奥義はいまもわからない
小島信夫短篇集成 7 「平安 月光」解説

 小説はきっと今後人間に残された交換困難な砦の数少ない一つになる、他の砦が何が考えられるかは私は明言を避けておく。
 小島信夫は空前絶後の小説家だ、現代美術・現代音楽などいまでも注目に値する活動をしている人は日本にも少なくない、その人たちの中で小島信夫を読んでる人が少ないのが私は残念だ、と同時に小島信夫をちゃんと読めないアーチストは迫力がない、私は思う、結局この人も表現することの交換価値から抜けきれてないんじゃないか。
 交換価値、作品の有用性、早い話がそれを読んだことのない人とは何も共有できないそれ。私は最近、小島信夫は自分のような芸術観・作品観・表現観を持った人たちだけの独立国を創ろうとしたんじゃないかと感じるようになった、外からそれを説明しようとしてもまったく捕まえられない言葉というより文章を操る人たち、
「ここの意味は何か?」
 と、てっとり早く要旨を知りたい人が訊くと、小島信夫の読者三人なら三人がそれぞれ違うことを答える、外から常識的な目で見たら読者たちはそんなに言うことがまちまちだから理解しているとは思えない、しかしそれが小島信夫を読むということだ。

 私は小島さんが存命中、ほとんど長篇小説の話ばかり小島さんにした、書くものもほとんどそうだった、しかし最近私は講談社文芸文庫の一冊『月光・暮坂』の表題を持つ後期作品集かちくま文庫の『カフカ・セレクション』のどっちかをしょっちゅう読み返している、『カフカ・セレクション』は全三冊だがだいぶ何度も読み返したので最近は『月光・暮坂』をいつも外出のときに持ち歩くリュックの脇のポケットに入れていることが多い、外出時でなくても、自分の書くものが■どよん■と、活気が足りないと感じると『月光・暮坂』を読む、『月光・暮坂』収録の九篇のうち今回この集成の第七巻と重なるのは五篇だ。
『ブルーノ・タウトの椅子』は『月光・暮坂』以前、単行本未収録だった、これは短いが曲折が多く不思議な面白さがある、しかしここでは『月光・暮坂』に収録されていない短篇について書くことにする。第七巻の収録作の『月光』から『再生』までは一九八四年刊行の『月光』に収録、『白昼夢』から『平安』までは八六年刊行の『平安』に収録された、冒頭の『月光』の末尾に「附記」がある、そこに、
「私は今までの作品の場合もそうなのですが、掲載の一回と一回との間の時間を問題にしているところがあるのです。/一回分を書きながらもそうなのですが、一回と次の一回との間にとくに望むわけではありませんが、私は変化します。私はそのことを、苦しみ楽しみつつ筆を進めます。」
 とある。私はここをよんだとき、
「あなたとああして小説のことを話すのも、あなたからもらったゴダールの本を読むのも小説を書くのと同じことと感じます。」
 という小島さんからいただいたハガキの文面を思い出した、小島さんはいつも小説のことを考えていた。
 というと、小島さんがいつも次に何を小説に書こうか、小説のネタ探しをいつもしていた、と誤解する人がいる、この集成を買うほどの読者にはそういう人はいないかもしれない、しかし油断は禁物だ、本当に頭が下がるほど熱心な読者で、一作一作、ページの隅から隅まで舐めるように読んでる人でも肝心のことがスポンと抜けていたりする。カフカの研究者がそうだ、カフカを深刻な顔で読まなければいけない、カフカが深刻な顔で書いたという思いからどうしても抜けられないからカフカの機敏さが見えない。
 小島さんはいつも小説のことを考えていた、小説のことばかり考えていた、その一方で小島さんは何も考えてはいなかった、本人の口から聞いた話ではいつも締切りギリギリに一晩で書いた、短篇といっても六十枚か七十枚あるものを一晩で書けただろうか? 一晩は極端としてもたぶん二晩で書いたんだろう。三晩ということはなかったんじゃないか。
 書き出すまでたぶん小島さんは何をどう書くかの、■何を■の方は何日も前から考えていたんだろうが■どう■の方、つまり順番というか展開のさせ方はまったく考えていなかった、これは私の推測だが私は自信を持っていえる。■何を■の方はつねに複数の関心が併存というより混在している、短篇とはいえ六十枚から七十枚あるので少しはまとまった時間がとれないと一晩では読めない、切れ切れにしか時間がとれなかったら読むのに三日かかることもある、そうするともう何の話だったかわからなくなる、たとえば『蜻蛉』だが、芸術院賞をもらった話ではじまったのが【十】ページくらい行ったところでは戦争中の話を経て明智光秀のことになっている、これらのだいたいの情景を小島さんは思い返しては楽しい気持ちになっていたに違いない。
 これは小説を書く人間の特権、あるいは特別な幸福といってもいい、過ぎし情景を思い返すとき、それをいつか(あるいは近々)自分は小説に書くのだろうという思いがその情景の思い返しとともにあると情景が精彩を放つ。
 これを誤解なく伝えるのは難しい。「この情景をこうしてああしてこう書こう」と考えながら思い返すわけでは全然ない、その情景を文字にする前に頭の中で映画のように鮮明な場面として回想しているわけでも全然ない、ふつうに記憶の中の情景が頭を★過★よぎ★るのとだいたい違わない、しかし少しだけゆっくりそれが心に滞留したり、一度過った情景をもう一度意識して過り直させたりする、それをどう書こうかと考えているわけでは、繰り返しになるが全然ない、それがどういう風に小説となるのかは書いてみなくてはわからない、ただ思い返すのが楽しい、ふっくらとした気持ちになる。
「私」は明智光秀のことを聞きに行った。その前に「私」は木曽の御岳さんに行ったことを思い出す、私(保坂)は昨年九月にまさにその御岳さんが噴火したあとの一カ月以内にここを読んだ、しかも「私」はそのとき泊った宿のロビーのテレビで三菱重工爆破事件のニュースを見た、三菱重工爆破事件は一九七四年八月三十日だった。『予兆』ではラストで唐突に日航機が御巣鷹山に墜落していく光景が描かれる、これは驚いたのが掲載が「群像」の一九八五年十月号、つまり九月七日発売、締切りは八月二十日くらい、事故は八月十二日だ。
 さて、光秀のことだが、そこはこうなっている、少し長いが丸々一段落引用する、読者は読みとばさずしっかり読んでほしい。
「もし、光秀のことで知りたいのなら、あそこの呉服衣料品店をやっている服部さんにきくといい、と教えてくれた。二度三度道順をききただし駅前通りを真直ぐ行って右へ折れ二十メートルも行ったところに、その店を見つけた。うす暗い古い建物のその店に入って行き、服部氏に会った。天井から、彼のかいたと思われる合戦図(だったと思うが)が下っていた。それを説明したあと、二人を連れ、先きに立って、山へ登って行った。光秀だったか、その母親に当る人だったか、それとも光秀の妻となった人であったか、その産湯を使った場所、であったか、あるいは安産祈願のための何かのあとであるとか、それに類した話をきいた。それから遠くに見える峰の、明智とかかわりのある話などをきき、それから、遠山氏の城趾、および戦闘の模様のようなことをきき、神社へ案内され、となりの遠山氏の菩提寺と、それから伝説のある池の説明をきいた。遠山の金さんが、この遠山家の分れであることもきいた。岐阜では、光秀が育った場所としては可児郡の可児町であるという説もある。」
 私はここを一回読んで全然意味がわからなかった、もう一度読んでもやっぱりわからない、三回目で言ってることの意味というか書いてある要素はまあ理解した、しかし■腑に落ちる■という状態にはほど遠い心地だった。
 中ほど、「光秀だったか、その母親……」以下がひどい、光秀・母・妻という三つの選択肢が並び、それにつづいて、産湯・安産祈願という二つの選択肢が来て、■それに類した話■で締める、文の形としては締められても内容としては締められてない、そしてそのまま遠山の金さんまで行く。
 書き手には私は今はそれがひじょうに不快だが内なる検閲みたいなもの、あるいは読者への配慮とか遠慮のようなものが働いている、だからこういう風に不確定要素を整理せずに書くことができない、小島信夫は平気でそれをする。私だってさっき、御岳さん噴火―→三菱重工爆破事件の流れで書きつづけるのを遠慮したことがあった、御岳さんの噴火に類することは『月光』か『平安』収録のどれかの中でもう一回出てくる、私はそれが確定できないし、もしかしたらもう一回出てきたというのは私の記憶違いかもしれないと思うから書けなかった、文章の流れという問題はもっとあった、小島信夫は御岳さんの近くにいて無意識レベルでいつも噴火を気にしていた、それが三十年後の読者は現実となった。
『予兆』では、主人公・前田永造の妻の京子の女学校からの友達である恵子の義妹の霊感のことが書かれる、永造・京子・恵子は『別れる理由』の登場人物である、そのことは『予兆』内ではまったくふれられてないが、恵子の夫の留守のあいだに恵子と永造のあいだでかつて一度■関係■があったことがするっと書いてある、この霊感に類することは私が読んだかぎり『月光』『平安』を通じてここが最初だが私がうっかり見落としたか記憶しなかっただけかもしれない、この霊感は『平安』では宗教性として作者の関心の対象として出てくるが、その後の『暮坂』では腰のうしろの下にある仙骨として、それがつかさどる身心のバランスとして霊感・霊的なものは関心の度合いがしだいに大きくなる、そういう前兆が三菱重工爆破事件でもある。
 そんなオカルト寄りの話はやめてくれ、小島信夫には関係ないと思われるだろう、しかし小島信夫のまったく整理しない書き方はそういうものまで呼び寄せる、ということはいちおうふれておくべきだ。
 こういう根拠のない書き方はウィキペディアでは認められない、ウィキペディアでは出典の明記が必ず求められ不確定な書き方は容認されない。小島信夫を読み、小島信夫を考えるとき、このウィキペディア的なものを傍らに置くことはとても重要だ、出典が明記された確定した記述に日々人がネットで接することによって何が進行しているか? そんなことは誰にも「こういうことだ」と明示できない、しかし違和感、居心地悪さ、窮屈さは確実に大きくなっている、その対極に小島信夫という自由がある。

『蜻蛉』にもどる。『蜻蛉』ではその後、千五百枚の自伝小説の話になる、別荘地の台風で倒れた樹木の話にもなる、ここは私はゲラゲラ笑って笑いが止まらなくなった、そして信じがたいことに冒頭のセンテンスに書かれた芸術院賞の話にもどってくる、そして最後に、
「小島さんは、何といっても将校とは見えないなあ。どう見ても、陸軍一等兵といった感じだなあ。争われないものだなあ」
 という佐伯彰一の言葉で、前の方の軍隊・戦地のことにまでもどるのだが、ところでラストのこの「将校」「陸軍一等兵」という発言が唐突と感じられないことが不思議といえば不思議だ、芸術院のくだりになって一度だけ【七】ページ前に、
「野口とは、戦争中、兵隊に行くすこし前に会ったことがあり、」
 と書かれているが、それが唐突にならない働きをしているとは思えない、その前は倒れた樹木の話でその前は千五百枚の自伝小説だ、そこに戦争や軍隊の連想を唐突と思わせないことは具体的には書かれていない。
 私はここが小島信夫の小説の説明しがたい奥義であると思う、前の方で書いた軍隊・戦地を具体的にそうとその後書かないのに小説を通してずうっと響かせる、棚辺久の名前はあちこちにあらわれ棚辺久の名前を見ると読者は意識の表面にまで上がらせなくても軍隊・戦地を思う、芸術院賞のリハーサルのくだりになると棚辺久ももう出てこない、しかし受賞者が整列する、天皇陛下という言葉も出てくる、この小説の中では天皇陛下はもちろんのこと整列した情景も軍隊を明示的にではないが想起させている、これをたぶんオブセッション(強迫観念)という。
 小島信夫は一種の症例としてのオブセッションをその小説の基底音としてずうっと響かせる。小島信夫は■オブセッションを書く■のではなく、■オブセッションで書く■、そしてそれをまんまと読者に共振させる。その共振の技法は私はまだわからない、ただ予想として、ウィキペディア的でない、不確定を並べる、てっとり早く要旨を知りたい人が訊いても三人が三人違う答えを返す、しかし読者には共有の不思議な了解が生まれている、その読者の心の働きがオブセッションで書いたそれへの共振を喚び起こすのではないか。
 千五百枚の自伝小説の説明はこうだ。
「……そのうち私は、なるほど依然として、主人公や彼をめぐる人間が、人に話してきかせるときに、すぐ納得のいく程度をすこしもこえないで、たっぷりと書き進められ、人物のめぐりあいは、ムダなく、自伝というよりは、小説ふうなので、ふしぎな気さえしてきたのであった。小説、というものから思いうかべるものと、そっくりなのである。それなら「小説」というものは、われわれのまわりにあるか、というと、じっさいにはない。」
 この説明は「わからない」と言う人にはわからない、「わかっているんだったら俺にもっとわかりやすく言い直してくれ」とそういう人から言われても言い直せない、それでかまわないのだ、ここを読んで面白いと感じたこと、そして何かをここから了解したことは有益な情報のようにそれが「わからない」と言う人にわかるように説明する必要はない、そうでなく読んだ自分の心のどこかに落ちていって人に伝えることなく心のどこかでゆっくり発酵する、あるいは人によっては「小説とはこういうことだったのか!」と突如発見するかもしれない、とにかく情報としての交換価値はない、しかし読者と作者とのあいだでの共振は起こる。

『平安』収録の『マリフ』では私は途中から激しく共振した、『平安』でも途中から激しく共振した、他の短篇もそうなのかもしれない、昂奮したと書いてあれば私も昂奮し、苛々すると書いてあれば苛々した、他の短篇もそうなのだろうが『マリフ』と『平安』がとりわけそうだった、私は一日で一篇以上は読まなかった(それどころか実際には一篇読むのに二日か三日かかった)、だから読んだときの私の体調や心の状態が影響したのかもしれない、読む日が違えば他の短篇も同じように引き込まれたのかもしれない、そこはしかしわからない。
 どちらも書き出しの数ページは不思議なほど何を書こうとしているのか見当がつかない、作者はどんな関心でこんなことを書いているんだと思う、ところがクガ・マリフの話から若くして死んだ黒田マリという詩人で画家の話に移って少しするとヘンになる。
「私がこういうことを記すのは、彼女は少女時代に過した東京をなつかしがる日記を書いていたから。そして、この日記というのが、十六歳からはじまってずっと続けられている。こう書きはじめるまでは、かいつまんで、とぐらいに考えていたが、あれこれとふれねばならぬことが、われもわれもと押し寄せてきて、急激に、そして持続的な濃いつきあいとなってしまった黒田夫妻の顔が浮んでくる。私はマリには面識がなかったかわりに、二十代後半まで彼女が遺した作品のありとあらゆるものに、くりかえしくりかえし接しているので、彼女の場合は、それらが、入り混って、声となり色となり押しよせてくる。」
 いきなりそのくだりを引用されても私がヘンになった感じは伝わらないだろうが(しかし案外伝わるかもしれない)今はこうするしかない、私は思うのだが小島信夫の小説に解説はいらない、それより、ここを読んでくれ、ここを注意して読んでくれと、読者に注意喚起するだけでじゅうぶんなのではないか、■解説■がないとわからない人は結局解説したところしかわからない。
 つい昨日のこと、私は乃木坂にある国立新美術館に「チューリッヒ美術館展」を観に行った、会場は混んでなかったというより空いてた、出ると乃木坂駅につづく通路からちょうど日没の空が見えた、陽はすでに沈んでいたが陽が隠れたあたりは素晴らしい茜色に染まっていた、上に目をやるとその色が薄れオレンジにちかづく、その上はやや明るい青でそれより上、見上げるくらいの高さは藍だ、私はしばらく足を止めてその日没の空を見入った。しかし私の他に足を止めた人はひとりもいなかった、美術展に来た人たちはいったい何を観に来たのか、絵を観に来たのではなく横に貼ったボードの解説を読みに来たのか。
 約【一】ページ後はこうだ。
「そこに載っている詩や画はほんの一部分にすぎないが、自閉的な傾向がつよいすくなくとも大学時代になると、社会に対する抗議のような気配が出ているが、生前どの一つの作品もほとんど人眼にふれたことがなかった新鮮なものが感じられた。詩はだいたいその時期々々の流行に沿っているが、そうでないものがあった。それから画の方は、ミロからはじまってピカソ、それから幻想的なもの、自分の首を切って支えているようなもの、甘い自画像、それから彼女が自分の次に愛していたという猫の像、死神、抽象表現主義のような、うずまく太陽のようなもの、そして多くの画は、彼女自身の詩に見合うものでどちらについていたか忘れてしまったが、ほとんどすべてのフランス語の題名がつけられてあった。こういうことをくどく書いても、読者はたいくつだと思うが、とにかくすべてのものは、そっくりそのまま遺されていたのであった。彼女は生前にしかるべき折に本にしたいと願っていたという律子の話であるから、(このことも、今では、あやしくなってしまった)母親にはある程度のことを語っていたようである。いずれにしてもそっくりそのまま、ひたすらかき続けられ、これからもかき続けて行くだけだ、というふうに遺されていた。」
 私は引用してみて、ここにミロ、ピカソという名前が書いてあることに気がついた、私は■解説■しか関心がない人の話で昨日のことを書いたのだが、絵画というつながりを持っていた、人はこうした何重ものつながり、響き合いによって連想したり考えたりしていることを偶然にも実践したのだった。
『蜻蛉』で終わりちかく、芸術院に行ったとき、
「芸術院の玄関はしまっていて、ここから先は近寄るな、というしるしの、どこかで見たような柵のようなものが置いてあった。それは丈は低いけれども、かえってある意味を感じさせた。」
 ここで小島信夫はカフカの『掟の門前』とかいろいろに訳されている、もとは『審判』の中の一挿話というか、大きな聖堂の中でヨーゼフ・Kが壇上の説教師から聞かされる説教の中の一挿話として書かれた話を思い出していたはずだ、門は開いている、門番も田舎からやってきた男を止める素振りはない、しかし門の中には入れない、威厳、いかめしさ、威圧感……。
 私はさっき見落としをしていた、『蜻蛉』のラスト、「将校」「陸軍一等兵」の少し前に「敬礼」という言葉が書かれていた、「敬礼」と書かれているなら「将校」は唐突にならないということではない、それなら今度は「敬礼」が唐突にならない理由を考えなければならない、とにかくここに「敬礼」と書かれていた。
 しかしこの最後のページはなんかヘンだ、ここにかぎったことではないが小島信夫の小説は実際にあったこと(やったこと)と心の中に思ったことの区別がよくわからない、
「「そこのタイルまで、私のところから、どんなふうに歩いたらいいのでしょうか」
 と私はいった、というより呟いた。」
 こんな呟きはない、これはあきらかに発話だ、それに対して院の人の返答もある。そして、
「私はなるべく吉田善彦さんと似たふうに歩き、敬礼もしてみた。」
 するっと読んでしまうが、ここで敬礼をホントにしただろうか、それでは■おどけた■子どもだ、そして、
「それから、誰かが実演したかもしれないし、そうでなかったかもしれない。」
 ここで実演したのは何を実演したというのか、「私」は吉田善彦と同じことをしたのだからみんなが歩く前提だとしたら、実演は敬礼を指す、ここで読むほどに「私」は敬礼などしてなくて、「私」はそれを思っただけだった、しかし誰かが敬礼を実演した、という風に思えてくる。しかし、
「高橋さんなども、しばらくして腰をあげて歩き出そうとした。」
 ということは、その実演とはやはり歩くことだったのか……。
 初読時にこんなにいろいろなことを考えるはずはない、しかし二度、三度、四度と、読めば読むほどよくわからない、前回の読み方は違ってたんじゃないか、と思わせる文章が初読時から明快で安定した意味をスパッと伝えてくるはずがない、読者はつねにある不安定さに置かれる。小島信夫はそのような文章をいたるところに平然と書く、これを誰もが躊躇して実践できない、物を書く人間の生理か倫理に根本的に反する、悔しい、情けないがそうだ、だからそれを実践しつづけた小島信夫の小説は何度読んでも面白い、読めば読むほど面白い。