存在の犬
物象化論と弁証法*唯物論
クリティーク3号 1986年4月


『私は目の前のひとつのりんごを見る。そのとき私は、あなたもこのりんごを見ればいいと思う。
x:りんご」
y:え? りんご……」
x:りんごがここにある」
y:……ああ、りんご、そこにあった」
x:ここにある」
y:そこにある。でもまだ青い」
x:真紅な」
y:……」
x:真紅な、」
y:そう、真赤な。そしてここにある」
りんごは私を肯定する。否定されるのは見つづけられた無数のりんごで、救うのはあなたの言葉だ。
まず無数のりんごがあり、それをことばが表象する。そこで表現されるのは私だ。だが私は、無数のりんごも自分自身をも、知ることはない。それらは存在しない。
存在するのはあなたのことばであり、あなたがうまく答えてくれるなら、あなたは無数のりんごを見たのかもしれない。そして、あなたの沈黙にすまう無数のりんごの気配が、私を生かす。

かぎりなくことばが貧しければと思う? そうすれば増大した沈黙の領域の不確かさのなか、そのことばが予感させるかぎりないひろさのなか、私そのものであることばと無数のものとのつながりが、くりかえされ、想起されるかもしれない?
だがこの貧しさへの試みは、根源的弁証法は、不確かさの不安に耐えられずにやがてつぎつぎとことばにたより、差異化と唯物論をおびきよせる。弁証法的唯物論、または物質的対話性。あなたのことばは私の過去の証明であり、限りなく続く時間の恐怖から、私を救う。ただしほんの一瞬だけ。

 *

愚か者のりんごは、りんご自身を肯定し、みかんとかぼちゃを否定する。
X&Y:りんごはみかんを否定する。みかんはかぼちゃを否定する。かぼちゃはキャベツを否定する。
X&Y:りんごはみかんでなく、みかんはかぼちゃでなく、かぼちゃはキャベツではなく、
X&Y:そう、りんごは、つねにすでにみかんとかぼちゃである。くり返される否定の同型性に、すまうのは私とあなたの同型性。りんごは私、りんごはあなた、あなたはみかん、みかんは私。
X&Y:りんご万才、みかん万才、唯物論万才(注1)
X&Y:私万才、あなた万才、弁証法万才、
    万才、同志スターリン!』

  注1 このあとに資本主義万才! をいれてもよい。唯物論は無時間性と、不在す     るものの不在のなかで私やあなたを一拠に証明すべく、ニーチェ主義ととも     にパルコの特設会場でタタキ売りされるだろう。
  注2 cf. 前半:ヘーゲル『精神現象学』(河出、岩波)A―1。
       後半:廣松渉『存在と意味』(岩波)第一篇。
  注3 なぜりんごか? それはもちろんその名とともに、信ずることの楽園から知     りつくすことへの地獄がはじまるから。

 *
 

私とあなたがとり結ぶさまざまな関係が、私とあなたによって織りなされた関係であるにもかかわらず、まるで自立したモノのように立ち現われ、すでに動かしがたい超越的な固さをもって、お互いの関係におおいかぶさり支配する。人と人との関係が、まるでモノのように、ないしはモノとモノの関係や性質であるかのようになってしまうこと。そう感じられること。ヘーゲルの声をさえぎりながら、マルクスとともにはじまる思想史の伝統において、それは社会関係の<物象化>ということばによって形容される。
日本において物象化という問題群は、廣松渉によってひとつの哲学大系にまで高められた。一九三三年生まれで二十冊余の著作をもち、おそらく物象化という言葉とともにひとつの時代の代表者としてその名を残すだろう、この思想(史)家は、物象化論というプロブレマティック(問題のたて方)を、疎外論というプロブレマティックに対置することから出発する。一八四五年春にマルクスが書いたフォイエルバッハについてのテーゼ、そしてその翌年から書きはじめられたいわゆる『ドイツ・イデオロギー』といったテキストが、その転回の特権的な記念碑となる。すなわち抽象的で内面的な人間性、人間的本質といったものがあるのではなく、<類>的存在としてのみ人間の本質はある、ということ。そしてその類的存在とは、けっきょく社会関係の総体、人間がとり結ぶあれこれの関係のすべてに他ならない、ということ。
なされるべきことは、どこかかなたにある抽象的な本質をとりもどす(=疎外論)ことではなく、人間を規定し、人間と人間の世界そのものであるともいえる私たちの間の間主観的な現実の関係を、自明で惰性化し<物象化した>状態から、自覚的に<言及され>、意識的に形成される水準へと移動させることとなる。こうして物象化論は、一方では、つねにすでに共同主観的な構造をもち協働的な連関として存在する、人間主体・人間の世界の真の構造を明らかにする、体系的な問題のたて方となる。それは従来の主――客二元的な世界像、客体の側におけるシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)、ことばと意味といった二分法、主体の側における身――心、意識と意識作用といった二分法に対置される、あらたな存在論的な用語となる。物象化とは、人間というものへの第一義的な規定性をもつ、<関係>ということを、問題提起することばとなるだろう。しかし他方で、物象化論は、そういった必然的汎歴史的ともいえる、関係に規定され関係としてのみ存在し、その関係を自然なものとして(物象化して)受けとる人間のありかたを乗り越えるための、つまり共産主義革命のための戦略としての理論ともなる。それは自覚されることなく織りなされたことばの体系、ふるまいの総連関、人間と自然の関係といったものを、<あらかじめ>目ざす形で目的意識的に織りなすための、体系的理論となる。より正確には、それは現実の<即自的な(=無反省、ということ)>共同性を、体系的に記述し、対自化する、つまりメタレベル(上のレベル)へ移動するための一般理論となるだろう。
こうしてマルクス主義は、幾多の多様な歴史と(その構造化された)幾多の現実の多様性をのりこえて、世界の構成についての一般理論と、世界を記述し乗りこえる、もうひとつの一般理論へと高められた。低い全体から、理論のはしごで高い全体にのぼること。
<さあ、みんなでメタレベルに昇ってみよう、下にみえるのは何?……>
そして困難がはじまる。

 *

マルクスにおいて物象化論とは、まずもって資本論という政治的科学・哲学・プロパガンダのことであり、それがほとんどすべてだった。すなわち、私たちは会社にいって給料をもらい、貯金して利息を受けとり、そして社長と株主は利潤と配当を得る、といった表象の体系・イデオロギー体系に対し、手に入れることができるものはすべて労働する人間が作ったものでそれは彼らの手にわたるべきであり、にもかかわらず資本家や預金者や地主は、工場その他への法的(=かってにデッチあげた)支配権をもとに、作られたものの過半をピンハネしているのだ、という表象体系を対置すること。そしてそれを主張し続けることによって、前者のイデオロギー体系を再生産し続けている、現実の生活の総体的なプロセスじたいを叩きつぶすこと。それのみが問題だった。それは社会関係や象徴体系の総体にわたる戦略ではない。
ところで資本主義的なマーケットシステム、つまり搾取=財の不等配分に向けた競争において、物象化を廃棄すること、つまりお互いの関係を、即自的なものから、対自的、反省されたものへと移動する、とはいったいどういうことだろうか? それはマルクスが提示した<労働価値説という政治的プログラム>とだき合わせて考えれば、要するに配分を平等にし、そしてあらかじめ平等に意思決定を行ないましょう、ということである。しかしここでたんに対自化する、ないしメタレベルに立って決定する、ということのみを(マルクスの対案と切りはなして)考えるならば、それは<人々が自らを主張し、自らの存在をかけ、その存在のために他者と関係する>ための領域としては、財の配分領域(=マーケットシステム)を完全に禁圧し、麻痺させ、殺してしまう、ということを意味している。
諸関係という現実を、メタレベルにたって、あらかじめ目ざした形で生きること。それは現実を過去と回想の形で生きる、ということにほかならない。すべてが明らかな場所を明らかなままに生きること、ものごとが、潜在的なヴェクトルが、結果的に明らかになるのではなく、最初からそれと知られるように生きること。それは死を生きるに等しい。完結した、閉じられた構造からは、主体は排除されてしまうのである。
目的意識的に歴史を作ること、そして<必然の王国を脱して自由の王国に至ること>、それはあまりに初歩的でかつ根の深い論理のトリックによってなりたっている。(論理的に厳密なるものとしてではなく)ベイトソン流の慣用法に従えば、それは論理階型のとびこしを行なっている、と表現できる。必然性という観念は、無限の不可知性と偶発性を含みながら、それによって進行可能となった運動を、それが終わった場所からふりかえるスタティックな(あるいはスタティスティックな)視点であり、それを運動の始発点、ないし下位レベルにひきずりおろしてきて、自由の名前でリサイクル利用しようとしても、そこには運動、より具体的には間主体的交換を、牽引する要素が欠落している。
物象化の廃棄、間主体的な協働を即自的なものから対自化すること、それを必要以上に大きな声で全域的に主張するなら、それは疎外論に反対することによって(正当にも)粉砕した、天上の本質・イデアの存在という、思考の怠惰の大いなるアリバイ、権力依存的な愛と自己証明の保証物を、むしろ堂々とこの地上にひきずりおろすことになる。思考の怠惰は思考の不在に、権力依存的な自己証明は、欲望の不在にとってかわられるだろう。
階層化された世界像は、常にリアルな時間とのバーター取引によって得られたものでしかない、ということに注意せねばならない。
例えば宝くじを買うものたちを、物象化論的に啓発してみよう。あなたたちは即自的には、fur es(for him)には、百円で買った券がうまくいけば数万倍になるかもしれない、と思っている。しかし対自的・学知的には、fur uns(for us)には、百円ずつ全員から集めた金を半分近くピンハネしたあと、不均等に配分しているのです。したがってあらかじめ配分方法を決定して、あるいは当り券を話し合いで決めてから、みんなで宝くじを楽しみましょう。
ここで題材はあくまで宝くじでなくてはならず、たとえば競馬であってはならない。他者の出方(賭け率)を見ながら自分の行動を決定し合っていく、というプロセスは、物象化論の、そしてなによりも資本論の包摂し得ない話であって、それは例の利潤率の傾向的(?)低落法則という奇妙なものに見られるごとく、マルクス派においては時間がからむと、ことごとくおかしな記述が出現する、ということともつながってくる。そして極言するならば、おそらく物象化論は、(残念ながら)あらかじめほとんどメタレベルが設定されている事例についてこそ、メタレベルを語る利益を今日享受し得る。宝くじや小中学校の生徒会の<自由な>話し合いといったものから、そしてなによりも今日の国家独占資本主義。大資本と官僚と自民党のブロックにおいて、ある程度シミュレーションされそして完全に隠蔽された、搾取と、そのために動員される情報管理や教育のプロセス、<学知的>どころか官僚知的・経団連知的に<対自化された>領域において、そのメタレベルの取り合いとして、すでにインプットされたプログラムの開明として、その現実的な作用は可能になる。むろんそこには、この十数年にわたる階級闘争、反資本主義闘争の後退と、我々の敵側の情報管理のさらなる進化、そしてなによりも現実の政治プロセスの科学的考察から完全に引き上げ、愚にもつかない原理論をもて遊んできたマルクス派大学教師の諸業績といったものが反映している。
本筋にもどろう。宝くじを買う者たちは、その最も貧しい形であれその行為に自らをかけ、その場から自らを受けとる。ごく平たくいえば、もろもろの思いをこめて百円を払う者は、そこで自らの思いや内的な諸要素と百円玉のつらなりを、一時留保することを代償に予期できない時間に開かれ、制御不能な共同の場をめぐる百円玉が、やがて数倍か0倍になって帰ってくるとき、その主体において新しい組み合わせが形成され、いずれにせよ私は百円を払った他の者たちの影響を被り、それと関係し、彼らによって形成されなおされる。もちろん、そこではあらかじめ決定されたことしか生じない、という点では、いわゆる賭けはばかげているが。
反省の立場から賭けに参加する者は、そこに自らを賭けることはできない。そこで構造は閉じ、主体は自らを主張することはできなくなる。そして自らを証明し主張するふるまいは、当たりくじを決めるメタレベルの委員会か、クレムリンでのかけひきに止揚されるだろう。もちろん、マーケットシステムというゲーム、財に対する支配権の割合をきそうゲームを、自らを主張する場としては完全に禁圧してしまおうとしたマルクスの企ては、完全に正しい。後述するように、それは今日ますます正当かつ絶対に正しい。しかしそこでのゲームを封殺しても、主体が自らを証明する行為、(そういった表現があまりに資本主義的バイアスを受けているというならば)主体がお互いを認め合おうとする行為(それは構造のふるまいにほかならない)は、他の平面に持ちこされる。そして物象化の廃棄を単に主張する哲学は、その新しいふるまいの種別性については、なにごとも語れないだろう。それこそが哲学に求められていることだというのに。むろん、その新しいふるまいの一般理論といったものを考えようとすれば、同様に馬鹿げたことになる。それは唯物論を忘れたエコロジー思想が陥っていくように、哲学的には完全に決着のついた、すなわち出そろった、世界のユートピア―主体の極限値、つまりハイデガー的トポロジーやニーチェ的永劫回帰、存在的生成や生成的存在といったものの単なるヴァリアントへと堕していくことになる。私たちが漠然と知ることができるのは、おそらくより多い言葉が必要だろう、ということ、それが共同体の深部にわたっていなくてはならない、ということ、そのことがお互いを了解することへの断念の、ないしは中止・スカンションの契機(ダブルバインド・セオリーではメタレベルと表現される)を、共同体の内部に多様に組みこむことを可能にするだろう、ということぐらいである。それはすべて、教育と哲学の全域にわたる問題として送り返されてくる。しかしいずれにせよ、時間や欲望をはやばやと乗りこえてしまった物象化理論にとって、それらはあずかり知らない問題となる。

 *

必然の王国から自由の王国へ、とエンゲルスらはいう。しかしそれは単に言ってみたのであり、彼らの理論活動の中心は、唯物論そのものとしての哲学にある。多様な政治的現実へのリアルタイムでの介入。それは<人類の歴史は階級闘争の歴史である><支配階級のイデオロギーがその社会のイデオロギーである>そして<生産力が生産関係を規定する>といった、科学と統合した現在進行形での状況介入的でジャーナリスティックな政治的スローガンに凝縮されている。そして最も重要なのは<土台が上部構造を決定する。生産関係が法――イデオロギー的過程を決定する>、というテーゼである。<土台が上部構造を決定する>からこそ、マーケットゲームにおいて主体は殺されねばならないのであり、そしてそれに向けて搾取と剰余価値を廃絶すべく、プロパガンダとしての『資本論』は書かれた。
唯物論とは、因果関係の無限の多様性についての感覚をもった哲学のことである。
大気中の湿度が、この私の気分に与えるいくつもの関係、動労千葉の労働者の階級闘争が日本帝国主義に与える諸影響、あなたの言葉づかいが二人の関係にもたらす微妙なかげり。それらはすべてさまざまな因果性であり、もしそれらをすべて原子レベルでの反応から組み立て直そうなどと考えないかぎり、そこには決定するものの種類に応じただけの、さまざまな種類の因果性がある。
そういった因果性のひとつとして、土台と上部構造の因果性はある。それは他のすべての因果性がそうであるように、もろもろの因果性と連鎖し、入れ子細工になり、そしてとりわけそこに再帰し、歴史的多様性としての諸主体を転形――再生産しつづける。それをあらかじめ権利づけ特権化する理由など、存在しない。
もしそれが問題となるとすれば、それは土台―上部構造の因果性が、もっとも貧しい因果性であり、まるで多数決原理のようにより微細な系に流れ込みながらもそれ自身に等しく回帰し、差異の減衰方向へと作用しつづけるからだ。ニーチェは正しくも、因果関係は家畜の群れ(=資本主義的大衆)にこそふさわしい、といったが、構造決定性はまさしくそういった因果性であり、そのふるまいは、まるで不幸の手紙、ラカンの言葉を用いれば不幸の盗まれた手紙のように跡づけられる。
マルクスにおいて<生産力が生産関係を規定する>とは、構造間移動にかかわるものとして、<生産関係が上部構造を規定する>は、構造の再生産にかかわるものとして主要に使われ、そしてある場合には、それと同値のものとして使用されたことを想起しよう。アルチュセールは、総体の変動に足かせをはめる審級のふるまいに対して、下位決定(sous-determination)という言葉を用いた。そして生産関係は、まさにそのようなものとして、その貧しさゆえに最も頻繁にそれ自身に回帰する作用線をもち、欲望の求心的な(堕落)運動、時間をこえて自らをピン止めしたがる主体の運動としての弁証法の、誰もが参加しえる大衆的な舞台となる。そういった家畜の劇場であればこそ、大衆動員的な政治という行為において、それは逆に、最も介入、攻撃可能な場所ともなり、すなわち政治の場所となる。
もちろん、歴史学者や人類学者が理論的生産を行なう場合でも、生産力や生産様式といった装置は、汎歴史的な有効性を多くもち合わせてはいる。それはマルクスのスローガンが科学的なものであった、ということを語るが、しかしまず、それらは政治的な理論装置なのである。そしてその有効性は生産関係ということばについて、今日でもまったく失われていない。すなわち今日でのいくつもの愚かしい場面、例えば歩道橋からアスファルトに頭を叩きつけて自殺する登校拒否の小学生、部下に当たり散らすしか自己証明の方法がないサラリーマン等々といったものに無数に流れる決定系のなかにあって、私たちに介入可能なものとして、資本主義的な競争と差別は、最も頻繁に登場し、自らの存続を主張しつづける。たしかにひとつずつの場所をとれば、自殺した生徒には、その日の気候や気分も、教師の個人的無能さも、その無能さに目をつけて採用した教育委員会も、その教育委員会の地域的後進性も、すべて無限に作用してはいるが、その作用線がそこに回帰する比率の圧倒的多さと、すなわちどこでも発見しやすく、逆にいえば最も変動させ難いものとして、資本主義的な財と意思決定の偏在と、それに向けた執拗な運動は、その存在を主張し続ける。
この事実はどのようにして確かめられるか? それは私たちが実際に政治闘争を行なうなかで、その社会の諸審級のどこまでいけば、もっとも強い抵抗と弾圧に会うか、という形で証明される。それは非歴史的な論理として先験的に知ることはできない。そしてひとつの時点で政治的闘争の中心点を決定する現実の側の運動は、その社会総体の欲動の付加部分を求心化させる、現実の側での弁証法の運動である。
このようなものとして<土台は上部構造を決定する>。そしてそれゆえに、主体が関係をとり結び自らを受けとる、無数の領域のなかのひとつとしての、資本主義的マーケットシステムが、特権的に禁圧され、弁証法の舞台としては殺されねばならない。その宣伝活動として、『資本論』は書かれた。
さて、ここで物象化論(者)にもどってみよう。そこでは生産力とは<生産における協働の(動態的)連関のポテンツの相での表現>であり、生産関係とは、歴史貫通的に<人間の対自然的・相互的連関の基底>をあらわすものとなる。物象化論においては物象化を止揚することが中心的かつ唯一の仮題であり、かつそれは<原理的>なものゆえ、どの審級でそれを行なうか、といったことは主題になりえない。対象の不均質性や、そこに状況的に介入するための論理としての<土台の規定性>や因果性が、問題になりえないのは言うまでもない。

 *

要約
1、マルクス主義は、その哲学じしんのふるまいにおいて唯物論的だった。すなわち問題の多様性と状況性につりあいつつ、政治的に現時点での真理性を追求する。
2、マルクス主義がその対象として予想していた現実のふるまいは、弁証法的である。それは欲望の凝集的なふるまいに牽引され、リアルな時間のなかに展開する。
2'、物象化論が予想し、そして形成する現実世界の構造は唯物論的である。ないしは弁証法を排除する。その共同主観的、事的世界像は、現実の時間を容認せず、主体、イデアといった論理が徴候的に語っていた愛や欲望、そしてなによりも構造のアクションといった問題を、ことごとく拒否する(したがって階級対立も、現実におけるその理論的権利を失う。その対立性は、記述――止揚における権利関係に移譲される)。
1'、物象化論の哲学的ふるまいは、弁証法的である。ヘーゲルはここで生き返る。物象化の廃棄という形に向けて均質化された介入は、弁証法的に対象を記述――止揚するだろう(たしかに、いつの社会でも物象化は存続するだろうとはいわれるが、その留保は全体の論理構造に関与していない)。
こうして、例の<必然の王国から自由の王国へ>は、マルクスらにおける場合のいいかげんさを捨て、物象化論においては驚くべき執拗さをもって、論理的一貫性の上に整合さをもつことになる。あらかじめ運動が排除された世界は、もはや時間や主体を失うことをおそれない。さらに介入の全域性は、自由の王国というスローガンの単調さをおそれない。
そしてその論理的一貫性を支えるべく、廣松渉の四肢構造論を中心とした世界像が強固に築かれたわけだが、最後に、再度それをふりかえってみよう。

 *

概括的な批判としては、冒頭で展開した以上に述べることはない。細かいことに入りこむときりのない話しとなるので、基底的なことのみをくりかえす。
四肢構造論では、主体は構造から自らを受けとる。私は主体は自らを他者から受けとり、それが結果的に構造であると考える(それについてはソシュールの研究者があとから考えればよい)。四肢構造論では、シニフィアンの水平的、示差的対立が先行し、それのみが権利をもつ。私は、シニフィアンの非対称的な垂直的結合、すなわちシニフィアンとシニフィエの結合が先行し、それによって水平的ネットワークが系統的にも個体的にも、漸進的に形成されると考える。四肢構造論では、無意識は記述できないし、権利がない。四肢構造論では、関与的示差体系の先行的権利が、対象(所知)と主体(能知)について全く同じ形で反復される。私は、主体は対象、すなわち構造の動き自体において、そのふるまいとして記述されるべきだと考える。
具体的なりんごを再度前にしてみる。四肢論ではつねにすでに構造の網の目によって分節され、etwas Mehrとして、要するにりんごとして見える。私は、りんごの視覚は積算され続けるプロセスとして存在すると考える。そして、今入力された情報は、次々と再帰的に積みかさなっていくわけだが、そういった視覚情報がつみ重なるのと同じようにして、しかし同時に異なった権利をもって、最初の<りんご>ということばが、まず幼児において重なる。このとき、<りんご>ということばが構造の一項であるかどうかなど、赤ん坊にとってはどうでもよい。りんごでもうんこでもよいし、単なる強い刺激、性的興奮、屈辱、等でもにたような効果をもつ。最初のりんごという語は全く無根拠かつ唐突なものである。そしてこのとき、目に見えるりんごはシニフィエであり、ことばはシニフィアンとなる。その両者がこうしてうまくユニットを形成するなら、両者は全体としてひとつのシニフィエとして、無意識にファイルされる。
次に普通の成人主体がりんごについて語るとしよう。彼がりんごという時、彼固有のシニフィエがその無意識にいくつか存在し、シニフィアンに連結している。そして彼は、他者との話のなかで、この個有の組み合わせを再現しようとする。この反復強迫的な運動が、とりあえず主体である。彼は、お互いの意識的な話の連結のなかでしか、感じ、再現することができない。しかし彼は、彼特有のりんごについてのニュアンスを相手が無視するなら、<自分を否定された>と感じるだろう。こういった交換プロセスは、四肢理論では永久に不在である。
りんごを前にした主体について語るとき、四肢理論は、彼がいかにそれを共同主観的に見るかを語る。ヘーゲルなら、ひとつのりんごに二人の人間がいるなら、どちらか一方しかそれを食べられないので、そのとき主体の問題が提起されると考えるだろう。もちろん、りんごを食べたいという欲望は、りんごの視覚と味覚の結合に向けた反復強迫的運動であり、それが主体なのだ、と考えてもよい。お互いの交通において、主体という強迫運動は完結することはない。したがって哲学者は、その完結を天上にひとつの本質としておいた。しかしあらかじめ相互的プロセスを拒否した理論は、それを単なる<錯視>というのみで、そこで何が言おうとされていたかを知ることはない。
これらは要するに、構造主義と物象化論の相違である。この両者はつい最近まで同一視されたりもしたが、今日の時点では、全く異なると強く理解すべきだろう。構造主義は、主体と時間について語ることを可能にした思想である(もちろん構造の用語で)。物象化論はそれを忘れることにした思想である。
構造主義はまず、時間を構造内の一項として表現することから出発した。サルトル派からラカン派に移った毛沢東主義数学者のA・バディウらが、六〇年代にしばしば定式化したように、それは空所として表現された。ファルス、盗まれた文字(ラカン)、不在的現前(ミレール、アルチュセール)、空の場所(ドゥルーズ)……。そして今日ではフォン・フェルスターからギュンターに至るモルフォグラム理論でのケノマ(グノーシス派での空所)、そしてグラム(デリダ)なども同列に語れるだろう。
全く強引に要約すれば、それによって、ヘーゲルが誰であったかを私たちは始めて理解する。『精神現象学』の冒頭に示した部分を見るだけでも、彼が主体のプロセスについていかに科学的であり(ラカン)、かつ増大した論理値を結局ポケットに入れてしまい(ギュンター)、その増大をもとのテキストへ強引に押しこむとどのような二重性が形成されるか(デリダ)、といったことを知れるだろう。
だがマルクスという本題にもどるなら、彼にはヘーゲルの要素は実際はほとんど不在だし、物象化論は、哲学体系として見た場合のマルクスに、きわめて忠実なものだと私は思う。そして廣松渉の信じがたく緻密な作業によって、私たちはマルクスの哲学的な体系的理論装置が、最大限どこまでの広がりを持っているかを、はっきりと知れるようになった。しかしやはり必要なのは、現実の政治闘争におけるマルクスの方なのである。


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