特 集*楳図かずお
Quid ?
ソ レハ何カ 私ハ何カ

 「私とは何なのか?」「私は<なぜ>生まれ、ここにいるのか?」「人間とは結局何なのか?」
 こういった問いは完全には消去不能なものとして、今後しばらく、人間に同伴するのだろうか? それとも科学的認識の上昇と普遍資本主義市場が配給する自 己相対化・去勢の感情の中で、完璧に消滅するのだろうか?

 楳図かずおの作品は、「私とは何なのか」という問いを、最も根底的な仕方で、言いかえれば純粋に抽出されたヒステリー的配置の中で構成している。だから 彼の作品が、もし今日、古くなっているとすれば、「自分とは何なのか」という問い、存在論的な問いかけが、もはや古くなっている、ということだ。日々の営 為に諾々と従い、自己の存在、人間の存在についてなど全く問わない者、つまり大人、日本人への敵意は、常に彼の作品の裏地となり、その強度の源泉となって いるが、その敵意は、今日でも
権利をもつのだろうか? 『漂流教室』で、未来の砂漠、資本主義の帰結としての荒涼とした原野に投げ出された子どもたちは、その環境に「適応」して、自ら 奇怪な怪物になるかどうかを迫られ、ある者たちはそれを選ぶ。その選択を否定すること、つまりメタモルフォーゼの断固たる拒絶、自己であり続けること(子 どもであり続けること)、自己同一性への激しい欲望が楳図かずおの世界の核にあるが、それは資本主義への適応、科学の意味作用への同化、幼児期と外傷の忘 却に、今日道を譲るのだろうか? 神経症は倒錯、ないし倒錯でさえないものに置換され、人間は過去となるのだろうか? それとも人間存在、人間であるとい う外傷、幼児期の記憶は、その等価物を、進化の中で姿を変えて生き続けさせるのか? それはどのような形態を取るのだろう? こういったことを考えるの が、楳図かずおの作品を今日読み直す、一番楽しく、愉快なやり方だと私は思う。

 「私とは何か、人間とは何か」。それは小説には常に書かれ、いつの時代でも今日でも、常に進行中の近代化過程の上部構造として、つまり常に失われていく 自己の補償装置として、小説は存在について象徴的なものの閉域内部で考え、あるいは考えるふりをする。それは私や人間の「意味」、つまり私や人間の性行 為、私や人間の生産活動、私や人間の病気や死の、意味を語る。夏目漱石の時代でも今日でも、人間の意味はこうだと言い、意味はないと言い、こうすれば意味 を忘れるくらい気持ちいいと言い、やはり忘れられなかったと言い、何とかしてくれと言い、そんなことは言うなと言い、何も言いたくないと言う。
 それらは臨床社会学的、文芸評論的、歴史学的な価値をもつ。つまり知的、芸術的観点からは、一行の例外もなくゴミ屑であり、既に哲学という「意識」内部 で分節されたことの、大衆版、発展途上国版だ。

 小説は基本的に不利な装置だ。それは文章でしか書けず、線的な思考、意味作用に容易に捕らわれる。私とは何か、という問い、「存在」という驚異と疑念の 瞬間が現れる現場を捉え、再現・解剖・加工するのでなく、「存在」と対話し、隣人に接するように受け答え、ご機嫌を取って引き留め、あげくは友人になって 後々面倒を見てもらおうとさえする。「彼女は美しかった」「彼女は苦しんでいた」。そう書き出すや、文は感想文と遡及的意味づけの開始となり、その演説に 彼女はまみれる。線状の文、つまり意思疎通の道具としての意味作用の外部に出ること、神話のように再度非線状となることが、小説が三文哲学から離陸するた めの、非常に困難な道だった。だが、神話が非線状であるとは、どういうことか? それはレヴィ=ストロースの言うような意味とは関係ない。つまり河の東の 強い男ムアイと、西のウギは、一方は腕に、片方は足に優れ、別の季節に狩をした、などということではない。それは単にムアイの話ができた後で、別の者が生 産と婚姻関係の効果を受けて、つまり「存在」に敬意を表して話を模倣し、諸部族の起源を対照的・構造的に遡及構成した話だ。問題なのは、「強い男ムアイ は、白爪鷹であり、そして人間だった。彼は河の東で生まれ、その時西では生まれていなかった」ということだ。あるいは「人間とは、同時に、二、三、四本の 足をもつ存在だ」ということだ。これは戯言(たわごと)だろうか? だが、変遷する思考と情動の寄せ集めの束である私について、人は「それは何か? それ は何々だ」と言い、「人間」についてさえそれを言う。あるいは「彼はいい人だ」と言い、「今日は悪
い日だ」と言い、「あの花はゼラニウム・ロベルティアヌムだ」と言う。そして「あの花は枯れてなくなり、今では別の名で呼ばれているが、ゼラニウム・ロベ ルティアヌムだ」と言う。そこではゼラニウム・ロベルティアヌムは、ラカンの言うように、主体を表象し、演じるようだ。しかし何かが何かだという時、そも そも何が起こっているのか? そこでは目と、耳と、口の間で何が生じ、何が何に固執するのだろう?

 漫画の特徴は、言うまでもなく絵をもつことだ。それは語りたくなければ、くだらないお喋りや説明を拒否できる。その特権は、メタモルフォーゼ、動物化を 描く時、最大限発揮され、自己への問いを、意識の一歩手前に引き戻す。それは神話と多神教に近い場所、言いかえれば視覚と聴覚の両方が活動し、視覚や聴覚 が言語に統括されない場所だ。手塚治虫や大島弓子のような創始期の作家たち、あるいは九〇年代にヨーロッパで大きな影響を与えた鳥山明や高橋留美子らの作 品など、優れた漫画作品は、メタモルフォーゼに溢れている。

 そして楳図かずおの世界もまた、メタモルフォーゼを描き、メタモルフォーゼそのものが主題だとさえ言えるが、その世界は、他の作家に対し対極的な場所に ある。手塚治虫でも大島弓子でも、あるいは『ドラゴンボール』でも『らんま1/2』でも、メタモルフォーゼは本質的に肯定的作用であり、それは怪異な対象 ではなく、主体自身に生じる事態であり、それは結局、輪廻である。輪廻において、私はここにあり、鳥でもあり草でもあり、時には神でもある。多形倒錯的 な、あるいはスキゾフレニックな、身体の細部に宿る幽(かす)かな死の感触と動物の記憶が、自己同一性を疑問に付し、記憶と欲望の単線的・現在的時間を解 体する。そしてまた反対に、自己同一性の放棄が死を受容させ、去勢を促す。輪廻に従うメタモルフォーゼは、死と共犯し、最終的に死を排除し、人を死と和解 させる。だが、楳図かずおの世界では、メタモルフォーゼは一貫して忌むべき客体の事態、おぞましい<情景>であり、主体の身体への適応と内化は拒まれる。 その世界は死との和解を、今を超えて無数に並行する「説話的・分析的」時間の受容を、断固としてヒステリー的に拒絶する。

 輪廻的なメタモルフォーゼとは何なのか、あるいは神話的な動物化とは何なのか、それは単純には語れない。「朔日の夜、ある者が狼になった」という時、 「今まさに、狼になる」時、「生まれる前狼だった」という時、あるいは「死んで狼になった」、という時。とりわけ重要なのは、人は耳から狼になるのか、目 から狼になるのか、口から狼になるのか、鼻から狼になるのか、爪から狼になるのか、ということだ。「マッツェーリは人間であり、狼である」という時、その 言葉が耳から入り、考えを支配す
る力をもつのか。眼前の狼の姿の恐怖と躍動の感覚が、目から入り人間の表皮を突き破るほど大きくなるのか。あるいは子羊の生肉を噛みちぎった時、狼だった ことを思い出すのか。さらには血の匂いがそうさせるのか。しかし、てんかんヒステリー的に剥奪されるのでなく、とりあえず自らの意思において変身が可能に なるには、目から入る姿が、恐怖を凌駕する躍動、恐怖そのものである躍動を与えることが必要だ。その躍動、快楽が、耳から入る言葉と共犯する時、変身は輪 廻に昇華する。より正確には、躍動が眼前の現実、現実原則を瓦解させ、元々危うい言葉と認知との連係を断ち切り、思考と言葉を声と託宣に回帰させる時、 「マッツェーリは人間であり、狼である」という言葉は、既に分節された現実世界と知覚からではなく、現実世界に向けて到来する原初的な言葉となり、それゆ え言葉が現実にではなく、現実が言葉に従い、言葉によって開始され、人は自らがまだ人間ではなかった場所で、「人間である」ことを開始し、同時に「狼であ る」ことを開始する。

 この変身の可能性、輪廻の可能性は、そのまま超自我の可能性に他ならない。超自我、あるいは理想的な自我とは、耳からくるのか、目からくるのか? フロ イトでは曖昧に声に支配されていた超自我を、耳から離して、視覚と筋肉に結びつけ直したのは、シュールリアリズムとラカンの功績だ。男の子は馬になり、鳥 になり、父親になる。目から馬が入り、鳥が入り、父親が入り、彼の筋肉と力となる。その流れが阻害された時、筋肉は躍動の方向と形を失い、対象のない、強 迫行為へと退行し、視覚は恐怖
症の場所となり、声は禁止と威嚇だけを語り出す。フロイトの超自我の概念は、専らこの局面の声を対象としている。そして確かに威嚇の声の主は父親なのだ が、それをフロイトは、この同化と転移の力動の、阻害の主と、時に曖昧にまぜてしまった。転移の力動を阻害するのは強力な父親ではなく、本当は父親の不在 である。そしてしばしばそれは、はっきりと母親であり、症例アルチュセールのように、母親がもつ父親への敵意である。

 フロイトが書いた『ある五歳児少年の恐怖症の分析』(症例ハンス)は、幼児期恐怖症の優れた記述だ。ある時ハンスは突然馬を恐れ出す。それは黒く、大き く、得体の知れない質量と情動をもって走り抜ける。特に恐ろしいのは、馬が統御できないほどに動き回り、馬車ごと転倒すること、そしてとりわけ「転倒する のではないか」と、予想し、最悪の事態を怯(おび)えて待つことである。馬は街路にいるのか? しかしそれは扉を閉めてもやって来ようとする。それは両親 の寝室にいるのか? フロイトは馬は父親であり、父親の威嚇、父親の大きなペニスだという。しかしハンスは馬が「統御されない」こと、自分の思い通りに なってしまうこと、つまり自分がひっくりかえると思うと、本当に大事故が起こってしまうかもしれないことが恐ろしい、と言っているのだ。
 フロイトはこの症例に関し、ハンス、すなわちメトロポリタン・オペラ監督ハーバート・グラフの、その父、音楽批評家マックス・グラフとのただならぬ相互 転移関係(しばしば同性愛的関係、と形容されている)を、後世の分析家から批判されることになった。フロイトがハンスに会ったのは一度にすぎない。この症 例はある意味、マックス・グラフが自分の息子を題材に書き綴ったフロイトへのラブレターへの、返信である。それゆえこの詳細な症例のただ中で、ハンスの父 はフロイトに入れあげ、家族の中で欠在している。それをハンスの母はどう感じていたか? そしてさらに重要なのは、ハンスに妹が生まれ、その直後におびた だしい血を母親の部屋で彼が目撃した後、「子どもはどこから来るのか?」という彼の問いに対し、父親が「鸛(こうのとり)が運んでくる」と言い続けたこと だ。疑念は膨れ上がり、言葉は全て疑わしくなり、視覚は聴覚の拘束を逃れ、説明不能なまま彼の目に飛び込んでくる。友だちをもたず、孤独で、母親と密着 し、同一化の対象と身体的能動性をもたないハンスにとって、言葉への不信と、解釈不能な視覚の過剰、母親の赤い血、母親の黒い下半身は、現実と非現実の境 を壊乱する。一切の説明抜きに、記憶や言語に参照物をもたないもの、それについて一切知ることのできないものが目に飛び込んで来るとしたら、それはどれほ ど恐ろしいだろう。しかもそれが、それについて自らは知ることのできない性的な興奮を呼び起こし、自らの知らない欲望を引き起こすならば……。参照点を 失った知覚は、情動となり、現実と非現実のどちらに帰属するか定かでなく、馬は街頭から家の中へ進入する。そしてそれ以上に恐ろしいのは、情動=知覚であ る黒い馬は、外界の対象なのか、自分自身なのかがはっきりとしないことだ。自ら手綱をもち、能動的躍動の中で変身するなら、それは自由であり、力である。 しかし自ら統御できず、能動性を奪われたまま、意図せぬ時に受動的に変身が生じるなら、それほど恐ろしいことはない。

 楳図かずおの世界は、転移の能動性と躍動を奪われた世界である。母親との密着、父親の不在、母親
がもつ父親への敵意、成就を拒まれ抑圧された母親の性的欲望、それらは視覚への恐怖症的受動性と身
体の不随意性、大人の偽りの言葉と不正義へのヒステリー的非妥協性を同伴して出現し、メタモルフォ
ーゼと輪廻の拒絶、死の絶対的拒絶、死の絶対的恐怖を負の効果として配置しつつ、他方で転移と父親
の不在の代補である、半ば時間に外在する超越的な美しい少女、視覚と現実の外部からテレパシー的に
到来する神託的声、超人間的な懲罰的力(飛来する十字架、到来する終末)を産出する。

 だが、父親の不在を、彼の作品の平板な説明原理にしてはならない。確かに『漂流教室』『わたしは真悟』『14歳』等の長編は、同一化のモデルをもたない 子ども(あるいは機械)が、伝統と記憶の参照点のない荒野で生きていく話であり、そこでは父親の不在、ないし無能と、その父親への母の敵意が、文字どおり あからさまに描かれている。だが、これ自体は楳図かずおの世界の日本的側面といってもよく、父親の不在と資本主義の荒野、公共的言説・倫理の完璧な不在、 といったモティーフは、アジアの
読者には身に迫る切迫感と説得力をもつにせよ、それだけを取り出してみれば、特殊地域的であると共にありふれた症候である。
 転移の不能は、父親の<現実的>不在や母親との密着としてではなく、まず第一に視覚への恐怖症的な絶対従属と、身体的能動性の剥奪として、彼の作品の中 核にある。そして視覚へのこの受動性の恐怖を深化させ、構造化する過程で、逆に父親の不在や母親の優位といった、物語的な家族・社会病理がつけ足され、恐 怖症的受動性が、ヒステリー的能動性に成長し、短編は長編になったというべきだろう。


 重要なのは、彼の短編世界で、女性はなぜあれほど美しく、その美しさに男性は固執し、女性自身もまた異様に執着するか、ということだ。
 美しい女性は異界に属し、あるいは既に死んでいる。異様な美貌は、日の出と共に怪異な物の怪となり、あるいは腐乱した死体となる。このことは「美は死の ヴェールである、想像的なものは現実的なものの皮膜である」といったラカン派的格言、あるいはジジェク的戯(ざ)れ言を想起させる。とはいえこの格言で人 が何かを理解したと思った時、実は楳図かずおの作品を思い出しているだけかもしれない。
隠喩は事態を示唆するが、分節しない。とりわけ「死」という隠喩は何なのか?

 死んでいるのは美しい女性なのか、それを前にした男性なのか? ここには異なった位相で受動化した二つの存在の、同士的な共犯がある。だが、美しい女性 はあくまで被視体であり、客体であり、身体であり、だとすれば、真の恐怖である死は主体の側に到来し、死んでいるのは男性である。

 美しい女性は日の出と共に溶融、腐乱し、自らの思いをとげることができない。抑止された欲望と、その効果としての敵意という、女性の側のヒステリー的構 造が表層にある。だが、このありふれた怪異譚の手前にあり、隠れているのは、男性も思いをとげていない、ということだ。そしてこの不成就は、欲望の禁圧と いうヒステリー的位相ではなく、欲望そのものの未構成に由来する。男性は動くことができず、声を出すことができず、時間の外の永続する一瞬ともいうべき場 所で、強制的に目を開かされ、自らの自由にならない欲望をもたされる。その欲望は能動的身体を欠き、現実的世界に帰属しない。
 『イアラ』のようないくつかの優れた作品は、女性のヒステリー的欲望と、性的な誘惑というありふれた話を、視覚そのものの外傷性に高め上げ、視覚への従 属が主体の現実を脱象徴化し、解離させる瞬間を抽出している。有名なフロイトの症例「狼男」(『ある幼児期神経症の病歴より』)で、患者はある晩、音もな く寝室の窓が開き、その前の大きな胡桃(くるみ)の木の枝に、尾の長い白い狼たちがじっとこちらを見つめている夢を見る。そこで何よりも恐ろしいのは、ひ とりでに窓が開くことと、それ以外の全てが静止し、患者はひたすら見つめられていることである。フロイトは並外れた洞察力により、ひとりでに開くのは患者 自身の瞳であり、彼は自らの意思なく強制的に瞳を開かされ、自らの視覚に対し受動化し、いわば「視覚から見つめられる」ことを示唆している。この静寂、恐 怖、性的興奮の混然は、境界例の患者がしばしば語る、「私はひたすら恐ろしかったのに、気がつくと勃起しており、強制的に精液が抜き取られ、激しい苦痛を 感じました」という体験に連続する。これと類似の体験は、『14歳』で、十字架と共に飛来する異星人からの交接・強姦として描かれる。異星人は、人類の鏡 像、ないしは人類の滅亡の鏡像であり、そこでは善きものとして到来したはずの父母は既に死にはじめており、「悪」となった人類に対してヒステリー的に願望 される超自我の懲罰行為は、近親相姦的陵辱となり、その力能は人類=主体に内化されず、意味不明な惨劇の情景が展開する。

 楳図かずおの異様に美しい女性たちは、力強く、能動的で、敵意に満ち、欲望のヒステリー的断念の帰結として、世界の外に立つ視線をもつ。それは時には 『漂流教室』の母のように、社会的不正の指弾者となるが、多くの場合は、世界と時間の外の怪異の場所から、愛と男性の偽りを指弾する者となり、しかしそれ が本質的に指弾するのは、欲望、あるいは人生、という欺瞞であり、人間の誕生、人類の誕生、そして人類の存在そのものという「欺瞞」である。

 そして他方、男性は、欲望の欺瞞や禁圧ではなく、欲望そのものの不能の中で、愛と人生を指弾するヒステリー的身体に、目を見開かされ、釘付けとなり、停 止した時間と身体の中で剥奪される。剥奪する女性の身体が人生という欺瞞を指弾するとき、隷属する男性の視線が直面するのは、本質的には自らの誕生とい う、単なる性的外傷の彼方の、存在の最奥の外傷である。自らの生誕、自らの存在ほど、人間にとって、自らの意にならないものはない。その意にならないもの が、外傷的視覚として到来し、その外傷的瞬間としてのみ、自らの存在が可能となる。

 それゆえ美しい異界の女性たちが腐乱し始める瞬間にある死の現前とは、客体=身体の死である以上に、自らの意の許にはない自己の存在の発生の現場であ り、時間の中に登記されず、操作不能な情景として留まり、不在からの出口であると共に死への入り口として停止した、外傷としての自らの誕生の現前である。 そして存在のこの視覚的、外傷的、瞬間的な局面は、たとえ能動的、象徴的に時間の中に登記されようと、結局の所は自らの意のままになどなりはしない、自己 の存在、あるいは人類という出来
事、『14歳』で仮借なく描かれている人類の生誕と滅亡の、恐怖症的な隠喩とも言えるだろう。怪異な女性たちの語るヒステリー的な敵意と悲痛は、自己の存 在に直面させられ、それに対し為す術のない、主体・男性の側の悲痛の代弁であり、翻訳である。『おろち・姉妹』のような優れた作品で、女性は自-らの美し さに異様に執着するが、それは同時に、今この瞬間への異様な執着と、時間そのものの拒否である。それは男性に対する受動的欲望対象としての身体の老衰へ の、単なる恐れなどではない。時間を
拒否し、この瞬間に留まろうとするのは、転移の力動を欠き、歓びと身体への登記を欠いた、世界の外傷的・視覚的出現としてある限りの自己の誕生、自己存在 という「現実的なもの」(≒恐怖症的対象)であり、さらには身体に登記され受動的視覚から離陸したとしても、結局は操作不能なものとしてあるしかない人間 存在への、冷静な認識をもつ、「象徴的な主体」(≒ヒステリー的主体)である。

 転移の不能としての楳図かずおの世界の核心は、表層のヒステリー的敵意、父親の不在にではなく、そのヒステリー的受動性が、存在の外傷的受動性を翻訳 し、隠蔽し、それと共犯関係を取り結ぶ所にある。この共犯は、男性と女性の不幸な出会いとして、つまり男性の開かれた目と存在が、身体と時間に記載され ず、欲望の具体的対象である女性には向かっていかず、女性のヒステリー的敵意を増幅させる事件として描かれる。しかし男性と女性、生まれ損(そこ)ねた者 と死に損(そこ)ねた者の、この不幸な共犯関係は、少年と少女では、転移の不能を代補する形で、別な関係を取り結ぶ。

 『漂流教室』で主人公の少年が愛する松葉杖の美少女「西さん」、あるいは『わたしは真悟』で少年「悟」が愛する「まりん」は、美しい愛の対象であると共 に、言葉のテレパシー的伝達に関わっている。
 『漂流教室』の美少女は、その意識を失ったとき、少年に母の言葉をもたらす。『わたしは真悟』で、少年と少女が生み出した産業ロボットの自意識「真悟」 は、記憶を失った「まりん」の言葉、「私はあなたを愛しています」を少年に伝達するのが、その存在の目的である。言葉は母親から発信され、あるいは機械か ら発信されるとしても、それは本質的に、父から与えられることのなかった、父の言葉だ。『わたしは真悟』で、機械「真悟」がタンカーに入りこみ、その船倉 の奥深くに、少年と少女が草原
を走る幻影を映し出す光景は、感動的で美しい。この美しい幻影はそれに近づく船員を無差別に切りつけ、切り刻む。この視覚は「真悟」の存在と誕生、「真 悟」の「原‐意識」であり、それは意味不明な外傷として時間の外に留まり、純粋な暴力として現出する。視覚は父への転移を通じて身体に内化されることも、 言葉と結合していくこともない。それゆえ言葉は、目に見える現実とは全く別の所から、神託のように到来する。それは不在の、あるいは見たことのない母から のみ、到来するだろう。父への転
移、父になることは、母からの言葉の到来として代補形成され、それを媒介するのは、意識を失った少女たちだ。

 『わたしは真悟』で、少女に対する少年の愛が異常な強度をもっているのは、少女は、少年に欠在している父親の、代理の審級だからである。

 少年と少女は子どもを作ることを決意し、東京タワーによじ登る。その時彼らは「今だけしか見ることのできない」美しい情景を目にするが、それを口にし、 確認するのは少女である。あるいは少女は砂漠の中で、何かが崩壊する恐ろしい音、「子どもが終わる音」を耳にする。
 ここには瞬間性に固執する、二つの位相がある。少年はクラスの中で一人だけ大人になることを拒否しており、それは彼が父親を欠き、大人になるモデルを欠 いているからで、彼にとって大人であること、端的には性的欲望は、気持ちの悪いことでしかない。少女が語る現在への固執は、父親の不在、ないし拒否とい う、この表層の問題を一方では表現している。しかしそれ以上に、少女の、この今への固執は、異界の美しい女性たちがこの今に執着し、自らの一瞬の美しさに 執着するのと、同系列のものであ
る。それは女性の側の欲望ではなく、外傷的視覚への固執という作品の構造そのものの欲望であり、転移を欠いた存在が、言語と時間の外側に留まり続けようと する欲求だ。

 だが、少女は異界の女たちとは異なり、ヒステリー的欲望、すなわち存在を時間の中に登記しようとする欲望、つまりごく真っ当な「思いをとげようとする」 主体としての欲望をもたず、反対に、意識を失う。そのことで、少年と少女は出会い得る。美しい少女は少年の専一的対象であり、少年の視覚であり、彼が父と 言葉とをもたない限りは、唯一の彼の存在であり、つまり彼自身である。父親が来るべき場所に少女は滞留し、それゆえ言葉は、少女から渡されるしかない。こ の言葉は、出所不明な声、そして本質的には、語り手のない文字としてのみ渡される(その声や文字がなければ、少年の世界の言葉には、数字しかないだろう。 数唱強迫や失語症の諸相が証すように、あるいは鳥が小石を地面に置き、それで数を数えるように、数字は言語野よりも身体運動野に近い側に記載されており、 そのため対象を失った退行的強迫運動や宗教儀式に親和的だからだ。それゆえ言葉の到来する前の場所で、例えば少年たちは「333から飛びうつる」という儀 式を遂行する)。
 少女が意識を失うなら、その時彼女は少年と同じであり、少年の真実となる。少女の眠りと、少女の意識の喪失は、この現実の時間には登記されない少年の存 在の、この現実の側での表象だ。その美しい姿は、転移の手前の外傷的視覚の場所で、少年の唯一の「中身」でありつつ、この現実の側で、彼を演じる彼の唯一 の他者となり、友人となる。それゆえ彼女は、彼に父として言葉を与える。

 だが、この言葉には、意識がない。それは線状の時間を拒否した、彼自身の存在、あるいは彼自身の非存在から到来するので、結局は分節を欠き、視覚的、一 挙的に飛来する。それは読解格子を欠いた絵文字であり、意味不明な呪文であり、雑音である。だが、「真悟」が本当は語られなかった「まりん」の言葉を、彼 自身には意味不明ないくつかの文字で少年に伝達しようとしたように、その呪文は、意味不明でありつつ、なお伝達されようとする力動を保持している。

 父から与えられることのなかった、父の言葉。それは「私は何か」という言葉である。それは「私は何か」という問いへの答であり、その答には「私は何か」 と書かれている。機械「真悟」は少年「悟」に、「私はあなたを愛しています」という少女の言葉/文字を伝達しに帰ってくるが、その還帰自体が、少年の生み 出した「真悟」という意識、すなわち「私は何か」という問い、の答であり、しかも少女は、本当はこの言葉を発する前に消滅しており、この言葉は、少年が彼 女に向けて発した、彼自身のも
のである。

 この言葉は、外傷としての誕生の場所、外傷の視覚から到来し、それは見開かれた目、世界のイマージュとして到来した私自身、そしてまた私自身であるこの 世界の視像が、一瞬そこから身を起こし、他者に向けて、「それは何か」と、叫びかけようとする動きである。それは言葉の手前で、世界そのものが痙攣し、 「何なのか」と手を伸ばして、人間になろうとする瞬間だ。それが父の前で発せられ、父の姿が発するなら、「何なのか」という叫びは、「それは父である。そ れは私でありお前ではない、お前は真悟である」という声を聞くだろう。叫びは「私は父である。父は私ではない」という答を生み、世界と私は分離するだろ う。そして声は分化し認識の道具となり、目は世界そのものから世界を見る意識の穴へと縮小するにちがいない。

 だが他者に向けて立ち上がる一瞬の動きが、父の不在を巡るなら、声は「それは何か」という叫びにとどまり、意識は強度として、永遠に「それは何か」とい う問いを巡る。その叫び、強度は、未分化な世界そのものの意識であり、何も知らず、何も思い出さず、何も考えることができないが、しかしそれは、そこから 分離し、どこかに行こうとする力動、何かに向かおうとする力動だけはもっている。それゆえ少年の意識である機械「真悟」、すなわち世界そのものであり、地 球であるその意識は、何も考えることのできない文字として、少年のもとに帰ってくる。だがそれが、闇雲(やみくも)にどこかに行こうとするあてのない強迫 に従うのでなく、ちゃんと少年のもとに帰ってきたのは、少年が少女という、自己の同類を得たからである。「それは何か」に滞留する少年の叫びは、その未分 節な意識をこの世界の側でそれとして表象し、体現する、意識のない少女から、彼自身に返される。その時、「それは何か」は、「私は何か」へと、わずかに成 長する。それは宛先のない強迫が、同類をはじめて見つけ、彼自身の眠りを眠りつつも、彼自身ではない者から返されることにより、自己の発信地を見つけるこ との効果である。しかしそれでも、その意識は「私は何か」にとどまり続け、そこから解放されることはない。つまり、確かにラカンの言うように、言葉が視覚 の場所から到来し、文字であり、手紙であるなら、それは「私は何か」だけを語り、差出人のもとに回帰する。手紙の還帰を一見唯物論的な場所から否定したア ルチュセールやデリダなどの彼の「批判者」たちは、むしろ象徴化された意識という、より「ヒステリー的」な表層にいたと言えるだろう。

     *

 「私とは何か」という問いは、何なのだろう。
 「私は何か」「人間とは何か」。それらの問いは広すぎ、茫漠とし、馬鹿げていて、解答など存在しない。
 もし誰かが「机とは何か。なぜそれはここにあるのか」「コップとは何か。そもそもそれは何なのか」と問いかけるなら、それを聞く者は、彼に精神科を受診 するよう勧めるだろう。あるいは誰かが「神とは何か。それはなぜ存在するのか」と今日問うなら、やはりそれを聞く者は、彼の文化に同情と敬意を払いつつ、 彼がその問いを諦めるのを待つだろう。

 そして「人間とは何なのか、私はどこからやって来たのか」という問いも、それが昼の明るい陽射しの下で声高に問われるなら、やはり精神科の管轄に所属す る。しかしそれが昼の陽射しと生産と交換の最中(さなか)でなく、夕暮れから夜の時間に、声になるわずか手前の喉元で出されるなら、人がそれを発するのを 誰も聞いたことがないのに、人がそれを発しているのを誰もが知っている、ありふれた問いとして、今日でもなお存在する。
 それは哲学の最後の避難所、あるいは哲学と神経症、「存在」と「人間」の燃え滓のようなものだろうか?

 一日の仕事の後、郊外電車が地下から地上に上がり、群青(ぐんじょう)色から黒に変わりつつある空に高層住宅群の明かりが浮かぶのを目にしながら、曖昧 な意識と疲労の中で、人は「私は何なのか。私は何をしているのか」と問いかける。あるいは夜空に帯状に広がる無数の銀河系の星を前に、高揚と空虚が同居す る気分の中で、人は「人間とは何なのか」と問いかける。

 「机は何か、コップは何か」という問いかけが馬鹿げていても、「私は何か」「人間は何か」が可能なのは、それが「問いかけること」の祖型、いわば原‐問 いかけであり、そこで問われているのは問いかけの行為そのものであり、そこには世界の分節と言語の手前で、原初的他者に向かおうとする力動が刻印されてい るからだ。「私は何か」は、発声が言葉と意識に変わる最初の場所の痕跡だが、それは同時に声が向かい、探し求めた最初の他者の痕跡でもある。そして「私は 何か」が意識の中へと再び現れ
、主体の「今」に回帰する時、その他者は墓標となり、遺跡となり、絶対他者の彫像のように、その問いの受け手となる。それゆえ「私は何か」は、象徴的・日 常的世界での自我の自信喪失をきっかけに、原初的他者への依存を求めて、しばしば退行的に出現するが、しかしそれはまた、高揚する自我が日常の臨界まで漂 流し、星雲の中で世界との最初の出会いに回帰する一瞬にも、発現する。

 しかし、いずれにしても、その問いは言葉から現れながら、その起源を言葉の中にもたないので、「私は何か」は視覚と意識の間を曖昧に揺れ動く。「私は何 か」は舌の上で反芻されつつ、意識は窓の外へと逃げていく。その問いが「意味するもの」、その中身、あるいは答は、高層建築群であり、街路樹であり、少女 の姿であり、星雲である。声と視覚が通常の意味作用のようにはつながらない限りで、この問いは延命し、答を探し、やがては自分を忘れ、消えていく。「私は 何か」は原初的他者に向かう高
揚感、満足感と、その他者に出会わなかった失望と共に、多くの場合は、私の意味、私の無意味、私の価値、私の役割、その不在という、自我に関わる表層的・ 日常的意識の中へ、去勢され帰っていく。

 今日これらのこと、「私は何か」のメカニズムを、人々は概略知っている。それゆえ人は、この問いを問い詰めない。もし人が「私は何か」を自我の意味へと 去勢せず、しかもそれをあくまで言語と意識の中に留めおくなら、神話が再来し輪廻が始まることになるだろう。そこでは世界が到来し、目に入りこみ、私とな る瞬間が、多形倒錯的・退行的に保存されつつ、他方で全ての意味作用はその瞬間に回付され、認識から解き放たれ、最終的に「私はどこにもいる」が意識の中 で造形される。原初的視覚と原
初的他者は、カメレオンを変態させる森の緑のように実体化され、意識と時間の中に侵入し、「私は常に生成する」という感覚、「私はどこにでも生起する」と いう声となり、それが自我を飛び越え、認識を眠らせ、世界の中の自我である「この私」の、死の問題、あるいは世界の中の自我と自我との相克である、善悪の 問題を抹消する。

 声と言葉の場所で視覚を用い、幼児的多形倒錯をスキゾフレニックに利用すること。日本の優れた漫画家たちは、楳図かずおを数少ない例外として、何らかの 形でこの近傍に世界を作り、読者を迎え、慰安を与える。それは本質的に、多神教的世界が人々を迎え、死を遠ざけるやり方だ。一神教の創始者たちは、この飛 躍、すなわち意識と存在への、視覚と動物化のこの流用を、侮蔑、嫌悪、拒絶した。エジプト第一八王朝のアメノフィス四世(アケナトン)が動物神群を排除し て史上初の一神教を開始し、ブ
ッダが輪廻を拒否してこの現在での時間の停止を宣言した時(ブッディズムと輪廻の混同は広く流布した無知である)、動物とメタモルフォーゼの拒否には、こ の現在、この自我の価値へのヒステリー的拘泥と、死の恐怖の再定位が賭けられていた。そしてアメノフィス四世が太陽の光と女性の美しさだけを信じ、ブッダ が「何者にも耳を貸すな」と言ったように、それは世界と私との現出の瞬間の視覚の場所に、断固として留まり、そこから身体を生成させず、説話と権力を生成 させず、その瞬間に受動化して、目を世界に預けたままにしようとする。

 楳図かずおの世界は、転移と父親の不在という、純日本的世界の中で、その転移の不在を、ヒステリー的な欲望・敵意と、視覚への恐怖症的固着の結合として 再構成し、一切の超越的倫理を欠いた世界の中に、本源的な一神教を打ち立てるものである。それゆえそこでは、人生や社会の欺瞞やおぞましさ、破局への予感 と恐怖が、飽くことなく描かれても、それは倒錯的な満足に陥ることなく、神学的な倫理性を帯びた強度を維持し続ける。そこで描かれる破局や恐怖は、あれこ れの具体的、現実的破局ではな
く、主体への問い、「私は何か」を、その問いの出現する世界の最初の場で凝視し続け、釘付けになり、日常的意識へと退却せず、神話的生成にも飛躍せずに、 一切の退路を断って「その問に」剥奪される、その破局と恐怖に他ならない。
 楳図かずおの描く恐怖は、「私は何か」を問う、一つの仕方、「私は何か」への、ヒステリー的/恐怖症的回答である。それは社会的破局を描いても、実は 「私は何か」の問いが帰結する、存在論的破局を描いている。しかし他方、退路を断ち世界と私との出現の場に留まる仕方の、「私は何か」がなければ、社会的 破局を破局として感知する倫理も、また存在しない。例えば一九六〇年代にフランスやイタリアで撮られた優れた映画は、しばしば「やがて世界は核兵器で消滅 するのか?」という破局の不安を
、唐突に口にする。今日から見れば、その破局は、実は「私は何か」に由来する神学的破局であり、しかしその破局的存在論は、現実世界に破局という観念を登 記して、その認識を準備する。これはおそらく、二〇世紀的な「存在」の様態であり、楳図かずおの世界もその中にある。

 二一世紀が、「私は何か」をどのように組成し、その組成が、現実世界をどのように登記し、感知するか、それはもちろん知り得ない。しかしそれは視覚と聴 覚を、さらに精密に分析、分解、縫合して、私の出現を再造形し、倒錯的・スキゾフレニックな退行などとは別の次元で、存在の怪異を存分に楽しませてくれる と思われる。

                                      (かしむら はるか・哲学)

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