研究手帖
人肉レストランでの体験
現代思想23巻10号 1995年10月
一昨年の夏、私はラゴス近郊のある街で、人肉を食べさせるレストランに行く機会を得た。招待してくれた画家のLによると、この手の店は世界中にあるが、調理前の肉をちゃんと見せてくれる所はここだけだという。私は禁忌や侵犯の悦楽、といった観念とはほど遠い場に生きているので、大きく期待するものもなかったが、何しろ料理の値段が法外で、独力では又とない機会に思え、招待を快諾した。それにいざ食べるとなれば、多少の葛藤は生じるはずで、その内的感情をもとに、牛肉等の禁止の観念一般も、より深く解析できると思ったのである。
料理屋では白人の料理人が、銀皿の上に乗った肉片を見せにきた。表皮は黒っぽくて毛がなく、最終的確証はないものの、確かに人間のように思われた。かなり待って出てきた料理は、トマトベースに多量の香辛料で煮込んだもので、完全な「料理」であり、余計に奇怪である。私はどちらかというと、友人が期待しているはずの食後の講釈のことで緊張しながら、目の前の肉に手を付けた。
肉の味は豚肉をずっと濃くしたようで、歯ごたえは安い牛肉に近かった。食べていると、感覚は自然と肉に集中し、自己の咀嚼運動が、自分を圧してくる感じがする。この可哀想な不幸な男、という感情が生じ(女の肉かもしれないとは全く考えなかった)、彼は何を考えていたのかを想像してやらねばならない、などとも思ったが、厳然たる死体の感触の方が圧倒的に強まってくる。私はカマキリが共食いをしているのを見た時の、いやな感触に囚われ、さらに、自分で自分の手や足を食べているような、最低の悪循環に落ちていく気持ちがした。それは食べることが最も深いところで抑圧している、不快さのようだった。今思えば、存在の始源には母という肉片=乳房から強要された咀嚼の破壊的反復のみがあり、その肉片から他者(母)が昇華され分離すると共に、主体もまた分離し生じえたとするなら、その肉片が死体としての他者に還ることで全てが反転し、自己もまた肉片に還り始めたのだろう。禁止の法は最深部で、多分この反転をこそ禁じている。私は、口が口の中で噛み砕かれていくような感触に襲われながら、やがて薄ぼんやりと、完成したアンドロイドが初めて食事をさせられた時の、困惑と屈辱感のことを想像した。

樫村晴香トップへ