『週刊読書人』 87.03.16号
金塚 貞文著「人工身体論 あるいは糞をひらない身体の考察」

断固たる退却への意志
欲望の閉鎖的自己循環の保全を企図
樫村晴香
 
 書名から予想されるハイパーリアルな調子とは反対に、著者の思考はスカトロジーへの偏執を媒介として、人工的で透明な都市 文明、効率のみが覇を制する資本主義的明快さへ執拗に抗がいつづける。その主張は政治的な形でとりだせば、概ねエコロジスト的なものであり、すなわち経済 効率の追求による自然生態系の破壊などに異を唱える。だが、著者の主要な関心は、狭い意味での政治には存しない。むしろ著者にとっての最大の関心は、人工 的都市であれ、エコロジスト的自然であれ、客観的に構築された象徴世界の明快さからこぼれ落ちた、一人称的で交換不能な、欲望の閉鎖的自己循環を、<負性 の身体>の名のもとに、具体的には<糞尿>を媒介として、保全してやることである。その意味でこれは、前著『オナニスムの秩序』の続編である。
 主要な主張は<負性としての身体>という観念に集約される。著者の危惧は毎日の排便の場所である、水洗便所に発する。そこで我々は、日々重要なものを押 し流している。それは取り替えのきかない身体であり、現代文明はそれを廃棄して新しい身体を生産しながら、経済効率の名のもとに、新たに人工的な生態系を 創り出しているのだ。そこで失われたものは、負性の身体ともよぶべきだろう。
 とはいえ、この負性としての身体という観念の内容は、著作全体を通じて通・常・の・意・味・で明らかになっているとは言い難い。それは天皇制のような、 客観化された精神性、さらには経済効率のような、共同主観化された価値の対極に位置する、ひそやかな心の領域だが、それ自体について語られることは閉ざさ れている。というのも、負性の身体、糞便への関心は、著者の思考の発する場所であるとともに、思考が帰っていってしまう場所だからでもある。著者は糞便へ の拘泥を媒介に社会批判を展開するが、その帰結は常に宙吊りにされたままであり、逆に読者は、その社会批判は糞便的自閉への執着を表明し、隠蔽する、一つ の転換症状でもあることを知るのである。
 具体的記述は、水洗便所、大江健三郎の『河馬に噛まれる』、『今昔物語』、精神分析など、糞便に関わるモチーフをめぐって進んでいく。特に大江の作品と 今昔は、これを知るだけでもこの本を読む価値を与えるが、著者の位置の固有性と<負性>が明らかになるのも、またここである。河馬の話は、連合赤軍で糞尿 処理を担当していた少年が、やがてアフリカで河馬を通じ、さらに広いエコロジカルな快楽へと自らを開く話であり、今昔は、恋する侍従を諦めるべく、その糞 便を見ようとした平貞文が、裏をかかれて人造的に創られた香ばしい糞尿を与えられ、より恋心を慕らせる話である。どちらも糞便という、欲動のファンタスム 的部分対象、象徴世界から脱落してシニフィエを失ったシニフィアンの幸福を、再度工芸(アート)を通じて、その快楽ともども象徴世界へと反転してやる、極 めて能動的な話である。しかし著者は工芸的能産を一貫して拒否するので、糞便は負性のものとして、永久に自らに留まり続ける。そこで示されるのは、エコロ ジカルな親和的成長性とも対立する、断固たる退却への意志である。
 読者は明示的論理性をこの本に求めるべきではない。むしろ子猫の尻嘗めをする母猫が自らを置くような、意味形成の手前に留まる単調反復への寛容こそ、糞 便というカードが象徴的な論理照合性を繰り返し断ち切るこの本において、人が求めえる最大の体験である。(四六判、一七四頁・一六〇〇円・創林社)(かし むら・はるか氏=経済学・精神分析専攻)
 ★かねつか・さだふみ氏は哲学専攻。早大中退。著書に「オナニスムの秩序」、訳書にジャック・アタリ「カニバリスムの秩序」同「音楽/貨幣/雑音」な ど。一九四七(昭和22)年生。

 

『週刊読書人』87.09.21号
生井 英考著 「ジャングル・クルーズにうってつけの日 ヴェトナム戦争の文化とイメージ」

世界の<非現実>化を描く
反転不能な変容を再体験
<アメリカの>ヴェトナム戦争を主題に
樫村晴香


  歴史の細片の蒼き茂みに誘われゆく、
  その微睡(まどろ)みのなお甚だしくも甘味なること……


 現実とは奇妙なものだ。それは無数の木々や人の声など、いくつもの物質の組み合わせなのに、それらをあくまで単純な物として、知覚的ディティールだけを 切り離して増大させると、その現実は<現実的>であることを、逆に失いはじめてしまう……
  ★
 本書『ジャングル・クルーズにうってつけの日』は、1962年に端を発し、65年の本格的軍事介入から72年の介入中止と3年後のサイゴン陥落、そして 今日80年代に至る戦争後遺症までを含めた、<アメリカの>ヴェトナム戦争を主題とした書物である。
 ただしタイトルからも当然予想されるように、そこには戦争と歴史をめぐる政治-経済-テクノロジー的な無意識的因子を取り出して、時間の流れを再構成す る、いわゆる理論的生産への関心はない。反対にここで目指されているのは、ヴェトナム戦争の時代を通じてアメリカ社会に醸造された、人々の文化と心性の反 転不能な変容を、豊富な一次資料を駆使して記述的に再体験することである。
 それゆえここでは、この戦争を生きぬいた多様な人々――志願兵、徴兵者、兵役忌避者、泥沼のなかで地獄の現実に遭遇した地上兵、空からエアコンつき戦争 を楽しむパイロット、反戦運動のヒーロー、偏狭な軍人たち、カメラマン、体制的あるいは非戦的ジャーナリスト、白人、黒人、そして戦争文学者……――の体 験-言葉が、縦横に裁断され、接続され、モザイク状に、あるいはフラッシュバック風に積み重ねられていく。
 その明らかに映画的、ないしは映画批評的手法を念頭においた展開は、極めて洗練されたものであり、そこで重畳される多量のディティールは常に軽質のス ピード感へと転換され、500余ページの重厚な分量も、けっして読者を飽きさせることはない。
 そしてその展開がそれぞれの形で目指しているのは、ヴェトナム戦争という、私たちにとって<普遍的>な事件を通じて形成された、あるひとつの精神状態、 ――すなわちより強い刺激へと精神が馴化しはじめ、外界の出来事の現実感が喪失し、そこに立ち会っているのが本当の自分だという感覚がもてなく(あるいは もたなく)なって、自分と世界の硬質な感触が失われていく、そういった世界の根底的な非現実(アンリアル)感覚を、同時代的感情として、再度心象化してみ せることである。
 つまり世界の<非現実>化ということが、本書の主題に他ならない。しかも正確にいえば、戦争を通じて人々の精神を占拠した非現実的感覚を、言述の内容の 水準で確認-検証するというよりも、細断された言述の重層そのものを通じて、その非現実性を再度二次的に実践し、均質な感情状態として再演-消費すること が、ここで重きを置かれていることである。
 そのことからしても、ヴェトナム戦争という愚かな目的と不鮮明な意思決定によって開始された闘いの、その酸鼻を極める殺し合いにいきなり対面してしまっ たことで、自分の精神をまず始めにoffにした前線の兵士を描く、<§8:心のなかの死んだ場所>や§9のような章よりも、戦争をテレビ映像やスチール写 真や記事として、あるいは小説として再加工することで、<非現実>を感性の中心に構造化していく経緯を描く、<§4:アメリカン・ウェイ・オブ・ ウォー>、<§5:冬の音楽>、<§11&§12:想像力>、<§13:夜のような緑>といった章の方が、この著作の関心と実践そのものに、より正直な整 合性を与えている。
 ただしこれは読物としての面白さとは別である。むしろマテリアルを、心象世界的に、あるいは<非現実>として処理することがあらかじめ決定されること で、題材が苛烈さを極めるほど、それはなつかしく感傷的な感情を、読者に向けて与えだす(その点で、例えば矢作俊彦と大友克洋の『気分はもう戦争』のよう な作品を、人は思い出すことができるだろう)。
 このことが特に前面化するのが、<現実>を構築しつづけた、ホー・チ・ミンを中心とする北側の革命家たちを描く<§6:ヴェトナム・ミステリー・ツ アー>や§7で、そこで人は、近代的な力がもつ硬質な感情とは反対に、いわば純粋なノスタルジーに近い、ほとんど美しいともいえる印象を与えられることに なるのである。
 つまりここには、<表層批評>とでもいうべき手法を歴史的事象に適用することの、ひとつの問題が存在する。すなわち北側であれアメリカ政府であれ、ある 種の妄想的確信をはらんで、歴史的事件を形成させる自己肯定的な力の作用は、そこにおいてはあらかじめ記述世界の外側に放置される。しかもそのことは、は じめから<現実>の不在を世界に受け入れてしまうこととなり、他方での<非現実>も、現実から立ち現れてきた新しい事件としての生々しさを、最初から刈り 取られることになってしまう。
 極めて強引に問題化すれば、<非現実>を非現実のコピーとして再演することで、現実も非現実も、均質な感情のなかに融解する事態が発生するといえるだろ う。つまりそこにおいて非現実は、例えばバロウズやディックにおけるように、物自体の不気味さや資本主義的暴力と結合した、新しい様態と可能性をもつ個別 的感情となることはなく、みずからのなかに普遍的に安らぎだしてしまうのだ。
 これはおそらく、私たち日本の<ポスト・モダン>がはらむ、種別的な問題である。そして本書はその意味で、<私たちの>非現実こそを描き出したものとい えるだろう。
 したがって、いわゆる<今風の>という点で、最高水準に位置することは間違いのないこの楽しい本を、ある種の悪意とともに読むことを、ここで読者にお勧 めすることとしておきたい。(四六判、五二八頁・二八〇〇円・筑摩書房)(かしむら・はるか氏=哲学専攻)
 ★いくい・えいこう氏は文化史・写真論専攻。慶大卒。一九五四(昭和29)年生。


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