庵は1875年、長崎壱岐に生まれ、1971年、97才で亡くなりました。戦前戦後を通じ、電力界で活躍した実業家です。特に戦後、国家再建をかけ、民間電気事業をスタートさせ電気料金を60パーセントもアップさせた時には、政府はもちろん世論の反発、非難は相当なもので、「電力の鬼」と言われたということは有名です。吉田茂に「素人はひっこんでろ」と言ったり、国会で反対派に対し「牛乳が飲みたければ、牛に餌をやらないといけません、ひとつよろしく」とふざけた答弁したりした個性の強さを感じさせるエピソードは数限りなくありますが、電気代値上げにしても、結果的には日本の高度成長に一役買うこととなり、戦後の経済に果たした功績は言葉を尽くしても尽くしきれないと断言する学者もいます。
「六十にして耳従う」の論語の言葉から号をとった茶人としての耳庵は、文字どおり60才を過ぎてから茶の道に入りました。陶芸家北大路魯山人からさまざまなことを教わり、料亭「星岡茶寮」にも足繁く通いながら影響を受け続けた耳庵は、彼にすすめられた織部の鉢を皮切りに莫大な資金をかけて、茶道具をはじめたくさんの美術品を手に入れます。近代茶人として名を成した鈍翁(益田孝)、三渓(原富太郎)とともに、近代の数寄者として伝わる話も「ほんとに?」とちょっと信じがたいスケールの大きいものばかり。

と、ここで彼について書き続けるのは意味がないのでやめることにします。そういったことは、三人の書き込みの中でごたごたと整理されない状態ですが、たくさんでてきますので。
なんだかわからないけれど、三人とも耳庵にひかれていることは事実です。どこからどう書いていこうかと戸惑うほど、見事で膨大な耳庵のコレクションとエピソード。
耳庵展に行った次の日から気分のおもむくまま、自分勝手に書いてますので、読んでみてなにがなんだかさっぱりわからなかったという人で、でも、興味があるっていう人は、まだ耳庵展やってますので、桜でも見がてら上野に足を運んでみて下さい。


リレー書き込み記録板
(けいと・黒い犬・めざ)

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はーい[No.1]
投稿者:けいと 2002/03/09 (土) 09:40

きのうの耳庵展、ほんとにちょっとすごかったですよね。となりでいっしょにやってた横山大観を見るために並んでいた300人ほどの中老年の男女の列もそうだったし、手前の公園で「悔い改めよ」の垂れ幕のまえで、整然として体育座りしながら配られる食糧を待っている100人以上のホームレスの姿も不思議な違和感でショックだったけど、耳庵のコレクション、自分と同じ時代にちょっとかぶってる一財界人が集めたなんてやっぱり、変だよね、どう考えても。わたしが松永耳庵を知ったのは茶人としてだけど、彼が「電力の鬼」として有名なんてことはけっこう有名な話なんだね。きのう、上野から帰って一眠りして、夜中に会社から戻ってきた夫をつかまえて、耳庵展の興奮を伝えながら明け方までおしゃべりしてたんだけど、夫はひとしきりわたしの話を聞いた後、「なんだ、耳庵って松永安左エ門のことだったの?」とやっぱり、知っていたんだもの。それにしても、わたしは、耳庵の変な愛らしさが気にかかります。晩年の写真で見る彼は、入れ歯もしてないようなくしゃっとした顔で、やせこけてるけど180センチもあって、仙人のように強くてしなやかな身体をしてて、ちょっと孤独なんです、全体が。それに、俵屋宗達や淋派の 乾山、国宝に指定の平安時代に描かれたお釈迦様の出現図なんかの荘厳な絵に混じって、鎌倉時代の病草 紙絵巻に出てくる肥満の女のようなちょっと愛らしいユーモラスな掛け軸があったり、これって益田鈍翁の死を忍ぶ茶席で選んでいるんですよね。この「肥満の女」の詞書きなんだけど、「京都の七条あたりに 借上(高利貸)の女がいた。家が裕福で美食大食を重ね、歩くのも困難なほどに太ってしまった。付添の女に助けられても、汗を流して歩くほどでその苦しみはつきない」とある。これを見てたわたしたちも含めておばさま達はみんな笑ってて「肥満っていったってこれくらいじゃたいしたことないわよねー」とか 言ってたけど、わたしはちょっと胸が疼く感じで、彼女の欲望の満たされない思いみたいなものが極端な 醜い姿となってあらわれてしまったことに、耳庵が自分をちょっと重ねていたんじゃないのかな、無意識 に、とか思ったり。でも、それとは別に、もしかしてこの女の人、食べ過ぎじゃなくて、甲状腺の病気かなんかで太ってしまってたのに、姿がこうだから、おもしろおかしく話があとになってつけられたんじゃにないのかな、ひどい!太ってると哀れなのね今も昔も、とも思いました。それにしても、めざさん、あの志野の水指しに描かれているウンスンカルタの模様とはいったいなんなんでしょうね、謎は解けた?

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不良老人を見に行くきっかけは [No.2]
 投稿者:めざ2002/03/10 (日) 00:22

まる一日たち、興奮は鎮まってきたけれど、まだ混乱しています。何から書きはじめたらいいか気持ちの整理がついていません。でも、今回は掲示板上でディスカッションをするように、少しずつほかの人の書き込みを読みながら書き足 していける。だから、ひとまず今日は、私が耳庵展を見に行くことを決めたあたりから書き始めてみようと 思います。

 松永耳庵のことも安左エ門のこともまったく知らなかった私が耳庵にはまってしまったきっかけは、黒い犬さんが自分のホームページの「つぶやき」と称する日記で「芸術新潮」の耳庵特集について書いていたこ と。電力の鬼として知られる松永の破天荒な茶人ぶりについて黒い犬さんは紹介しており、翌日私は本屋に 走り、その豪胆にして愉快きわまりない点前の写真を目にしたのでした。
 耳庵氏は齢七十ほど、茶室ではない普通の日本家屋で、なんとスーツ姿で胡座をかいてシャカシャカとお茶を点てている。茶碗は大ぶりの志野筒茶碗らしきもの、かたわらに棗(なつめ)。左側には無造作に畳まれ  た新聞紙の上に薬缶、鉄瓶ではなく薬缶、しかもアルマイト、若干の凹みありが置かれている。
 昔の女学校の先生ならば「ん、まあっ!!」と目を見開いて、一瞬の間をおいて「なんてはしたないっ」と 吐き捨てるように言うような、とてもお行儀の悪い写真。にもかかわらず、その写真に惹かれるのは非常に 真面目に点前をしていることが伝わってくるからです。茶碗はかなり良い品のようで、多分気に入っている 一品なのでしょう。そして薬缶。この珍妙な取り合わせをものともせず、そっくり自分の世界に取り込んで いるのが耳庵、その人でした。
こんな愉快な不良老人を捨てておくわけには行きません。さっそく黒い犬さんに「耳庵のコレクションを見に行こう」と持ちかけたのでした。
実はこれにはもう少し前置きがあって、掲示保板ではときどきお茶についての話題が登場し、延々とレスが続くことがあります。去年は紅茶についていろいろと教えていただきました。ごく最近は中国茶もありまし た。そんななかで、私と黒い犬さんは「作法はともかく美味いお茶を飲みたい」という点で意気投合していたのでした。耳庵という人は「作法はともかく」の点で私たちの目指すところとバッチリ一致しています。
  六十歳を過ぎてから茶の湯をはじめたというところにも惹かれるものがある。私たちと大きく違うのは、莫大な資金力があったということだけ(ホントは、ほかにも違いはいっぱいあるけど)。

  国宝級の道具類を揃え、茶室を持ち、茶会を開く。点前は習ったものの「面倒だから」とすっかり忘れて自分流に点ててしまう。ときどきで点前の順序が変わるので「無勝手流かい?」と問われて「日々変わるから、毎日流さ」とうそぶく。こんな人物が何を目指して茶を点てていたのでしょうか。今年は没後三十年、 もはや本人に聞くこともかなわず、私たちは耳庵が残したものを見て、その世界を想像するしかないのです。

さて、けいとさんが書いていた「ウンスンカルタ」。すごく気になって調べてみました。
カルタはポルトガル人が日本に伝えたカード遊びから始まっています。鉄砲伝来が1543年、三池住貞次達が日本で初めてカルタを作り始めたのが1573〜91年と言われています。百人一首がカルタになるのは1616年ごろのこと、ウンスンカルタは貞享年間 1684〜87 年に案出された1組75枚のものだそうです。このウンスンカルタの1スートのカードが15枚で、それは竜(ロハイ)・1(ピン)・2・3・4・5・6・7・8・9・女従者(ソータ)・騎士(ウマ)・王(キリ)・福神(ウン)・唐人(スン)、という組合せで、ここから「ウンともスンとも言わない」という言葉が生まれました。ということだそうです。 15枚×5で75枚になるけれど、こんな組合せでどうやって遊んでいたのかしら。
 耳庵の水指しのウンスンカルタの文様とは、どうやらつるし柿の上のひし形のことではないでしょうか。それにしてもつるし柿といいながら、柿を吊り下げている紐の長さがまちまちで、紐の先に柿が一つだけ下がっているのも、考えてみると妙ですね。16世紀桃山時代の作だから、だれかが適当に「これはウンスンカル タにつるし柿」と言ったのが伝えられているだけで、作者は全然違うことを考えていたのかもしれません。たとえば「運動会のパン食い競争」とかね(そんなわけないけど)。

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 私たちは亀のように歩んで [No.3]
投稿者:黒い犬 2002/03/10 (日) 21:55

「ウンスンカルタ」もそうだけれど、ぜんぜんわからない言葉が展示物の紹介のボードに書いてあって、そ の度に、私たちはおでこをくっつけてなになになにと相談するんだけれど、やっぱり三人ともわからないのよ。一度は、私たちのなになにあれなになになになにが聞こえたらしく、知らないちいちゃなおばあさん が、めざさんとけいとさんの真ん中からにゅっと現れて、教えてくれたこともあったけど、それでもよく理 解できなくて悲しかったよ。そういうように説明がわからないというのは悲しいことだけど、もっと苦しか ったのは、字が読めないことなんだ。掛け軸に書かれた文字はまったく読めなくて、ついでに、耳庵は原三 渓がくれた手紙を巻物に作らせて大事にしていたんだけれど、それも解説のある部分をのぞいて読めないんだ。読めないね、読めないねと私たちは言いながら、字の案配とか傾き加減とかから少しでもなにかを掴み 取ろうとするんだけども、説明ボードに書かれた作品の年代とか書いた人の名前なんかしかわからない。ちょっと辛いことだったよ。でも、絵の掛け軸の方は言葉はないから楽し。ユーモアのあるくすっと笑えるも のが結構あって、おちゃめだと感じたわ。きっと、お客様たちに説明をしながら得意になっていただろう耳 庵の姿が目に浮かんだ。わっはっはと笑うお客の声が聞こえそうだし。なにしろ、掛け軸はすごかった。私 たちは、掛け軸の前にだいぶいたと思う。これでもかこれでもかと、天から昆布を垂らしたように掛け軸は続いて、私たちはおでこをくっつけたり、ため息をついたり、くすくす笑ったりしながら亀のようにのろの ろと進んでいたのだわ。

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なぞの老人、耳庵 [No.3]
投稿者:めざ 2002/03/11 (月) 00:37

 黒い犬さんも書いていたように、大量の掛け軸には本当に降参するしかないのでした。掛け軸だけでなく手紙や巻物はとにかく文字が読めなくて、まるで異国にたたずむような私たち。楷書で書いてあれば正確な意 味はわからなくても一つ一つの文字はきちんと読めるから、なんとなく「全体として景色が素晴らしいことを言っているんだな」というような想像はつく(もしかしたら間違った想像をしてたのかもしれないけど、でも想像することはできる)だけ、まだまし。筆でさらさらと続け字で書かれたひにはまったくお手上げ。
千利休の筆になる「禁中御茶会記」というのもあって、読めないけれどはるか昔の人だから無理もないとや やあきらめもつくけれど、昭和のはじめのころの耳庵がもらった手紙とかもまったく読めないのは本当に悲しかった。だってそれは私の親が生まれたころ、つまり祖父母が現役ばりばりだったころの手紙で、それが 全然読めないなんて悲しすぎる。耳庵本人は当然読めたはずだから、そのことから考えると千利休のだって 読めたのでしょうねえ。文字だけの「御茶会記」なんて読めなきゃ意味ないもの。
 悲しみに満ちた掛け軸に対して「これはずいぶん長いけれど、よほど天井が高い床の間だったんだね」なんて素っ頓狂な発言をしていたのでした。それと掛け軸というのは大部分が縦長で、そういう構図で絵を描くということも不思議。西洋絵画の多くは、A4の紙を拡大したような縦横比のキャンバスに描かれているのに、なぜ掛け軸は異常なまでに縦長な絵を書いてしまうのでしょうか。描かれている人物、動物、風景は生き生きとしているのだけれど、その構図は極端に左右が省略されて縦長な切り取り方がされていたり、絵の上の方に空白が広がっていたりする。たまたま掛け軸という様式が定着していたから、それにあわせて絵を描いたのかしら。
 縦長に対して横長の代表「巻物」もありました。巻物の不思議は、一部分の切り取りがまかり通るということ。絵巻の一部が表装されて掛け軸になっていたりする。これらは絵の部分が横長の短い掛け軸で、小さな茶室の床の間に似合いそうな一品に仕上がっています。物語のクライマックスとか、とりわけ絵が美しい部 分が取り出されているのだけれど、当然の疑問として「残りはどうした??」となりますね。けいとさんと黒い犬さんと頭を寄せ合った結果、「残りも全部掛け軸にして、少し安く売ったんじゃないの」ということ に落ち着いたけれど、一つの絵巻物が何十もの掛け軸に変身して全国に散らばっていったことを思うと、複 雑な気持ちになってくる。本当のところはどうなんだろう。

それにしても耳庵は、昭和10年に埼玉県志木に柳瀬山荘を構え(そこに「耳庵」という茶室を設け、それが号の由来にもなっている)、茶道具をはじめとして骨董を集め始める。山荘といっても豪邸なんです。その 後、小田原に引っ越すにあたり、大部分のコレクションを国立博物館に寄付してしまう。簡素な住まいに移り、本来の茶の湯の世界をみずからの生活のなかに実践しようとした・・・と解説にはあるけれど、伝えるところに寄れば「引っ越して金持ちになったよ」「あらかた寄付したんだろ?」「あっはっは。寄付してしまえば骨董品をしまう場所もいらなければ、ほこりを払ったり整理をするための使用人もいらないだろ。今は女中一人で足りる。わしはこれでずいぶん金持ちになったのさ」というようなことを言う、食えないジジイだったらしいです。で、小田原に引っ越してからも、買うこと買うこと。[金持ちになった」分だけ買っ たんじゃないかな。いったいどういうジジイなんだろう、耳庵という人は。

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そんなに自由でいいのか!うらやましすぎる! [No.4]
 投稿者:黒い犬 2002/03/11 (月) 11:46

めざさんも掛け軸のサイズに戸惑っていたけれど、私は戸惑いなんてものじゃなくて、どっひゃーだったよ。だって、ひとつとして同じ大きさのないように見えたんだ、掛け軸のサイズ。縦長あり、横太あり、極細長も。ずっと長い間、掛け軸サイズというものがあると信じていて、ほんとにどうしてそう思ったのか今じゃあ不思議なんだけれど、それは書き初めの初日の出とか書く紙のちょうど入る大きさだと思っていたんだ。うちには虫の食った掛け軸が一本(掛け軸は一幅というんだけど、うちのは一本というにふさわしいやつだった)あって、それが多分そうだったのだろうし、へたな書き初めを床の間らしきものにしばらくの間飾ってくれたのを眺めていたせいかもしれない。
それが自由な大きさに切り取った物や書いた物を、自由な大きさに枠をつけたということだと知って、なんだよおという気持。掛け軸は一尺一寸五歩が表装料金の基本だそうだけれど、ぜんぜん関係ないのね、お宝たちは。いいのか、そんなことしても。それが風流なのか、ずるいぞ風流。とか思ってしまった。でもそれは、前にめざさんが書いているとおり、アルマイトの薬缶を隣に置いてあぐらをかきながらシャカシャカした耳庵の自由さと通じるものがあって、なんだかうらやましい。
侘びとか寂とかいう言葉は嫌いだなあ、なんだか偉そうで。でも、言葉尻は別として心引かれているのも事実。楽しく明るく軽々と風流をするというのにあこがれる。耳庵のコレクションを見たあとは、漬け物鉢でカシャカシャしてみたくなったから不思議。あんなに高価でたぶん値段も付かないようなお宝をどどんと見たあとで思うのも変だけれど、カシャカシャはお手軽で、抹茶はお手頃。あとは、シャカシャカする竹で作ったぼんぼりみたいな形のものがあればいいだけだし。キッチンシャカシャカになってしまおう。たぶん耳庵は鼻水も垂らしたな、茶碗の中に。おいしくなれと魔法もかけていたかもだな。ところで、「芸術新潮」で耳庵を知ったわけだけれども、その特集の題名が「最後の大茶人 松永耳庵 荒ぶる 侘び」。この荒ぶる侘びというのは、どういうものなんだったのかしらね。なんだかスサノオノミコトを思い出すのよね、その荒々しさが。

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うーん、そうそう [No.5]
投稿者:けいと2002/03/11 (月) 21:54

「荒ぶる侘び」ってことば、わたしも、ちょっと気になった。
お金に糸目をつけずとんでもないような物の買い方をしてる耳庵、たとえば、大井戸茶碗「有楽」を14万6000円で競り落とす、と言っても、これは昭和12年のこと、今の貨幣価値で言えば、約7億と言うんだから、あきれるというより、ちょっと気分が悪くなっちゃうでしょ。それに同じ年に、お茶杓(茶道なんて知らない人にはちょっとおおきな耳掻きに見える)を、いくら蒲生氏郷作とは言え1万6千円で落札。つまり、数千万だよ、このことをがぶんさんに話したら「バカみてーだな、竹の棒でしょ、そんなのポキッと折っちゃえ!」って言ってたけどね。耳庵が茶道をはじめたが、昭和9年、60才の時。つまり、やりはじめてから3年ぽっちでそんなだいそれたことしちゃう んだから、そのころのうるさ型の先輩茶人にとっては、ほんとに、やーな奴だったに違いないのです。やーな奴と言えば、耳庵が51才の時、17才の芸妓貞子を水揚げして囲って、家庭教師をつけたり、乗馬やいろんな事をやらせて美術館や博物館、旅行にまで一緒に連れて行ってたんだって。13才で花柳界に入った貞子は一年で並みいる芸妓のトップに立ったというんだから、17才でひきぬかれちゃった花柳界にとっては相当の痛手、きっとやーな奴だとおもわれてたんだろうな。もちろんそのころ、耳庵には妻である一子がいたんだから、妻にとってはそれ以上にやーなことだったでしょう。それでも、めざさんや黒さんが書いていた、新聞紙の上にアルマイトのやかんを置いて、お茶をたてている耳庵の姿は印象的。なんだか、やっぱり、魅力が感じられて胸がきゅんとしちゃうんだなあ、これが、、ちょっとお茶をたてて飲みたくなってしまう。あ、そういえば、今朝、夫が読んでる本見て驚いた、題名が「喝、日本人」松永安左エ 門、耳庵の著書だった。それにしても、何に喝入れてるのかな。

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茶の湯男女逆転現象の謎 [No.6]
投稿者:めざ 2002/03/12 (火) 16:22

こーーん。 乾いた音が響く。「む、あの音は」
客の吉岡孫衛門は眉根をしかめ、記憶を探る。「吉岡にも違いがわかるか。実は先日、茂助が鹿おどしが傷んできたからと新しくしたのだよ。
以来、音の響きが変わってしまっての」
「さようでしたか」
 早春の日が傾きかけて、二畳の茶室の障子を明るく照らしている。床の間には椿が一輪。掛け軸は小さなものが一幅。亭主である毛利時実はしずかに茶筅を置き、代々伝わる織田有楽斎の茶碗を吉岡の方へ差し出した。
「頂戴つかまつる」
吉岡は押し頂くと、目を閉じてゆっくりと茶を飲み干した。
「もう一服いかがかな」
「存分に頂戴いたしました」
静かな時が茶室に流れる。
「吉岡、そなたがここへ参られてから五年になるのか。早いものよ」
「はっ、わたくしも名残り惜しゅうございます」
「みちのくはまだ雪深いときく。道中、気をつけられよ」
「お心遣いありがたく存じます」
「こちらも寂しくなるのう」
茶の湯のイメージというと、こういう情景が浮かんでくるのですが、これは時代小説の読みすぎでしょう か。さもなければ、大勢のご婦人方が訪問着をお召しになって集うさまを思い浮かべるのです。おおむねイメージされるのはこの二つ。一方は、男同士で静かに語り合うもの(たまに尼さんが入ることもあります)。もう一つは大勢のご婦人。男同士は昔のイメージが伴い、ご婦人は近年のイメージが伴う。
茶が日本に伝わったのは遣隋使だか遣唐使のころ、薬としてもたらされたと読んだことがあります。安土桃山の頃は武将のたしなみとして流行したらしい。各武将が茶の湯の宗匠を手元に置き、接待を行う際に 宗匠が茶を点てたようです。千利休はもとは織田信長に仕え、その後は豊臣秀吉に仕えていました。その 頃は当然、茶の湯は男の世界ですね。
現在、茶道を学ぶ多くの人は女性のようですが、いったいいつ頃から女性がのしてきたのか。柔道なども男性の武道だったものが、少しずつ女性にも浸透しはじめ、オリンピック競技にまでなっています。これなどは女性の進出といっていいでしょうが、茶の湯の場合は「進出」ではなく、あきらかに「逆転」。戦 国の世が終わるとともに武将の存在が薄れ、それとともに茶の湯の存在も変わってきたのでしょうか。ただ、今現在はどうなのかはわからないけれど、耳庵のころまでの骨董を愛で書画・茶道をたしなむ「数寄者」といえば男性ですね。一つにはお金がかかる遊びだからでしょうね。
この男女逆転現象は茶の湯の謎の一つだわ。武将のたしなみとしての茶であれば、「荒ぶる」のは当然といってもいいかもしれない。実業人として現役で、自分の命をかけてまで現在の電力会社の基盤を作り上げた松永安左エ門としては、実業の世界の武将だったのかも。
 けいとさんが書いてくれた芸妓貞子だけれど、花柳界一を引き抜いて、自分好みに育てて、そのうえ貞子 のお母さんが「商売を始めるから貞子を返してほしい」と申し出たときにはあっさりと承諾しているのよね。しかも手切れ金をたくさんつけて。金に困っていないとはいえ、この気前のよさはいったいどこから来るんだろう。当の貞子はなんと思ったのか。「お金はたくさんいただいたけど、わては松永はんにとってどうでもええ存在やったんやろか」と悩むことはなかったのか。このあたりの姿勢はコレクションをいきなり寄付しちゃうところと通じるものがあるのかもしれない。

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 荒ぶるの場なのか人なのか [No.6]
 投稿者:黒い犬2002/03/12 (火) 17:43

 茶室が談合の場だったり、サロンだったらしいというのはわかるわ。それと別に、なにか精神世界の象徴みたいなものもあったと思うの。それは茶会というふうな群れることと対局にある孤独のシャカシャカ。私たちが「芸術新潮」の写真で見た耳庵の姿、アルマイト薬缶のあぐらシャカシャカね。あの写真はかわいかったけれど、破天荒で傲慢な感じも少ししたけれど、よくよく見るとすごく孤独そうに見えた。あの孤独こそが、荒ぶる侘びと深い関係があるのではないかと、薄ぼんやりと考えている。選ばれた男たちのサロンは当然「荒ぶる」のか、耳庵が孤独に「荒ぶる」のか。まあ、どっちもどっちという気がするけれど。しかし、「松永耳庵 荒ぶる侘び」という題は、さらにどうとでも読めるなあ。耳庵が荒ぶる侘びだとも、耳庵のお茶は荒ぶる侘びだとも。どう読んでも、なんとなくわかったような気になるということは、ぜんぜんわかっていないとも言えるかも。

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そうだったのーー [No.7]
投稿者:けいと 2002/03/12 (火) 20:29

貞子に対する事や、コレクションを全部寄付しちゃうような「全てか無か」という態度は、豪快そうにみえるけど、果たしてそうかな。なんだか逆に繊細な心持ちからきてるような感じがする。少しだけを、抱え続けてゆくほうが大変だもの。傷つきたくなくて孤独を選んでしまうけど、実は最終的に全ては手放してはいなくって、妻一子、魯山人の織部の鉢とかね。
あ、めざさん、貞子って名古屋花柳界の人だよね。名古屋の芸妓はんも京言葉なんやろか?
 ところで、今日、古道具屋でかわいい龍の彫り物を施した急須をみつけたの。「これ、いくら?」って聞 いたら「うーん、12000円!」って言うので「ふーん」って黙ってたら「ちょっと高いかな?」と言うので「うん、高いと思う。これ中国製だけど、ギコウのものじゃないしね」って言ったら「そーよね ー。わたしもそう思ったのよ。これ買った人、騙されて高くかわされたんじゃない、きっと。この値段つ けたのその人なのよ。あら、ここんとこ、かけてるわね、じゃあさ、2500円はどう?」っていきなりすご い下げ方。
そこの店には黒楽茶碗「尼寺」や柿の蔕(へた)茶碗「白雨」にそっくりなものも置いてあったのね、無 論、値段は段違いだけど。でも、李朝の祭器「村雲」のようにひび割れにお茶がにじんで景色になってたり、唐津茶碗「老鶴」のように高台がかけてたり全体がゆがんでたりするようなものなんて見当たりもしなかったのね。もしも、あの耳庵展で見たような茶碗達がこの店にあったとしたら、ここの女主人、安ーく売っちゃったろうな、って考えてました。

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荒ぶるとはいえ茶碗は優しい [No.8]
投稿者:めざ 2002/03/13 (水) 13:16

 けいとさん、おっしゃるとおり貞子さんは名古屋の芸妓さんだみゃあ。名古屋弁は「みゃあ」「だがね」 をつけるとは知っているけど、どうもさまにならなくて、ええい京都弁でいったろ・・・としてしまった だがね。

耳庵の茶は、たしかに荒ぶるものだ。数葉の写真を見るだけであるが、アルマイト薬缶のほかにも、あぐらシャカシャカはある。
敷居の際に作られた炉では自在鉤に下げられた茶釜が湯気を立てており、敷居をはさんで耳庵が着物姿であぐらをかいて茶杓でまさに茶を入れようとしている。夏向きの平茶碗だけれど、耳庵は幾重にも着物を 重ね羽織りまで着ているようで、多分寒い季節ではあるまいか。茶碗を温めた湯を捨てる建水も本来は茶を点てる耳庵の左側に置くはずだが、右膝のあたりに置いてある。もしかしたらそれは建水ではなく水差しなのかもしれないが、だとしたら茶釜のそばに置かなくては水を差すときに柄杓からしずくが垂れてしまうのだけれど・・・。
あれやこれや写真を見ながら考えを巡らしていると「そんなんどうでもええやないか。わしはうまい茶が飲みたいのじゃ」という耳庵の声が聞こえそう。
 茶の湯とは季節と時間と客に合わせたもてなしの場であるという。とするならば、耳庵が自分のために点てる茶は本当に自由だったにちがいない。自分をもてなす時間と空間がこれらの「あぐらシャカシャカ」 の写真に切り取られている。「さあて、今日は天気もよいし、こっちの茶碗でいってみるか」こんな感じで一服していたのかもしれない。だとすれば、これほど茶を愛した人もいないのではなかろうか。
 耳庵コレクションで茶碗の数々を見て、なかには「どうやってこれでシャカシャカするのぅ? 茶筅が入んないかもしれないよ」というような小さな茶碗もあったけれど、多くは手に取って触って感触を確かめ たくなる茶碗だった。それは奇異な触感があるとかそういうことではなく、両手に持つことでしみじみと 和めるに違いないという予感をこちらに伝えてくる茶碗たちで、ガラスケースに隔てられてはいるけれど、いく人もの先人たちがその茶碗で茶を味わい、両手でその感触を味わったということがひたすらうらやましくなるようなものだった。陶芸を「炎の芸術」と喩え、その力強さを愛でることもある。実際、力強さを感じさせる茶碗もあったけれど、その強さとともに触ったときの優しさ温かさがそこには内包されているように私には思える。耳庵はコレクションのすべてを自分で見て購入を決めたという。茶碗も手に取って心が通じるものがあれば、何としても手に入れようとしたに違いない。それもこれも「うまい茶が飲みたい」その一心だったのではあるまいか。
耳庵本人はその自伝的著書の中で「ともかく若い時、金が欲しければ泥棒をせぬ限り何でも商売して儲ける、使う、貯める、性欲が昂じてくれば、泊まり合わせた他人の女房でも夜這いに行く。その時勝負で一 かバチか、要は男の度胸と才能によるもので、いわばホルモン的本能とも冒険的興味ともいうべきで・・・」と述べている。老境に差しかかり、「うまい茶が飲みたい」ホルモンがふつふつと湧いてきた のか、耳庵。

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ホルモン的というと焼き肉みたいだけれど [No.9]
投稿者:黒い犬 2002/03/13 (水) 18:41

 男性ホルモンのおもむくままと捉えるといいのかしら。
 なんだか笑えちゃうような、泣けちゃうような話しだわ。
「学問のすすめ」を読んで福沢諭吉を尊敬し、慶應義塾に入学して、毎朝福沢諭吉の散歩について歩くいた青年耳庵は、その福沢諭吉によって厳しく律せられていくようになったんだ。経済人としての耳庵の、孤独を支えていたのは福沢諭吉であったのかも知れないと思った。だって、耳庵は鬼と言われても、電力の民営化を断行していくのは強い意志と、社会へ対する奉仕の気持が根底になかったらできやしないこと だったからね。それって、福沢諭吉なんだよね。
 聖も濁も孤独も三つ編みみたいに編み込まれて、耳庵なんだよなあ。

「男同士の相合い傘に」という古い歌があったけれど、私はの男同士の相合い傘的交友はおもしろいとかねてから思っていた。それから、東映やくざ映画のラスト辺りに頻繁に出できたシーンも。今から切り込む主人公に、橋のたもとから不意に現れて傘をさしかけ、ともになぐり込みにいく男。目と目は見交わすが無言、みたいな。でも、耳庵のはそういうんじゃなくて、そういうんだったらホルモン的かも知れないんだけれど、もっと少年の眼差しって感じなのよ。
見上げるんだよ、こっちは少年なんだから。あっちはおとななんだし。
つまり、いつも見上げているのよ。
 福沢諭吉もそうなんだけれど、北大路魯山人や小林一三、原三渓や鈍翁。
人だけじゃなくて、ものに対してもそうだったとしたら、どん欲に集めて、ぱっと手放すということがわかるような気がするなあ。ホルモン的というよりも、私は坂本九的、見上げてごらん形耳庵少年説をとり たいわ。

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アルマイト薬缶のへんな爺さん [No.10]
投稿者:めざ2002/03/14 (木) 22:46

「荒ぶる」ってのは、パワーのことではないかと私は思うの。それは茶事だけではなく、人生すべて。生きざまって言ってもいいよね。思いついたら、思いつめたらやらずにはおられないという生きざま。
そもそも福沢諭吉の教えを受けるにあたってのいきさつもすごい。壱岐の鯨採りの網元で手広く商売をしていた大事業家の跡取息子だった耳庵は「学問のすすめ」を読んで、慶応義塾で学びたいと決心するのだが、家業を継ぐべきものとして家を離れるべからずと親の許しを得ることができなかった。そこで13歳の耳庵はハンガーストライキを決行。父親はいずれ空腹に耐えかねて決心も鈍るものとたかをくくっていたが、耳庵はまったくめげない。心配のあまりたまりかねて取り成した母親のおかげで上京が許されたという。それにしても早熟だね、13歳で「学問のすすめ」を読んでハンストとは。壱岐の島も鯨採りをするくらいだから非常に荒くれものの多いところだという。荒くれ男を束ねる網元といえば、男の中の男でなければ務まらないだろうねえ。耳庵は慶応義塾に学びながらも父の急逝によりいったん壱岐に帰り家業を継ぐ。しかし、ひとたび福澤諭吉の謦咳に触れた耳庵にとっては壱岐の世界は狭すぎたようだ。家業は弟に 任せ、再度諭吉のもとへとおもむく。諭吉の薫陶を受けるうちに慶応義塾すら狭く感じるようになり、卒業まで一年を残して社会に出る。・・・後年、「電力の鬼」と称されるまでには、大儲けのすえ事業に失 敗するなどの浮沈も経験している。
体格も人並みはずれて大柄だったようだけれど、90歳まで海で泳ぐというエネルギーも半端ではない。耳庵が成し遂げた事業の数々は、早熟にして優秀な能力を後押ししたパワーがあってこそといえるかもしれないが、さまざまなエピソードを知るにしたがい、耳庵の場合は、たぎるパワーを前に向かって放出させたのが優秀な頭脳だったと考えるほうがいいように思えてくる。一歩間違えばとんでもないことをしでかす、怪しいパワーの持ち主というわけ。実際、若い頃はやばい筋の女房に手を出して、相当な騒ぎも起こしているらしい。歳をとってもくえない爺さんぶりは相変わらずで、長寿の秘訣を尋ねられて「女遊びを早くやめることだよ」「先生はいくつで?」「78歳でやめたよ」とすっとぼけたやりとりをしている。こういう爺さんに「侘び」だの「寂び」だのは、はっきりいって似合わない。
60歳を過ぎて茶の湯を始めた耳庵が「やるなら本式にやらなくちゃ」と言われて奮起する。負けずぎらいの血が騒いじゃうんだね。で、5年くらいのあいだに一級品の茶道具を買いまくる。今の値段で総額100億円というからけた外れ。これで道具のよさをひけらかしたりしたら、ホントにや〜なジジイなんだけど、いい茶碗使ってもアルマイト薬缶なんだからなあ、へんなジジイだよ、まーったく。ついつい興味をもって見ちゃうんだよね。

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耳庵へ向かう私の事情 [No.11]
投稿者:黒い犬 2002/03/15 (金) 12:41

今回のリレーを書くことが決まってから、私の興味は耳庵という人間へ向かって凝縮されて行くんだけれど、もともとはここのところマイブームだった「キッチンシャカシャカ」と、身近に出没するようになった「陶芸をめぐる人々」への心の傾きが、今回の「松永耳庵コレクション」へのツアーとなったのでした。少し横道へそれるけれど、その辺りのことを書いてみます。

自分がいかにミーハーであるかということは、流行ものにすぐ気が行くということよりも、気がついたら流行ものの真っ直中にいたという状況で自覚されるのです。それは、自分がいかに時代的であるかという尺度のようで、うれしかったりもするのですが、水辺に浮く埃のようでもありはかなく、下流へ向かう流れの一滴のようで恐ろしいものです。
癒し系がブームだと人の口に上る前に、私の中では癒し系に対する渇望があって、つまりパサパサになっているから水をくれみたいな。これは大事なことだけど、人に抱きついて癒されるという幻想はもうない。誤解しないで、愛がないということじゃなくて、人に抱きつかないとルールなのよ、踏ん張って。
ハーブも植えたし、入浴剤もそろえた。気持ちのいい音楽も集めたし、暖かい毛布も買った。夜長しみじみ読む本もあれば、美しい写真集もある。そういうそろえることや、身の回りに置くことで、いい気持ちが肌着のように身に重ねられると思ったこともあった。でも、それはすごく安易だった、お金と時間の問題になるし。それになにより、すぐ飽きる。
シャカシャカは掲示板でめざさんにやり方を教わって始めているんだけれど、テキストはNHKの「おしゃれ工房」和の伝統に遊ぶ〜小さな盆栽・抹茶でおもてなし。だから、コンセプトは自分流で楽しめればいいんじゃないのだった。うまくいくとうまい茶がいただけ、失敗するといただけない。うまい茶が飲みたい一心でいろいろ創意工夫ができた。もう一つの「陶器をめぐる人々」の方は、二通りの人々で、ひとつは瀬戸の窯業工高に学ぶ人と知り合いになったこと。この人に連れられて私は瀬戸を旅して焼き物をたくさん見た。釉薬を教えられたり、焼くことや形を作ること、絵付けのことを訊いた。陶芸の技術は100枚の皿を同じように作ることからと訊き、なんだか頭が垂れた。
もうひとつは、私の家の庭を使って「七輪陶芸」をする人たち。一冊の本を頼りに、七輪に炭をおこして小さなものを焼く。一日かかって数個のぐい飲みを作る。しかし、一日目は全てのぐい飲みは壊れてしまった。二回目も全てだめだった。三回目に、盆栽用の鉢にするしか使い道のない様なものがひとつだけ焼けた。この人たちは失敗を記録している。始めてであった火の力と、釉薬の謎と、時間の妙を、目を凝らして見つめている。電気窯でも使えばいいのにと言うと、そういうことじゃないんだと諫められた。
そういう人たちに触れると、焼き物への接し方が変わってくる。じっと見つめるようになる。そしてシャカシャカを始めてみると、道具としての茶碗が実は精神としての茶碗とリンクする一瞬があるのではないかと思うようになった。思うようになっただけで、体験したわけではない。
そんなとき、耳庵を知った。耳庵のコレクションが公開されると知ると、蜘蛛の糸が垂らされているような気がしたんだ。

めざさんもけいとさんも、展示されている茶碗を触りたいと何度も言った。私は舐めてみたいと思ったよ、縁のところ。

壮大なコレクションの前で、これは壮大すぎてひとつひとつを見つめていったら大変なことになると思ったんだわ。多分、耳庵はそれぞれと蜜月を交わしたんだろうけれど、わずかに残る茶を点てている写真でしか、その現場に立ち会うことはできないし、その時に道具としての茶碗と精神としての茶碗のリンクする瞬間を、耳庵が手に入れていたかどうかなんてわからない。つまり、耳庵のコレクションを見れば、なにかわかるかも知れないという私の思惑は外れたのです。そして、勢い視線は寄り合わされたこよりのようになって、耳庵の人となりへ向かって注がざるを得ないことになってしまったのでした。

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耳庵は何を見ようとしていたのか [No.12]
投稿者:めざ2002/03/15 (金) 16:48

ふーむ、耳庵へのアプローチは人それぞれですねえ。私はすでに書いたように、お茶への興味と耳庵のあぐらシャカシャカ写真がクロスして火花が出たのでした。

お茶というのは不思議なもので、普通に毎日飲む煎茶であってもお湯の温度、急須にお湯を注いだあとの待機する時間によって、びっくりするほど味が変わる。水の違いも味を変える。当然、お茶そのものの銘柄やグレードによっても大きな差が生じる。
「おいしい日本茶がのみたい」(波多野公介)の巻末資料によれば、農林水産省で登録されている茶には「茶農林1号 べにほまれ」から「茶農林48号 はるみどり」まであり、号数にもちろん欠番はないし、それぞれに「ひめみどり」とか「おくゆたか」などの名称がついている。さらに種苗法による登録品種というものあるし、これらに登録されていないけれど地道に栽培されている茶はいくつもあるということだ。農作物としての茶がこれだけの種類があり、さらにその摘み取り時期により新茶、二番茶・・・と分けられる。さらにさらに、お茶の栽培方法も、煎茶・深蒸し茶・ほうじ茶向けに日光を十分当てて生育させるものと、玉露・抹茶向けに直射日光を避けて生育させるものがある。そうして同じ茶葉であっても、発酵の有無により緑茶、ウーロン茶、紅茶と分類される。そのうえ、茶の品種の違いもあるけれど、どういう土地で栽培されたのかも味を左右する重要なポイントとなる。そういうことは、緑茶だけにとどまらず、ウーロン茶でも紅茶でも同様。
法事の引き出物などにお茶を添えようと町のお茶屋さんに出向くと、日本茶だけとはいえ、あまりにも多くの種類のお茶があることにおどろき、くらくらとなる。100グラムあたりの値段が書かれたサンプルを見ると、たしかに高価な茶は茶葉そのものが美しく、「ほおぉ」とため息をついていると「いかがですか」と横から小さな茶碗がそっと差し出される。おずおずと味見をすると、びっくりするほど甘く深くさわやかな、まるで愛を描写する言葉のようなのだけれど、そうとしか書きようのない味わいが口の中から鼻の奥、そして脳の細胞にまでしみわたる。半ば放心しながら「これはどのお茶ですか」とたずねると「こちらでございます」と100グラム5000円のお茶を指差す。値段を見て一気に現実に引き戻されて、「法事の引き出物に使うお茶なんですが」と用途と予算を告げて品物を選んでもらう。実際、放心するようなお茶をいただいて「おいしいわね、これいただくわ」という展開は私にはないが、たまにはそういうお客もあるのかもしれないし、そういうお茶も取り揃えておりますというお店のデモンストレーションもあるのかもしれない。
そこまでいかなくても、普通にスーパーで特売日に買うお茶であっても、お茶の味が出るように煎れればかなりいい線になる。お湯が熱かったりぬるかったり、時間が長かったり短かったりで、お茶の味は毎日のように変わる。なかなか一定の味を維持することができないのだけれど、さまざまな条件が日々変動するなかで偶然のようにすべての組み合わせがうまくいくときがあって、そういう何かが微笑みかけてくれたようなときのお茶はうまい。
人間欲深なもので、日本茶の次は紅茶の銘柄をあれこれと試してみたくなる。紅茶にも新茶、二番茶、その次といろいろあって、その煎れ方も違うし、味わいも違う。そんなふうにお茶のあれこれを探りながら辿っていくと、自然と行き着く先はお茶の原産地中国へと興味の対象は向かっていく。中国は国土も広いし、民族も多い。お茶そのものの歴史も長いだけに、実にさまざまなお茶がある。そうして中国茶の門前をうろうろと行ったり来たりしている私の目の前に現われたのが耳庵なのだった。

耳庵のお茶は茶の湯、茶道である。茶葉を挽いて粉にしたものをシャカシャカとしていただく。そうした場合、煎茶や玉露を煎れる時のような温度と時間の管理はあまり意味がないだろう。お茶の成分すべてが茶碗の中に入っているのだから、飲みやすい温度であればよいのだと思う。となると、その場で重要になるのは、お茶を飲むシチュエーションだ。器であり、座る場所である。そういう考えから茶碗や茶室のしつらえが注目されるのではないだろうか。
茶の湯は「取り合わせ」であるともいう。季節に合わせ、客にあわせ、時間に合わせた「取り合わせ」が茶室の中の宇宙を形成する。耳庵のコレクションを見ていて感じたことのひとつは時間の流れであった。桃山時代の茶碗であればそこにはおよそ500年の歳月が流れている。多くの人の手から手へ、茶碗は伝えられて今、私たちの目の前に置かれている。ガラス越しに見るだけであるが、もし、茶が点てられて目の前に置かれ実際に手にとることができたのなら、その感動はいかばかりであろうか。形のよさが評価されると同時に、時代の流れも同時に鑑賞されてしかるべきだと思う。長い年月、多くの人を感動させてきたということを、てのひらの中で感じ取ってみることができるのではないだろうか。

こうしてみると同じ「茶」でありながら、一方は茶そのものを味わうことにエネルギーを傾け、もう一方は茶を媒介とした場の設定にエネルギーを傾けている。茶の湯に傾倒した耳庵であるが、私たちをひきつける写真はどういうわけか茶室に端座する姿ではない。奇妙な取り合わせで茶を点てている孤独な姿である。耳庵の茶の湯は茶室にはおさまりきらないものをかかえていたのか、あるいは茶の湯でありながら茶の味わいのみにこだわったのか。耳庵は茶碗の中に何を見ていたのだろうか。

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ふむふむ [No.13]
投稿者:けいと2002/03/17 (日) 07:39

耳庵の立ち姿も座ってお茶たてる姿もちょっと中国の仙人っぽいなあって思ってたけど、、掛け軸の中にも彼っぽい仙人のような禅僧が鋤(すき)かついでるのがあったでしょ、ちょっと無気味でかわいいやつで、わたし好きなんですけれど。耳庵特集の芸術新潮でも巻頭の耳庵の写真の反対側のページに、ばんと一枚、仙人の絵が出てて、それ、耳庵にそっくりなのね。でも、実はこれ千葉市美術館でやってる「雪村展」の広告なんですよね。雪村は仙人の絵、沢山書いてるけど、どれもちょっとおかしい。鯉の背中でひげにつかまって真面目な顔でふんばってる仙人とか、龍の頭の上で大風にふかれてる仙人の顔や龍の目はもうぞくぞくするほどエキセントリックで、年とってからの耳庵の荒ぶるホルモン的侘び顔に通じるよう。ほんとに、耳庵って、若い時の顔と年とってからの顔、全然違うんだよね。どこかでなにかを捨てちゃったみたい。
仙人と言えば、わたし、数年前に読んでいまだに心を捕らえて離さない「仙人の壷」という本があるの。南伸坊さんの書いた本で、中国の古典をそのまま漫画に仕上げ、南さんが解説しているんだけど、なんかすごいよくここまで妄想が、、というようなぶっとんだ話ばっかり、読んでる間中「えへ、えへへ、、」って笑っちゃう。去年待ちに待った続編「李白の月」が出て喜んでたら、三月号の「鳩よ」の特集が「南伸坊中国空想世界を行く」だった。そこで、もっとすごい仙人書く人みつけました、うれしい。

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なんとかなるかな、出口。。。 [No.14]
投稿者:黒い犬2002/03/17 (日) 08:50

1973年秋の別冊太陽は「茶」だった。いやあ、30年も前の本だけれど、ぼーっと見ていたら、「近代の数寄者たち」という記事があって、熊倉功夫という人が書いていた。出だしが「最後の数寄者ー耳庵松永安左衛門の訃報をきいたとき」とあって、突然目がぱっちりしてしまった。
そういえば、芸術新潮でも、最後最後とやたら最後をほのめかす。なぜ最後か、なにが最後か、気になっちゃう。

熊倉功夫は、「明治維新以来、近代の日本のあゆみは新興の財界人、政治家、知識人を生んだが、そのなかの一部の人々に熱狂的に迎えられたのが茶の湯である。茶を趣味とするブルジョア、これがこれが近代の数寄者といわれる人々の典型なのである」と、近代の数寄者を見る。そして、「彼らは豊かな財力によって道具を集め、茶室を建て、茶道界に君臨してきた」という。
すごくおもしろいのは、熊倉功夫がこの数寄者というくくりを、茶人と言われている人々と区別し、対比させて考えるのが近代の茶道の一般的な見方だといっていること。慣例だともいうんだから、常識ということだったのだろうな。
じゃあどう違うのかというと、茶人は茶道教授なんかして茶を生業としている人のことで、数寄者というのはあくまで趣味の人。茶人が茶の家の伝統を保守し、数寄者は流儀にこだわらず自由な茶をしていたと言うんだ。
大ざっぱに言えば、数寄者は趣味だからお茶に対する考え方が自由、ということらしい。

では、近代の数寄たちの茶の湯は、どう変節して、最後の数寄者耳庵をして終焉に至ったか、熊倉功夫の意見ではこうなる。
近代の数寄者は、茶を趣味とする新興のブルジョアの集まりであった。鈍翁に代表される考え方として、今までの儒教道徳や禅思想から自由になり、新しい茶を模索したのだという。それは、新しい茶の表現となって茶道具にも及び、いろいろな物を茶室に持ち込むことになった。それは、美術鑑賞に比重を大きく移すことになり、即物的な道具への埋没を生んだ。
その後、青山根津嘉一郎などのように思想的背景に強く功利主義が働いて、茶道具などの売買が高値をよぶにいたった。道具は次々と値を上げて、仲間内を転々とした。茶の道に入った頃には、すでに即物的な道具への埋没があり、功利的な考えが蔓延していたとするならば、耳庵が茶をするには金がかかると言ったのも当然といえる。
いわば、この頃にはお宝を探しては次々と集め、交換し、信じられないような高値で売買してこそ数寄者と言われたのではあるまいか。
そんな近代茶道にとってもっとも厳しい試練は、敗戦と戦後の混乱。そして、ブルジョワの喪失が、数寄者の消えていく大きな原因となったのかも知れないと思った。耳庵が最後の数寄者となり得たのは、その辺りの事情によるものかもしれない。

さて、それほどに集められたお宝についてだが、近代最高といわれる鈍翁のコレクションはほとんど分散してしまっている。そのように、近代の数寄物たちがコレクションを私蔵せず、分散させてしまったのは偶然ではなく、思想があったのではないか。それは、数寄者は一代限りの遊びだという自覚ではないかと熊倉は言う。
私たちは耳庵が自分のコレクションを寄付してしまったことは事前に知っていたけれど、その宝物を目にすると、今更、気前よく手放したことに驚いてしまった。もったいないなあとか言い合ったけれど、それには耳庵に子どもがいなかったからだと想像して納得もしていた。しかし、どうもそれだけではなく、数寄物たちの心の中心にある心棒には、一代限りの遊びとしての茶の湯があったからだと思わざるを得ない。耳庵の心棒もそうであったのだろう。

なんだか堅苦しくなっちゃったけれど、めざさんが耳庵あぐらシャカシャカに心引かれたというのは、あの姿に最後の数寄者耳庵の全てが映し出されていて、その心棒までが透けて見えていたからではないでしょうか。

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ああ、これから私たちはどこへ行こうとしているのか [No.15]
投稿者:黒い犬2002/03/17 (日) 21:13

けいとさんの仙人のことだけど、多分、耳庵に続いて、私たちの渇望する大きな流れの中にあって、つながっていくテーマだと思うわ。ただ、それが、うまく言葉で現せないのが、悲しいけれど。私たちの興味はバラバラに千切れて、一見なんの脈絡もないように見えるけれど、深くつながっていて大きな思想の地図を作っているのです、多分、心の奥の奥、底の底で。ああそこまで、行き着くことができたらいいのにね。そして、言葉にできればいいのにね。

前にも書いたんだけれど、自分がミーハーであるということが、悲しいこともあるけれど、この頃はうれしいし、誇りも感じている。ありきたりであるということが、自信につながって行くんだ、まったく理屈に合わない変なことだけれど。みんなと同じだから安心とか、群れるとかいう事じゃないんだ。
それぞれがどうしようもなく孤独で、決して孤独であることから解放されないということを知っていて、それでもなお、手をつないだり、笑ったりできるということ。その時に、私たちが感じる時代の風や心の渇きを、けいとさんやめざさんと分け合ったんだと思う。それが耳庵であり、けいとさんの予想によると仙人につながっていくのだろうけれど。見たもの知ったものを手がかりに、心に深く深くもぐり込んで、地図を手に入れたい。そしてその地図をたよりに、私たちは出かけるのだけれど、どこへ行こうとしているのかはまだ予想もつかない。

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これが最後 [No.16]
投稿者:めざ2002/03/18 (月) 00:00

「心の奥の思想の地図」すてきな言葉です。 かねがね思っていることと言葉にできることの落差に戸惑い、気落ちしていた私ですが、今回のリレートークではいつにもましてその落差の大きさに一層悲しい思いをつのらせていました。耳庵の写真、コレクションの数々、そのほかのこまごまとした資料など、たくさんのものを見て、読んで、感じるところも思うところも多くあるのに、ぴたりと言い表せる言葉が見つけられない。何よりくやしいのは、たとえそれが見当はずれのことであっても私自身のなかで納得のいく一区切りとなるものが取り出せないということです。もやもやと感じるものはあるの。でも言葉として「ほら、こういうものなんですよ」と取り出すことができないことが一番悲しい。そのもやもやが「心の奥の思想の地図」なんです。

耳庵コレクションは壮大な大河小説を読んでいくようでした。あまりにも壮大すぎて、途切れ途切れの断片しか見えないんです。織田有楽斎や千利休らが活躍した桃山時代に作られたものたち、朝鮮半島から海を渡ってきた茶碗や水指し、宮本武蔵が描いた闘鶏と布袋様の掛け軸・・・そうした時代を経てきたものが語りかけてくるものがあります。耳庵という人の生き様もあります。耳庵をとりまく数寄者たち、彼らを翻弄した時代の流れ、そうしたすべてが「コレクション」の背景にあり、あるものは声高に、あるものはひっそりと訴えかけているのです。それらを聞き取り、流れてきた時間に思いを馳せるとき、長大な小説の一部を読むような至福が感じられるのです。
茶の湯でいう一期一会とはまさにこのことであったのかもしれないと、今にして思います。コレクションとの出会い。けいとさん、黒い犬さんと一緒に見てまわったこと。今の今まで考えていたこと、そしてこれからも時々思い出してみるであろうこと、それらがすべてからみあう一つのお話です。お話の続編がどこにたどり着くかはまだまだわかりませんが、感じるもやもやをすくい取って言葉にできるようになったら(できるかどうかはわからないけれど)それもまたおもしろい話になるだろうと思います。

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(けいと)
黒さん、めざさん、お疲れさまでした。
そして、三人の「リレー書き込み記録板」をここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
一番たのしかったのは、とうの三人でしょうが、それでも、なにか、伝えられたらいいなあと思います。

まとめるのはちょっとむずかしい、入り口もあやふやなら出口もみつからぬままですが、耳庵の遺言の一説を書いて終わります。
「死後、一切の葬儀法要はウゾクの出るほど嫌い。墓碑法要一切、殊に坊主が不要。線香の匂いも嫌い。死んで勲章位牌もとより誰も呉はしまいが、友人の政治家が勘違いで尽力する不心得固く禁物。是はヘドが出る程嫌い」

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さてみなさん、ここからは耳庵ツアーにおまけとしてついて行った、がぶん@@のコーナーです。
耳庵とはまったく関係ない話しですけど、上野のノラ猫は可愛いです。ほれ!

こいつは立ち入り禁止の芝生の中でひなたぼっこしていた腹っぺらしのドラです。
なんかくれ! というので、横のレストランで注文した各種チーズ盛り合わせみたいなものの中から、
あの青カビ生えたやつをやってみたんですけど、
けっ! という感じで、まったく食べようとしませんでした。
そりゃそーだよ、あれは苦いだけでうまくもなんともない(個人的感想)。


この子はたぶん女の子だと思いますが、なかなかの脚線美ですねぇ。
すーっと伸びた右脚なんか、死語だけど、イカしてます。


黒い犬・・・ちゃらちゃらした中年男・・・めざ



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