彼岸の強者と此岸の死者
法と自然 0°

トロッキー/スターリン

ロシア赤軍総指令官レオン・トロッキー——レフ=ダヴィドヴィチ・ブロンシュテインは、その卓抜した技術家的作戦配置能力によって、一九一八年五月以降、英・仏・日・エスエル・白衛軍等多岐膨大な軍事力によるロシア革命包囲戦線を奇跡的に粉砕し、また文筆家、ジャーナリストとしても、典雅かつ雄大なスタイルによって、大きな評価をものにしていた。しかし他方での、対独講和と対スターリン闘争において露呈した、まったき優柔不断さと、いかなる悪意とも永久に無縁の度しがたい脳天気的気分も、また根深く自身の特質とし、それらによって彼は、テクノロジーが倫理的力能を運搬しえたマルクス的生産諸力と反ロマン主義の果てしない幸福時代を、歴史の最高の高みにおいて、一身に体現したのである。じっさい革命家としては遂に二流であったとしても、超一流の伝記作家であった彼が、レーニンについての記述☆一で幾たびとなく誇らしげに繰り返したのは、このナンバーワンが、いかに星空の輝きのカントの道徳律と無縁であったか、ということであり、そこに彼が対置するのは、客観的認識能力における精度と速度と、それをたちどころに反映する、実行力における冷酷さの無情である。とはいえ、この明敏な文章家は、自分が対置するものの不明瞭な性格について、それなりによく認識しており、この不明瞭さは、やがて亡命先のフランスから出版する『反対派会報』における彼の立場をして、かぎりなくカント的なものだという論評を、メルロー=ポンティーから下される帰結をよぶのである☆二。
より正確に表現すれば、トロッキーにおける明白な問題は、みずからの固有な場所、固有な時間、固有な様式を、それ自体の偶/必然性において肯定する残酷な力の、——ないしは残酷さを払拭しうるほどの、さらに強固でソフィスティケイティッドな力の問題の回避にあり、彼における決断力のとぼしさと、悪意の不在、しかし精緻な認識能力と的確な人物・作品・風景描写力といったものは、十全な一体をなしていた。彼は都市の建造物が何回となく破壊され、しかもそれを凌駕する建設を何回となく繰り返す、労働者階級の陽気な能産力、といったメタファーをことさら好んだが、そのかぎりにおいて彼は後述する未来派たちと、かなりの程度ニーチェ的な無心さを共有し、言いかえればみずからを目的とする物質の沸騰の、際限のない壊乱の明るい調子を自身のものとなしていたが、しかし連綿と継起する時間と無数の形象のなかで、限られたものを現在において選択し享受する、ある種貧しさと一体の現実の力の問題については、おなじ機械的能産力を背景にしつつも、それをとりあえず階級闘争の平面と常に接合することで、その抑うつ的な力を保持しつづけたマルクスの戦略を、無自覚のうちにやはり当てにしていたのである。すなわち加速される運動が、無数のものの共振しあう一種の抽象性へと沸騰する同じときに、それ自体においてみずからを二分して闘争の形式へと意味論化し、上昇する気分を下降する剛質な調子へと自動的に翻訳し、交換整流しつづける、一種の局所論的な——topischな、論理・修辞学的な、土台‐上部構造論的な、<エスをして自我たらしめよ>的な——メカニズムである。さらに加えて、それをより根底的に後ろだてた条件は、十九世紀の機械固有の、鉄鋼時代のテクノロジーが奏でた特別な風景、すなわち灼熱する流体状の銑鉄が、まるでプラトンからニーチェに至る、例の生成を圧縮しあるいは再帰させる中天の太陽☆三のような光を放ちつつ、やがて冷却されて冷たい輝きに転ずるとともに、その加工によってなる諸機械の貧寒な様式と破壊性——鎌とハンマー——が、そのまま強制力と凝集力に反転しえる、この時代固有の特権的イマージュに具現される、巧妙な作用力の配置である。それは自身のなかに昇降する複数の調子を、しかも物在によって自動的に調整されてもつことで、この現在の姿がすべてであるのを知るのを畏れる人間の、その現下の姿の目も眩むほどに偶然なありさまに気づいてしまう、無底の深淵の開く矢先に、現実の物理的存在内部の——物質的/政治的な——重力によって下降に転ずる力を分配し、世界の解体を自己の組成においてその内部に押えこむ。その機械の自己抑制的な反復動作、例えば工場における機械・連結や戦場における殺戮—前進などの、凝集—破壊的運動は、自身の無意識へと向かうことによって死を目ざす、生体という時間の流れの、その最も原基的な演算形式を、いわばプロセス——欲望の対象—諸形象——を省略して先取りされた死の形で空間的に演じつづけ、象徴世界がはらむ自身の偶然たることの不安の気分を、あらかじめみずからの抽象的力能として圧殺し、自身の形状へと押しつぶす。しかもその押えこむ力が同じ場所を諸形象へと分かちもたせる、他方での水平的な作用によって、それぞれの形とことばは、親密な関与性へと内属する互いの関わりの確かさのなか、より細密に洗練され高められ、自身を<外化>された抽象的能力の表現—証明物として、この現在に繁殖させる。
そこに予想されるのは、さまざまな形——イマージュ・ことば・もの——が、みずからの偶然なることを先取りされた死へと溶融し、それ自身の確からしさを得ようとする法の作用——その内容については後述する——、言いかえれば、さまざまな形象‐情報素の連結でしかない、私たちという存在が、そのみずからの存在を何らかの抽象的必然性の上に根づかせようとする運動を、逆に現実の世界のなかで諸形象が分解しあい映しあい重なりあう自然の作用の、そこへの認識——知——を通じて与えられる貧寒な技術の力能として移動させ、空間的に転形し、その結果本来ならば世界の必然性と自己確信を破壊してしまう形象の豊かさを、主体=機械の能力の抽象的表現物へと高めあげ、そこで自身の確かさをめぐりめぐって享受しようとする、きわめて絶妙な術である。つまりそこかしこの私たちという、偶然なるものどもを、神学的‐論理的に組みあげられた、必然なるもののこの世の分与物として分かつのでなく、私たちの工業的《能力の》増大が、世界の形象の豊かなること《それ自体》において、人間世界の確からしさを増すのであり、そこでは禁止の作用が一種の享楽として配給され、諸形象がみずからを疑いつつ交換し制限する時間の流れは、認識における進化の時間として集約される。その偶然と必然の通約の様式は、まずもって<知>の振舞いとして名ざすことが可能だろう。そこにおいて世界の弁証法は<頭>で立つが、その頭は機械によって構成され、世界を立たせる工業機械と人間機械の力の差が、——工業的な——現実世界全体を、能力の形式として自演させることを可能にする。つまりその知の転換作用は、流動する自然と社会の力能と、そこに向かって自身をせり上げる認識の、その出会いを固有な形状において再生産する、機械の様式の一定のコンディションに裏付けられることになるのである。
じっさいトロッキーは、世界のすべてを科学的認識と技術に基づかせることにおいて、極端な考えの持ち主であったが、それはいわゆる、合理主義的一貫性といった類のものではなく、つまり認識に本質という名の、彼岸からの世界の保証を求めるのではなく、しかしもちろん技術‐形象そのものの享楽的自己目的性を求めるのでもなく、——彼はその点で、マヤコフスキーら未来派と激しくやりあった☆四——科学において豊かな形象‐実在が、自身の偶発性を苦痛ではなく、幸福において受けとるであろう、巧妙な離合的本質/実在関係を、そこに強く期待していたのである。トロッキーはカント主義的敬虔を一貫して揶揄したが、その哲学に隠されている、自身の存在——=時間——の偶然なることを回収する作用、すなわちみずからを抽象化・機械化してその力能へと諸形象を回収する、法の力の時間圧縮的作用に関して、少なくともそれと多く似たものを、彼は自然と社会の変動にせりあう、認識の動的力能へと再定置したのであり、加えてその上に現実の世界と時間をも、基礎づけようと試みる。だからこそ、彼が未来派と闘わせた論争には、彼にとって抜き差しならぬ多くのものが賭けられていた。トロッキーがマヤコフスキーらを批判したのは、必要とされる節度の感覚の不在によって、作品の部分部分のイメージが、すべて絶頂、極限たることを要求し、その結果苛烈なまでの豊かさの乱用が、運動の麻痺と総体の凝固へと反転し、享楽の自己目的化が一種のあからさまな抽象性を呼び覚ますことをめぐっていた。というのも彼は逆に、抽象性の作用が形象の多岐なることにおいて自身をめぐらせ、さらに正確には、形象がみずからと完全に出会い凝固する死の場所が、永遠に逃げつづけることをもって、抽象性の作用が、抽象性のあらかじめの棄却として作用することを希望していたからである。
むろん人間とは形象のストックとその連結の作用なので、ここで死の場所とは、主体が自己の無意識と完全に出会う、誤認の不在の場所とも表現できる。そして彼が言外に懸念したように、認識の力が享楽の純化によって形象の総量へと単純に通約されてしまうなら、その豊かなることが定められた臨界点を超えだすとき、それは自身の説得力をみずからの偶然性へと反転させ、ある種白雑音化しだすとともに、その手のひらから中性的な強制力をすり落とし、すなわちそこにおいて倫理的力能という、主体がみずからの存在と無意識にいだく疑念を、中断して休息させる作用力は、その作動に要する無意識的情報過程と外部経済の間の、必要な密度の落差を喪失し、その<革命的>プロセスの頂点にいたるや、外側の諸形象はいわば直接無意識に語りかけ、それを代替し、いっとき主体の構造は裏返しにさえされてしまう。そこでは大量の快楽がオーバーフローしはじめるが、しかし一瞬後には、反転した主体構造によって時間も逆行して流れだし、時間は主体に快楽を断続的に配達する機械としての本来の定義を逆転されて、快楽を汲みつくす機械となり、沸騰のあとの灼け焦げた調子とともに、やがて快楽と欲望の対象の不在を飛び超えて、原始的な残虐さの調子が超越的に復権する。スターリンが歴史的必然によって召喚されるのは、この場所である。そしてまた、これは近代世界での革命という、広域情報場での物質的materialistic過程が、物質的儀式にむけて反転するおさだまりの道筋だが、それを用意するのは、みずからの固有性——みずからの生の、みずからの愛の、みずからの共同体の、歴史の、そして時間の固有性——を、すべての形象の固有なることという道ゆきで粉砕したはずの唯物論が、固有なるものの剥奪——あなたと私の身体を同値とし、あなたと私の時間と過去を同値とすること——それ自体を自己の公準とし、欲望の対象にする道徳哲学に、逆にふさわしい環境を提供する、きわめて初歩的な論理必然的過程である。
ここで問題を多少先取りしておくと、じっさい唯物論といわれるものは、その最も貧しい姿において定義されるなら、一般性と全体性の棄却という一点に集約され、それは換言すると、それぞれの形象が結合しあう様態において、その相手を特権的に選別する結合端子を、一般性という名でみずからの時間に隠しこみ、育成するすべを失った状態で、そのため、各々の要素は待ち時間を奪われた態勢に至って、おたがいどうしの出会いを、みずからを激しく攪拌する一瞬一瞬の抽象的な強度へと依存させ、概念の重力から解放された諸形象は、乱舞する砂塵のごとく、無機質的なものの茫漠たる支配にしだいに身を任せることになる。そして砂漠の荒寥をこそみずからの発祥の場とするのが、道徳的な力であることは、エルサレムの地を思い出すまでもなく、すなわちそこには力がはらむひとつの逆説が存在し、力の名によって一般性の作用力を棄却し去る振舞いは、一般性の棄却そのものを一般性へとうち立てる端緒の法へと確実にすりかわる。偶然なるもの——それはとりあえず主体という生の偶然なること、つまりその無意識的形象の個性と、それが道づける欲動の根拠なき種別性——を、共同体の記憶という、より広範な偶然性へ隠しこむ、弱者の奸計を許さなくする振舞いは、意図的に削除された記憶——じっさい共同体の歴史は歴史の削除にはじまる。ソ連邦において、日本において——の上に一般性を形成し、というよりは絶えざる削除そのものを目的とし、それを一般性へと転じる振舞いに、簒奪されることになるのである。これは歴史上の諸帝国の衰亡の推移にも、あらかた重ね合わされ、また私たちの諸帝国も、同様にそこから自由ではない。
ともあれ、ここでトロッキーに帰るなら、力をめぐるこの単純な交替劇を彼は明白に危惧しつづけ、形象と時間なき力たる<定言命法>が駆動するのを阻止すべく、諸形象がみずからの固有なることを維持すること、すなわち力の問題が審美性の場所からスリップしないことに、彼は細心の注意をはらっていたが、この認識‐技術、すなわち知の装置に期待する必然/偶然の転換作用において、彼はマルクスの感覚にかなり忠実であったといえるだろう。それは別の表現を用いるなら、例えば今日早くも忘れ去られつつあるミッシェル・フーコーの主著において、その<考古学的調査の結果>、西欧文化の認識系の台座に発見されたといわれる二つの断層線☆五、すなわち一六〇〇年代の古典主義時代の創成と一八〇〇年代の近代主義時代が、ある種の共犯関係によって互いを重ねあう種類の振舞いである。じっさい<可能なあらゆる秩序、自然/社会に実在する整合性の一般的基礎としての表象の理論>を保持しえた古典主義が解体した後、近代世界においては<深層における歴史性が、あらゆるものの核心を貫き>、一例として<深層における事実>としての<労働☆六>がリカードとマルクスを同じエピステーメー上へと通約するという彼の理解は、表象の作用が含意する多岐な力の看過において、そしてとりわけマルクスについて、いささか強引すぎると言えるものだが、そこで真に予想すべきは、常に彼方へと回付されつづける<厚みをもった事実>が、それ自体に向けて内化する、表象の作用に含まれていた自己分割と、その分割を再度みずからの能力として回収して自身への疑念を棄却する運動であり、すなわち事実が<知として>自身を基礎づけるメカニズムの妙技である。しかもフーコーにおいて、ルネッサンス流の反照相似的調和空間の解体後、二元的に切り離された世界の傷は、やがて自身をまったき単独性において享受するエクリチュールの輝きにおいて、再度塞がれるはずであり、しかもそこにはフッサール流の現象学の幸福が、ニーチェの熱い光とともに本質と実在を一致させているのはあまりに明白なことなので、同じく<現実の歴史において>人間という演劇の傷口を塞ぐマルクス的な生産諸力の振舞いが、それらに近いトリックを有しているだろうことも、同様にそこから予測可能なのである——後述——。それらを配給するのは物質という外化された人間=機械装置であり、あるいは外部世界へと物理的に供犠‐受肉された、実践理性‐原基欲望演算関数であり、すなわち禁止を演ずる享楽であり、さらにはそれを具体的に調整・配置する、現実の機械の歴史的一段階である。
じっさいこの世の諸々の形と出来事は、私たち人間にとってのすべてであるにもかかわらず、まったく定かならぬものであり、したがってそれを、自身の能力の形式へと一旦空にした後に、世界を再度そこに組み上げるのが、<表象の理論>の最も苛烈な部分であった。そしてその能力が、現実の種々の層に、それを底上げする<知>の振舞いとしてビルトインされていく振舞いを、フーコーが一覧したのだとするならば、そこにおいて種々の系は、いずれにせよ世界を<能力>の上に組み上げようとすることで、同じ種類の脆弱さを分かちあい、言いかえれば、形象あるいは具体性を、それ自体の内部において肯定しえない脆弱さを自身に宿し、そのかぎりにおいて、社会主義も——ハード——ゲイも、より劇的な度合を強めながら、同じ種類の悲‐喜劇を演じきる。ある意味ではその最高の可能性を、半世紀前に完全に終了させた社会主義が、外化された本質=実在を機械の無機質性に演じさせ、しかし独裁者の鉄の決意へと敗北していったとするならば、——比喩的に表現すれば、単純に容積効率の点からいっても、急速に機械がタンパク質化しつつある今日において、無機的なものとタンパク質がせめぎあう、無機性の側のフロントであるゲイ/サイエンスは、自己の力能をすでに機械の剛質さや革命の凝集力にあずけられず、しかし同じく<能力>の魔からまったく解放されていないので、自身の自身に向けての十全な展開と回付の形で、その能力を凝固的に表すしかなく、したがってそれは自己‐組織化——=自己免疫——能作用の不在力の急速な困難化のなか、フロントを決壊させ、神の法の前に敗退する。ここで神の法とは、人間の欲望関数が集束値——ニルヴァーナ——に予定する意味を、特権的な記念碑の現前の形で不在化する、広くおなじみのそれである。
こうしてみると、能力の作用を棄却しようとするある種流行のフェミニンな感覚が、それなりの必然性をもっていることが理解されるが、それは不安と必然への希求の問いを最初から封じているので、その環境はテクノロジーの脳天気的明るさと、原初的暴力の同伴作用を招きやすい。したがって私たちに要請されているのは、いずれにせよハイデッガーの可能/困難性への十全たる考察と、さらにはカント/ヘーゲルなしに済ますことが社会システム上ではたして可能かどうかの問いであり、あるいはニーチェにつづく再帰/循環の共立——困難——性の問題といえるだろう。じっさい当面の問題からしても、スターリンの登場する歴史的必然の場における、社会の唯物論的場が物質的儀式に反転するメカニズムは、私たちの社会の下部構造が、その能力の限界によってなお現在もはらむであろう、よりあからさまな法の力の要請の問題を、今なお現実の問題として照らしつづける。そして固有に政治的な問題をはなれても、限られた現在においてみずからを肯定する真理の力、形象自体がそこに向かう能力は、いずれにせよそれ自身において、問題を立てられるべきである。というのも能力の抽象性に汚染されることない今という時の価値は、資本主義——+社会主義——によってあまりに破壊されすぎたし、しかしその増進する力能そのものにおいて、より抽象化し自身を機械として知りつつある今日の人間=機械には、この限られた今にとどまる技術は、逆にみずからが機械であることを知ったがゆえに、より切実なものとなるからである。事実、この場をこの場自身の必然性において分けあう力を手にせぬ限り、資本主義の永遠性と、力が知らず知らず罵声と小心さをそのうちにはらむ道ゆきは、けっして終わらせることができないはずなのである。

戦争/機械

先を急ぎすぎたので、<機械>をめぐる場所へと再度もどることにする。じっさい鉄鋼時代の剛質な調子は、<社会主義>の周辺にかぎらず例のニーチェにおいてさえ、その偶=必然的肯定力の行使において、なにしろ彼はハンマーで哲学するといったぐらいであるから、——そしてトロッキーは正しくも、むしろその抽象性を強く懸念し畏れていた。すなわち<ハンマーが鏡を叩きわったあとの、髭を剃ることもかなわぬ、陶酔的野蛮の覇>——それは無縁であったわけではまったくない。例えばニーチェが小説家として強く賞賛したのは、ドストエフスキーとスタンダールのみであったが、特に後者、この反古典、さらには反ロマン主義の旗手ともなる作家に、フローベールらとならんでしばしば投げかけられた非難の声は、<イギリス製鉄鋼でできたような貧寒な文体の>、というものであったことを想起することが可能である。そしてニーチェがスタンダールに与えた大いなる賛辞は、またしても<最大の反カント学派☆七>としての称揚のそれであった。そこにはすでに、より平板にサド的——=カント的——な剛質さを鉱物が代置する様子が聞きとれる。ドストエフスキーはみずからへの偽装の死刑の宣告を、スタンダールはボナパルトという名の意味作用の喜劇的擾乱を、その出発点に強く保持した人であったが、そこに存在するある種の世界内距離の過流動性が、金属の内部構造に一種の転移—<救い>を求めたであろうことは、安直ながらあまりに予想される話である。そして距離の擾乱と濃密な閉塞性をよりもって増大させ、それゆえ逆に疑似中・近世化しつつある今日の私たちの世界にとって、その内容は、むろん無関心では済ませない。——今日の私たちの世界は、その喜劇的調子において多分にドストエフスキー風である。——このスタンダールというフランス流の反ロマン派は、ドイツにおいては反ゲーテの運動の、やはり性急な調子に対応し、それと青年ヘーゲル派との交線上に例のマルクスが登場するのは、よく知られた流れである。そしてそこにおいても、やはり鉄と赤さびがはらむ血の味は、じっさい力であるのか、力の問題の回避であるのか、あいかわらず定かではないのである。
マルクスにおいては、その機械とともに企てられている運動は、再度俯瞰すれば以下のようなものである。すなわち任意のひとつの形式が、——神が、国家が、階級が、イデオロギーが、ことばが、意識が、真実が、美が、現在が、私が——それ自身を肯定するとともに、他の形象をもそこにつき従わせ、みずからへと隠しこむ半ばの忘却の支配において、言いかえれば他のすべてを自身において休息させる、倫理的な力の問題において、○その支配する形象と要素を決する際の、残酷で攻撃的な闘争——階級闘争の気配を一方で保持しつつ、○しかし優劣を決する審級を、いったん機械そのものの自己産出的な形象規制力に移譲して、そこへの接近の度合たる、認識と技術の力能の帰趨の問題にむけて、支配する様式の問題を中性的に平準化し、○しかしなおその帰趨をめぐって諸集団が争う階級闘争の平面において、機械の固有の質感を助けとして、再度抽象性へと保留された残酷さを現下に楽しもうとする——そういった往復する複数の調子の平行である。すなわち、諸形象と諸階級の自己肯定力は、技術と科学の場における自然総体との情報落差に通約され、認識が権力に代わるとともに、芸術的諸形式もまた中性化して、それはみずからの起源たる、無底の神に仕えるための宗教的残虐性をいっとき忘れる。しかしここでは、偏狭な合理主義がみずからに信ずるように、最終的には任意である選ばれた形象が支配する悦楽は、けっして中性性へと永久に昇華されてしまうのではなく、機械の固有な形状において、半ば退蔵され半ば再演されようとするのである。その退蔵は、技術の場に期待される隠しだての様態において、より明白にパルメニデス的形態をともなって、ハイデッガーの循環的様態と、その差を争うことになろう——そして敗北するであろう。——次回以降再論……——。再演の部分においては、事態はまったく平明である。すなわち、この工業生産力の時代において、技術的力能の飛躍的増進は、自然にそなわっていた暴力的な破壊と組織化の力能をみずからのものとすることによって、逆に技術の場所での自然の暴力的強制力に、人間のもっとも基底的な情報過程の姿である、欲望の凝集的、抑圧的な振舞いを代演させ、さらにそれを隠蔽させる。とりわけそこでは、自然そのものの最大の特質である、無機的なものと有機的なものを交代させるその力が、最大限利用され、さらに正確には模倣されることになるだろう。つねに曖昧に用いられる、無機的/有機的、物在/観念といった用語群に、一定の予感を与えることも兼ねながら、そこで生じることの道ゆきを、マルクスにかぎらず少しばかりここで追いつつ、機械の禁止/享楽作用へと接近していくことにしてみたい。
まず無機的なものとは、みずからを今ここに十全に配置する力であり、それは過去と時間のすべてを、すでに用ずみのものとして無に向けてたたき込む。無機的なものは、自分自身をひきうけた死であり、さらにはあらかじめみずからに向かう死の欲動そのものである。それはまったくの現在という時間しか認めないかぎりで、いくぶんかディオニュソス世界の微粒子的乱舞に近接する。しかも無機的なものは、自身を外—在としてあるいは死として肯定する、その組成の明解さによって、有機的なものがもつ腐敗という観念を軽蔑して、その向こうに乗りこえる。有機的なものが腐敗において失うのは、みずからの可能性の時間という、曖昧な概念であり、概念とは要約され、棚上げされた無数の要素の配列であり、より端的には無数のリズムの待機であった。腐敗という観念と死体にまつわる陰惨さは、みずからの組成をみずからにおいて十全に支配しえないものが、偶然の時間のなかでその発現を待つ振舞いの、偶然と時間そのものによって被る逆説の姿である。有機的なものがもつ結合という様態は、みずからを支配しきることをえない力が、その足らぬ力の部分を保留する、個性という名の暗号の形式において、互いにみずからを映しつつ、保留そのものを交互に交換しあう儀式である。それは愛のようなものであり、あるいは愛そのものである。有機的なものにまつわるゾル化した粘液性は、必然と偶然が混成する場所であり、ふたつ以上の密度の無機的なものが勝敗を決めかねている状態であり、さらには決めかねた状態自体を、みずからの存続の理由にしている場所である。生体は有機的でありアミノ酸は有機的であるが、その諸要素の明解な鎖列は無機的である。そしてアミノ酸のモデルは無機的である——知は無機的である——。諸主体は有機的でありその連関も有機的であるが、その無数の結合は無機的である。無意識の諸要素の鎖列は無機的であり、意識における諸言説の鎖列も無機的であり、その両者の結合による意味作用もまた無機的であるが、その結合そのものが他者の言説によって代補される、労働への援助を待つ期待の時間の振動は有機的である。<私>は有機的である。コードの体系は無機的であり、そこから完全に排除されたものも無機的であるが、任意の要素をコードに登録するべく他の要素の関数を流用しつつ、その適合性をためす時間の流れは有機的である。総体としての主体の構造は無機的だが、<あなた>と呼びかけられる中断と中和の振舞いは有機的である。総じて共同体は有機的である。自然とその闘争は完全総体としては無機的であるが、その剥ぎとられた部分部分の振舞いは有機的である。そして機械に求められている力能は、単に無機的なものではなく、無機的な光が有機的なものに突き刺さり平定する、あの鋭角的な調子である。そこにおいて無機的なものは、有機的なものを単純に破壊する野蛮ではなく、みずからの完璧に調整された稠密な運動連関において、有機的なものの遅延性を一瞬のうちに翻訳する、明解な力を求められる。無機的なものは蒙古人の太刀ではなく、蒙古人の儀式と国家と肉体を焼きつくす、近代兵器の流麗な破壊力である。私たちはそれを鑑賞する。鑑賞する私たち、人間=機械を、低位の機械が代演代理戦争する。機械が有機体を平定するロジカルな様態は、つねに密度の高い部分から低い部分へ、演算総量の多い部分から少ない部分へ快楽が流れる、無意識系と意識系が、そしてシニフィエとシニフィアン、主体と言語、私とあなたがとり結ぶ、例の想像的関係の相同物であり、そのかぎりで機械の稠密さは一定の限度を超えてはならない——超えることによって、それはみずからを芸術様式となし、みずからの歴史をもつ負債をも課される——。しかし他方、まったく同じときに、機械は有機的なものの情報過程を自身の組成において一瞬に現出させ、他者の言説が私の欲望を運搬するのに要する類いの、複数のメモリーバンクを参照しつつリニアーな時間のなかで諸要素の価値を決定していく検索構造を、機械のその緊密な無時間的構造のなかで一挙に粉砕し、開示してみせねばならないので、単純であると同時にきわめて複雑な美的構造を要求される。この両方の要求が、歴史と文化の様態に介入するにあたっての、技術と機械の組成を挟みこむ。
したがって機械はその要求に応えるために、まず第一の場面では、ひろい意味でアナロジカルな作動がきく範囲へと、人間の肉体に従属/支配させられる。ベンヤミン以降、とりわけ素材materia——……ismus——の観念が配置する抽象性をめぐって観察された連結関係がそれであり、それはロラン・バルトの記述によって有名な、ロジエ・ガロディ風のプロレタリア・リアリズム、<喜びが彼の筋肉のなかで歌い、彼の指は軽やかに力づよく踊っていた……>といった復古的メタファーさえも、逆立退行的に分け与えることを可能にする原基である。機械は機械としてその細密さと力能を表象‐表出しながらも、より劣った機械としての人間の肉体との、類比、再演関係を可能にする程度の速度の水準を要求され、その再演関係が無言のうちに与える拍手が、機械の現在性‐無時間性という、外在化された抽象化能力を条件づける。そしてそのことは、他方で機械の無機質的運動の陰に、ヒステリー性と強迫性の声を刻印する。すなわち禁止の審級の不在によって、それ自身においてみずからを支える充溢した現在という分裂性が、生成を忌避して自己の単独性=愛の特権的被対象性を確認しつづける強迫性と、まったく反対に愛の欲求の激しさゆえに、この現在での自己の承認を恐れつづけるヒステリー性の、それぞれ脆弱な気配を同時にはらみ、自己の存在において半ば代行するのである。特にその前者を、トロッキーはロシア未来派に鋭くかぎつけることになるだろう。しかもその表象関係のうしろでは、個人と共同体の道具が資本の機械に転ずるなかで、すでに人間の肉体自体が抽象化される、価値労働化の作用が期待され、それがそこでの類比の容易さを援助する。資本や近代国家による歴史と意味作用を罵倒する政治力、諸要素の多層的共振関係による現在の時間を破壊して、それを空洞のなかの一挙的な共犯関係へと圧縮する法の偉大な暴力は、その不在という様態を抽象的現在という様態に反転させて、機械にむけて移植される。これはエクリチュールが純粋な物質materiaとして共同体から剥落する過程をも、またそこに習わせることになるだろう。とりわけエクリチュールについて十九世紀に完成されたこの道ゆきは、すでにわれわれの機能中枢を確保しつくし、逆に古典主義的環境へとさえ、今日疑似反転化しつつある。すべてが自存化し、相互に剥落するならば、その全体は、伝統という名の内在的意味作用を要求しない、類同中性的自己再生産に、反転、近似することになるからである。
こうして、この第一の局面においては、機械はまったきそれ自身のみである軽快な無機質性を、肉体との参照‐延長関係によって保証させ、その経路を通じて伝わるのは、よりすぐれた肉体として、その力能をみずからの歯車の連携のなかでさらに高速度に開陳してみせる、ある種馬鹿げた雰囲気と、より根底的には、歴史的に作動ずみの法の切断能力を、現在的享楽にむけて転化する、巧妙な転換の作用である。すなわち法に対象が従うことそれ自体を欲望の対象とすることで、欲望の対象=物自体を棄却する例の実践理性、言いかえれば一種の休みなき反復のなかで厳密な現在のみを承認し、つまり主体の個性——それは主体の過去を眼前の諸形象によって<意味する>ことで、それを部分的に救い、その断続的プロセスを自我として登録していく共同体の恩寵の作用と同値である——を、結合される諸要素に対する結合そのものの優位性——因果律!——によって叩きつぶし、私=あなたの自己増殖的等号作用が配する人格剥奪を勝利させる、残酷で偉大な法の作用、それ自体が、再度上位の反復‐機械に転化されることで、逆に回転する歯車をみずからの記念碑として簒奪し、自身はその後ろへと隠れこむなか、現在に快楽を配達する機械へと転ずることになるのである。いわば<休みない快楽>の勝利。それは再度転倒した倒錯とも、サディズムのマゾヒズム的利用ともいえるが、その転倒を可能にする技術的な条件が、工場ないし兵器の形で人間とその集団にはりついた、鉄鋼時代の機械固有の、みずからを制限する剛質な形状の力である。すなわち自身の形象の偶然なることにむけて沸きおこる疑念の心を圧しきる、剛性な重しの力である。それはいわば、下へと押さえこむ気分を隠しもつかぎりで、亜ないしは前ディオニュソス・ハンマーとでもいうことが可能であって、そのためには、鉄とその時代がもつ貧寒な無機質性と荒々しさは、そこにおいて絶対に欠かせない。しかも上述したように、それはその自在化し、自身を押えこむ強い調子を、陽性の上昇的気分において、みずからの<裏側の能力>として、後ろだてることを得るのである。
戦争と工場が語られる前世紀末——今世紀末——的場所では、この形状はつねに必ずその利益を分配しつづける。——そしてその配給がとまるやいなや、世界は周章狼狽する——むろん前者は最後のフリードリッヒ・ニーチェであり、後者はカール・マルクスの、その多くである。ホーエンツォレルン家打倒にむけて、全ヨーロッパに語りかけるその<最後の考慮>、あるいは<宣戦布告>のための草稿において、上昇する調子が下降する調子を完全に粉砕し、『悲劇の誕生』において同時的に語られた、上下動の並走性、とりわけ美と真実の交通をつかさどる意志否定的な気分が、自然の名によって単純明解に抹殺されるべくやり玉にあげられる、一八八八年のフリードリッヒ大王は、じっさいプラトンとその善の太陽に真実勝利したのであろうか? 上昇する調子のみが延命を許諾され、強度が再帰するという<歴史上すべての名は私であった>がはらむ野卑な調子は、善悪の完全な彼岸が悪——法——の力を隠しこみ、やがてはそこに頭を垂れるであろうことを明示する。そしてそのことは、例えば逆にスピノザにおける、ニーチェが罵倒しつづけた均質な—僧侶的な白色の逆備給帯の力能の、その真の力を知らしめる帰結をよぶであろう。すなわち一例として、<Non ridere, non lugere, nuque detestari, sed intelligere! 笑わず、嘆かず、《罵らず》、理解すること☆八>、それはニーチェのいうように情動を知におとしめるのではなく、形象をそれ自身の内部にもつ能力によって、情動へと向けて<整然と>高めあげる——むろんそれは固有の難点をもつが、それについては再論する——。じっさい偽装の力と称したもの、偽装を真実となすと称したものが、単調反復的な悪の調子をそこにおいて、しかも知らずにはらむなら、力を形象において働かせること、美をもって真実となすことを不可能にする。戦争は機械の酷薄さを、想像化・ナルシシズム化して導入するきっかけを、つねに自身にはらむのである。それは善の太陽を最上位に置いたプラトンに対して、逆に自己の弱化した悪の力によって敗北する帰結さえ生むだろう。だとすればこそ、それと知りつつ演技をなす、上昇の調子をうちにはらんだ下降する動きを紡ぎだす、悲劇における振舞いは、デーモンの囁きによって、安易に自己批判されることがあってはならないのである☆九。いずれにせよ最大の問題は、<ここにおいて>再びなすときの、ここ以外の調子をあわせもつ、抽象‐能力化されない、形象そのものにおける忘却の可能性に存在する。
他方マルクスにおいては、ニーチェにおける事態とは反対に、その乱雑な雰囲気に似合わず、限られた形象からなる現在を肯定する問題は、その力をどこからか借りこんで隠すことなく、むしろ延々とかぎりなく、彼岸にむけて巧妙に逃げさせる。したがってこの彼の道ゆきは、逆に、その最大の小心さと低俗さを動員して、私たちにとってのすべてであるこの今の時から逃げつづける、資本主義という姑息な制度を目隠しとして、けっしてこの現在の時間を重んじはしないことにおいて、少なからぬ利害を交換しあう可能性をはらむのである。一言でいえば、それは現実を生む、最も基底的生産力自体を知識として根づかせる——=根づかせない——ことといえるだろう。むろん、その回避の形状において、よりソフィスティケイトされた能力をもつならば、そのシステムは資本主義に代わることを能うだろうが、しかしその自身に固有と信じたもの——いずれにせよそれは機械の周辺に配置される——が、作動不良のものならば、そのシステムを現実に走行させる社会形成体の上においては、自身の現在を確かめる力は、もっとも野蛮な形態をともなって、暴力的に配給される帰結を生む。それはスターリンという偉大で猜疑的な力にとどまらず、今日の資本主義の制度下において、テクノロジーの社会的作動が、享楽の配給能力の向上と反比例して、中性的な未来=道徳を配給する能力を低減させるとき、その部分がより<物質的>な回路として、国家の暴力装置に求めるであろう、背定力のあらたな分配通路の問題をも、同様に暗示する。だがここで、マルクスへと立ち入る前に、話の前提条件とその全体の俯瞰を得るためにも、いささか恣意的に用いている法という用語について、若干議論を前後させることになりはするが、最低限度の含意を与えることにしておきたい。

カント/サド

カントの道徳概念が、時間の廃棄と、あるいはまったく同様のことであるが、欲望の対象=物自体の削除、彼の言葉では快の否定——『実践理性批判』一七原ページ——にもとづいており、しかも時間の廃棄それ自体を欲望の対象とするテクニックであったことは、今日広く知られている。すなわち、——<汝の意志の格律がつねに同時に普遍的律法の原理として妥当するように行なえ>——『同』第七節——、つまり汝の欲望の向かうところとしてつねに同時に欲望の原基的構造の組成のみであるように行なえ、汝の欲望をしてつねに機械的原基関数そのものの現出であるようにせよ、その欲望と存在において、汝人間=機械のハードウェア的関数以外の言語導入を禁ずること自体を欲望とせよ、欲望の対象という演算休息点において欲望の作動を中止することなかれ、しかも汝の特殊な記憶が他者の特殊な記憶によって救われることなく、それ自体を今ここにおいて普遍たらしめるようにせよ——有機的共同体を破砕せよ——。つまり彼の定言命法に従うなら、過去に退蔵した無意識と一次過程が、その固有の外在‐自己主張exist-insistの力を用いて、偏心的に眼前の事物/表象と結合しようとする主体という運動において、——無意識が自己主張から落伍すると、意識と結びつき、意味作用を形成するのである。<サドが退却すると意味となる=機械が衰退すると戦争となる>——その運動の果てることなきを固有の形状と概念の内部で先取りし、逆倒し、中和させる、いわば愛のいとなみの逆関数形成的な運動の、特殊性と反普遍性にもとづいた企てを、そこにおいては断固排除せねばならないのである。いうなれば<汝=我イマニュエル・カントをして、唯一可能な欲望の演算関数のすべてとせよ>。それゆえ主体の不可能性=演算の無限性の暫定的中和たる、欲望の対象=物自体と時間は、同値として廃棄されるとともに、それはすべての形象と内容の廃棄にも帰結する——むろん、『判断力批判』において帰ってくるものは、とりあえず除けてである——。
有名なカントの提言によれば——『同』第六節注——、ひとは情欲において好きなもの——諸形象を手に入れることができる機会があるとしても、その楽しみを与える家の前には、つねに絞首台がたててあって、その楽しみをした後にただちにひとをそこに架けるべく、手はずを整えつづけている。そして好きなものをひかえることを知っている人間は、その絞首台をも知るならば、同様に好きなものをひかえる知識をも現実化するであろうし、かくして人間存在の終局に棚上げされている、知と現実の一致‐死が実際に生じる事件が一ヶ所で発生するや、一挙にすべての多様な欲望の諸機会‐諸対象は、昇降するギロチンの単調な機械へと圧搾され、時間と諸形象は完膚なきまで破砕され、あらゆる多様性と偶発性が棄却されるなか、現実と知は全面的な一体化へと向かいはじめる。ここに予想されるものは、ひとが一般に神や神話や排除や国家のイデオロギー装置を通じて、日常的な節度の形で小出しにして利用している、禁止と死んだ父、あるいはそれを内化させた歴史や共同体——ハイデッガーについては再論——、より端的には過去といわれる形象の、基体を形成する力である。言いかえれば自身の信仰を神話に転ずる力といえよう。つまり欲望の営み=行為は、欲望の組成=普遍的知とあらかじめ一致することによって、そこでの法の力は、無意識/意識、自由エネルギー/拘束エネルギー、快感原則/現実原則などの対立にむけて情報速度の落差を安定させる、一般に不在として記述されるところの法を飛び越えて、——特にプラトンにならって、この落差を比率という言葉で表現しよう——その落差そのものの圧縮を目ざす、いわば死の法/法の死として存在することになるのである。その力は世界の順序を逆転させる。そしてこの、知においてみずからの行為でもある死の力は、局所的に現実化されれば、他の存在者にとっては——その力は他者を必要としないがゆえに——不在となり、ユダヤ人となり、とどのつまり資本となる。それはマルクスにおける機械と科学の比率の作用と、その力能を闘わせ、あるいは共犯させることになるだろう。
これらの事態は、ここで用いたラカン派的表現——特に『セミネール』第二〇巻☆一〇、八〇頁以降——ただし当然、ここでは固有の社会哲学的課題にかかわる、きわめて基本的な論点しか採用していない——によらず、クロソウスキーのそれを用いても、内容は完全に同値である。そこでは<汝は美徳が姿をあらわすや否や、悪を為すという習慣をつけるに加えて、またそれ以上悪を為さぬべく、美徳が姿をあらわすのも同様にさまたげるべし☆一一>という提言によって、内容を完全に空にする永久運動が与えられる。しかしそれもさることながら、より中心的には、読解と行為——知と現実——の一致を読者に要求する、一種の自発的逼迫性の課題をめぐって、主題は展開されることになるだろう。それは、<汝の無意識——Es-Ca——をして、今、ここ——Ca——へあらしめよ——Kant avec Cade——>と同じ内容であるにしても、書かれたものと読む行為における、ある種の剛質な機械性の実在を描くことで、内容が繰り出されるその同じ貧しい動きにおいて、内容以前の偶然なるものどもがそこにとどまり、それ自身をはじめる動きを、とりわけ知の運動において端緒づける力をも暗示する。すなわちあらゆる形象と、その形象の自明さ——形象へと善が与える加護の作用——を叩きつぶす力能は、怪異な実物と死んだ時間を、私たち自身の現在とその受肉として、反転‐開始する力をも分け与えることになるのである。じっさいレテ——忘却——の炎熱の道ゆき☆一二のこちらがわで、この世の現在の時間において、モイラ——運命の女神——の知慧をこの場の最高の形象へと映しこもうとしている、この論考での唯一の試みにおいて、その過去と未来をもたない力は、いかなる貧寒な外見をたずさえようとも、まず第一のものとなるはずである。——例えばここで、かの『ブレードランナー』の最後の闘いにおける、ルトゥガー・ハウアー演ずるところの魅惑的なレプリカントによる、激しくも美しい贈物を思い出されたい。文字どおり絞首台を背にしたサディズム的闘いを通じて、自身の固有さ——彼らは過去と記憶を欲していた——をもたぬレプリカントは、その消えゆくわずかな自身の体験をもってして、普遍的な価値へと高めあげ、人類への贈り物として私たちに分け与えてくれるのである。それは死を負債として流通させるヘーゲル的な奴隷とは、あまりに対照的な振舞いである。しかしこの、機械=被支配階級が人間へと倫理性を贈与する振舞いは、いささか私たちにとって虫がよすぎぬわけではない——それは多分にマルクス的である——。ディックの原作における、よりカタレプティックなアンディーと、喜劇に転じた反復たるマーサー教=人類の自己確認の、その両者の相克を参照されたい。
しかし付言すれば、クロソウスキーにおいては、スピノザからニーチェに至り、その素材に似つかわしい性急さで乱発されすぎる、自己超克的な自然のもつ通約性により、逆に力は水久に貧しいカタレプティックな肉体へと、閉塞されることになるだろう。というのも、それはこの現在を引き受ける力において、あのサドの休みない調子、すなわち肯定を否定<=否認>の禁止として、持続を休息の禁止として、力を形象と記憶の禁止として、現在を過去と未来の禁止として与える仕方を、どこまでもつきまとわせてしまうからである。この現在をそれと知りつつ再びなす力において、あるいはこの同じ生が以後何万回となく繰り返し、しかもそれを<再度欲する忘却の力>において、無数に重なるものの効力が、すべての実在をうめつくして産み落とす、あの硬化した調子それ自体が、忘却を記憶の禁止へと自閉させる、剛直的調子にむけて、ひそかに奉仕しはじめるのである。それは結果的には、<神学的な>、といわれる種類の閉塞性に近接する。じっさい求められる真の力は、それぞれの形象がそれと知りつつみずからである、現在を生きる今のときの力であるので、力が自己に向かうのでなく、形象のそれぞれが、自己を知りつつそのみずからを再びなす、すなわち形象が自己に向かうことを可能にする力が、必要とされるといえるだろう。そのためにはやはり——通俗的な表現ではあるが——強弱の調子、すなわち共同体の調子といったものが求められる。つまりレテの河の忘却の水は、水銀の頑なさではなく、やはりボードレールの語るように緑のままの水として、この世に流し込まれねばなるまい。そしてひとは、それを資本主義の自動販売機を通じて、みずからの偶然性への自覚の消去へとのむのでなく、みずからの分は他者へと、あるいは逆に、しかも半ばにのみあう必要があるのである。忘却の力を、忘却の不在を生きる力として得ようとすれば、形象のそれぞれが、みずからの内部に果たす半透的破断線の力によって、その形象の固有さにおいて否定された他の調子が、再帰する共同体の再びの部分における調子として、あわせ隠しもたされて、<再びそこ>であることが、半ば自身半ば共同体の悦びとして与えられる必要があるだろう。
かくしてひとはニーチェのもう半分を、いずれにせよハイデッガー抜きですますことは能わない。シルス・マリアでの最大の重し☆一三、最もさびしい孤独のなかにまでしのびよるデーモンの囁きが告げる、<お前は、お前が現に生き、これまで生きてきたこの人生を、もう一回、さらには無数回にわたり、繰り返して生きなければなるまい。そこにはなにひとつ新しいものはないだろう。あらゆる苦痛と喜び、あらゆる思念とためいき、お前の人生のありとあらゆるものが細大漏らさず、そっくりそのままの順序でもどってくるのだ。——この蜘蛛も、こずえを洩れる月光も、そしてこの今の瞬間も、このデーモンの声自身も>という宣告は、いかなるメタファーでも作品でもなく、——いわんや趣味人むけの知識でもなく、——きわめて平明かつ明解に、強い意味で本当の、この世の真実のことなのである。だとすればこそ、それを再び生きる私たちの日々の時には、そこにふさわしい最も平明な調子こそが、逆に要求されている。それは、死を、それぞれの存在者において半ば埋めこむ、あらたな意識と共同体の訓練ぬきに与えられることはないだろう。しかもそれは、その端緒において、法の断固たる強い調子とけっして切り離すことは許されない。——そうでなくては、力は中性的共同体化するとともに過去にむけて隷属する。——そして強い調子は、ほとんどつねに不在へと奉仕しはじめるが、これをこの現在にむけて取りもどすすべを、ひとはいまだ手にしているとは言い難いのである。それと知りつつ再びあるこの調子を、安値の喜劇として売りさばく能力を、資本主義が有するようにときに見えることがあるにしても、それは実のところ、無知と誤認を切り売りしているだけのことで、その細切れの無知=意匠を可能にする、より上位の禁止を自存させる法の力の暴力を、それは必ずやどこかで自身のために必要とする。その無知は前述したように、国家のさらなる暴力装置を通じてこそ、おそらくは配置されることになるだろう。というのも法の不在をあがなう機械=知の固有の振舞いが、やがて自身を困難にし、より強大なスターリンを召還する可能性があるからである。

マルクス/生産力

というわけで、戦争がニーチェに配する好ましくない利益以上に、マルクスの肯定力が機械とともに獲得するあやしげな調子の概観へと、再び議論をもどすことが求められる。じっさいマルクスにおいては、その雑多な外観にもかかわらず、社会構成体ワンセットを形作る生産諸力と生産関係、および法=超自我からなる局所論は、上下する反対の方向を、それぞれの階層が異なるコントラストでみずからに併せもち、それを相互に回付しあうなか、現在という時間を回避していくことにおいて、きわめて巧妙に作動する。というのも偶然と必然あるいは歴史的事件と歴史的必然、使用価値と——交換——価値、労働力と労働——剰余価値、工場における生産材から商品への価値の転化、そして意識と存在といった多彩なヴァリアントをもつ単一のシステムが、この場で集中的に自身を醸造するからである。それは一言でいえば、不在と現前を、同じ実在物における異なる運動速度として調速し、法の機能をもたせる作用である、その全体の動きの機軸は、前述した資本と工場、法と機械、現在を禁止する圧縮力とその反転物としての抽象化した現在という、陽性の転移——?——の作用だが、そのふたつが、生産関係の場所に登録される、歴史ないしは共同性‐自存性という過去の時間をもつ遅延の作用と、生産諸力の場に未来の名で登録される乖離する方向性へと、分離されつつ同時に重ね合わされることによって、その全体の作動は保証される。しかも後述するように、このふたつの層の落差の様態を、最終的には機械の物質=知識性が、保障づけることになるのである。
まず下部構造とは労働者階級と工業生産力のすべてである。そして下部構造、あるいは生産様式といわれるもののうちで、その下層の生産諸力によってやがて破砕されるはずの生産関係、すなわち財の支配・交通を通じて人間が向かいあい、生産手段、道具や土地の領有をめぐって諸主体が関係しつづける、その場所は、連続する時間を自身にはたし、固有の形状——農村、商業、資本主義——をもって存在する唯一の場所でありながら、みずからに対して遅れている二重化した実在性——資本と労働、交通と生産——と、生産諸力という、実在と本質の和解の場所からも剥落していることにおいて、多重にその存在をおとしめられる。資本主義生産関係は、時間を圧縮し、形象を破壊する法の力の全体のうち、形象を断念する不在の力、否定の力のみを、そこでの資本に移植され、それはいわゆる自己‐否定的な力によって自身に利潤を生むわけだが、現在を享受しえる力のほうは、機械を通じて生産諸力へ与えられる。つまり自己を配置する形状をもつ唯一の存在である労働者階級——生活といってもいい——は、いわゆる不在=資本=主人の恩恵をこうむる現前=奴隷として、ごく普通の哲学的範囲で、そこに存在を許されるとともに、しかしその本質と出会った存在たる<工場>労働者としても、また生産諸力の場に存在する。だがみずからの本質と出会った存在は、いかに禁止を享楽に転ずる機械の仕組みがあるとはいえ、持続する時間のなかでは、なんらかの形で自身をそれとして引き受ける、明瞭な自覚的力をもち、さもなくばみずからをふたつ以上に分解し、複数の場所に配置させ、それを相互に回付せねば、サドの反復を生きるのでもないかぎり、その存在を続けることは不可能である。——その形象を純化して死に至らしめる、未来派の末路が思い出されよう。トロッキーはロシア前衛派を揶揄するのに、<カタレプシー>ということばをとりわけ愛用した。しかしまた、彼が対抗してそこに提示するのは<プロポーション>という言葉であり、彼は知らず知らずにプラトン的善の比率を求めていたのである。
かくして生産諸力の審級においては、またしても自身を肯定することなく、再度それ自身に対してずらす仕組みが、今度は未来という名で要求される。ただしこれは、ニーチェがその<反デューリング論>で述べる、キリスト教の変種としての社会主義がもつ、不在の価値としてのそれではない。不在はすでに資本の力であり、未来とは、本質と実在が微妙にずれつづけることでその出会いを回避する、機械の能力として織りあわされることになるのである。すなわちこの生産諸力の場に期待される未来というもうひとつの作用が、前述した隠しだての構造である。生産諸力とは、知が現実として存在し、さらには実在が本質と、意識が存在と和解するとさえいわれる場所だが——生活世界!——、その知は——スピノザと違って——後述するように自分自身に対して遅れをもっていることによって、自然を巧妙にとり逃がすとともに、それを彼岸へと隠しこみ、そのどちらをも目下のところ免罪する。
ともあれ生産関係と生産諸力の落差に話を返すなら、まず、生産関係は、固有の形という負債をかかえる唯一の有機的な場所でありつつも、生産諸力に対して遅れていることによって、その固有の形状の罪をみずからあがなうことなく、ひとつの遅れの価値とともにそれを免罪される。つまり法、イデオロギーはそれとしては必要ない。——マルクスにおいて、それはただの欺瞞である。——その自己反復的な禁止=肯定能力は、すでに工業機械に——あるいは様々な物質に——享楽化して移動されているし、それが配する<効果>としての、固有の形状と形象——共和主義! 民主主義!——を現在において特権的に切り取りだす、自己への負債の引き受けは、遅れている形象としての生産関係における構造に向け、資本という不在を通じて、マイナスの符号をつけた形でのみ移植される。この否定し肯定する力能を、現在——または現在により近いもの——と不在、あるいは現在——により近いもの——と不在に支配される——現在により遠い——形象として、分離して配置する構造が、生産諸力と生産関係の、共犯的な責任転嫁構造を形成するにあたっての鍵となる。というよりは、この落差の形をとってしか、法はここに存在しない。この、認識が真実に対して——そして実在が本質に対して——遅れていることは、言うまでもなく幸福のなかで最大のものである。自身に対して一致したものは、死へと凝固するか、さもなくば<ディオニュソス>的恍惚として、一切を忘却へうち沈めるかを選ぶしかないからである。——とするとまたしてもスピノザの特権が思いだされる。それは認識が同時に恍惚である奇怪な世界を展開するが、しかしそこにおいて必然的に帰結するもうひとつの命題、<汝の隣人を愛すな>は、現在の時間をこの社会にむけて求めているこの論考での共産主義的射程において、当然看過できないものである。じっさい彼の世界は、<汝の隣人=事件=無底なもの>をその論証に登録するであろう能力を、すべて、その水平的な論証循環と直角の方向に向けてしまうことによって、知と現実を和解させるのである。
こうして生産関係が遅れていることによって与えられる僥倖は、自我がエスに対して遅れているのと似た種類のものである。しかし異なる点は、エスは絶対にこの場にやってくることはないが、生産諸力はその受肉を主張する。したがってここでは二種類の現実が並走することになり、生産諸関係、すなわち財の流れを軸とする人間的諸関係は、みずからを嘘の出来事であると主張することでのみその存在を許される、この世の唯一定かな形象の場所となる。しかも真性の知であると主張する生産諸力のがわは、機械とそこにはりついた人間たちの連関において、現在である——真実である——とは主張するが、その形状を自身において引き受けはしない。というのも、生産諸力に期待される知の振舞いは、とりわけ<科学的認識>に類する振舞いだからで、それは、みずからをより細分化することにおいて、あるいはその記述内容の蓋然性、現実妥当性、真実可能性をしだいに低減させ、それを時間で微分した値P'tが負である——これは基本的には単純なことである。彼流の<アレーテイア——真理——>をパルメニデスを通じて定義するボパーの表現☆一四によれば、<明日は晴れのち曇りである>という記述を科学的であるとして裏付けえるとすれば、その根拠は、<明日は晴れか曇りである>より蓋然性が低い、ということ《だけ》である。きわめてユダヤ人的な明解さをもった定義であるとともに、同様の理由から、その種々の人間的帰結に対してもまったく無関心なものである。——ということのみを、自身の存在根拠にするからである。すなわち、知は自然へとむけて消え去ることのみをもって、この現在にある権利を主張するのであり、したがってそれは厳密な現在なわけではなく、自身の現在をも自然をも同時に隠す。つまり、知の緊密な自己配置において、自然との《つねに等しい》落差をもって永遠の現在を引き受けるスピノザ的世界でもなければ、この現在の限られた自身の形象を、同じく限られた他の場所と重ね合わせ、ともに有らせる、ハイデッガー/アリストテレス的な自然でもない。むろんこの後者は、この場において本質を引き受けて本質を実在に受肉させるのか、あるいは実在する本質という抽象性、ないしは超共同体権力にすべてを解消するのか定かでないが、その透かし合わされた現在の時間という感覚は、この世の現在を生きる知恵には、いずれにせよ欠かすことができないはずのものである。

ハンス/馬

こうして固有の力の現在とその形象は、この物質の狡知によって、厳密にはどこにも存在しない。すなわちこの世界の全体がみずからに安定した構造を保証されるのは、生産諸関係における、より大きい幅での総体・本質からの脱落と、——労働者は資本=不在に対して<明瞭に遅れて>いる——生産諸力の場における、より小さな振幅の、そのふたつの落差によって構成される二次的な実在/本質構造と、しかしそれ以上に、本質の場もみずからにけっして一致しないことを与えてやる、知としての生産諸力の振舞いの効果によってである。つまり機械のサド/マゾ的交換能力は、実在をその本質たることによって苦しめる——サド——ことなく、その本質のほとんど横で、しかし僅かなずれとともにある享楽をもってして、禁止の作用、つまり苦痛——=時間の不在——の代行作用それ自体に代わるのである。そしてこの享楽的生活世界の審級は、可能的真理としてその権利を主張するが、しかしそれを固有な形状において引き受けないかぎりで、いかにもハイデッガーがその<アレーテイア>において、ヘラクレイトスとともに主張する☆一五、<いかなる客観性にも主観性が付属しているはずである。そしてこの両者を相互に他方から説明したり、客観と主観を包括する第三者を考えたりするのは、愚かしいことである>に予想される、自身の偶然なることを知ることと、しかもその知ることによって帰結する、不在の不在という死の地平から逃避する、逃げ腰の知の振舞いの代表をなし、したがって当然ここには新カント派的な真理の試みが多種多様に繁茂する——物象化論、等々——。だがすでに述べたように、同時にこの審級は無限に細分化する運動をそこにもち、加えてその帰結を野放しにするがため、結果、いわば論証による相互的結合力を失ったスピノザのアフェクトへと自身をなして、やがては諸形象を振り落とし、享楽を増大させながら、無限解体にむけた驀進へと自身を走らせる帰結を生む。これはまさしく少年ハンスの暴走する乗り合い馬車である☆一六。いうなれば暴走しか許されていない情動といえよう。すなわちスピノザは転倒しないがハンスの馬は転倒する。そしてマルクスの機械は転倒しないが、私たちのテクノロジー=私たち自身はそのままではしだいしだいに転倒する。
馬恐怖症患者、少年ハンスのことの次第の根幹は、彼の存在が、父とフロイトとの同性愛的関係を流通させる、文字どおりの<客観的知>の資格をもって、この世に宙づりにされたことに開始した。ハンスの世界の根底は、自身の固有さを畏れる知の審級として与えられ、この世の現在として今ここに根づくことを許されない。彼の世界は、私たちの世界もまたそうであるように、それ自身ではなく、何ものかの認識であることによって、苦痛とともに、自身をこの場に限る力をもまた同じくすり落とす。彼の持続する日常の時間と出来事は、フロイトへの報告という<嘘>の資格をもってのみ許諾され、したがって彼の話が展開する、交通の概念を軸とするグムンデンと自宅との、錯綜する往復の思い出話は、自身を現在にではなく知の上へと位置づけた父に対する、より多き嘘をもってする、復讐のための劇である。少年ハンスは小スターリンである。それはカール・マルクスの真理の世界の、やがてきたる真の帰結を演じきる。すなわちその責任のがれの絶妙な弁証法は、異なる速度の落差の効果によって、自身の法を作動させ、しかもそのより速い側の審級を、機械の物理的形状による制限に助けられた知の振舞いに基づかせるが、しかしやがてその機械の形状の、しだいに微分され、より無意識へと近接し、剛質さを失うにしたがって、知=真理はしまいに軌道を失って転倒し、さらに他方、法の効果を分配し自身の形状を享受する遅れた側の審級は、それに応じてその嘘を自己目的化して自乗させ、かぎりなく増殖させるとともに、復讐の暴力へと転じだす。物質の多重性によってその虚偽性をあがなわれていた諸表象は、逆に物質の多重性を模倣しだし、ここかしこに存在する。それは自身においてみずからを分割しえない無能さ——=みずからが知であること——の裏返しである。こうしてアフェクトは転倒し、ハンスがとりわけ恐れる馬車馬のように<大騒ぎKrawall machen>しだすとともに、表象は自分は嘘だと主張しはじめ、しかもその嘘をさらに大きくふくらませて、その様を競いあう。
少年ハンスの問題群は、○法の問題・禁止の問題○交通・移動を中心とする日常生活=嘘の領域。あるいは伸縮する時間と距離○馬が疾走し転倒する情動の無数の氾濫、の三つであり、そのすべてを通約するのが、母親の身体から分離する黒いパンツの問題であった。すなわち距離と意味であり、実在/本質と存在である。この三つは、もちろん○法‐イデオロギー○生産関係○生産諸力である。両者は完全に同じである。だが、マルクスの馬=機械は、目の前の人参に対してつねにすでに少しずつ遅れるので、暴走せず、転倒しない。人参は馬の隠された意味であり、われわれの社会の隠された法である。馬が食べない人参に労働者はより多く出遅れている。したがって馬は労働者=人間の本質である。そして馬が食べない人参をひとが享受しはじめるとき、その全体は上側から瓦解する。なぜなら、その全体を根拠づける知がみずからを知りはじめ、すなわち禁止と享楽が完全に一致するのに、社会はそれを自身の力として、その早すぎた死を操作できないからである。ハンスにおいて法の問題は出発点であった、彼は羊を放つ草地を囲む一本の縄を前にして、父にむけ問いかける。<たった一本の縄で場所を仕切ってあるなんて。縄の下をすぐくぐり抜けられるのに>。父の答は<そんなことをしたら見張りの人がきて、連れていかれてしまうぞ>である。見張りの人は来るのか来ないのか? ハンスの世界では見張りの人があっというまに増殖しだす。ハンスの問題ははやくも完成する。見張りの人がそこにいれば縄は意味がない。見張りの人がそこにいなければ、やはり縄は意味がない。ここにおいて命令的言表と経験的命題の混同があると指摘するのは、表現を少し変える以上のものではない。哲学はなにも説明しない。というよりすべてはもはや明らかなのだから、なにも説明する必要はない。哲学がなしうるのは訓練である。汝の首をしてつねにすでに絞首台にかけさしめよ。汝自身をして、いまここで本質たれ。一本の縄をしてみずからにおいて首にめぐらし、それを法たらしめよ。
じっさい一本の縄はハンスの存在と、さらにハンスの家庭である。見張りの人は父の無責任さの代理である。そこではひとつの存在が、それ自身においては肯定されない。ハンスはハンスでなく、症例ハンスであり、そしてより決定的に、——おそらくは——ハンスの家庭は、唯一の家庭、いわゆるユダヤ的な——レヴィナスらがいうところの——隔絶した強い家庭なわけではなく、その父にとって、家庭一般と偶然の家庭の、分離したふたつの気まぐれの一致である。ハンスの存在とハンスの家庭は、その父によって、それ自体が具体性と必然性を重ね合わされたものとして、そこにおいて引き受けられていないのである。ハンスに欠けているのは哲学である。ハンスに多すぎるのは知識である。彼は訓練を欠いている。そこで何かの存在がうまく許されることがあるとすれば、それは縄が見張りの人に対して少しだけずれている=自身に対して少しだけ遅れている=自身への問いに遅れている=たまたま走る力がない、ことによってのみである。その両者はけっして出会ってはならないし、——むろん実際には出会ってしまう——しかしその出会わぬことを本質として、不在として抽象化するほどには、世界はもはや鈍感さをもちあわせない。かくして複数のものの間の距離の微妙な変動が、たちどころにその意味合いと本質を変化させる。存在者は、その変化を感じることは許されるが、その距離を自身で決定して引き受け、それ自身の内部にとどめることは許されない。なぜなら許す神がいないのに、自身を知る=忘却する力もまた欠いているからである。
すでに馬は転倒しだす。問題の基本は母の穿く黒いパンツである。すなわち穿いているときのパンツ、穿きかけのときのパンツ、脱ぎかけのときのパンツ、脱いだパンツ。それらはまったく異なったものである。パンツとの距離。それは一九三〇年代スターリン・ロシアでの、人々の間の距離であった。注意せよ、そのわずかな差が、すべての内容を一瞬のちに変えるであろう。そして今日の私たちである。距離と意味は、ホワイトハウスとクレムリンのICBMの作動ボタンと、私たちの地球全体である。オカルト化しつつある私たちのテクノロジーと、その日常世界のすべてである。そこには機械の配置する今日の第二の局面のすべてがある。そこではあらゆるものが気分であり、調子である。機械はもはや無意識に近づきすぎ、享楽に近すぎるので、調子をうまく分離できない。しかもひとは馬ほどに走ることなく、ただの恐怖症にかかるのである。むろんプラトン以来、真理とは気分であり、存在とは気分であった。複数の調子の気分の共振であった。しかしその比率を調整すること、しかも比率の不在=太陽をあらかじめ作りあげ、恐怖することが、避けられえぬ哲学的訓練とその力なのである。——とはいえプラトンにおいて、太陽は見るものと見られたものの同一の源泉の光であることによって、その一致をいささか安直に再帰させる。しかもそれは形象=偽装を焼きつくしてしまうので、ニーチェを困難へと陥れる。灼熱する太陽は、おそらくそれ自身を、その具体的な形と歴史の過去において思いださせる、レテの平原と通じあわせてやらねばなるまい。それが私たちの課題である。——そして/しかし、今日私たちはさらにさらに認識する。私たちは認識しきるだろう。そして私たちは認識であり、私たちは認識となり、しかし現実は存在しない。私たちはここに生きることを許されていない。というよりは、それを欲するのを畏れているのである。だとすれば、距離を変動させつづけるしか、なすことは残っていない。より大きく、より大きく、すべての嘘を……。それゆえハンスは、その身上報告において、貨物列車に乗って時定まらず、ある時にはまだ生まれてない妹さえ連れて、盲めっぽう移動しだす。しかしそれは、力をもった嘘ではなく、偽装の真実としての偽装ではない。せいぜいやけくその調子であり、すなわち私たちの嘘である——おたがいを分けあうことを知らない嘘……。
今日もはや私たちは、すでに嘘をつかないほど愚直ではない。そして同じく、この場が嘘でないと信ずるほどにも、また同様に愚直ではない。だが私たちの機械もまた、やはり、やがて嘘をつかないほど愚直ではなくなるだろう。すでにそれは、人を安心させとどめおくほどに剛直に安定はしていない。——それはKrawall machenしはじめているチェルノブイリの自然である。——したがって私たちは、お互いに近づきすぎた人間=機械となったので、すでに自身の認識の遅い速度を、ときに自然の、ときに女性の、ときに労働の用語を僭称して、自己防衛的に存続させ、あるいはそれと戯れあう、これまでに試みた彌縫策以外の仕方で、今の時間をここにむけて根づかせる、新しい技術を開発せねばならないのだ。ニーチェが当てになるだろうか? いかんせん、下降する調子においてしか彼の現実は存在しない——彼は疎外論者である——。おそらくはその反対方向、上昇する調子から剥落するときにおいてではなく、上昇そのものにおいて下降しつつ人は出会うことを学ぶことが可能だろう。微細化し無限増殖する認識の力能が、そのまったくの嘘において、その自身の今の形状を、自身そのものの至福として受け取りえること。すなわち私たちであること、今であること、現在を生きること、いずれにせよ人間であること。そしてまたいずれにせよ機械であること。求められている声は、より完成された機械であることを、お互いに為しつつ、互いに知りあえと語りかける。その時にこそ、外在existする鎖の輪のそれぞれの存在は、滞留し、剥落したウーシアから、それ自身においてみずからをやりとりする輝きの光の、その自然へと、脱出existしていくことを能うだろう。闇のなかの一瞬の、星座の輝きの遙かな記憶を、そこにおいて自身の存在となす行為を、われわれは新しい機械たちに待つのでなく、その同じ行為を与える力をもつ機械として、しかしまたいずれ亡びゆく機械として、新たな機械たちのやがて来る登場にむけて、その技術の準備にいそしむ必要があるのである。
以上がとりあえず私たちの問題の場所である。次回より理論的内容にはいる。
——<この項了>


☆一———————L.トロッキー『レーニン』p.220他:河出書房新社
☆二———————M.メルロー=ポンティー『ヒューマニズムとテロル』第三章:現代思潮社
☆三———————プラトン『ポリテイア——国家論——』508原ページ:中央公論社ほか
☆四———————L.トロッキー『文学と革命』第4章:現代思潮社
☆五———————M.フーコー『言葉と物』p.21他:新潮社
☆六———————同第8章「U」ほか
☆七———————『ニーチェ全集』「U」—12—25:白水社
☆八———————同㈵—10—333
☆九———————同㈵—p.1—11以降およびp.262以降
☆一〇——————未訳 Ed. Seuil
☆一一——————P.クロソウスキー『わが隣人サド』p.44:晶文社
☆一二——————プラトン同前621原ページ
☆一三——————『ニーチェ全集』「T」—10—341
☆一四——————K.R.ポパー『推測と反駁』第10章:法政大学出版局
☆一五——————『ハイデッガー選集』第33巻p.89:理想社
☆一六——————「ある五歳男児の恐怖症分析」『フロイト著作集』第5巻:人文書院 


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