◆◇◆寝言戯言 19 「ちくま」2011年8月号 ◆◇◆

 言いたいことがいっぱいありすぎて、何から書いたらいいかわからない。あるいは、考えなければならないことが大きすぎて(広がりがありすぎて)、どういう道筋で書いたらいいかわからない。
 大きかろうが多かろうが連載の回数を何回も使って書けばいい――ということにはならず、一ぺんに言わなければ言いたいことは伝わらない。もちろん原発に関係することだが、それは原発だけの問題でなく、原発によって浮き彫りにされた社会と人間の生き方の問題だ。

 今回の見取図を先に示しておくとこういうことだ。
 私たちは利便性優先の社会の中で生きている。利便性の追求によって大事なことがたくさん失われた。この「利便性」は私たち自身の欲望が生み出したものだから、利便性優先の社会を作った原因(罪)は私たち自身にある、という受益者である私たちを責める考えがあるが、この考え自体がでっちあげだ。いまの社会は「利便性工学」とでもいうようなものによって勝手に動いていて、私たちは欲しくもない利便性まで使わされている。この社会で利益を得ているのはごく一部の人たちだけで(しかしその人たちも本当の意味で利益を得ているのか、そこのところを本人たちはよく考えるべきだ。利権の亡者として生きて臨終の床で人として後悔するのは、自分たちだ)、社会はそこに生きる人間を無視して動いている。受益者である私たちからは主体性も決定権も奪われているのだ。

 たとえば夏の冷房だが、原発推進派(以下、略して「原発派」)は、「原発反対と言いながら、みんなが夏に冷房を使うために原発がなければ電力が足りなくなる。」と言う。しかし原発以外の選択肢を抑え込んで、電力=原発にしたのは私たちではない。夏に冷房を使わせるような建物と都市を作ったのだって私たちではない。
 オフィスビルやマンションでは冷房がなくては耐えられないが、密閉されて空気が籠もる構造のビルしか作らなかったから冷房が絶対必要になったわけで、空気が籠もらない構造のビルを開発していれば冷房の使用は抑えられた。しかし電力需要を増やすことは経済の規模を大きくする効果があるので、空気が籠もらない構造のビルは開発されていたとしても普及が妨げられた。フロアとフロアの間を開放させてそこに外気が入るようにするだけで、1度か2度はビル内部の温度が下げられたはずだし、屋上に降った雨水だけでもフロアとフロアの間を流しながら落としていけばそれでもビル内部の温度は下げられるはずだ。汐留のように、湾岸に高層ビルを建て並べて、海風を遮断するような都市設計が論外なのは言うまでもない。
 こういうとき私はいつも、〈パチンコと残り野菜の漬物〉という経済モデルを考える。これは誰が言ったのでもない、私が勝手に言っているのだが、パチンコは何も生み出さず、せいぜいパチンコ依存症とそれによる借金を生み出すだけだが、金が動くことを良しとするこの社会ではGNPやGDPに貢献しているという意味で歓迎される。一方、残った野菜で漬物を作っても金は動かないから、政府か国か財界かどこかはうれしくない。
 パチンコと残り野菜の漬物のどっちが人の生活を豊かにするかは明らかだが、政府の目で見ればパチンコの方がいいことになる。いまの社会がやっていることはすべて、パチンコを択って残り野菜の漬物を捨てる(無視する)選択だ。これは、「金が動く」ということであると同時に、「個人の豊かさなんかどうでもいい。数字に反映されることしか関心ない。」ということでもある。
 しかしその数字・経済指標がまったく社会の全体をカバーせず、「社会の全体」というイメージの方しか語らない。これはたしか二回前に、社会の総意について書いたときに言ったのと同じことなのだが、本来、全体とか総意とかを語るはずの数字やシステムが工学化している。ベストセラーが総意でなく手法の産物であるのと同じく、政治家もまた総意でなく手法の結果でしかない。そのまた一回前に書いたことだが、学校の成績が優秀であることがそもそも工学化した勉強法の結果だから、本当に頭がいい人がいい成績をとるわけでなく、成績を上げる勉強をした人がいい成績をとっているだけで、その人たちが官僚になるから、彼らは役所の仕事をしても、仕事というものが自分がいい成績をとってきた勉強のようなものとしかイメージできない。
 全員がそうで、自分の仕事(課題)は自分を評価する上の人から与えられ、その人からいい評価を得るために仕事をする。そのサイクルは閉じられていて、社会そのもの、人間そのものを見る必要がない。本来あるべき社会そのもの人間そのものとの関わりから乖離して、閉じたサイクルだけを(が)勝手に動かす(動く)ことはすべて工学なんだと私は思う。金融工学・生命工学など二〇世紀の終わりにあらわれた「工学」という言葉は、全体として人間を見捨てていっているこの社会を考えるのに最もふさわしい。
 新聞によると、原発派は大きく分けると、経済界と経済産業省ということになるらしい。しかしこれは変な話で、財界と経産省はなぜ人の命を犠牲にして経済の活動がありうると考えるのか。つまりもちろん、経済がいまでは(昔から?)社会や人間を豊かにするためでなく、工学化した数字の中だけで動いているからだ。――ということは、私たちは経済の外に出るか経済を破壊するかしなければならない。
 馬鹿気た夢のような話と言われるだろうが、いま私たちに必要なことは、理解する能力でなく理解しない力なのではないか。理詰めの思考が人を抑圧する。「論理的でない」という批判を恐れてはいけない。論理自体にすでに罠が仕掛けられている(「罠」には「民」という字が入っている!)。
 論理の精密さにまどわされず、論理の基盤を見ること。論理的であるより直観的であること。つまり芸術をやるように思考すること。
 

 つい最近出版された大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社)という、講義をまとめた本の最終章で、彼はこういうことを言っている。
「たとえば、一九一七年のロシア革命の渦中にあって、レーニンは、断乎たる行動を躊躇する者たちに対して、ある文書の中で、皮肉を交えた批判を行っています。レーニンによれば、彼らは、革命の成功への保証を捜し求めているのです。優柔不断で行動に踏み切らない連中には、二種類ある。一方に、客観的な歴史法則に照らして、現在が革命の正しいタイミングであるかどうかを怖れる者たちがいます。今、蜂起するのは時期尚早なのではないか。労働者階級は、まだ十分に成熟していないのではないか。こうした不安が、人をひるませています。他方には、行動に規範的(民主的)な正統性があるかを怖れて、行動に出ることができない者たちがいる。この人たちは、大衆の支持が得られるだろうか、大衆は私たちの側についてくれているだろうか、そういう不安をもっています。
 こうした優柔不断のどこが間違っている、とレーニンは判断したのでしょうか? レーニンの考えでは、二種類あるいずれの立場も間違っています。レーニンが見るところ、彼らは、革命の主体が危険を冒して権力を握る前に、革命の許可を得よう(「許可を得よう」に傍点原文)としているのです。「お前らは許可がほしいのか」というわけです。」
「お前らは許可がほしいのか」にシビレる。
 これは革命についての言葉だが、私はそのまま芸術の話として読む。ロックもジャズももともと反体制・反社会の表現だったが、肝心なことはメッセージや服装・髪形が反体制・反社会だということでなく、既存の権威を無視して、自分たちがしたい音楽を誰の許可も得ずに勝手に鳴らしたことだ。
 二〇世紀の芸術は、音楽にかぎらず美術も文学も既存の権威を蹴っとばして自分たちがやりたいようにやった側面が強い(その中で、文学が一番保守的に見える)。しかし一九世紀までの芸術をふくめて、すべて芸術は芸術であるかぎり本質において、自分がしていることの許可をほしがってはいけない。そんなヤツはダメだ。
 誰だって最初は、自分がやっていることがどこまでいいのか、心許ない。新人賞をとるとか、一定数の支持を得るとか、そういうことでなく、自分がやっていることがどれだけ表現としてちゃんとしているか、やっぱり自分では判断のつけようがない。それゆえ心許ない。
 誰かのサル真似なんじゃないか? 誰にも伝わらないんじゃないか? 自分は音楽(文学、美術……etc.)について大きな誤解をしているんじゃないか?(または、何もわかってないんじゃないか?)これらの確信のなさに対して、誰か一人が「それでいい」と言ってくれればいい。しかしその一人は必要で、その一人がいないで芸術をやりつづけた人は、アウトサイダーアートという例外を除いていないんじゃないか。
 芸術がわからず権威主義的思考しかできない人は、「それでいい」と言ってくれる人のことを、上の人と思うだろうが、A君の作品に対してB氏が「それでいい」と言った瞬間に、A君とB氏は対等になる。B氏からひと言「それでいい」と言ってもらったら、もうそれ以後A君は一人でやっていかなければならない。
 しかしちょっと考えればわかることだが(しかし自分で作ろうとしない人はいくら考えてもわからないかもしれない)、作品を形にするまでA君は何年も一人で、自問自答、試行錯誤を繰り返していた。この自問自答、試行錯誤の期間、A君は自分の疑問や試みについて誰からも許可をもらっていない。芸術をやる人間が、誰か一人からの「それでいい」という言葉に出会うのは一瞬だけのことで、「それでいい」に出会うまでの何年間も出会った以後の何十年間も、芸術をやる人間は人からの許可などに依存せず、一人で自問自答と試行錯誤を繰り返すしかない。
 こういう状態は不安だ。芸術をやっている人間は、何歳になろうが、自分がやっていることがちゃんとしているか、どこかで妥協して安易な道に逃げていないか、このやり方で自分の方が音をあげずにやり通せるのか、などなど、いつでもいろいろな不安があるものだが、不安から逃げて、しっかりした建物の中なんかに入り込んだらもうそいつは芸術家じゃない。現実にはそんなヤツばかりだが、とにかく芸術をやる、何かを作るとはそういうことだ。

 利便性や原発ではじまったはずの話がなぜ芸術の話になってしまったのか? もつれ合う要因を説明すればキリがない。ひとつ間違いないのは、私は芸術や小説の話になるとついついたくさん書いてしまう。芸術や表現することがどういうことか、誤解ばかりが広まっているので、私は芸術のイメージ、もっと言えば芸術の運動性を少しでも伝えられると思ったら書かずにはいられない。
 学校で、作文も絵も音楽も嫌いだったから自分は芸術とは縁がないと思い込んでいる人がいっぱいいるが、芸術をやる適性はそんなことでは測れない。偉そうにしている大人が嫌いで、型にはめられることが嫌いで、叩かれても叩かれてもめげず、簡単に傷ついたりしないようなヤツこそが芸術をやるのにふさわしい。小説、芝居、音楽、ダンス、写真、映画、絵、彫刻、書……などなどいっぱいある表現の形態のどれ一つにも適性がない人なんて一人もいない。
 みんなが芸術をやるか、芸術が好きになって支援するか、芸術をやるように思考するようになれば、経済の外に出る=革命なんて実現したも同然だ。
 芸術をやることは自然をよく見て自然の鼓動を聴くことであり、人間が心の奥で本当にやりたいことを引っ張り出すことだ。少女が窓を伝う雨の滴を見ながら感傷的な言葉をノートに綴る……なんていうのは芸術でも何でもない。
 思えば、文学をそのように感傷的で内に閉じ籠もるイメージに改竄したのも、売れる小説がいい小説であるかのような誤解を植え付けたのも、やつらの計略だったのではないか。やつらとはすべてを利便性と経済活動に飲み込ませた勢力のことだ。売れる小説というのは経済活動に貢献するという意味であると同時に、経済活動と戦う砦の一角である芸術を経済で測らせることによって人間の心の中の経済と無縁の領域を蝕む、ということで、前者より後者の罪の方がずっと大きい。「一気に読んだ」「一晩で読んだ」なんて、利便性そのものではないか。
 そして何よりも、感傷的な人間は行動しない。行動しないどころか、自分が感傷に浸れるネタをつねに待ち望んでいる。だから感傷的な人間はこの世界から悲惨や苦悩が消えることを望まない。本人の自覚としては望んでいると思っているとしても、感傷のネタがほしいのだから意識より深いところで望んではいない。

 水道から水が出る。電灯が点る。ガス(石油)で暖が取れる。これらは利便性をこえて生活の基盤となった。これは人間の願望の産物だった。この次元で人間が地球環境を破壊し、地球の資源を枯渇に向かわせたことは間違いない。
「利益を享受するお前らの欲望が地球を蝕んでいるんだ。」という批判は確かで、
「地球環境の破壊に私も加担している。」という、自分に向かう批判はこの次元では間違っていない。
 しかし、どこから正確に線を引けるか、そんなことは私にはわからないが、いつの頃からか私たちは望んでもいない利便性を一方的に押しつけられて、それを享受させられるハメになった。自動で水が出る蛇口。百時間以上も録画できるハードディスク。携帯電話のいろいろな機能。もっと遡れば、三十年前にすでに私たちは生活にあまり不便を感じることはなかった。パソコンも携帯電話も私たちがほしがったわけでなく、外から一方的に与えられた。
「GPSは今回の地震で威力を発揮した」とか「××××がなければ災害時の連絡手段がなかった」とか「△△△△がなければ障害者が暮らしていけない」という反論があるとしたら、それは詭弁というもので、公共施設や商店街など、人が多く集まる場所に設置されるようになったAEDのように、どれも個人が持ったりすべての建物にそれがあったりする必要がないものばかりだ。共有材で事足りるのに、それをどんどん改良してみんなに買わせる(だいたい自動車がそうだ)。
 経済を成長させるためにもともと望んでいたわけではない利便性を一方的に押しつけ、典型的には電力の需要を増やさせる。それによって生産と消費を拡大させる。私たちが「テクノロジーの恩恵にあずかっている」と思っているものは、いまでは一方的に与えられたエセの欲望で、これらを私たちはそもそも欲望していない。欲望を装った、外側にある経済活動(工学)の産物なのだから、この「欲望」に対して私たちは責任を持つ必要がない。
「そんなのは居直りだ。消費者が望まなかったために消えていった新製品もいっぱいある。消費者にそれを持たない意志さえあればいいことじゃないか。」と、もしやつらが言うのなら、
「成長モデルでない経済活動を考えるのがお前らの仕事だろ。」と言い返すことにしよう。
 被災地に目もくれず政局に明け暮れる政治家たちを辞めさせることができないのは、日本人が知的怠慢だからでなく、社会そのものと関係ないところで政治が動くシステムになっているからだ。社会全体の意志を反映しないシステムをやつらが作り上げたのだ。だから、
「原発事故や震災への政府の対応のひどさや計画停電のことに文句を言っても、そういう政府を選挙で選んできたのは国民全員だし、計画停電が必要になるほど(=原発による電力がなければまかないきれないほど)日頃から電気をジャブジャブ使ってきたのも国民全員だ。」
 という、こっちを責め、内省を促す類の言説はまったく当たらない。だいたい内省に値するだけの主体性をもう私たちは持っていない。こっちの内省を促すことでやつらは私たちにまだ主体性があるかのような幻想を持たせつづけ、内省させることで私たちがアクションを起こすことを抑えている。私たちは自分を責めるのをやめて、何よりもまず主体性が奪われていることに気づくべきだ。
 この社会に私たちは責任を負う必要がない! そう考えればアクションはずっと起こしやすい。