嘘の力と力の嘘
――大島弓子と、そのいくつかの政治学

一九七〇年代のおわりは少女まんがの世界にとって、文字どおり眩いばかりの開花の季節であった。それはまんがという一つの表現領域にとどまらず、より広い文化-社会との関わりにおいても、新しい時代を十全に表象したのである。その間の事情を代弁し、ひとつの権利確定を宣言したものとして、七九年に上梓された橋本治の少女まんが評論集、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を思い出すことができる。それは<今までの哲学はもう駄目、だって怒鳴ってばかりいるんですもの>という、たいそう明確なテーゼで少女まんがの時代を主張し、正当にもそれらを古い哲学世界に対置したが、しかし哲学にかわる新しい作品は、それじたいやはり形而上学にならざるをえず、そのために破格の強靱さと、残酷にまで至る論理的整合力を、ときにみずからの罪として受けることがあるのである。じっさい少女まんがは、その本来の出自において、<男性まんが>の大げさな力の世界から見はなされた、愛、というよりは隠微な悪意の、閉じられた場所だったのであり、それは例えば今日、なお力衰えることない楳図かずおなどを見れば歴然としているが、しかしそのことは少女まんがに、逆に男性まんがの上機嫌さとは裏腹の、あらかじめの世界のすべてを流し去り、自力でそれを組み上げる、固有の術を身につけさせることになる。その術は、すべてが流し去られたかのような今日の世界において、やがて男性まんがには存在しない大きな力へと、自身を成長させることになるだろう。この評論集の最後と最初を飾る大島弓子と倉多江美(1)において、それは一種の頂点に達するが、彼女らの占める決定的な場所は今日なお動かしがたいものであり、そのことは逆にいえば、強い意味での少女まんがの時代がもはやおわりはじめていることを示している。そのひとつの理由は、閉じられた場所であったがゆえに存分に描かれえた、多重-並走化する意識や、無底的ともいえる軽く鋭利な笑いと、悲哀の離接といったものが、より広い社会的な意識に共有されはじめ、既存のイデオロギー回路に組み込まれるとともに、また新しい仕方でそれらは作品世界と接合されるようになるからである。しかし七〇年代に完成された少女まんが世界の豊かさは、やはり今日でも輝きを失うものではない。その世界に踏み入るにあたって、私たちはさらにその絶対的なベースである、手塚治虫の世界から、まずは議論をはじめていくことにしてみよう。

 手塚治虫

『鉄腕アトム』から『アドルフに告ぐ』にいたるまで、手塚治虫はいわゆる今日のまんがにとって作画技術的に、したがってイデオロギー的にも偉大なαであったが、そのほとんど変化することのなかった作画法によって描かれる、大きな黒い瞳の国籍不明な少年少女たちの、可愛らしくも性的な価値に、作品全体は奉仕する。あるいはこの無国籍ではあっても、非エディプス的ではない少年少女たちの分泌する、知覚的快楽に向けて奉仕しようと全体が閉じることが、その作品の目的である。したがってそのストーリーは、いかに平板なものであろうとも、けっしてそれじたいは疑われることのないつぶらな瞳の無垢な価値を、そのストーリーの力によって抽象的に逆算析出する能力を求められるので、その筋立てはけっして善悪二分的なものではない。この作家の作品が一定の力を発揮するのは、例えば『火の鳥鳳凰編』など、長編によって<悪>を描くときに限られているが、その悪は、各々のコマに閉じ込められた抽象的な幼年時代を証明すべく、多少紙芝居的にコマが連続しはじめたときに、常に駆動しはじめている唯一のものであり、それが前面に出てくるかどうかは、作品の総量いかんにかかっている。じっさい、手塚治虫が描く黒髪の女の子はたいそう可愛らしく、今日のポルノグラフィックな作品もそこから多くを受け継いでいるが、いかに可愛くてもけっしてルイス・キャロル的やナボコフ的でないのは、その最初の無邪気さに向けて、審美的ないし享楽的要求が一定の限度を越えないようにする、倫理的要求が、ストーリーの側から常に逆備給されているからである。したがって、その作品の目的は各々の作画の性的なものにありながら、その真実は作画の審美的要求に警戒を発する、ストーリーの側にある。両者の関係は典型的に幸福なものでありながら、それゆえに、この幸福な作品が描きえるのは、抽象的快楽に向けた制限する配慮としての、抽象的で苛烈な悪のみである。主人公の少年たちの多くは共同体から切断されるべく、あいの子、または科学の子であるが、悪の担い手もまた孤児であり、というのもスクエアのなかの節度を持った性愛と快楽は、連続して動きはじめた時点で、その節度を、享楽への要求が最後までいきついた姿たる暴力として、外から与え返してやるために、みずからは限度を越えるからで、どちらも同一物であることによって、相互に相手を抽象化する。したがってその作品は、長い睫毛の女の子の幸福の価値を不問にするのと同じぐらい、そのストーリーにおいて政治や歴史の固有の力能と、触れあうことはまったくない。『奇子(あやこ)』や『アドルフ』など、ファシズムや反共主義的陰謀などの政治的暴力が主題化する作品が、読者をとりわけ魅きつけるにせよ、そこでの政治は、構造化された固有の出来事としての権能を持つことによって、独自の審美的かつ倫理的水準を形成することはけっしてなく、個人的な愛の要求の、多少限度を越えた破綻を示すのみである。じっさい<ロック>なる人物を原型としてくりかえし現われる悪の側の主人公は、その役割の倫理的必然性によって、近代家族からの可愛相な捨子であり、母性的漸近作用によって与えられるはずの、抑うつ性的な欲動への節度と法の受け取り(2)を、政治社会を舞台として、その身の破滅の形で、まったく同じ節度と法が遅すぎた姿として、極限的に、すなわち失われた母の愛を受け渡されるだけである。
これらのことは、指摘するだけならたいそう容易だが、この抽象的自己循環から抜け出るのはなかなか困難で、今日に至るまんが作品も、退却はできたにせよ、そのことによって必ずしも上位に脱出したわけではない。政治や歴史が存在しえないのは、最終的には、作家と読者の各々を享楽的であれ自己慰安的であれ、夢想的ないし私小説風に環境設定してしまえる、生産と消費を抽象-閉域化する商品経済の力能が、作品において必ずどこかに存在するはずの政治的水準を、作品の外部の第一原因の場で代補してしまうからで、これは反古典主義-反ロマン主義時代の大衆作品がかかえる、一般的問題である。最高の快楽は作品の内部にはなく、それがレフェラントとしてもつ外部経済にあり、そのことじたい、節度や法の倫理的力能を審美性の水準から導出する、宗教的生産諸力が、貨幣や資本や革命や技術革新などの、常に逃れ去ってゆく不在の審級に表象代理されてしまう、資本制生産様式のトピックを再現している。だからこそ、より倫理的で美しい作品は、より孤独にみずからを閉じざるをえない。手塚治虫と同じ画調から出発した大島弓子の道のりは、その必然を輝かしくも強く語っているが、その潔さは、次第に増殖していく何も語らず何も意味することのない、漆黒の死の静寂を、みずからの罪として受けることになるだろう。とりわけ八〇年代に入ってからの彼女の作品における、核戦争や堕胎をつうじての無のモチーフを参照されたい。じっさい真の倫理性とは、一つの法や形式を、妥協や小心さ以外の理由によって受け入れることであり、形式とはそれ以外のすべてのものと共振してやることにより、それらを忘却させてやる力のことであるとすれば、自らにとって異質なものを、自分自身で与えてやらねばならなくなった孤独な振動は、それ自身によってそれ自身を忘れ去る、樹々の緑の翳りの深みへと近づいてゆくことになる。これはとりわけカント以降、作品における崇高さについてまわる、いくつもの逆説の一つである(3)。とはいえ大島弓子におけるその静寂は、最高のものを共同体の側の政治経済から、作品自身のもとへと取り返そうとする、いずれにせよ強い調子への関心によって帰結するものであり、母性的優美さの単純な帰結などではない。こうして近代化された権力も、その直接的な様態に身を開くなら、下品さを受け入れさせられ、小市民的に身を閉じるなら作品を妥協化し、完全に隔絶してその力を奪還するなら、作品は自然に帰ってゆくという形で、各々の作家の想像性の帰結の形で、作品を均等に処罰する。しかしこうしてその能力を搾取される、資本制社会における被害者は、むろん作家だけに限ったわけではない。
じっさい近代思想の最終ランナーであったフロイトが、昇華という形でぞんざいに述べたように、近代にまつわる快楽と権力は、現実の共同体の側での快楽と権力に対し、ひがみっぽいかあるいは頑なな、何らかのねじくれた関係を常にもっている。この共同体との折り合いの悪さは、倉多江美を見るならば、その猜疑のはてに一種復縁されるのを知ることができるだろう。そこでは強い調子に対する一種の抑止の作用によって、悲劇性は回避され、さまざまな形象が他のものに織り重なる忘却の作用において、ある循環と諦めの感覚と引きかえに、それらが透かし模様のように重なり合い、共同体において織り成された形象と、離合的関係を保つことが可能になる。この、性急さの克服は、不断に保守主義化する傾向も多少孕んでいるが、いずれにせよそのすべては、具体的な風景を描きながら抽象性を感じさせ、現在でありながらも過去に沈み込んでいく時間を描きうる、この希有の作家の具体的諸相において、再度検討することにしてみたい。
だがここで、大島弓子や倉多江美にいく前に、手塚治虫にまつわる問題をもう少しだけ見ておこう。手塚治虫の作品は幸福な作品である。作画の少年少女たちは読者の性的対象になる仕方を、物語という両親からの言いつけに従って制約し、ストーリーは、その悲劇的調子が高まりはしても、その畏るべき破局へと向かう悪そのものが、それじたい価値を授けられることはない。それゆえに、その相互的責任回避の結構の良さは、フロイト流の知覚/思考同一的(4)な近代家族的結構の良さであり、破局に至る欲動の道のりも、父殺しの運命のエディプス神話的荘重さよりも、その認識としてのエディプス・コンプレックス的自己抑制に近接し、総じて悲劇以前の、いわばアポロ的節制に終結する。とはいえ、この相互退避の構造は、戦後民主主義的なイデオロギーの反復の形をとりつつも、欲動と享楽の限界を認識する均衡の構成じたい、作画を中心とした技術的配分によって、手塚自身の手で独自に完成されたのだということを忘れてはならない。それゆえ手塚の完成した均衡から出発した石森章太郎や松本零士が、一方はストーリーが発する限界画定への理知的緊張を破ることによって、制止した作画の水準での日本的情緒、というよりは中年的少女嗜好に沈没し、他方は物語の破局への顛末を、享楽への警戒としてではなく快楽の完成として描き出してしまうことにより、蒼古的世界へ眠りこんでいったとしても、それらは手塚のシステムからの連続的帰結であるとともに、またそこに加えられた新しいものの僅少さによって、手塚との間に莫大な差ももつのである。じっさい手塚治虫のような人は、あれこれと批判するよりも、ただその業績を賞賛されるのがふさわしい場所にいるのだろう。だが、その批判を棄却しえる場所の権利は、近代完成期において科学者ないし技術者に帰属する、それである(5)。手塚の作品の近代主義的な節制は、その破綻した主人公たるロックやマキムラといった悪役と、その反照たる少年少女を、ほとんど同じ容貌のなかで描き分け、さらにその差異をより縮小しながら、少年と少女へ再度振り分ける、作画上の技術的完成に依存する。この配分によって、異性関係はイデオロギー抗争の舞台の下に入り込み、その手前にあるものとしてそれによって守りぬかれ、また同じものであるゆえにその抗争自身からも隔てられ、かつ異性間の中性化的近接は、読者にたいしてよりも短い距離に少年と少女を配置することで、性的対象となることから彼女らを守りぬく。

 大島弓子

この縮小化する距離配分は、大島弓子においてその方向を逆転されることにより、限りなく拡張していく近親性愛的世界といった、倒立的フロイト主義を生み出すことになるものである。いわば手塚がプラトンの有名な言葉、<一つの美しい少年の肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美そのものと美への知へ(6)>といった形而上学に基本的に服し、みずからの根拠づけを留保されるその恩恵を被っているのに対し、大島弓子においては善なるものとしての大いなる美の輝きが、いくつもの少年=少女へと分解し、その脆さそのものにおいてみずからを立ち現わす。そして手塚において性愛の場の比率を与えていた善悪の場の比率(7)は、大島弓子においては外部世界のイデオロギーにせよ何にせよ、その逆転の結果、外側から持ち込むことは許されなくなるので、近親的な愛の場所から逆にそれを組み上げてやらねばならない。それはある種決然とした、愛の場所からの意志的な退場によって遂行されるだろう。たとえば『ハイネよんで』で、みずからは身を引くことによって、夫を少年との同性愛に引き渡すその妻や、『ほうせんか・ぱん』での、主人公の少女に自分の恋人を与えてやるべく、愛の破綻を演出してみる姉役の少女など、概して母や姉の場所がそのために作動する。彼女らは、手塚の世界での悪役に対応するが、しかし手塚の悪役が、みずからの弱さによってその場所を宛がわれ、そのことによって性愛の場に奉仕するのに比し、彼女らはみずからの強さによってその役を選択し、しかもその場所は何ものにも奉仕することはない。――つまり何ものも彼女たちを助けることはない。いうなれば死の審級であり、すでに死んだ者たちの神話作用の助けなしに父になるものたちであり、とりあえずまったく皮相な表現に譲歩するなら、神の死後の永遠回帰する分裂症的無差異性の世界では、その偶発的意志のみが逆に法を設定しえるのだ、とでもいいえるが、いずれにせよこの強い調子こそ、少女まんがによってそれまでの世界に対し、決定的に新しくもたらされることになるものである。むろんこの超然とした決意は、愛の場にいる者たちに常に平等に開かれているので、愛と友情はその境界を不分明にし、愛はその死に向けて、崩壊を待つ同位元素のような気まぐれに身を染めて、そこでは軽やかな喜劇的調子と重苦しい悲劇性が、目まぐるしく同居することになる。この異なった調子、異なる時間と速度の並走性は、やがて広く少女まんが世界の特質となるが、それはまた形而上学的システムやトピック(8)すなわち人間-社会が、外部の助けなしにそれ自体で全体であるための基礎要件で、だからこそ共同体の側のイデオロギー装置が、近代完成期の商品世界において、その過剰性によってみずからの抽象性を食いつぶし、過少性へと転落していく時に、逆にその閉ざされた全能性ゆえに、それは広く歴史的な説得力をもつのである。ただしこの多元的並走性は、それまでのものを単純に逆転して得られるものではない。大島弓子において決定的だったのは、ストーリーに支配されないそれぞれの場面において、画像と韻文の両方による独立した律動性の水準を獲得したことであり、この律動性をきわめて上質なレベルで形成しえたことが、おそらく彼女の主要な業績のひとつなのだろう。それはギャグではあっても、その言葉の意味どおり、ストーリーの作用に対して猿ぐつわをかます力を有している。すなわち、みずからをストーリーからこぼれ落ちたものとしてではなく、反対にストーリーの方が、その律動から脱落したものとして、提示することを得るのである。このそれぞれのコマと全体のストーリーが、直接に拘束されないことがまんがにとっての最大の利点で、その特権的構造が最大限利用されるとき、まんがはただの紙芝居から独自の表現領域へ成長する。この特質はいくら画像があっても、例えば映画のような、映写機による単線的時間の拘束を受ける媒体には、得ることが難しいものである。
こうして少女まんがは、みずからの切迫した世界設定が観念論的貧寒さへと凝固してしまうことを、その律動性の回路によって先取りし、細分し、高速化して模倣し、それを助けとしてひとつの断固たる意志と態度を形成することに向かっていく。とはいえ大島弓子の占める場所は、そのなかではやはり特別なもので、これは手塚治虫とのその絶妙な距離によって決定される。おそらく彼女の同世代の女性作家たちが、その多くが神話的な、あらかじめ救われた物語の上で作品を走行させ、けっしてリズミカルな要素を導入しえない、文化人類学マンガとでもいうべきものに傾き、また手塚の時代の、陽性の人間的価値――これは結局、開明期のテクノロジーが人間の欲動システムととり結ぶ、特殊な同調によって可能になったものだが、それがどのようにダメになるかは、大友克洋とともに見るとしよう――に、最終的によりかかってしまうのに比べ、彼女は少女まんがの中心題目ともいうべき<愛>を、多くの一次テキストを動員しつつ、まさにゼロから組み上げたからである。そのことによって、作品に真にコミカルな要素が誕生するとともに、画像が存在することの意味が、ディズニーランド風の<翻案もの>的、ないし紙芝居的必要性から離陸する。コミカルなもの、という点では、手塚とその最初の読者層だった作家たちは、共産党の新聞に登場するような義務的なお笑いものを、けっしてこえはしなかったし、神話的なものという点では、すでに手塚において『安達が原』のユーケイや『火の鳥』のマキムラのような、死ぬことを奪われた者たちを通じて、父を殺し母と交わったことに――ヘルダーリンの有名な表現を用いれば――<気づいてのちの>エディプス王の、休息の価値を奪われたディプレッシヴなあり様は、存分に描かれているのである。――むろん前述したごとく、それは愛の節度に結局は奉仕するとしても、しかしエディプス複合は、その固定資産化された真実を完全に知りつくす。あるいはこれは手塚において、テクノロジーがメロドラマを分泌した反ロマン主義時代の、機械の側の苦悩を描いたものだとも、またいえるだろう。――これらのことをひっくり返せば、大島においては遂に物語は不可能なものとなり、物語によって<果てまで行きつくこと>を先取りされて、この場で休むことを与えられて可能になる、<現実>という演劇も、また不可能になることを意味しているが、不幸物語やイデオロギーによる先取り解毒以外のしかたで、現実が再び帰ってくるには、私たちは今度は倉多江美を待たねばならない。そこでは、プラトンの『ポリテイア』に登場するアルメニオスの子、エルの物語(9)のように、ハデスの支配する夜見の国での、忘却の水を飲むことの少なさゆえに、ここ以外の場所と時間の重ね合わせの現実がたち現われ、――プラトンの語るように――人間社会と物語も、またそれなりに救われることになる。
総じて大島弓子は、手塚治虫の書きえたすべてのことを、最大限に無視したという意味で、最大の少女まんが作家となったが、しかしそれを、すべて自分で組み上げようとした点で、またあまりに近代的な作家である。手塚との距離は、遠く、またきわめて近いものだが、それは一九八〇年前後の少女まんが作家においては、再度変化することになる。彼女たちの作品は、高野文子であれ柴門ふみであれ、まったくそれぞれの仕方において、しかし同等に、その強い調子をけっして大島が手にすることのなかった、一種の政治的力へと昇進させる――それはすでに少女まんがではない――。しかしこれは、後述するように、何らかの要素を読者に譲り渡すことによって得られるものなので、すべてを配列する、という点において、大島弓子はきわめて特権的な場所を占めつづける。じっさい大島弓子は、手塚治虫と両極からなるユニットとして、その概略を知りつくされることで弛緩してきたとはいえ、あと当分続きそうな私たちの近代世界の、真実を幸福へと隠しこむ神話のすべてと、そして特に彼女の方は、その隠されたすべてが一挙に立ちもどってくる世界の奇しい輝きを、大衆作品というには余りある密度と緻密さで描きつくす。一方に愛が、対極に死が、そして両者が倫理性もしくは知、または笑いという異なる回路でめぐり合い、その斥立する全体が自然へとみずからの姿を映すあり様は、それこそフロイトなどよりさらに広い射程をもつ、瞳目に値する世界である。一九六八年に出発した彼女の作品群は、あらかた三つの時代に区分することができ、それぞれの時代において、この全体が異なる調子で結合し、全体としては、その諸要素が明確に自覚化されるにしたがって、それぞれの結合力が解離する方向をたどることになるが、もっともそれ自体、近代世界の展開と、近代世界をその高みで生きる個々人の生の推移を、忠実に再演する。そこで語られる人間という主要な事件を、より明瞭に知るために、その作品世界にここで暫く降りることにしてみよう。彼女の作品『アポストロフィS』に登場する<かすり姫>が、その泣きはらした眼で語るように、多くを知ってしまったとしても<わたしニヒリストになりたくない、わたし人をけいべつしたくない>ということが、この作家の世界に流れつづける最高の調子だとするならば、読者の方がよりすべてを知っておくことは、その作品とふれ合う幅を、けっして減らしはしないはずである。

 『野イバラ荘園』――知と死の萌芽

大島弓子の作品の最初の時代をしめくくるのは、おそらく七三年の『野イバラ荘園』あたりで、わずか三二ページながら、一篇読むだけでどっと疲労させる力をもつこの作品は、強い意味で少女まんがといえる世界の、おそらく頂点をきわめる。<わたし狂人/ヘイ・ノン・ノニ・ノニ/ヘイ・ノン・ノニ/ほんとの恋人の目印は/帽子についた帆立貝/手にもつ杖にワラジぞえ>というせりふとともに登場する、魅惑的な一四歳の少女<芙蓉(ふよう)>をめぐって、その話は展開するが、死の審級が自己主張する、知と笑いのふたつの回路が、この博識でしばしば高笑いする演技ずきの美しい女性、芙蓉に接続していることで、まだ愛を可能性としてあたためる主人公のそば滓少女、<るか>の側の少女まんが世界は、ここでは辛くも救われる。この作品は枠から限りなくはみでる各々の絵とせりふの過剰さ、ページごとに変化する調子、いかにも大島弓子らしい人物・ストーリー設定のわかりづらさ、唐突な終わりかた、――この作家のすぐれた作品は、ちゃんとネームをしているのかどうか疑わせるぐらい、とりわけ後ろがつまった釈然としない終わりかたをする――現在と過去、ないし現実と幻想の交錯といったすべての特徴を合わせもち、作品がもつパワーという点では最高の部類に属する。作者自身の絶対的な若さ、という点もあるのだろう。けれどその主要な理由は、『バナナブレッドのプディング』を頂点とするこのあとの時代にいくにしたがって、整合的に役割分担されてしまう、愛がみずからのすべてを知りつくす、死の審級の、その複数のふるまいが、すべてこの芙蓉という、美しい女性に凝縮されていることによっている。彼女の作品世界にやがて登場することになる、愛の場所から死に向けて自覚的に移動する、法の力をみずからのものとする女性たちや、死の場所から愛に向けて降りてくる、知と笑いを体現する変装好きの境界例的な男性などの、すべての役が、まだ愛を求める一四歳の少女に、過剰な負担とともに集中し、それがこの少女の激しい運動性と魅力へと結実する。ハムレットのオフィーリァへのレフェランスはあからさまであるが、けっしてそれを恥とすることはない。
あら筋は当然類型的なものである。両親と死別した一七歳の少女、るかの住む野イバラ荘園には、毎年夏になると四人の従兄弟たちがやってくるが、その夏は芙蓉という、いつもはこの荘園を嫌って訪れたことのない、一人の妹が、彼らとともにやって来る。この早熟で美しい少女は、やがてことあるごとにるかを挑発し、彼女が四人のなかの長男<勉(べん)>に恋することを目ざとく見つけては、夜中に彼女の部屋に忍びこみ、あなたはネンネだから迫り方とベッドシーンを教授してやる、といって彼女を激昂させ、昼間になれば、殊更るかのそばに寄りそって、その美貌とそば滓顔を対比させる。そして彼女をみずから<末摘花(すえつむはな)>と呼びつつ、彼女の前で、その恋する勉に<なつかしき色ともなしになににこの末摘花を袖にふれけん、の解釈を、センセ>とせまり、<心ひかれる人でもないというのに、どうしてこの赤いはなを相手にしたものやら>と兄の口からいわせては、自身はかん高く笑い立てる。そうこうするうちに、森の中で勉と共にすももの木に登っていたるかは、目の前で芙蓉が平気で毛虫を掴み愛でるのを見、仰天して転落し失神するが、気づいたるかに見えたのは、いつになく彼女のことを本気で心配する、芙蓉の献身的な姿だった。――その毛虫をつかむ妖しい調子に、日本の王朝文学を思い出すも、近代初頭イギリスを聞きとるも、まったくすべて可能であって、この何でもかんでも無茶苦茶なまでに放りこみつつ、論理的整合性をくずさないのが、彼女の少女まんが的特質だが、しかしその無節操さは、作品世界とそれが体現する時代の疾患として、その毒をやがてもたらす。――るかは、芙蓉の攻撃的なありさまの、さらに後ろにある調子に気づきはじめる。そしてつぎの日の朝、芙蓉の部屋に入ったるかは、幾重にも泣きはらした彼女の姿を目にし、うつ転した彼女の振舞いから、彼女が何者かに恋することを知る。やがて彼女が見るのは、森なかで兄弟の一人<ゆき>が、芙蓉に向け、<すべてが偽りなら自分にも偽りの口づけをするように>と迫る姿であり、芙蓉は偽りの口づけとともに、ゆきの唇を噛み切る。それと前後して、るかは勉もまた自分以外の何者かに恋するのを知るとともに、この兄弟が、野イバラ荘園に対してただならぬ感情をもっているのを知る。最後の日、るかは、男性の一人の前で芙蓉が愛の詩を読む、というゲームを提案し、あらかじめ勉に当たるように仕組む。二人の兄妹は強く見つめあい、やがて真の愛の気配の濃密な高まりのなか、雷雨がおとずれ、激情にかられた芙蓉は閃光とともに森に駆け出す。あとに残された勉は、他の者たちに、じつは芙蓉はるかの母の子であり、るかの父の死後、この荘園を一族が守りきれなくなったとき、彼女が何人かの資産家に身を売ってできた子だと告白する。そしてこの雷雨の日を境に芙蓉は東京に帰り、つぎの年の夏、すでに自身はその寿命を知っていた、病弱な一生を終えることになる。
と、文章で書くと堂々たる伝統的結構だが、主要な調子はとても騒々しいもので、それはこの二人の女性が、並行して陽気さと沈欝さを交錯させることによる。画像をもつことの利益は最大限に生かされているのであって、芙蓉とるかは、その名の対比もさることながら、豊かに揺れる黒髪と、少年のような短髪すがたで、安直なほどに一見して表裏一体とわかる姿で描きだされ、それこそ古典作品なら作品全体がそこに奉仕してしまう主構造を、むしろ軽くあしらうように話ははじまる。のっけから芙蓉がシェイクスピアを引用して動きまわるのも同じ効果を配分するが、その落差をめぐって最大の問題が流れるはずの、知っていることと知らないことの対立じたい、あらかじめすべて知られたように平準化され、その休みなさを競う形で、<知っていること>の病が騒々しく重ねられる。そのさまこそはいかにも少女まんが的と呼ぶにふさわしく、今日の私たちの素直な感情に逆らわない。とりわけ多い所では、ひとつのページで五回も六回も明るいけたたましさと沈黙が交互するが、もちろん、それはきわめて論理的に配置される。というのも、芙蓉は勉に対するその愛と、<知っている>というみずからの場所の義務を連立するのに、るかと勉の間をはげしく往復して、知らない場所から知る場所にいく愛の運動を、――正確には愛がその相手を発見してみずからを終える運動を――何度も模倣するしかなく、――なぜなら彼女はその愛を、ひとつの過去の記憶として、自分以外の公の場に登録して保有する権利を、その出生によって奪わせているからだが、――るかの方はるかの方で、<知っていない>場所の権利を勉への愛に向けて譲り渡すにも、その勉との愛の成就した内容――すなわち知となった愛――は、芙蓉そのものであるので、前に行けば芙蓉と出会い、後ろに行けば勉から遠ざかる、という形で、芙蓉の大きな振幅運動を、その場を軸にして縮小しながら、同じ回数くり返すしかないからである。芙蓉はるかの前にきた時のみ陽気となり、るかがいなくなるや充溢する死(=知)に呑みこまれ、るかは芙蓉が登場するや道をふさがれ、怒り出し、芙蓉がひっこめば前進する手だてもなく、失意に陥ることになる。これは一旦構造化されてしまえば平板な図式や神話になるのだが、大島弓子に一貫しているのは、構造化や線状の時間形成、――つまり欲動が自らにふさわしい相手と形式を発見する、愛の瞬間を、完成した愛の記憶として無意識に落としこみ、今度はそれが一つの過去として、眼前の諸形式の意味や価値同定の機軸となり、それを目ざして諸形式が横滑りしていくことだがちなみに、この換喩的=メトニミックな欲望の振舞いは、『バナナブレッドのプディング』で<じゅずつなぎ思考>と命名される、――それを断固として拒否するのが、彼女の変わらぬ世界なので、物語を形成する力は、純然たる運動量として、正確にはたがいに異なる運動量の落差として、そこでは描かれることになる。
芙蓉がそのうつろな瞳とともに振りまく大げさな抑揚が、わずかな遅れとともにるかへと伝播し、そこに小刻みな振動を起こさせながら、しかしるかが場面から離れるや、芙蓉はみずからの垂力を得る振動を失って、その瞳の暗い淵が彼女のすべての存在を覆いつくす。そのありさまは、それこそ機械的ともいえるごとく、正確に一場面ごとに割り当てられ、コマ送りされ、そしてそれらの枠をつき破る形で吹き出しが全体をつなげていき、そういった循環はほとんどページごとにくり返されるが、やがてみずからを疲弊させて、全体の破局を懇願する。しかもそれらは緻密さとともに、たいそう乱雑な調子で仕立て上げられ、ストーリーの切り取られた一情景で、そこで休息し、感動し、情景を欲望の対象として利用するという、いわゆる情緒的価値を読者に与えるのを許さないので、作品全体が一挙に一つの真実として、すべてを押しのけ、全能かつ無力な権力であることを要求する。じっさい彼女の作品を頂点とする強い意味での少女まんがは、読み手の憧れや満足の対象たる、人物やストーリーを配置するというよりも、読み手の欲動の態勢そのものを倒立像的に開陳してみせ、その出口を失わせる、愛情深さがそのまま愛情じたいの設計図でもあるような、かなり荒々しい関係を読者にむけてとり結ぶが、そこには、今日の歴史的な感情をなぞりながらも、それをさらに推し進める、この領域固有の文化的力を予想することが可能だろう。そして芙蓉とるかの、圧倒的に異なる振幅の共鳴は、同じふれ幅が互いの心を通わせあう、厳密な意味での愛の時間の不確かさを、やがて救いにやってくる、権力や欲望といわれ、あるいは意識といわれる振舞いの基礎構造なのであり、それによってみずからが助けられる希望を捨てて、人ごとのように頭を切り開いて見るならば、こういった共振回路が見えるのかもしれないが、ここで芙蓉の大きな不幸は、その抑揚が権力や意味の力を秘めるものでありながら、彼女自身はそれを所有することを許されず、権力そのものを運命づけられたことであり、他方るかは、その小刻みの不安な震えは、愛と出会い、またその出会いをみずからの意味や記念碑として留めてくれる、より安定した大きな波長の、母型と出会うことを求めているのに、彼女の不幸は、そのもうひとつの振動、――すなわち芙蓉が、愛の主体たるべく自己を分割することを断念できず、自らは充溢する一として他者に奉仕することを、願ってはいないことにある。すなわちこの共鳴は失敗を運命づけられる。芙蓉はるかに、勉の愛する詩集を教えてやり、それを兄の前で朗読するよう忠告するが、るかはそれを勉の前で読みだすにも、芙蓉なしの場所では彼女の震えはその意味が奪われているので、どもるばかりの結果となり、他方勉は、すべての秘密をにぎる鍵として、あらゆる場所に不在することを義務づけられ、その詩の意味を保持していても、愁いを含んだ眼つきで遠方を見つめ、ただみずからに向けて暗唱するのみで、彼女にそれを返しはしない。あるいは末摘花の解釈を、芙蓉はるかに寄りそって大げさな身振りでそれをねだり、しかし勉が答えだすや、その場から飛び上がって、内気に震えるるかの動揺と裏返しに、大きく笑い立てて走り回る。るかの不安はその意味が先取りされてしまっているし、芙蓉はその完結した意味世界の重さを逃れてそれを所有する側に回るには、勉からるかの方に動くしかないが、勉がその答えを与える、本来ならば歓喜に満ちた、求められる形象との出会いの時間は、すでに与えられた自分自身との結合そのもので、まったく等しいものが共振しあう異様な笑いが、無感動にみずからを嘲笑する結果になる。

 笑いの系譜

とはいえ、ここで本当に面白いのは、この芙蓉の位置が、大島弓子の最初の時代を強く刻印する、一九世紀ロシア的な、半政治的自同律の根なし草世界と、彼女の次の時代の超近代=超フロイト的世界を接続し、しかもそれがシェイクスピアという古典/近代作品を使ってなされていることで、例によってこれは大島弓子流無茶苦茶なつなぎ方をされるのだが、しかもそれはなぜか論理的で、したがって現実的である。だが、その世界の変遷を見るには、まず、るかの方から追っていくとしよう。芙蓉の震えが不在(Φ)に向かう、みずからから逃れんとする震えなら、るかの震えはみずから――を与えてくれる対象――を求める、不安から脱する震えであり、こちらの方は大島弓子の世界に比較的一貫したものとして、その周波数を次第に減らしながら、主役の場を生きつづける。最初の六〇年代の、輸入映画の奇妙な邦題のような作品時代をとりあえず除いて――もっともその完成度には驚かされるが――、彼女の世界が完全に出来あがる頃の、七二年の『さよならヘルムート』の<スウ>、『星にいく汽車』の<なな>からるかに至り、これは七五年の『F(フロイト)式蘭丸』の<よき子>で一応決着がつけられ、愛のファンタスム的世界の正式な終了宣言とともに、少しばかり悲しい別れを告げることになるが、その直前の『いちご物語』の<いちご>に移植されて、第三期のはじまりともいうべき七八年の『綿の国星』の<チビ猫>へと受けつがれ、永遠の幼年時代ともいうべき安全地帯に封印される。真性の笑いはこの系列に存在し、<ZITABATA ZITABATA☆ワーワーキャーキャー>という彼女の世界の最も美しい時間に加えて、縮れ上がった髪の毛の作者の自画像そのままに、ストーリーに無関係に画像に押し込まれた<HANDSOMEYOKOI HANDSOMEYOKOI HAMSANDWICH>などの、ときに画面からちぎれ飛んでくるほどの、激しいパワーをともなった律動も、またこの流れに分類される。このとりわけ第一期の律動の激しさは、数あるまんが作家のなかでも最大級で、つまりきわめてリビディナルなものであり、平面的な音の水準で戯れているというよりも、音から意味へと明白に結合しようとしている強い力動が、そのタイムラグを待ちきれずに、次々に隣接した音へと飛び移って水平的に音韻を組み変えて行く、きわめてパワフルな運動で、すなわち、その中心世界をながれる愛への逼迫と、<同じ種類の>エネルギーが、切断された領域で<対抗的に>ショートしていくという点で、意味世界から切りはなすことのできないクリティカルなものである。
ただしこのクリティカルな笑いは、第二期以後、その愛の不可能と並行して、みずからを分解することになる。一方は<批判的>なものとなってチビ猫や子供たちに受けつがれる。少々(多々?)分裂症気味の隣のお兄さんと、主人公<とみこ>との友情を歌いあげた『裏庭の柵をこえて』(八一年)で、とみこがお兄さんに<いたずら>されたのではないかと詰問する両親に、お兄ちゃんとはホモの話をしただけだよ、それでお兄ちゃんのバヤイ<それはとってもクツジョクテキだったんだって アイジョーがなかったから>ととみこが答え、親たちが冷汗ものになるシーンは、思わず素朴に笑わせるが、あるいは『夢虫(ゆめむし)・未草(ひつじぐさ)』(八三年)の主人公<林子(りんこ)>の、<自由意志とは自由石のことである>というラディカルなテーゼなども、同じ流れのなかにある。(スペースの関係から紹介できないのが残念だが、この話は限りなく水平結合していく近親愛が、明示的にテーマ化される作品で、自由意志という言葉は十分歴史的文脈検証に耐える深度をともなって、接合-批判されている。この作家のパワフルな安直さは、実におかしい。)これらの批判性は、作品世界の総体的強度intensityの減少から帰結する。最初の時代において、クリティカルな音の平面は、作品の主エネルギー系たる恋愛感情の副路となり、その過剰な力によって作品が破壊されるのを防ぐごとく、それ自身に向けられる独立した放出回路となっていたが、この第三期の音の次元は、既存のイデオロギーの平面と共振することで、その意味論化されたエネルギーを、作品世界に逆に補給し、それを無害なものとして再利用する回路となる。これは一般的に、批判といわれる装置の仕組みと同じである。もっとも『夜は瞬膜の此方(こなた)』で、チビ猫のいう海に住んでいた<インギンブレイ>のせいでホテルに泊まれなかった、<お母さん>の悲しみには、それは結局利用できないものだという自覚があり、話はそう単純ではないのだが。

 『バナナブレッドのプディング』――深化する振動

分解したもう一方のクリティカルな振動は、欲動との結びつきを保持したまま、より物言わぬ<危機的>なものとなり、こちらの運命の方が大島弓子の世界にとって重要である。批判が外部と共振するなら、危機的なものは内側と共振する。この作家のプラトー――高地/急性分裂病状態――ともいうべき、七五年から七七年にかけての第二期をしめくくる、その名も誉れ高い『バナナブレッドのプディング』で、野原の草を三つ編みにしながら、<twinkle twinkle little star>と歌う、<衣良(いら)>のリズミカルな振舞いは、愛の要求を孕んでギクシャクしていたるかの動揺が、その要求をあるいは社会制度に、あるいは<みずから>へと、細心な戦略とともにプールすることで、より微細に、そしてより研ぎ澄まされて震えだし、<庭のはずれの薔薇のしげみと>共振しはじめるようになったものである。とはいえプールされた強い力、すなわち薔薇のしげみだけでなく、より大きな振幅と出会うこと――意味を持つこと、愛に所有されること、<あからさまに>神様がいること――への要求は、制度の無能力をつき破って、破壊的な形でやがて彼女に舞いもどってくる。衣良が考案した制度とは、<世間にうしろめたさを感じている男色家の男性の、カムフラージュ-偽装に協力すべく、偽装の結婚をする>ということだったが、これは<彼女の分裂症を治療すべく、――本当は彼女が愛しているところの――健全な男性、御茶屋峠(おちゃやとうげ)が、偽装を必要とする男性であることを偽装した>という<真実の開示>によって破綻する。ここで提起されている問いかけは、極限的に政治的なもので、すなわち<法は――制度は、イデオロギーは、思想は右であれ左であれ!?――みずからを真実と主張することなしに、愛に奉仕し、主体に力を与える、持続と安定の回路たりえるか>というもので、彼女の真に政治-批判的な圏域は、むろんここに存在する。じっさい、この作品の孕んでいる問いの深度と明解さは、圧倒的なものであり、戦後日本文学の凡百の政治論議を段突に飛び越えて、その最高所に自身をおく――そしておそらくは、作者の意図とも無関係に――。衣良の提出している問いは、きわめて明解かつ困難で、それは回答を求めながらも、その回答のもつ意味や解釈にではなく、その様相に答えを求める種類のものである。ここで『野イバラ荘園』の七倍の分量をもつ、この入り組んだ話をすべて紹介するスペースは全くないので、是非作品を直接読んでいただきたいが、衣良の立てた前提の《半分》は、<すべて語られたことや形式は、決定的に愛の偽りであり、死である>というもので、その帰結として、彼女はすべての形式にあからさまな嘘であることをあらかじめ要求し、みずから、偽装の結婚という制度を遂行performし、演技をし、それを真実の愛のアリバイとする。そしてそこだけを強くとると、彼女のその性急さは安直容易にスキゾフレニックなものとなり、読者は彼女を<解釈>し、治療することになり、そして事実、登場するすべての人々と、そして幾分かは作者自身も彼女を理解しようとするのであって、しかし理解されてしまうなら、衣良の立てた前提は完全に正しいものなので、彼女は永久に出口を奪われる。じっさい衣良は、その姉の<沙良(さら)>――衣良は彼女の結婚を、みずからの血液がフリーズドライ化する日として死ほどに恐れ、それが彼女の<症状>を悪化することになった――と、言葉を交わすことなく心を通じあい、そのことは最後に登場する<哲学科の学生>によって、明示的かつ強引にメインテーマ化されるが、けれどそれが第一原因の場に仮定されるや、その沈黙の共振は、野原の草や庭の薔薇と通いあう、彼女の震えのすべてを要約し、みずからのもとへと囲い込み、よりはっきりとした鼓動をもつ激しい愛の要求が、その場に習うやり方を、そこで完全に閉ざしてしまう。衣良の立てた問いは、その答えを明解に与えるなら破壊されてしまうような類の問いであり、その道ゆきを知り、答えに対して与えられる、ある種の慎しさと節度が真の回答なのであり、彼女が奏でる<twinkle twinkle little star>という清新な振動は、けっして沈黙の価値のみを重んずる、愛や他人に対して頑なな、自閉的-母子結合的なものではなく、半ばそれ自身と振れあいながら、そうしてつみ重ねられる思慮深さと慎しみをもって、やがて発せられるみずからと同じ問いを待ちつづける、いわば最高の答えのお手本なのである。
じっさい、るかが、みずからの愛と、その問いかけへの答えの不在に苛立ち、きりきり舞いし、しかしそれは単に<答の不在>に悩んでいただけで、それが与えられるやことが収まることを思うなら、衣良のかかえている問題の高度さは、この四年間で飛躍的に増大した、処理すべき問題の多さと困難を、恐ろしいまでに語っている。――事実るかは、箭という、勉と芙蓉の撞着的カップリングが引きおこす悪循環の、外側にいる、もう一人のいとこによって救い出され、この二人によって損なわれていた法と時間が、芙蓉の死によって再形成されるのとともに、彼女は自身の幸福という安定した場所を再び与えられる<らしい>ことが示される。――それに対して衣良の場合の困難は、芙蓉という死の側の審級が、みずからを<解決>すべく組み上げた、すべての装置が、彼女が解くべき問題として、残酷なまでの精緻さとともに、そこに攻め込んでくることによる。芙蓉の悲しみは、単にみずからの意味がすでに与えられすぎたことであり、みずからが死であることであり、そしてるかは、その充溢が過去へと引退しないことのみに苦しんでいたのと比べれば、衣良の対決せねばならない相手は、まず、彼女が愛する<御茶屋峠>の明けすけさにはじまり、アブストラクト画家の父親、彼女を精神鑑定にかけようとする、その幸福な家庭、姉の沙良との無言の関係もまたそうであり、そして何よりも、夢のなかで彼女を喰らいにやってくる、美しい性別不詳の偽装の審級<人喰い鬼>――おそらくは七四年の『ラスコーリニコフ』の領主スヴィドリガイロフで、その飽くことなき現世的な――したがって魔界的な享楽への要求の権化として完成され、それは怪異な出て立ちとともに、女や男を貪りつくそうとするが、その知と享楽は、知の自己享楽としてみずからを純化することで、万人に<後ろ向きに開かれた>享楽のバンクとその身を化し、ポーカーゲームとナポレオンという、近代世界の意味作用のルーレット(赤と黒)に破滅した身を、法の審級を一挙に代行するべく立て直し、七五年の『いちご物語』の日向温(ひゅうがおん)へと乗り移り、この大邸宅で薔薇を摘みつつ<われは神の子? ツァラトゥストラ?>と語る美貌の人は、その別名を狼男といい、それは一九一九年に(封印列車でやってきた二度目のナポレオンのせいで)亡命ロシア人貴族の身分となってフロイトに再会し、<神と豚と大便についての三位一体論>を披露しつつ主治医と同性愛的関係を再建する人物(10)と同名で、そして当然その名に恥じぬ自己犠牲と、女装の名手ぶりを発揮するが、このすべての力能が<人喰い鬼>へと結集する。――さらに御茶屋峠との偽装結婚が、素朴な真実――みずからを疑わない真実――に破れたあと、彼女が再び偽装結婚する真に男色の哲学者<新潟教授>は、それこそ芙蓉のときの<何倍もの専門知識>で衣良を説き伏せようとし、衣良は今度は彼の<底意ある真実>――それを認めさせることを目的とする真実――に対処するために、<いつか料理にふぐがでてそれを教授が食べて死んでしまうかもしれないでしょ、だから今晩はふぐ料理がでなくてもがっかりした顔をしないように、いつも演技をする努力をしつづけなくてはならないのよ>と、偽装結婚のなかで再度偽装を重畳する戦略を立て直し、彼を認めることを演技の水準で取り引きしようとするが、おそらくここで明らかになるのは、彼女が最初に選びとった、カムフラージュとしての結婚と、ここで要求されるに至った真性の偽装との、その演技に賭けられているものの違いである。いったい演技することによって、守られようとしたものは何なのか? 彼女が御茶屋峠ととり結んだ最初の<偽装>の結婚時代、彼の不用意な<真実>の露呈で、それが脆くも崩れ去る直前に、御茶屋の出かけたあとの家でいかにも嬉しそうに台所仕事に精出す衣良が、<家庭に必要ないろんな知識/みんな知っておかなくちゃ/みんな覚えておかなくちゃ/神さまのため/☆あっ☆いけない!! いけないって/前言取り消し前言取り消し>と一人であわてるエプロン姿は、その楽しげな姿の一人芝居を、<神さまを口に出し>てはいけないことの意味と一緒にとりわけ強く印象づけるが、やがて教授の家に行き、ふぐ料理めざして演技する衣良の眼は、こうかつな光を放ち、死人のような顔つきとなり、教授と御茶屋の両方をナイフで刺すやがてくる荘絶な結末と相並んで、その最初の偽装と幸福がもっていた複雑な結構について、いやが応にも強く熟慮を求めるのである。

 演技に賭けられた複数のもの

すなわち彼女に向けて攻めこんでくる最後のものは、彼女自身も考案した、演技に賭けられ、その後ろをゆれ動く、複数の意味合いとその闘いである。ここで思い出されるのは、『野イバラ荘園』の最後において、その愛を現実の時間に登録拒否された、芙蓉と勉が、るかの考案した演劇の形式でそれを回収したことであり、というのもみずからが意味であり、権力であり、愛そのものであった芙蓉は、演技においてのみ、それを口にし、所有するものとなり、現実とその演奏representationとして、みずからをそこで分割する。とはいえ、ここで真に救われたのは愛だったのか、意味だったのか、現実だったのか、それとも演劇の方だったのか、または権力であったのか、それとも死だったのか、何であったのか? このことの曖昧さが、その結構を最大限に重層させて、やがて衣良に襲いかかる。芙蓉やるかが、愛を口にすることの困難をめぐって右往左往するのに対し、衣良とまわりの人々は、反対に、語ることと演技することによって破滅に落ちこんでいくのに、気づくことができるだろう。そして『野イバラ荘園』とその時代の彼女の作品が、おおむね普通の恋愛と、やがてそれを所有することの困難へと展開され、第二期においては、より前面化する同性愛とともに、精神鑑定と強制収容に向けて爆発的に世界は進展し、八〇年代の第三期に至ると、『ダリアの帯』(八五年)の<黄菜(きいな)>はついに精神病院に収容されるが、それ以上に、人間として生きていることじたいが困難に襲われだす――頻出する核兵器――。しかしより注意するならば、『野イバラ荘園』では、じつは死ぬことの困難が問題だったのであり、『バナナブレッドのプディング』では逆に生きることが切迫して問題となり――<あしたになったらバナナブレッドのプディングをつくってみよう/いったいどんな味がすると思う?/あまい味/にがい味☆とろけるような味☆完全の味☆不完全の味☆死んだ国の味/生きた国の味☆☆そうだわ☆生きた国の味がいい☆☆☆>――、さらに正確には、最初から恋愛は一貫して不可能だったのを、その不可能をあらかじめ引き受ける者のおかげでただそれは隠蔽されていただけで――『星にいく汽車』では、主人公ななの友人チョコ(彼女は当然<知識豊かな>人物である)は、結婚式場でいきなり花嫁衣装を脱ぎすてて裸になり、ななから奪った男性<せんろさん>を彼女に返しつつ、みずからは<神学生>と結ばれるという奇妙かつ論理的な結末を迎える――、しかしその隠蔽は、るかの考案によって、愛の場からの単純な引退ではなく、あらかじめ死んだ者が再度殺されるという形式にみずからを純化し、そのことは愛を不可能にしていた死の充溢そのものを、むしろ愛をしのぐ結合の舞台へと転化する道を開く。――すなわちあらかじめ結合したものがその結合を再びなすとき、最高の強度が流れるように。あるいはすでに死んだ神が無限回殺されるとき、その最高の快楽を与えるように。――そして第二期では、あらかじめ死につつ、再び最も強く死ぬ者の倫理性と、最も美しく死につづける者の享楽の審美性が並走し、――この両者の平行をみずからの理想としつつ、それを力劣った者にふさわしくも再配分する、その忌むべきものの最も一般的名称は、資本主義である――だがそれは、いずれにせよ生きた国でないことを、はじめて完全な形で告発し、しかもるかがそうであったように、その打開策もまた考案したのが、衣良だったのである。その打開策の帰趨は八〇年代に持ち越されたといえるだろう。こうしてみると、るかが対決し、芙蓉がその供物となった充溢は、まさに近代的といわれる場所であり、衣良が直面させられたのは、その近代的なものに対処してそれを最高の高みで凌駕しようとする、反近代的-超sur近代的な機械装置のすべてであり、しかも彼女は、それを何びとも考えなかったような形で打開した<らしい>のであって、その答は次の時代に引きつがれつつ、現在に至ることになる。大島弓子の激しいところは、ひとつの作品で固有に立てられた問題とその答、すなわちテキスト結合が、ことごとく次の時代にあたらしい困難として繰り越され、しかもそれが再度<解決>されつづけて行くことにあり、しかもそれはどうやら<意識的には>なにも考えずに行われているようで、そのことは彼女の作品が<芸術的>であり、あるいは<芸術的>なものを十全に反復するものとして、あまたの嬌媚的自己反復から十分に区別されえることを説得する。そして固有な変転は、その固有さゆえにやがて普遍的なものに近づくが、ともあれ衣良が直面した困難と、そのゆらめきは、るかのナイーブな振動と異なって、芙蓉という悪役の側に蓄積された歴史装置を、その細やかな震えのなかで慎重に発酵させ、分解するものであり、したがってその振舞いをより理解するには、ここで芙蓉の側の審級がたどった固有の道のりを、再度ふりかえっていかねばならない。

 透明な跳躍者たち

芙蓉がとりわけ美しい少女であったのは、彼女が特別多くの困難を背負わされていたからである。その第一は父親の不在、すなわち去勢の不在、節度を与える苦痛を過去と共同体に媒介する者の不在だが、父親の審級の錯綜は大島弓子ないし少女まんが世界、あるいは今日のプレ=ポスト・モダニズム世界の大前提であるので、これはさほど重要ではない。第二に母親が身を売った過去の事実があり、このことの方が彼女にとって重要である。というのもそれは何らかの負債めいたカードを彼女に引き渡すのではなく、身を売ることを先取りしてしまうことによって、逆に彼女からそれを奪い、彼女に愛の主体であることを固執させ、それに匹敵する快楽をともなって<ふたたび死ぬ>道を捜させるからである。大島弓子において、身を売ること=身をお金に換えることは、負の意味合いをもつどころか、一貫してポジティブな、しかも特別な地位をもっており、これは一九世紀ないし今日的であるとともに、特に彼女において革命前ロシア文学的コンテキストにつながっており、その正の価値は、それこそ初頭近代のシェイクスピアなどとは、無縁である。しかもその意味は、注意してみると二層存在し、しかし一見してわかるものは外側にジャンプする運動で、これはすでに七一年の『あしたのともだち』で、ショーダンサーをする女子高生<咲子(さきこ)>にはや現われるが、そこで飛躍するものは、幸福のメロドラマに従属する場所から外側に脱出すると同時に、やがてそれを支配する力を手にいれる。この流れの中心的な場所にいるのが、七四年の『ほうせんか・ぱん』の<マーヤ>で、彼女は<ダイヤのイヤリングのため>に恋人からのラブレターを叩き売りしては彼に買わせ、いかがわしいクラブで働いて学校もやめさせられるが、それは恋人の目のなかに育ちはじめた、より幼い主人公<緑(みどり)>の片鱗を見て、みずからは一挙に身を引く決意をしたからである。彼女は大島弓子の初期世界から登場する、前述した『星にいく汽車』のチョコのような、愛の不可能を先取りしてやる姉役の少女たちの完成態であり、しかしその愛の場所からの退場は、偶発的に愛に奉仕するというよりも、死に向けて意志的に跳躍する、すなわち過去や神話や制度のなかにみずからの求めるものを探すのでなく、みずからの存在から求められる形象を、しかも形さだまらぬ空白として万人に向けて切り取り出す、法の設定《可能》者としての性格を、より明瞭に増していく。つまり愛の呼びかけへの答なき、逃れえない死と不在の可能性を、みずからの意志によって形づくられた人為的中断の帰結として、逆向きに組みかえてやるのである。もっとも、これも各々の人物によって、かなりの揺れがあって単純には要約できず、また単純に要約されるべき問題でもないが、ともあれこの系列における男性的な女性たちの飛躍は、厳密に一回かぎりのもので、それが、彼女たちの毅然たる美しさを保証する。じっさい彼女らは、現実の男性に対する一種の絶望の帰結であって、というのも去勢の審級に立つ父親は、その子どもに対しては禁止する者、すなわち欲動の制限回路を与える者として名誉を手にいれ、過去と神話に対しては、みずからの欲望をその意味として登録させて、子供のように自己の存在についての問いを免除される、情けないありさまで、しかも現実に子どもの欲動を法とメディエイトするのは、子どもの振舞いを漸近的にリードしつつ制限する母親で、父親は単に、ランナウエイした欲動の畏るべき結果例を神話=イデオロギー装置から引き出すのみの、小心さを売るにすぎぬ役者である。マーヤに代表される凜々しい女性たちは、自身の退出を、自己犠牲という名誉と取り引きせず、また退出する場所は風の音のみが聞こえてくる、ある種完全な空白であるので、現実や神話の従僕となって、その身をけがすことはない。しかも愛を<緑>に移譲したマーヤが、外国に行くと称しつつ、退学になった学校の横で破産した父親と仲睦まじく、工事現場で語る最後の姿は、死と貨幣と肉体労働がしばしば等価交換される、この作家の世界を、よく物語っている。八〇年の『雛菊物語』の自殺ないし自然死願望者の菊子も、兄によって<生きる意志をもつ>べく仕組まれた、あと二〇日の寿命しかないという家族がらみの演劇を、ディスコ帰りに<強姦された>と芝居しつつ、じつは工事現場で肉体労働する、という形で反転させるが、意識と欲望の弁証法にまつわる、意味するものsignifiantの循環ゲームの、ごく単純な中和点として、この作家における労働と、そして多分に自然は存在する。ただしこの二つの世界は、瞬間的な飛躍によって完全に分け隔てられたままであり、この種類の異なる複数のリズム、つまり逼迫する調子と流れる風を、はじめて同調させようとしたのが、衣良だったともまたいえるだろう。
そしてこの毅然たる女性たちの跳躍するいき先は、その退場が、法の設定の手本となっても、その法はけっして世俗的権力をもってはならず、あるいは法についての問いをニグレクトする理由になってはならないという要求から、――たしかゴダールの『中国女』で引用されているブレヒト論(11)で、ルイ・アルチュセールが語るような――売春行為によって、意識のメロドラマ的弁証法から<現実の>弁証法へとジャンプするといった、幸福なことはない。彼女たちは掛け値なしの飛躍をするのみで、その着地点で、異質なものの与えるあたらしい欲動態勢のおこぼれにあずかって、お茶を濁すようなことはせず、したがって持続する時間のなかでの、神話と共同体が主体ととり結ぶ、禁止と享楽についての問題は、また別の場所でたてられる。少女まんがの基本的力能は、異物性-唯物性の廃棄にあり、それが異質なものの蕩尽される今日世界での説得力を生むのである。ともあれ、この愛の場所からの退場は、欲動とディスクールがとり結ぶ基本構造を再演することで、やがて非常に美しい場所を、大島弓子の世界に与えることになりはする。『いちご物語』の<全子(ぜんこ)>や『ハイネよんで』(七六年)の<添子(そえこ)>は、恋人や夫に、自身の愛の真実について高らかに宣言することを要求し、そして求められている答は、常に、<私はあなたを愛していません>である。というのも、語られたその瞬間、愛の回路は言葉の意味へと組み込まれ、過去と死へ落ち込んでいくからで、そこで救われるものがあるとすれば、真実と、そして真実を交換しあう者どうしの誠実さしかないからである。とはいえ彼女たちの跳躍が、きわめて透明かつ優美なのは、彼女たちがあらかじめ死んでいる、すなわち欲望の演算を終了し、みずからを知っているからであり、またそうでなくては――マルクスが『資本論』で一般的等価形態の形成について語るような――命がけの飛躍は、そのポテンシャルを得るのが基本的に不可能といえるだろう。あらかじめ死んだ者の無償の飛躍を、再度擬態することで、現実の権力は、自身の力を得るのである。つまり彼女たちは、意味作用や構造によって、自身を分け与えられるのではなく、構造の作用を、みずから先導する。いいかえれば何かが語られること、人と人とが向き合うことが、十全たる真理であると同時に、そこではまさに一回限りの事件evenementとなる。みずからを終えた者のみが何ごとかを始めるだろう、というのは、大島弓子にその姿を多様に変えつつ延々流れつづけるテーマだが、じっさい愛を<ねだら>ない者、みずからを知っている者、その欲動の波形が別の波動で中和されることを、もはや欲してはいない者のみが、逆にみずからを整然と分割し、沈黙する自然の波に、<わたしは死です>と語る仕方を、教えることができるのである。しかしこれは一度かぎりしか有効でない。なぜなら同じ調子で二度繰り返されるなら、それはまったくの冗談となり、より弱々しく繰り返すなら、最初の宣言をそこで補い引用する、つまりすでに存在する意味をみずからの振舞いの援助とし、そこに蓄積された快楽を自身の愛と取り引きする、ごくありきたりの言葉と主体がそうであるような、構造と制度の下僕になってしまうからである。このことから振り返ると、この無償の飛躍の女性たちは、その無償ゆえに、やはり最高の権力を手にしていることが理解できる。具体的内容を持たぬ法の胚芽の輝きは、現実に何かを支配しようとする権力の、その仕組みだけを最初に演じてしまうことで、永久に最高の場所を占めつづける。彼女たちは瞬間の跳躍で、みずからを自分自身と、世界におけるその不在に二分するが、しかし世界の側は、その与えられた空白によって自身の形象の自由はゆだねられつつも、新たな転成を受動的にほどこされ、それゆえ彼女らは絶対的な債権者として、みずからの空白を所有する瞬間、世界全体を所有することになる。そして、だとすればこそ、当面のあいだ生きつづけねばならない人間にとって、この燦然とした輝きは、それを一瞬以上の時間にもたらすべく、また別の問題を提出するのである。

 娼婦たちと逆立ちした近代創世

だがここで、一旦、芙蓉の場所に帰ることにしてみよう。彼女は大島弓子の七二〜七五年当時の、通常の人物配置からすれば、明らかに最後に退場することが予定されているにもかかわらず、歴然と最後までそれを拒否し、強引に最後のページで病弱にされたあげく殺される。前述したように、母親がすでにその跳躍を先取りしていることがあるが、彼女がるかの姉でなく妹であることも、その不可能を論理的に駄目押しする。そしてこれらの重層が、彼女から、明らかにテロリスト的とでもいわれるべき透明な跳躍を禁じさるが、ここで気づくのは、身を売ることにまつわる、より明瞭に娼婦的な、もうひとつの流れである。これはツルゲーネフの翻案ものの『いちごの庭』(七二年)で、その表情を光らせるジナイーダ――大島弓子の力の多くは、人物表情の多彩を実にうまく表現しえることで、人々の感情の重厚なファイルを作り、それを次々に転送して、結果的に思想的連結をも運搬するところにある。思想の各々のユニットの相違とは、結局気分Stimmungの相違だからである――から、いわずとしれた七四年の、多少原作負けしている『ラスコーリニコフ』のソーニャの反面へと流れていくが、そこにあるのは延々と続く偽りの時間の、その真実を奪われた妖しい息づかいの閉塞で、芙蓉に一見して息づいているのは、この妖しさである。さらに大島弓子においては、七〇年代の初頭から、成人した男性はほぼ一貫して死んだ表情を見せつづけ、男色家でみずからを慕う女性を殺したあげく自殺する『つぐみの森』(七三年)の<欧外先生>も例外的存在ではないのだが、この不決断な知の振舞いも、芙蓉の存在に流れ込む。これらはみずからの意味がそれ自身に送り返され、知らぬものと自己の意味を世界に欠いた、レーニンが雑階級的と言ったような、半ば貴族的半ば流民的な閉塞的過流動性の気配を濃密に反映し、そして事実、ニーチェが語ったように、この同じ生を以後何万回と生きるであろうシルス・マリアの体験が、人類史を二分しつつ、それが単なる悪循環へ反転し、まったく正しくも進歩主義者がいうごとく、ロシア革命以後永遠に歴史が逆転しつづける今日において、その調子はきわめて有利な説得力を獲得する。大島弓子が、テクノロジーとナポレオンの騒擾的恩恵を被らなかった、――それどころかそれらが倒逆して出現したこの地域に、みずからのベースのひとつを持ったことは、必然的な選択だったといえるだろう。そしてこの娼婦的自同性は、真実が奪われた、あるいは真実が奪われたことへと供えられた者たちの嘆息を、不自然にも開けられた、大きな口の哄笑へと転換し、決然たる宣言の二度目のくり返しの、冗談と化した時間の流れを自覚的に演技して生きつづける、ボーダーライン(精神-分裂-病と神経症の境界)的な男性たち、すなわち狼男や『七月七日に』の奥羽浅葱(おううあさぎ)にフロイト的に引き継がれ、そして最後は、衣良にむけて襲いかかる。前述したように、ひとつの緊密な全体としての大島弓子の作品世界は、それぞれの表情によってストーリーを追うことができるのである。そして『いちご物語』で、狼男は毅然たる悲劇的女性、全子を救いだし、彼女とやがて結ばれるが、その未来にはこの作家ではやや珍しく、かなり陰欝とさせる部分が感じられる。
しかし、ここで芙蓉における最後の演劇に帰ってみると、それでは形象繁茂するこの自同性と、凜々しい女性の透明な飛躍が、他の作品とは逆の仕方で一体化していることが見てとれる。それはみずからを二分するものでありながら、けっして透明な飛躍ではなく、完成されて十全たる形象をもつ全体が、――この作品において芙蓉は結局のところその世界の全構造である――一回限りの飛躍によって、しかしその姿をあらかじめ明らかにしつつ自身を所有するのであり、すなわちそれは古典的な演劇形式に近似する。だが本来の演劇があらかじめ現実で不透明に織りなされた流動を、はじめて再演し分割することで、それを一瞬にして簒奪する、あらたな知と権力の創成の時となるならば、芙蓉における現実は、はじめから死滅しており、そのすべてを明らかにされつくして動きがとれなくなっていて、それは虚構によって演じられることで、逆にはじめて虚構として救われる。つまり全体が全体へと一挙に回付される最後の瞬間、現実はすでに演劇以上ではないものとして、自身のシナリオを与えられ尽くしたものとして、その近代的なあり様において堂々と自己を認知する。ここにおいて死ないし知と、跳躍の順序関係は、他の作品と反転する。前述した『いちご物語』の全子と狼男にせよ、あるいは『ローズティーセレモニー』(七六年)で、みずからの空白による世界の所有を賭けるごとく、いかなる具体性ともまったく無縁にエリュアールの詩とともにストライキ闘争に決起する高校生、田谷高太郎も、またその残り少ない寿命を知る男色的人物につき従われているが、彼らにおいては外側のない世界での、可能なかぎりの喜びを賭けたただ一回の透明な飛躍があり、その二度目からの冗談を処理すべく男色家が後ろから登場し、しかし反対に芙蓉においては、冗談であることを認知されない充溢がまず存在して、その全体が重質な飛躍をなすことで、最高の快楽とともにみずからの起源を設定する。このことは二重の意味をもつ。ひとつは上限的快楽を一度経験することで、その世界を、限りなく果ての病まで引きずっていくことになり、もう一方は、近代創成をいわば逆転して最初に演じてみせることで、この病を上位に超えることはあっても、後ろに退くことはない、撤退防止線を構成する。この作家の世界が、やがてその第三期できわめてエコロジカルな振動を見せるようになりはしても、それはけっしてナイーブなものではないのである。

 男色家の一群

さて、芙蓉が完全に出口を塞いだこの世界では、空白のみを与える美しい跳躍が、いずれにせよ最高の快楽をもつべく頻出し、いわば<汝我れを見しにより信じたり、見ずして信ずるものは倖(さいわ)いなり>とでもいうごとき、過激な倫理性を演ずるが、その一瞬たることのあと始末をつける者たちとして、何も信じぬゆえにやはり<見ずして信ずる>かの、男色家の一群が登場する。しかし彼らに果たされた義務は困難なものである。その一群にしばしば狼の名が冠せられるのは、『ある幼児期神経症の病歴より』の主人公というよりも、まず、その大きな口によってなのだろうが、すべての享楽と形象の華々を知りつくしつつ、しかし不在と未知だけは欠いているこの者たちは、やはりその二度目の馬鹿馬鹿しさを感ずる気持ちを、大口を開けて発せずにはいられない。『いちご物語』の狼男=日向温(ヒュー・ガオン)は、無垢な主人公<いちご>の、誘惑者かつ性教育者として登場するが、知と美を与えるその献身ぶりは、真に無償のものではない。主体と構造をめぐる快楽の移動線はここでは逆向きを描くのであり、すなわち不在を欠いた構造ともいえる日向温は、愛欲の真実を教えることでいちごの体に欲望の裂け目をまず切り入れ、そこを再度埋めるべく、今度は言葉を与えてやるが、しかし形をもたぬ欲動がそれに意味を与える未知の言葉と結びつく、いちごにとっての真理の時を、日向温は、やはりみずからにとっての喜びとしても必要とするのであり、すなわち他人の欲望が解決される他人にとっての真実を、彼はみずからの欲望の対象とする。つまり彼においては主体から構造に向けて快楽が流れるが、いいかえれば、そこではあらかじめ演技があり、あとからその原型としての真実がやってきて、要するに時間は逆向きに流れている。だから一瞬の飛躍をした全子は、その瞬間日向温と出会ったとしても、その後は全子が果てることない死を受け入れる以外に共通のものはないのであって、この両人と、そしていちごと彼女の義兄の三組がなす、物語のラストの結婚式は、その複数性が奏でるファントム的印象と相まって、きわめて暗い情景を出現させる。そして確認できるのは、この男色家たちも、その演技において、やはり愛の真実の十全を反転しつつも求めており、つまり毅然たる女性たちと同じであって、この十全さへの希求こそ、やがて衣良が解毒しようとするものである。
この狼男的人物は、いくつかの変異とともに、七六年の『七月七日に』の奥羽浅葱(おううあさぎ)に引き継がれるが、そこではより直截に、持続する時間と共同体へと彼は触れあうことになる。このいささか美しすぎるともいえる作品で、主人公<つづみ>の母に仮装しつづける美貌の人、奥羽浅葱は、はや宣言することにおいてでなく、語らぬことにおける価値を示しはじめ、その沈黙において<たがいの愛にならう>ことを、求婚者小袿健太郎(こうちぎけんたろう)に表明したのち、青い月夜の川べりで、たゆとう黒髪を切りおとし、<森のむこうの>戦場の共同体国家の召集へと、小袿ともども消えていく。その最後の場面で、川面いっぱいに流れ狂う黒髪に、声もだせずに震えるつづみをあとに残し、母の顔をした長身の青年が、無言に立ち去る姿には、多少危険な戦慄さえ感じさせるが、ともあれここで問題群は明らかに成長しているのであって、彼らはみずからの演技を重畳して、空しくも逆倒した真実を求めつづける繁茂する享楽の林から、そのかなわぬことを認めあい、より言葉少なに現在のすべてを認めあう、共同体の森へと帰っていく。彼らはもはや虚偽を虚偽として演じつづけ、その強度の果てで、ほんとうは一度たりとも存在したわけではない真実の愛と悦びに、まるで敵意を示すような、しかし実はそれに再度あずかろうとする振舞いをなすのでなく、あるいはすでに与えられすぎた充溢を、たがいが相手に押しつけ合うことで、他人の愛と真実をみずからの欲望の対象とするのでもなく――<私はただ一方的に、あなたを幸せにしようなどという思いあがりをあやまらねばなりません>――、すべてが終ったその今における出口のなさを、それぞれ隠すことなく、しかし誇示することなく、みずからにおいて引き受けつつ、<たがいにならいあおう>とするのである。したがって立ち去っていく方向は、平板な死と沈黙の場所ではなく、そよぎあう声の聞こえる森のなかだが、しかしそこで何が語られ、どのようにして<たがいにならう>のかは、結局閉ざされたままである。そして森と戦争は、近-現代世界で最も多くの者たちが<去っていく>場所なので、――森の道? エリザベート・アリオーヌの森(12)? <要するに、きわめて要するに、いかにして戦争を避けることができようか(13)>?――それだけに危険もまた多いといえるだろう。
そしてこの男色家たちを最も猥小にみずからへと集約するのが、衣良に刺されるサド《的》な人物、新潟健一教授である。前述した二人の同性愛者が、いずれにせよ二度目の宣言の冗談たることをめぐって問題を解かされているのに比べ、彼は繁茂する形象において劣るゆえに、与えることのできる華々の乏しさから、力ない同性愛者となって法の擁護者へと退却し、しかし欲望の対象=物自体を一挙に棄却して法の設定者になるのには、愛欲に未練がありすぎてそれもかなわず、したがって法の力、法に対象が従うことそれ自体をみずからの欲望の対象とする(14)ほどでもなく、すなわちその離合を単調かつ無感動に反復するような、真に倒錯者的・サド的な論理性も持ちあわせない。だから彼は、御茶屋峠に心移りしたその愛人、奥上大地(おうかみだいち)を色情魔と罵っては傷を与え、衣良に向けては延々と議論を反復するという、後ろ暗い道徳家、徹底しないサディストとなり、そして同性愛者であることにおいては世間にそれを隠しだて、つまりあらゆる面における、やましさと劣った力の集積場となる。だからこそ彼には哲学教授の肩書があるのだろうが、しかし彼のそのひ弱さは、衣良が提出した問と答、つまり<死んだ国ではなくて、生きた国にすむ>にはどうしたらいいかという設問によって、逆に引き出されてしまったのである。というのも彼は死の場所で最も美しく組み上げられた、最高の喜びについて知りつくしつつ、しかしこの地上の時間を生きて行かねばならないことによって、決然たる跳躍者として世界を所有するというよりも、法の脆弱な注釈者へ転落し、単調にみずからを反復するというよりは、それを聞かせることで自分を認めさせる者となり、そして享楽を無限に与えることを楽しみとするよりも、みずからへの愛を無理強いする者となり、あるいはごく単純に欲望の対象として、他人を所有したいと思う者になる。彼においては過去の最高の快楽と、それを再び強引に現在になす、最高の力の二度目の振舞いは、すべて最高のものとの距離に転じ、それは権威や欲望への執着として、制度と体制の守護者の役を彼に分配するのである。――ちなみに彼の愛読書のひとつは<理想と現実・ギャップの美学>である。――そしてその執着のはてで泥酔し、しかしなお身体を離脱して生霊になると怒号する最後の晩、衣良の刃先は、彼に向けて進んでいく。奥上大地を責めさいなむ彼の姿を物陰からみて、<もうやめよう>とつぶやく、御茶屋峠の妹、御茶屋さえ子の言葉のように、この哲学教授は、もはや終わりにせねばならないすべてのことを、自己においてやましい形へと反転しつつ、その一身に体現する。

 知と誘惑の彼方へ

さて、それでは衣良は何を終りにし、何を始めることにしたのか? ここで気づくことができるのは、御茶屋峠の妹、さえ子の占める役柄の、ある種消極的な重要性である。そもそも『バナナブレッドのプディング』という作品で、物語が回転しはじめたのは、高校生にもなって野原の草を三つ編みにして遊びつづける衣良を見て、ただならぬものを感じた彼女が、衣良にボーイフレンドを紹介すると提案したからである。しかも、それに対する彼女の答が、<世間に後ろめたさを感じている男色家の男性の、ヴェールになるための偽装の結婚>であったところを、彼女は健全な男性たる兄を、安直に押しつけてしまう。そして衣良に向けて同性愛者であることを偽装すべく、兄と真性の同性愛者、奥上大地に偽の逢瀬をさせ、そのことで奥上に兄への気持ちが高まるや、今度は自分が兄に変装して奥上と密会し、その密会は、奥上と新潟教授の愛人関係を破綻させることになって、新潟の負性の感情はその<妻>衣良に向けて集中し、やがて破局へと進展する。初期の大島弓子の世界なら、彼女は明らかに自身の恋人を主人公に与えてやる役割の少女であり、それはその知的な容貌と、彼女が自身の兄を衣良に与えてやることに、残存している。そして愛の要求においては、みずからの<答え>を求める欲動の波が、その意味を探すかのごとく対象を追求し、しかし去勢の瞬間をこえて以後、母の身体という十全たる対象における休息は永遠に剥奪され、それゆえ見つけ出された対象は、その瞬間常に不完全なものと化し、欲動は次から次へとあたらしい形象を横滑りしていくしかない、――という道のりがすべて《ならば》、さえ子は愛の本来を正しくも換喩的に演出しており、ただ彼女は、愛の不可能を一身に背負って退場しないだけで、それ以外は大島弓子における姉役の少女の場所を、多少魔女的な客観的操作性を身につけつつも正当に継承しているといえるだろう。むしろ彼女の割り振った横滑り的な愛の不能が、悲劇的様相へ突き進んでいったのは、衣良がその愛の制度に、はじめて公然と拒否を表明する少女だったからである。さえ子はこの作品で、その存在を疑われた最初の姉役の少女となり、そしてこれは、同性愛者たちがすべてこの作品で、その存在を疑われているのと平行する。衣良が出した回答は、ひとつは前述したように、母子的な相対imaginary関係が常にすでに与えるような、完璧な解答のみを承認し、f(x)*f−1(x)による闇夜の黒牛(15)のごとき共振に帰ることをめざして、――<沙良、わたし沙良の赤ちゃんに生まれ変わりたい>――彼女が恐れる結婚のような、その完全な答をだしてあげると騙しつつもいつかそれを殺してしまう、制度や社会やイデオロギーの、すべての模造され権力化した真実を、徹底して拒否するというものである。そしてこれだけでも、衣良の振舞いはそれなりに理解でき、教授はその偽りの制度の代表者として刺されたことになるのだろうが、しかしそこで止まるなら、衣良が考案した<男色家との偽装の結婚>という、奇妙で精緻な戦略のよってきたることは理解できず、それゆえ彼女が求める愛の性質の新しい内容も押し殺され、さらにはこの後の作品世界に尾を引くことになる、根深い困難における衣良の重要な役割も、看過される。
芙蓉という少女が、大島弓子の世界におけるもっとも美しい女性であったなら、衣良はその世界におけるもっとも聡明な人物であり、さらにはもっとも正常な少女であった。そして正常さはただ一人で分かつことはできないゆえに、それが彼女の悲劇となり、さらにその悲劇は、彼女の聡明さがそれ以外の者たちの知的であることとの間にもつ、差異によって帰結する。衣良が求めたことの半分は、十全たる真実の愛のみを承認する、ということであり、彼女が与えた真のもう半分は、愛において真実を求めない、しかしそれは完全に放棄されてしまうのでなく、あるいは放棄されてしまうことにおいてたがいに結びつくのでなく、――すなわち<私はあなたを愛していません>という透明さ、あるいはその誠実が再度堕落したものとしての結婚という葬儀、言葉と形のすべての死体――その求めることを、それぞれが控えるなかで自身の声を聞きつづけ、だがそのように自身を隠している同じ種類の振動と、やがて出会うことによって、そこで愛を真実として値踏みすることなく、そのままの姿でこの現在を分かちあい、たがいに見つめ、わかりあおうとするものである。とはいえそれは安逸な安らぎの対極に存在する。一方での素朴な安らぎは、みずからの意味を相手に求め、それを平明な答として求めるゆえに、それへの疑念を遮断すべく、逆に答の宙吊りとしての理想や価値や根拠――イデオロギーや富や権力――という、不在の項を交換しあって、その基体である過去に支配されてしまうのだが、他方ここでは答の不在を聞きあうことで、その向こうでみずからの答の不在を知りつつも自身を聞きつづけ豊かにしている、いくつもの問いのゆき返しが、その内側に不在と死をかかえるゆえに、かえってこの現在の時間においてたがいを励ましあうことになるのである。偽装の結婚とは、みずからが平明な現実であることの保証を断念し、すなわち自身の震えをより大きく導いてくれる、母親の身体や顕現する<神さま>の、<これは現実なのですよ>という透明な声を聞く性急さをしりぞけて、むしろ答を生みえる無数のさんざめき――それらは時に自身が答となり、しかしそれゆえ自己の偶然であることもまた知りつつ、現在の生に死と不在を《同時に》孕んで、その生成する意味を問いかけあう――が、好意と信頼を授けあう、あらたな共同の場所への企画なのである。彼女以前のすべての魅力的な人物たちが、あらかじめの充溢に苦悶していたとするならば、衣良においては、その充溢は、ただみずからのものとして震えだす。というのも彼女たちの充溢とは、たがいを完全な対象や答として求めあう脆弱さと、しかしまた、たがいの答を不在の項や未来として交換しあってその根拠を制度にむけて預けるには、すべての形象を知りすぎてしまった彼女たちの力強さの、その双方を並行させる帰結として、過去と制度のすべてを一挙に反転し、凝固した現在というひとつの答に組み上げた結果なのであり、他方、衣良における愛の波動は、もはや求めあう性急さや充実した答の向こう側で、それぞれの現在が出会いはじめ、逆にそれ自身においてたがいを救うことになるからである。ある晩衣良が、さえ子によって化粧された美しい姿を、御茶屋峠に見せられようとして、激しい混乱とともに拒絶するシーンは、この作品でも特に印象深いところだが、そこにあるのは偽装や誘惑に対する拒否以上に、その根幹にある、愛の対象として相手を求め、あるいはみずからを最高の対象として与えようとする、享楽の価値にかかわるすべてに対する拒絶である。衣良に至るそれまでの世界では、母を求めるようにして信頼のやすらぎを男性に求める、素朴な波動の少女たちが一方におり、しかしその要求は現実に何者かに出会うやいなや、その対象の不完全さを明かしてしまい、したがってごく普通には、欲望は不完全なものをめぐりゆきて、そのそれぞれの不完全さにおける完全なものとの異なる仕方の差異を集め、ひとつの象徴の世界を作り上げ、それを不完全なものの父となして、たがいに偽りを分かちあうが、この素朴な少女の対極にいる、力強い女性たちや男色の者たちは、その偽りを分かつには、理想や価値や未来の名の後ろにある不完全なもののすべての形と真実を、すでに多く知りすぎてしまい、それゆえ愛を再び生きるために、空白への跳躍と、他人の無知と欲望へみずからを賭けることになる。いずれにせよ彼女たちにおける愛は、母を求めるように答を求める類の愛であり、その答の充満が、逆に愛そのものを困難にし、したがってそれがさらに、信ずることの倖いへの要求と、その反転の哄笑の繁茂を増大させる帰結を生む。
衣良がひそやかに進む道は、その真実と答はある意味でもはや愛から手を引き、それ自身で<庭の薔薇の花のように>語りだし、そのため逆に愛は、それとなく待ちつづける日々のなかで、ときに聞こえる声のように、偽らずかつ強がらぬ姿で、たがいに出会う世界である。つまり愛が真理の肥大を生み、それに苦しめられる世界から、むしろその充溢があまりに大前提に化したゆえに、反対に愛はそこから流出しだす、より新しい世界への移動である。衣良に至る少女たちが、幼年時代そのままの愛のすべてを守るべく、過去と未来にはさまれて、常に現在が滑り落ちてしまう世界にいたならば、衣良はその同じ少女でありながら、過去と未来を現在にはさみこむ、新しい制度と共同体を、はじめて発案する者となる。したがってそれは素朴な振舞いのように見えながら、それ自身を控えることにおいて強い力の、<その生を導くものとして、そこに隠れたままでいよ(16)>という、聡明な沈思なのであり、素朴などころか何よりも激しく、同じ仕方の振舞いと、<いずれという今>において共に聞きあうことを求めている。じっさい、彼女の考案した<世間に後ろめたさを感じている男色家の男性の、カムフラージュとしての偽装の結婚>という選択で、真に重要なのは、<世間に>なのか<後ろめたさを感じている>なのか<男色家>なのか、あるいは<男性>、<カムフラージュとしての偽装>、<結婚>のどれなのか? それはきわめて緊密に結びつきつつ、じつはすべてが同等に重要なのであって、その緻密さは、恐ろしくも人を驚かせずにはいられない。<世間に>後ろめたさを感じているゆえに、その男性の愛はみずからの不可能を制度に委託する、いわゆる普通の主体の愚かしさをすでにまぬがれ、しかし<後ろめたさを感じている>男色家であることで、享楽の集積者として他人の欲望を支配せず、だが<男色家>ゆえに、知の限界にはすでに至り、しかもやはり<男性>として、欲望の主体たることの苦痛をひきうけ、衣良の性愛の可能的対象者として彼女を待ち、そして何よりも、すでに<偽装>であることで、相手に答と対象を求める充溢への再度の性急さは棄却され、しかし<結婚>という、隠れながらも待ちつづける意志によって、たがいを察し合おうと表明する。ここでの偽装とは、性急さと、それゆえに愛を過去に従属させてしまう信ずることの激しさへの、中止の手段なのであって、みずからの偽装を他人の快楽の目録とすることで真実を支配する、男色家的=人喰い鬼的偽装とは正反対のものである。衣良の立とうとした場所は、それゆえ信ずることの知性的激しさから、パウロのいう<神はこの世の知慧を愚かなるものにならしめたまい(17)>に向かいはじめる、境ともいえ、それゆえ彼女は大島弓子の人物たちのすべての過去と、激しくも闘わされることになる。

 作品という振舞い

彼女のその闘いと、より深い愛の希求が、どのように帰結したかはこの作品では明らかでない。<わたしには自信があるわたしは誰にだってすんなりとけこめるのよ>という衣良が、野の草々や庭の薔薇と語るように、人々と語りあえることになったかどうかは、難しいところだろう。というのもその彼女の振舞いは、庭の薔薇のようでありながらけっして庭の薔薇そのものではなく、むしろ強い震えの豊かな言葉が、みずからと、さらにやがて来る他者をそこで待ちつづけ、そのことが暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていることがそこでは前提となるからである。そして少女まんがにおいては、男性には過酷なほどの英知が期待されつつ、同時に彼らは――現実がそうであるように――存在論的に(?)愚かなのが常なので、聞かれることを得なかった彼女の声は、まったくの草々と薔薇の声となって、現実には山奥の山荘で療養する発狂した『ダリアの帯』の黄菜(きいな)の発する、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音となる。だがここで、人は衣良の立てた戦略の、もう一方の帰結を知らねばならない。衣良の歩む、それ自身を知りながら、いつか聞かれることを互いに待ちつづける道ゆきは、実はその最も近いものは、作品といわれるそれの振舞いである。作品は、耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然であり、反対に聞かれることの少なさは、作品を自然に返してしまう。衣良が求めた、人が知るかぎりで最後の種類の愛情とは、作品に向けて贈られるようなそれであり、あるいは衣良の慎しさとは、作品がもつ慎しさに似通っている。第三期において大島弓子の作品世界には、書くことと書かれたものが特別な場所として登場しだすことになるが、そのなかで衣良の立てた問いの結構を、最も連続的に引きついでいるのは、八四年の『水枕羽枕(みずまくらはねまくら)』であり、さらにその突出的な帰結としてとりわけ奇妙かつ驚くべきは、同年の『あまのかぐやま』といえるだろう。
『水枕羽枕』では、知的でヒステリー気味の美しい姉<海(うみ)>は、昔母によって妹<陸(りく)>が堕ろされようとしたとき、その幼い無意識的決断でそれを妨害して以来、妹の不在――永久に答がない可能性、自己の存在の偶然性――を自身の現在へと抱えこみ、その過去の隠蔽にリビドーを撤収させて、男性を愛すことなく、逆に妹の現在に依存している。ある日見合い相手の<梨屋(なしや)>に、妹との<幸福な>関係をそれとして名ざされて、怒った彼女は遂にその秘密を言ってしまうが、しかしそれとともに不在は妹の現在へ織りこまれ、現在と和解したその不在は、海がこっそり読むことに執心している妹の日記を通じて、やがて過去未来の形で、自身の今と姉への感謝として与え返される。そこにはいつか姉が読むことを予想して、感謝の気持ちを薔薇の花にそえて贈ったことが書かれており、あわてて見返す姉の前には、すでに枯れ果てた姿となったその薔薇の花が目にはいる。この作品でなぜか(!)姉はヘラクレイトスを暗唱し、しかもその真実は妹によって授けられるが、大島弓子が一貫して描きつづけた姉と妹の関係は、――というより姉妹関係のすべてが大島弓子のすべてだったともいえるだろう。そこには共同体の原基経済oikos-nomos
のすべてが配置される――ここに至って明瞭に一巡する。姉と妹の力関係は逆転し、姉の側に保持されていた死と不在、すなわち答を宙吊りにしてやる力能は、それぞれの者の現在の意識と言葉とに、その臨界の自覚として織りこまれ、自身を聞く現実の相手に、ひかえめで時定まらぬ感謝を捧げあう。その交換は日記という、それじたいで自身の意味を与えつつ、読まれることと読まれないことに同時に開かれている、過去と未来の時間の流れに無関心な、固有の時間によって可能になる。
『あまのかぐやま』の内容は、授業中アル中の幻覚症状に悩まされる女子高校生――という設定じたい凄まじくかつ現実的だが――雲林院吹子(うりんいんふきこ)が、神父の息子である古文の教師、<根木永遠夫(ねぎとわお)>の、みずからは同性愛者であるという宣言とともに、その幻覚が新古今風の作品世界へと接続され、しかもみずからの知性の苛烈さによって仲たがいしていた友人<織子(おるこ)>との仲も、それと同時に回復する、というものである。ここで根木の宣言は、いかなる苛烈さとも無縁のまったく無感動なものであり、しかしそれがあえて表明されることで、分離したそれぞれの項が接続しだす。ここでは作品-読解と愛の振舞いが、時間を縮減するにいたる、ある種の自覚的無関心さとして、完全に重なりあってしまうのである。とはいえこれらの作品は、再度大きな問題を内部に抱えこんだことは事実である。というのも<作品>の振舞いは、強い意味での愛の要求を積み残しているからで、それゆえばらばらに開かれあったそれぞれの項目たる、人と世界は、その出会いをある種アクシデントに近似させ、そのアクシデントは、今度は現実から剥離しかかっている一群の無欲な男性の、欲動の無重力場形成に依存しはじめることになる。世界の結接点は、力強い女性=modernから完全に無力な男性=post-modernに移動するが、そこでは能動的に世界を分かちあおうとする、ときに強い愛の要求は、あまりに長き出会いへの待ち時間と、さらには待たぬことによってしか可能にならない愛の対象を前にして、みずからを発狂させ、あるいは最初からすべてが死んでいる(『サマタイム』八四年)空白を発見する。第三期に至る大島弓子の作品世界は、みずからを調和的に閉じるどころか、ますます複層化され、高度化された問題を、内部に抱えこんだといえるだろう。
総じて八〇年代中期に入っての彼女の世界は、一人元気なチビ猫以外、限りなくメモリーが揮発しはじめたような軽さに至っているのは確かである。その最大の理由は、すでに詳細にみたように、愛を求める激しさの、直截な要求が、きわめて高度化された世界構造とともに、それとしては表にでなくなったことに存在する。しかも力強い姉たちから、死の不在の深淵を、自身に均等に引き受けた作品世界は、欲動の狂おしさを自己の能動的な力へと結ぶには、男性の繊細な同じ声をすでに余りに待ちすぎてしまったので、何者にも聞かれることのない死の可能性は、親密な信頼のなかでそれぞれを知りあうことなく、しばしば孤立したまま、そこで自身を享受することになる。自己の偶然たることを知りつつたがいの声を聞きあう、生きられた世界の慎しさは、未来永劫に自己のみを聞く死の慎しさへと、紙一重で反転しだす。答あることの偶然を、その意志的な中断としてみずからに引き受けてやった、姉たちの力能は、死を現在に分けあう妹たちの慎しさに引きつがれ、だがその<作品的>振舞いの困難は、自身を世界にさらしている、文字どおりの作品全体そのものの様相へと反転される。ここにいたって、すべての政治-人間的諸関係を網羅してきた大島弓子の作品世界は、風の音へとかき消されがちな、自身の消えゆく姿とともに、はじめて外部世界と関係をもったといえるだろう。すなわち近代的な諸装置を、その高みにおいて極限まで登りつめ、果てに至って、現実の側の、解離する共同体での交わしあう声の乏しさを、みずからの清澄な世界における消えゆくような襞に向けて己れの罪となすのである。それは最高の危機であり、しかも最終的には自己の力の及ばないものであり、というのもそれは自己の欲動のみならず、現実世界の政治過程に、その起源をもつからである。しかし大島弓子の作品はその危機の様相をとどまることなく、今後さらに上へと向けて歩みゆき、いわば特権的な作家にのみ果たされた、私たちの自己認識と、さらには自己認識そのものへの贖罪の道を開削していくだろう。それゆえこの、愛によって世界を極限まで組み上げてきた、たぐい稀な創作者が、今後ますます多くの知慧を私たちに向けて授けることは、余りあるほどに期待されることなのである(18)。

(1) 大島弓子の著作はそのほとんどが『大島弓子選集』朝日ソノラマに収録ずみ。第一巻に全作品リストあり。本論で言及したもので未収録作品は「いちごの庭」in『野イバラ荘園』同社、「ハイネよんで」in『草冠の姫』同社、「サマタイム」未刊。他に『バナナブレッドのプディング』集英社あり。倉多江美は『バンクパムプキン』主婦の友社、『さくらサクラ』小学館等。
(2) 欲動の原初的プロセスにズレを与えることによるシステムの複層化。cf.メラニー・クライン著作集4§1:誠信書房、遊ぶことと現実§1〜3/D・W・ウイニコット:岩崎学術出版社、汎資本主義とイマジナリー/樫村inクリティーク1:青弓社。
(3) cf.判断力批判&美の理論p301ff/アドルノ:河出書房新社。
(4) 知覚同一性-一次過程-無意識-快感原則(=画像)の拘束として思考同一性-二次過程-意識-現実原則(=ストーリー)を想定することで、前者は神話的始源へと再構築される。
(5) じっさい手塚における無国籍的少年少女の容貌は、ロボットの抽象性と中性性のそれであった。一九/二〇世紀的な工業生産力/社会主義革命時代における、外部世界での技術的増進は、自然という情報体を前にした人間の側の読み取り―記述能力を、より高度に差異化し、同じ方向にせり上げていくことによって成立する。そのとき人間という情報過程は、自然をより多く再演する能力を身につけ、そのことによって自然に備わっていた、暴力的な破壊と組織化の力を我がものとするが、その自然の暴力は、人間の情報過程のもともとの形式である欲望の凝集的なふるまいを、逆に再演することにより、人間の暴力を免罪し、隠蔽する。この隠蔽は階級闘争の平面を通じて作動する。獲得された技術的力能が破壊的であるのも構築的であるのも、その様態はその時点での自然の側の情報総量との落差に依存するので、技術の場でそれを変更するには、人間の側の情報システムをより精緻な方向に動かしていくしかない。その移動の力能が二つのシステム間の新たな暫時的均衡を与えることになるが、ここで一つの形式がそれ以外のものと和解しつつ自らを肯定するとき、それは倫理といわれることを想起するならば、この科学的移動能力が与えるのは、同時に一つの善である。すなわち生産諸力は善悪の彼岸にありつつそれを規定し、その力能の帰趨をかけて、諸階級が善悪の場を戦う。概して善悪の、すなわち支配をめぐる戦いは、任意の形式どうしの優劣を決するために残虐なものに向かいやすく、しかも芸術は、その形式の残虐な支配力に奉仕するために、それじたい残虐なものとして宗教的な場所から生まれたものだが、しかしこの階級闘争の時代においては、諸階級と諸形式の自己肯定力は、自然総体との落差という抽象的な量に通約されるので、認識が権力にとって変わるとともに、芸術的諸形式も中性化し、人々はみずからの残虐性をいっとき忘れる。このことはマルクスのトピックを見ればよい。手塚の作品は、この残虐さや欲望の無際限さを、抽象的な均衡に変換するシステムじたいを、みずからの利益として運搬するが、この変換には多大のエネルギーを要するので、それを作品として受けとる読者には、代行されたエネルギーは彼ら自身の快楽として配達される。すなわち作品は大衆的な娯楽作品となるが、この歴史的な変換システムを作品における変換システムとして移植するには、作品そのものが新たな技術体系として完成されねばならない。そしてそれをなすものはひとつの技術者として、その美的-形而上学的責任を免除されることになる。つまり手塚における少年少女の中性性は、力の無際限さを道徳的な均衡に翻訳しえる、テクノロジーとメタフィジックが共役可能な、マルクス的生産諸力の時代の幸福そのものである。彼において人間の残虐な部分が見えにくいのは、その作品が走行させる歴史システムじたいに起因する。
(6) 饗宴211c。
(7) cf.国家論509c。
(8) Topik. カント立証論、マルクス土台―上部構造論、フロイト局所論等、複数の様態の情報プロセスによって自己定常化する全体。
(9) 国家論619b(6)(7)とも底本ページ、プラトン:中央公論社ほか。
(10) ある幼児期神経症の病歴より/フロイト著作集9:人文書院。
(11) マルクスのために(甦えるマルクス):人文書院(絶版)。
(12) DETRUIRE DIT-ELLE破壊しに、デュラス:河出。
(13) ニーチェ全集12§25:白水社
(14) cf.実践理性批判§6/カント:河出ほか、講義20§7/ラカン:Seuil.表現のみ、わが隣人サド/クロソウスキー:晶文社。
(15) ヘーゲルにおいてはA=A。フロイト以降の理解による。精神現象学p19:河出ほか。
(16) cf.ヘラクレイトス§16/ハイデガー全集55p44ff:Klostermann(創文社近刊)。
(17) ハイデガー選集1p27:理想社、ただし<偽装>の語に含まれるニーチェへの関心ほどの継承関係は、ここに存在しない。
(18) ここに採録した文章は、手塚治虫と大友克洋を出発点に、大島弓子、倉多江美から高野文子、柴門ふみ、近藤よう子、内田美奈子などにいたる流れを概観する、全体の約三分の一のものである。大島弓子に関しても、他との対照で論じた作品の具体的分析の部分は省略した。とくに、その笑いの構造を見れば明らかなように、大島弓子と倉多江美は、正反対の向きに流れる時間をもつものとして、好対照をなしている。大島弓子においては、愛の困難が自然に向かうことになり、倉多江美においては、逆に自然の困難が、愛や笑いとしてこぼれ落ちる。この両者は同時に論じた方がわかりやすい。なるべく近いうちに何らかの形で全体を発表する予定である。


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