『革命の諸要素』

『四つの運動からなるわが方法』★一

『四つの運動からなるわが方法』★一

今日の社会にひろがる私たち、私たちとして凝集する諸事物の運動、そういった全体としてのひとつの出来事。それを理解し介入するために、それらを戦略的に四つの運動に結接させて描写することができる。その四つとは、現実の過剰、ことばの過剰、そして現実の過小とことばの過小である。
 
 

外部をもたない限りで、人はこの四つを同時に生きる。しかしそれとして知られるのは2×2=4の組み合わせの状態である。これは人が何を見ないかによって決定される、あくまでも四つの種類の物語だ。それらは共存しつつ、互いに他を教育する。人は自らの出発点を自由に選ぶことはできないので、見ないことの効果としての私たちは、したがってまずその四つの物語を分類――並置することからはじめよう。
 

1.秩序的分割

a.現実の過剰とことばの過小
 

欠如の不在。新生児、精神病。幻想的世界への超個人的退却。多様なものの普遍的相同性、フェデリコ・フェリーニ。偶像としての神々。ファルスの不在による構造化の不在、交通不能性。
 

b.現実の過小とことばの過剰
 

すべての形而上学。決定不能なものによる全体の縫合、スタンリー・キューブリック。不在的現前、因果関係。唯一のファルスが循環する世界。現実の反映。主体=欲望。差異の網目。ニヒリズム、資本主義と百万本のコカ・コーラ。万人の万人に対する競走もしくは屈従、共同主観。あらゆるゲーム。熱力学第二法則。
 

2.革命的分割

a.現実の過小とことばの過小
 

絶対的顕現、絶対的可視性。よろこびに満ちた自然、明るさ、光。神秘的瞬間。神のことば(司祭のではなく)、女性的発話、発話と意味作用の一致。ファルスそのもの。時間の解体。偶然の必然化、エントロピーの不在。回顧するものを回顧する作用じたいにおいて生きること。(ロシアの)アンドレイ・タルコフスキー。
 

b.現実の過剰とことばの過剰
 

反映の現実。科学的欲望、科学的誤認。必然の偶然化、エントロピー増大法則じたいの生産‐消費、劇中劇の無限循環。重層されたファルス。万人の万人に対する優越性、共産主義。真理を生産するゲーム。愛と労働の結合、ジャン=リュック・ゴダール。
 
 

これら四つの物語は、あくまでも政治‐社会権力の四つの様態であり、それゆえどれも、時空間に一定のひろがりを持つ、主体と欲望の変数である。
 
 

現実とことば。それらはどちらもまったく同じ、無数の音、無数の映像、無数の感触に分解される。その両者のちがいを、私たちは形而上学の歴史のはじまる前に、漠然と知る。現実は私たちの攻撃に対する、柔和かつ強固な抵抗としてまずあらわれた。私たちを主体として形成する、複数のものの間の支配する関係――力の関係を、純粋に量的に上まわる関係として現実は存在しつづける。私たちの欲望は、ひとつの凝集的な作用として閉じることを、最終的に現実に向けて目ざす。というのも、現実はそれ自身においてうち震え、他を自らの犠牲にせず、人はそこにおいて閉じることから解放される。しかしそこでもまた、よりはるかな凝集が存在するのだ。
 
 

私たちに必要なのは現実であり、私たちは現実を目ざすが、私たちと現実の出会いは、ほとんど常に、ことばによって示されることばでしかない。他方でことばは、現実に対する優位を、そのとり結ぶ関係の簡明、貧困さによって確保しようとするが、休むことのない動きのなかで獲得される優位は、常に他のことばに対してである。だが、その際限のない休みなさゆえに、その支配関係のはざまにおいて、ことばは自らの犠牲となったことばとして、自らの優位ではなく、自分自身を証明する。それは現実として、帰還したことばである。ことばの意味は現実にではなく他のことばにしかないが、その連鎖によって排除され、かつ証明される現実に向けて、連鎖それ自身反転する。
 
 

だがいずれにせよ、ことばや現実について人は罪なく語ることはできない。真理や実体や過程について人が語るとき、そこで同時に語られているのは、具体的な種々の欲望、都市政策、セックスと商品経済の関係、出版界の諸事情等々だ。それらは、社会的成層のさまざまな場所の、さまざまなたたかいの効果として残像し、消えていく。問題となるのは、さまざまな生活だ。人はそれについて語り、または語らないために、ことばについて考える。こうしてことばについて語りつつ、人はその語ること自体のやり方において、ことばを形而上学に帰属させ、ことばそのものの、伝統的な慎み深い権力を再演する。
 
 

だが、それでもなお、さまざまな生活を、単にさまざまなものとして語ることはできない。「総体的で一般的な真実」ではないが、「全体についてのある種の感情」★一を引き出す必要がある。というのも、街頭の騒音や無数の広告といった、さまざまなことばのみが、私たちの生活であり、それらは競合し命令し合う、ひとつひとつの力なのだが、それらはまた相互に、お互いを隠し、励まし合っており、人はそれを感知することを学ばねばならないからだ。
 
 

つまり、単一の力もないかわりに、スーパーマーケットで売っているようなばらばらな力というものもなく、人はその共犯(すなわち国家独占資本主義!)そのものの中からしか、新しい共犯関係を作ることはできない。ことばとことばのあいだについての技術を学習すること。
 

――そうなの、しゃべるってことは真実を引用することでなきゃいけない。ブレヒトおじさんがそう言ってたわ。俳優は引用すべきだって。
 

真実と引用は、日常的には常になれあいのもとにある。真実は引用されることによって遠ざけられ、その権力を確保し、引用は全体としての「一」を反復する無内容な羅列となる。そのフォルムは政治的権力の仕組と相同であり、そこでは書類や財が循環するが、そこにおいて引用を中断した主体は、その中断そのものがたちどころに意味する物理的制裁――書類の不在、財の不在、すなわち欲望の不在――を、真理からこうむるだろう。必要なことは、真実と引用のなれ合いを断ち、二つをたたかわせることだ。そのたたかいの遂行を、ゴダールは言いつづけた。彼は厳密に真実を引用すること、引用が真実であること、引用において、真実を「発見」することを要求しつづける。
 
 

なれ合いの真実の引用。それはその正反対、誤謬の定言の「現存在」的様態だ。たとえば全体としてのひとつの構造、<他者>の要求、すなわち神の誤謬。それはひとつの平坦な場所として現実から切断される。厚く不透明で無際限な運動としての現実を、一身に集約しつつ整流し、平面を恣意的に分節するのがファルスの作用だ★二。一義的な場所を持たないことの権利を独占し、唯一のパラドクスを全体に配分することによって、平面的循環を形成するファルス。それは恣意の種別性を決定する限りで、ひとつのゼロ音素としてシニフィアンとシニフィアンの間に存在する。その誤謬の平面に投げこまれた主体は、「欲望の対象a」をめざしつつ、あらかじめ決定された決定不能性へ向けて走り回る。誤謬を真実へと変化させる真理の運動は、欲望のこの先天的構造、誤認を求める自我の作用の、制度化された再演だ。私の語ることばが私の十全たる代理であることを求めるゆえに、私が語る時に語られなかったことばを、あなたのことばが与え返すように、と、欠如を相手に送りわたしつつ、主体はことばとことばに充填される。このときファルスは、シニフィアンとシニフィエのあいだに存在し、正確にはシニフィアンによるシニフィエの抑圧=代理が完遂して両者が合一する幻想を、自らの運動として吸引する。
 
 

ラカンは、この物語から、科学というべきものを取り出すこと、すなわち物語を支える現実的な権力を除いたあとにも、なお除去できないものを知らせることを仕事とした。
 
 

この物語は、もちろん形而上学の原型であり、そこで私たちの愛の営み――自らの欠如を贈与する振る舞いは、神の冗談を先取りさせられ、しかもその全体としての構造を特権的に代理する「ゼロ」の二重性が出現するなか、それは現前性への神話=現前の不可能性の独占として完成する。
 
 

(先行する空間構造を、時間に展開することによる絶対的支配。しかし現実には、すべての社会制度――生産様式においても、時間的奥行を空間的に独占する特異点「ゼロ」が先行し、それが全体としての空間構造を配置し、再度それが主体に配分――時間化される。天皇、資本、etc. つまり、現前性〔の不可能性〕としての形而上学が、一般的な真理の存在に先行し、かつ可能にし続ける。あるいは単なるゼロ記号でなく、あくまでファルスであること)。
 
 

こういった真理の物語は、最初のゼロと+1によって組み立てられる、均質な数列に比すことができる。そこでは全体を形成――循環する+1の働きが、それとして抽出されるのとひきかえに、ゼロ以外のすべての数は、それとしては存在しない、全く同質のものとなる★三。
 
 

ラカンはそれに対して、ボロメアンの結び目を提示する。ここでは+1はそれとして示されないが、一つの輪の切断が、ひとしく全体を解離させる。彼はそこで現実界、そして現実界、想像界、象徴界に等しくかかわる堅固な力を語る。
 
 
 
 
 

このトポロジーにおいて、ひとつひとつの輪は全体を特権的に支え、かつ全体の効果を受けるが、輪と輪の相互関係という、最も上位の審級は、それとしては「隠れた」ままになっている。
 
 

そこでは、あくまで「全体」が存在しつつ、しかしそれを結びつける単一の欠如が存在するのではなく、しかしそのどちらも、それとして見ることはできない。
 

――たとえば欲望だけど……欲望を感じても、その対象がはっきりわかっている場合とわからない場合があるのよ……
対象と正確に結びつかない表現というのはどういう表現なんだろう?
……命令とか論理とかがそう……そうよ、たとえばなにかが原因で私が泣く場合、その原因は、たとえ涙のなかには見つからなくても、でも頬のうえの涙のあとのなかには組みこまれる……
 

ことばのなかの対象ではない。だがまた、単に見落とした論理を発見することでもなく……。
 
 

たしかにことばは、まず何かを表現する。主体に向けてそれを差し出し、主体を差し出す。ルソーが言ったように、表現することは一方に他方をつめこむことだが、それは人間の欲望の、不変の関数を再演する。自らを他のもので代理すること、ひとつの審級で代置すること、評価され賞讃され単純なことばにとってかわられること、減衰した差異、ひとつの様式で全体を先取りすること。その仕組は、経済――政治的権力を通じて整序されつづけ、その支配的な構図、さまざまな演劇の種類に、マルクスは生産様式という名を与える。
 
 

つめこむことと命令することは同じことであり、ことばにあらかじめ与えられた論理がそれを可能にする。ことばは最初からつめこみ合うべく作られ、そう動く。意味を持つこと――意味を伝えることと、命令することは、同じ働きの二つの次元に存在する。
 
 

だが、その命令の連鎖、快感の関数の展開は、つめこみ合うものである限りで、内部に向けて無限に密度の高い領域をひろげる。とりあえずそれが現実である。ニーチェの表現を使えば、現実に対することばの少なさが、主体の同一性――後ろを向いたやましい力を形成する。そして加速された認識の力、より強められ差分化された意識によって、その差は無限な差異の中で解消するとされるが、そのプロセスをそこで絶対的に増大した強度で除するなら、その全体的フォルムそのものは、形而上学と主体の歴史の、おそらく逆転映写のように振る舞うだろう。そしてハイデガーは、そこに含まれる方向は、すべて形而上学に属するものだとしつつ、やがてそれに対する自らの位置をトポロジーと名づける。
 
 

より広い現実。しかしそれもまた抑圧の、あるいはそれ自身の再現の動きに従うかぎりで、いくつかの言葉だ。だが、ただひとつの抑圧の動き、あるいは単一の道をたどる+1、同一の場所に回帰する反復を考えないならば、そのことばは、真理のことばの流れに対して忍従し、水平に運動する形而上学の表面で、それとは次元を異にして関接し、しかしなお、自らの運動をそこに積算させている。
 
 

したがってそれは、ひとつの排除されたことばではあるが、「象徴界へと構造化されなかったことばが、いきなり現実界から現れた」ようなものではない。純然たる分裂症的排除を語るなら、逆にひとは、複数の運動を、ファルスの円周的回帰によってのみ語る(または語らない)ことになり、かといって弁証法的真理を持ち出せば、欠在するものを分割させたのみで(資本家と労働者?)、その共犯――統合は、逆に不問に付されるだろう。
 
 

沈黙の中のざわめきとともに、そこにおいて、あらかじめすべて存在する力の方向を、それが支える最大の出来事――神――歴史にあらがいつつ、引用すること。すなわちひとつのたたかい。
 
 

神の一撃とひとつの世界、という神話。それは神話であるかぎりひとつのフィクションだが、それは永遠にもどりつづける最も快感効率のよい神話でもあって、それゆえその物語に身を重ねつつ、それぞれの形で力の環を形成している現実へと、意味論を重ねつつ降りねばならない。
 
 

したがって、存在に欠在するものとしてのファルスが、それ自体ひとつの場をもつとするならば、それを指摘することは、平明・素朴な政治的スローガンになるだろうが(無神論的な、あるいは資本主義的一元性に対する)、ファルスを単純に分割することを主張するなら、人が使用できるはずの力を見失なうなか、中心の不在化を構造化の作用の全体への均質な分配として、再度回収しかねない――とはいえ、デリダのラカンに対する諸批判のアクセントは、全体として、真理の、現前の、所有化のプロブレマティックが、最初の「固有財産」に近づくことの難しさをめぐって、配置されているように思える。しかしここでの問題は、その両者を同値とした上で(冒頭1‐b)、固有財産の問題(ゼロではなく+1)から、所有化の問題に近づくことの困難にかかわっている。それは一つの結論に向けた、政治的路線の相異なのだろう(じっさい、世界の結論とは常に同じものだ)。他方後期ハイデガーはといえば(無論その全体的企画は別として)、その両者の問題群の、ほとんど単純な分離を示している。デリダがハイデガーと「決して反対ではない」道を歩む中で、おそらくニーチェの方に向いた部分の、純然たる政治的利益と損失といったものを、考えることができるだろう★四(しかしここで述べていることは、ニーチェとハイデガーの第四ラウンドではなく、単にゴダールの作品を観るだけで、十全に学べることだけだ。必要なたたかいは、一ヶ所からすべてを学ぶことにある。最も強い結合のみを様様な場所で学ぶことは、単一の道すじを強迫的になぞらせる、真理の権力や資本主義のやり方だから)――。
 
 

加重される意味論(重層的な言語表現の層というのではなく、その欠在するものじたいにおいてずれた)、欲望そのものへの偏愛の中で、欲望の再演装置の「最も弱い環」を見つけること。
 
 

政治的権力装置は、同一化の不能性を次々に先送りすることによって、欲望の閉じた回路を作り、快感の最大値を演出するが、そのことによって「根拠の不在」という問題を人工的に作り、主体に対する罰として、ニヒリズムや強迫性を与える。そこにおいて、その形而上学を逆転するのではなく、常にすでに新しい形而上学を始めるべく、欲望の関数の制限の内側で、「根拠の不在」を自らのものとして回収しつづけること。
 
 

あるいは、すべての役者が観客であることの権利を保ちつつ、ひとつの劇の中で、ひとつずつ舞台の配置がずらされた、無数の劇が一度に演じられること。じっさい、ひとつの世界は、その平明な神話とは反対に、内部に存在する無数の外部――神を消費している。
 
 

――しかしその明らかな一つの劇と、それと等しい無数の劇を、単純に、例えばホログラフィーの三次元像と二次元干渉図の関係のように考えることはできない。そこでは「明らかなもの」と「隠れたもの」は、交錯するのではなく単に並置され、等しい差異を有し、明らさまに全体を全体に回付する愚かしさをものがれている。そして欠如の存在が、自動的に真理の問題圏へと移譲されることは、うまく回避される。しかしそこでは、主体の構造を起源とした問題はすべて抹消され、欲望は解除され、それゆえ、ひとつの次元から他の次元への回付そのものにおいても無限にくり返される、権力闘争といったものは知られることはない(このたたかいの多形性こそ、私たちの「味方」なのだ)。唯一の欠如という問題への拒否が、問題そのものの不在化によって拒否されたり、欠如それじたいのみで形成されたプロブレマティックによって、均等に全体化されてしまうこと。それは、形而上学を「単純に忘れる」ための「東洋的」トポロジーの本質的反動性であり、ニーチェ的永劫回帰が、主体の構造の極限値を与えるのとは対照的である――
 
 

そして分離線の発見――移動の効果を持つ劇中劇の再演。それは新しい客席を設定することによってより強められ完成された欲望を目ざすものではなく、あるいはフロイト的否定の効果によって、一ヶ所に意味論――舞台を集中することで意味――主体の真空地帯を作るものでもなく(マゾヒズム的?)、ひとつの舞台、ひとつの欲望、ひとつの形而上学の統括性を、外側に囲いこみながら、すべてあらかじめ存在している真実の運動を、けっして無害ではない仕方で再結合させる。無数のことばによる権力のシナリオの意味の過剰化。
 
 

だが、それにしても、抽象的に展開されたこの「真実の引用」、「かくれた論理の発見」が、いわゆる無意識の言説化、その事後的な生産――すなわち政治権力のシナリオの単純再生産と、いかにして異なることができるのか?
 
 

そのためには、あらかじめ存在する真理のただ中にありながら、ある特権的な仕方でそこから見はなされた現実、絶対的な過少の場を知らねばならない。それは、形而上学が与える威嚇としての「根底の不在」、資本主義が与える暴力としての「欠如からの絶えざる逃亡」を、自ら自分自身に与えつづけ、かすかに震動し、権力の平面から逃れているような点である。
 
 

ここは、一般的に論ずることが不可能な地点だが、しかしまたしても、ある種の「愛」として、私たちはそれを知るだろう。それは常に新しい形而上学が始まりつつ、自らに回収される場所であり、ただひとつの舞台に統合された力の、新しい結節点として、ことばとしてではなく、現実の世界にたたずんでいる。
 

今、十六時四五分。ジュリエットについて語るべきなのか、それとも木の葉について語るべきなのか? というのも、いずれにしろ、この二つを一緒にすることは不可能だからだ。なんなら十月のある午後の終わりころ、この二つのものはどちらもそっと震えていたとだけ言っておこう。
 

主体はことばによって組み立てられ、資本主義はことばによって組み立てられる。
 
 

そのとき愛は客体の側にある。たとえば「テーブルクロスの白い布地、窓ガラスの向う側」。だからそれは、存在に何も与えず、何も受けとらない。それは語ることからのがれるゆえに、支配されず、そしていかなる力もまた持たない。それは世界に何もつけ加えない。
 
 

だが、そこにはそれ自身に向けられた、中和された運動がある。それは自らについて語ることを世界に求めないが、自らを完全に支配している、世界に対する特権的な無知である。
 
 

ここにおいて物質という言葉の、最も基本的な意味を見いだすことができる。それは、構造がその場所に与える(ラカンが言語について言うような)物質的支配、といったものの対蹠点にあるように見えつつも、その自らを反復し閉じる働きにおいて、それと等しい。それは自分だけに語りかけられることばであり、自らに向けて、基準を与え、奪う指図を含んでいる(パスカルは、神の物質性について語っている)。
 
 

ことばから組み立てられる主体において、人は自らの欠如を永久に譲渡しようとして、その根拠の不在(譲渡の回路)を真理に譲り、逆にそれにおびやかされる。愛はその不在を自らにかかえつづけるゆえに、ことばはそこに立ち帰ることによって、欠如を互いに交換しつつも、その交換の真理の不在を自ら引き受けることができ、またそうせざるを得ない。それは唯一の観客としての権力の作用を中断させる。
 
 

固有の場を持たない力、帰還する回路を持たない代置――抑圧の流れ、単なる余剰でしかなかったことばの反復は、愛の寡黙な空間を通過する時、一瞬その権利を回復する。
 
 

かつて若いマルクスは、財の譲渡に権力の発生の始源を見た。そこでは、主体を代置し抑圧することば=財は、譲渡されるや常にかなたで消費され、主体はそのことによって逆に譲渡の安定した回路を得、権力に服する。財は特殊なことばであって、それはモノとして消滅できることによって、統御された円環回路を持たずとも、ひとつの劇場としての要件を得ることができる。その事実の上に、土台構造の権力舞台としての決定性が形成される。
 
 

欠如を押しつけることば。それによって成り立つ主体という物語。その物語の根拠のなさを常に回収しつづけ、物語を始めつづけること。それは終わりなき分析であるとも、要するに哲学の基本的な教育の役割であるとも言える。とりわけキェルケゴール。
 
 

愛と余分なことば。ことばは、包含し抑圧しつづける力の流れだが、実際の対話において、その終わりなさ、不可能性を他者にも見ることにより、不可能性そのものにおいて鏡像的な共犯を結び、自らを真理とする。愛は、あるいは現実は、そのことばを欠いた共犯であり、余分なことばは、共犯を欠いたヒステリックな力の流れだ。両者を間歇的に出会わせること、しかし決して出会わせすぎないこと。また同時に、絶対に出会わせないことによって、不可能性そのものを独立した審級にし、そこにおいて不可能という共同体をも作らないこと。
 
 

真実と引用の緊張の手前で、私たちはまず、愛と饒舌的反復の関係を学ぶ必要があるのだ。ゴダールの作品において、両者は特権的な交錯を描いている。一方での沈黙、敗北、無力、風景。他方での毛沢東万歳、ニーチェ、キャロル、引用、引用。それは単なる休息と運動、ヴァカンスと資本主義のなれあいではなく、ことばにも自らの観客になるすべを教える孤独な震動と、帰還できない力の向きの、一瞬一瞬の結合だ。
 
 

しかしそれにしても、愛が先どりされ冗談のようになり、すべてが冗談になりつつ真理へと反転する時代の、強者の欲望の舞台の動かし難さ。そこではさまざまな起源と欠如はますます遠ざかり、無知は常に多様に教育され、中心の舞台に屈従させられ、革命的はじまりは、自らの内部へとさらに落下していくように思われる。
 
 

★一 『彼女について私が知っている二、三の事柄』に付されたゴダールのエッセイより。以下見出し部分、同作品より引用、『ゴダールの全体像』奥村昭夫訳編より。
★二 ただしドゥルーズによって簡略化された表現。cf.『意味の論理学』セリー30 etc.
★三 『講義]]U』in Ornicar n°3 etc.
★四 『真実の配達人』、『エプロン(尖筆とエクリチュール)』etc.


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