第七回

歌舞伎のこと

前回、衝動買いするもので多いのが植物と、書いたんだけど、先日、「ゆすらうめ」という赤い実のついた木を衝動買いした。そのゆすらうめをみつけた日は、ちょうど、歌舞伎に行った日で、というか、正確に言うと、歌舞伎だと思って鎌倉芸術館に行った日なんだけど。朝から台風で風と雨が激しく降っていて、でかけるのは大変だなーと思いつつ、でも、勘九郎の名称最後の親子公演で、ずっとたのしみにしていたものだったので、流石に着物までは着なかったけれど、傘がとばされないようにふんばって歩いたり電車にのったり、電車に乗ったり、歩いたりしながら、ようやっと芸術館にたどりついた。でも、なんか変なんだよね、閑散としていて、全然人がいないので、もう、すでに、みんなはやばやと席についちゃってるのかしらーなどと思いながら、いやーな予感、そっとチケットをとりだしてみてみたら、やっぱり、的中、日にちが違ってたの、ほんとは、次の日。なんで、まちがっちゃったんだろうと、自分がまちがえたくせに、まるで、キツネにつままれたような気持になって、外にでたら、わたしとまったくおなじように、チケットを見て、苦々しい顔してる人がいて、なんだかわからないけど、もっと恥ずかしい気持になってしまった。
それから、帰る道すがらの花屋さんで、ゆすらうめをみつけたんだけれど、このゆすらうめは、昔、北海道の獣医のおじいちゃんと一緒にすんでいたころ、庭にあった木で、けっこう大きな木で、小さな真っ赤な実が数えきれない程、いっぱいついていた。
小さい頃はおやつ代わりにそれをとってはよく食べたんだけど、あまりに多いので、おとうさんがそれを焼酎につけてお酒をつくったものだった。ひっこししてからも、その「ゆすらうめ酒」は、おじいちゃんが作って送ってくれていて、まるで、ジュースのように甘そうで真っ赤なお酒は、すごく魅惑的だった。実そのものの味は覚えていないんだけれど、そのお酒の味は覚えていて、こうやって書いていても、その味が口中に広がる感じ。
獣医のおじいちゃんは父の養父で、実際は父の母の兄で、早くに両親がなくなった父はこのおじいちゃんを頼って北海道に渡ったと聞いたことがある。おじいちゃんは、おしゃれな人で、毎日卵の黄身で、はげ頭を磨いていた。外出の時はステッキをもって、山高帽をかぶっていた。馬のお産の時に、シッポがあたって、片目がつぶれていたので、ちょっと見はこわそうで、実際も、わたしの両親よりもきびしくて、しゃがれ声でどなられると、それだけで涙がでたものだった。おじいちゃんは、寺門という名字で、おばあちゃんは宮嶋で、おじいちゃんの家には、ふたつの表札がかかげてあって、そのころではめずらしい夫婦別姓だった。というか、もしかして結婚してなかったのかもしれない。どういう事情だったのかは、今でも、よくわからないのだけれど、後に、おばあちゃんの息子と言う人が、お金を借りにきて、そういう事実を知らなかったおじいちゃんをはじめ、うちの両親は驚いておおさわぎだったことがある。おばあちゃんはものすごく、強い人で、そのあたりの婦人会みたいのをまとめていて、いつも、近所の人達がお茶をのみに来ていて、大声で、おじいちゃんの悪口をしゃべっていた。わたしにも、「おじいちゃんが女の人の所に行ったら、すぐに教えなさい」と言っていて、わたしは、うんうんといってたけど、こわくていつもほんとうのことは言えないでいた。実際は、おじいちゃんは、たまにわたしをさそって、ものすごく早い時間に銭湯にいくんだけど、銭湯の帰りに、いつもいくお店があって、その小料理屋は閉まっているんだけれど、裏口から入って、茶の間みたいなところで、ほっそりとしたきれいなおばさんが待っていて、お酒とおいしそうなつまみを出してくれた。
それ以上の事はなにも知らないけど、なんか、その料理屋の路地裏の雰囲気とか、部屋の中でむかいあって座っているおじいちゃんとよその女の人の穏やかな様子はよく覚えている。今思うと、やっぱり、「いい仲」だったんだろうなーなんて思う。
おじいちゃんが70才で、喉頭癌になったとき、おばあちゃんはさっさと、荷物をまとめて出ていってしまった。それで、おじいちゃんが死んでから、うちにもどってきたんだけれど、どうしても、おじいちゃんの仏壇がこわいらしく、毎晩うなされるのでうちに住めなくなり、ひとりで、老人ホームに入り、その何十年か後、100才の一月一日の誕生日の朝、お雑煮の餅が咽につまって死んでしまった。ゆすらうめひとつで、いろんなこと思い出しちゃったなと、今考えていたら、実は、おじいちゃんは勘九郎のおとうさんの先代の勘三郎にそっくりで、そんなこともあって思い出したのかな。
ところで、ほんとうの公演の日、席について、ちょっとびっくりしちゃったのは、前の日に、間違えてきちゃったらしいもうひとりの女の人がわたしの斜前の席だったってこと。前の日と同じ山吹色の洋服で、茶髪を無造作にアップにして印象的だったので、気がついたんだけど、実は帰りに大船で買い物してぶらぶらしてから、鎌倉の駅にもどってきて、もっとびっくりしたのは、その女の人が、わたしが乗ろうとしていた江ノ電の切符を買っていたこと。
それで、肝心の歌舞伎はというと、正確に言うとこんかいのは、舞踊公演なんだけど、おもしろかった。なんといっても親子三人でふさふさの獅子の頭の毛を振り回す最後は圧巻でどきどきわくわくしちゃった。五代目中村勘九郎が来年、十八代目中村勘三郎を襲名するので、勘九郎の名称はことし最後になる。大学院の時、修士論文が歌舞伎のしぐさと表情についてだったので、そのころは、ほんとに、よく見に行っていた。
はじめのうちは、安い三階の立ち見の学生席でみていたのだが、そのうちに清元の太夫さんと知合いになり、その人がいうには、「死んだ彼女にそっくりだ」ということで、優遇してくれて、ただでいつもいい席でみせてもらい、楽屋や、馴染みの料理屋につれていってくれたものだった。そのころ、まだ、青臭い勘九郎の「供奴」を見たことがある。今回は、勘九郎の息子の勘太郎がやったのだけれど、それが全然印象が違うんだな。それにしても、勘九郎はほんとに、貫禄があって流石だった。予想以上に感激。全部終わって、幕が降りて、しばらくして、勘九郎がでてきて、生の声で、「はじめて、鎌倉でやりましたけれど、祖父が鎌倉に住んでいてあそびにきていたりしたので、そういうことをおもいだして、胸がいっぱいになりました」と言っていた。
そのあと、ちょうど、お茶のお稽古の時に、歌舞伎の話をしていたら、いつもお話する知り合いのおねえさんが団十郎の御贔屓さんで、新之助の市川海老蔵襲名披露の六月大歌舞伎の「助六」の時に、御簾の中で、河東節を歌うらしく、チケットを何枚もおさえてあるというので、こんど、見に行くことにした。


END