◆◇◆遠い触覚  第一回 「いや、わかってますよ。」◆◇◆
「真夜中」 No.1 2008 Early Summer

 小島信夫の代表作は『別れる理由』ではなく、『私の作家遍歴』と『寓話』だ。正確なところはいまは調べるのが面倒なので調べないが、『別れる理由』は一九六八年から八一年まで約十三年間『群像』に連載され、『私の作家遍歴』は七〇年代半ばから八〇年まで『潮』に連載され、『寓話』は八〇年から八五年まで、はじめのうちは『作品』に連載され、『作品』が廃刊になったあとは『海燕』に連載された。小島信夫はこの時期、他に『美濃』を七七年から八〇年まで、『菅野満子の手紙』を八一年から八五年まで文芸誌に連載した。
 この中で『別れる理由』ばかりが長さゆえに有名になってしまい、『別れる理由』はその評判のために意外なことに三刷か四刷まで版を重ねているのだが、内容のとりとめのなさにたぶんみんな辟易して、他の本にまで手を出さなくなってしまった。なんと皮肉な事のなりゆきだったことか! いっそ、『別れる理由』が評判にならなかった方が他の本が読まれたのではないか。
『私の作家遍歴』は『別れる理由』と同じ全三巻だが、中身はどっしりと重い。これはラフカディオ・ハーンにはじまって、トルストイ、『ドン・キホーテ』などを次々にえんえんと読んでいく内容で、形式としては評論のようなエッセイのようなものに分類されるのかもしれないが、その精神は小説だ。
 二〇〇五年の夏、私は小島さんから、「『私の作家遍歴』を水声社が復刊してくれる。時期はたぶん来年の秋らしい。」という話を聞いて、それならと思って『寓話』を個人出版することにした。小島信夫という人は、聞き違いや意味の歪曲が常態化していて、小島さんを経由するとすんなりいくはずの話もすべてもつれることになっていたのだが、そのためかどうか『私の作家遍歴』はあれから二年半以上経つが復刊される気配はまったくない。そんな話、もともとなかったのかもしれない。私は小島さんが意味を歪曲するのをよく知っていたくせに、やっぱりあのときも復刊の話を聞いて単純に喜んでしまったのだった。
 が、『寓話』は〇六年二月末に無事完成した。〇六年二月二十八日は小島さんの九十一歳の誕生日だった。三月上旬に私は完成した『寓話』を届けて、文字入力と校正をしてくれたメンバー全員のあて名入りのサイン本を作ってもらった。
 〇四年頃、小島さんははっきり言って理解力がはなはだしく低下していた。〇五年の七月に私の『小説の自由』を刊行したのを記念して、青山ブックセンターで対談してもらったのだが、五月に対談のお願いの電話をしたときも、ちゃんとした話が小島さんにできるのか? それより何より七月の対談の日まで小島さんは生きているのか? 心配だった。しかしその対談は大成功で、会場に集まったおもに二十代の人たちが全員感動したと言っても言いすぎではない。もう本当に"奇跡の一夜"だった。
 そのあたりをさかいに小島さんはぐんぐん活力を取り戻して、長篇の『残光』を書き、『寓話』完成のあとの三月末には世田谷文学館でもう一度私と対談をやり、その後もずっと元気だったのだが、六月半ばに突然脳梗塞で倒れ、そのまま意識が戻らず、十月に亡くなった。
 こうして辿ってゆくと、『寓話』の完成はギリギリのタイミングだったということになる。老人というのは元気そうに見えてもいつどうなるかわからないところがあるから私は『寓話』制作中も、「最近小島先生はとても元気で、この分ではあと五年は生きるんじゃないかと思うけど、それでも一週間後に何かあっても不思議ではない。」と考えていて、だから『寓話』の完成が"間に合った"ときにはほっとした。しかし、振り返ってみると"ギリギリ"だった。
 個人出版『寓話』は売れゆき好調で、一年後の〇七年夏に増刷した。しかし一年以上経つとさすがにぽんぽんさばけるというわけには行かず、「しばらく在庫がいっぱいだなあ……。」と思っていたところ、朝日新聞が読書欄の「たいせつな本」という一人二回ずつのリレー式のコラムを書いてくれと言ってきて、『寓話』とカフカの『城』を取り上げたら、またまたどっと『寓話』の申し込みがあった。
 申し込みはメール限定だ。メールにはただ「購入希望」としか書かない人がほとんどだが、中には私の本をいままでどれだけ繰り返し読んできたかとか、私のおかげで小島信夫という作家を知ることができた、小島信夫を読む喜びが自分の人生の中に生まれたことを心から感謝したい、というようなことを書いてくる人もいる。そんな中にこのあいだ特別おもしろい内容のメールがあり、「これをプリントアウトして小島さんに見せたら喜んだだろうな。」と思ったのだが、それから数分もしないうちに、
「でも同じことなんじゃないか。」
 という風に考えが変わった。
 なんと言えばいいんだろう。「死ぬ前だったらこれを小島さんに見せることができたのに残念だ。」という風に思いそうなものを、私はそうは思わずに、「小島さんが死んでいても生きていても、こういう文章を書く人がいるかぎり、その言葉は小島さんに届くのだ(小島さんはそれを知るのだ)。」と思うようになっていたことだ。
 私がカルチャーセンターの企画をしていたときに講師で来ていた人がいて、その人とはカルチャーセンターを辞めたあともずっとおつきあいがつづいている。私は講師だったその人自身より奥さんのSさんの方ともっとずっと親しいおつきあいをするようになっていたのだが、Sさんは若い頃から膠原病で九三年の十二月に亡くなってしまった。六十歳になるかならないかぐらいの年齢だった。亡くなる少し前、私は野間文芸新人賞という賞をもらい、それを新聞で知ったSさんがとても喜んで電話をかけてきてくれた。
 芥川賞をもらったのはその一年半後の九五年の夏のことで、Sさんのご主人の方の、つまりもともとカルチャーセンターの講師としておつきあいがはじまったIさんからお祝いの電話がかかってきて、私は、
「奥さんが生きていらしたら、ものすごく喜んでくれたと思うと残念です。」
 と言ったのだが、Iさんは即座に、
「いや、わかってますよ。」
 と言ったのだった。

 こういう考えがある。何と呼ばれているのか行動の名前は忘れてしまったが、雪が積もる地域に棲む鳥が冬のあいだのたくわえとして、雪が降る前にトカゲやカエルを木の幹にくちばしで打ち付ける。鳥たちが獲物を打ち付けた位置つまり地面からの高さによってその冬の雪の深さがわかる、というのだ。
 動物たちのこういう行動を知ると人間は「前もってわかる」とか「事前に察知する」とか「動物の予知能力」というような言い方をするのだが、それは動物たちにとっては「前もって」ではないのではないか。突然の雷雨の前に鳥や蝶が巣や物陰にひそんだり、乾季の前にサバンナに棲む動物たちが水場へ向かって大移動を開始したりするのも行動としては同じだ。動物たちが感じている天候や気候というのは、種ごとに数時間先の天候とか二ヵ月先の気候とかまで"今"としての広がりを持っていて、人間が思い込んでいるような"先"つまり"今と線が引かれた別の時間"ではないのではないか。
 人間だってうららかに晴れた日に突然強い風が吹きはじめて、そのうちに真っ黒い雲がかかりはじめれば、「雨が降る」とわかる。人間はそこに時間の経過という項を入れて考えてしまうから"予測"になるのだが、"今"というのが一時間ぐらいの幅があると考えたら、雨はもう降っている。気象でいえば、突然強い風が吹くのと真っ黒い雲がかかるのと雨が降るのはワンセットだから、ワンセットの気象の最初がやってきたら、そのワンセットが終わるまではひとつづきの時間だ。
 気象でなくても、「今ならまだ間に合う」と言うとき、その"今"は何時何分というパンクチュアルな時刻を指す"今"のことではない。それは「今日」のこともあれば、「今月」のこともある。場合によっては老化防止のように「三十代のうちにはじめていれば間に合う」ということだってある。こういう"今"の使い方をするとき、人間だって動物と同じくある結果が訪れる未来の時間かその手前までを"今"にしているはずだ。

 これとは全然違う話だがもう一つこういうことがある。もっともこれはNHKで何年も前にやった『その時歴史が動いた』で言っていたことの受け売りなのだが。
 徳川幕府に開国をせまるアメリカ合衆国が日米修好通商条約を結ぶために全権大使としてハリスを送り込んできたときに、幕府側は交渉の窓口として、下田奉行の井上清直とその部下の岩瀬忠震(ただなり)の二人を立てた。
 開国という大事のための幕府側の代表が一地方役人であろう下田奉行だったというのがよくわからないが、とにかく当時は通信手段といっても飛脚ぐらいしかなかったのだから、いちいち本部に確認をとることなどできるはずもなく、井上清直と岩瀬忠震の二人が幕府側の全権大使という形にならざるをえなかった(ことだろう)。
 結果としては歴史に残る不平等条約を結んでしまったことにはなるのだが、井上と岩瀬は能力のかぎりを尽くして日本が清やインドのように欧米列強によって蹂躙(じゅうりん)されない条件の条約を結ぶことに成功した。
 そのときの二人の交渉ぶりはじつに見事であり(というのは『その時歴史が動いた』からの受け売りだが)、後年明治政府の使節団がアメリカに行ってハリスと会見したとき、「あのときの二人はその後どうしたか? 彼らはじつに立派だった。」とハリスの方からたずねてきたというのだ。
 しかし、井上清直と岩瀬忠震の二人はその後幕府で重用されることなく、井上清直は一八六八年に死に、岩瀬忠震はそれより前の六一年に死んだ。しかも岩瀬にいたっては晩年、といっても享年四十二歳なのだが、蟄居を強いられた。だから二人とも明治という年号を知らず、明治の使節団を前にしてハリスが二人を讃えたとき、二人はこの世にいなかった。
 こういうまとめ方をすると、井上清直と岩瀬忠震の生涯は、「報われなかった」ということになるのだが、その見方がおかしい。もっと言えば貧しいのではないか。
 清やインドの現状とその原因を調べ、自分の国がそのような状態に陥らないために能力のかぎりを尽くして大国アメリカの代表者と交渉した。それが何日間のことだったかわからないが、二十日間なり三十日間なりそれだけのあいだ、井上清直と岩瀬忠震の二人は自分の利益などという小さい枠をこえたところで能力のすべてをふりしぼることができた。
「日本(祖国)を守った」とか「国のために全力を尽くした」とかそんなことを言いたいわけでは全然ない。これもまたBBC制作のテレビ番組からの受け売りだが(まったくテレビばっかり見てるなあ)、「フェルマーの最終定理」を解いたプリンストン大学のアンドリュー・ワイルズは、モジュラー幾何学とか楕円方程式とか谷山・志村予想などを統合してフェルマーの最終定理を解いたのだが、その仕上げの段階では一年間自宅にこもって考えつづけた。
 私はそんな複雑な数学のことは全然わからないが、複雑な数式の解というのは手順を追うだけでレポート用紙何枚(何十枚?)にも及ぶ。つまり数式の一つが長篇小説のようなもので、それが四つか五つあって、それを全部頭の中で整理して、最終的に統合しなければならない。これはもう本当に大変なことだが(しかし私の語彙はなんと貧しいことか!)、それができるということそれ自体が素晴らしいことなのだ。
 その後、アンドリュー・ワイルズには、「フェルマーの最終定理を解いた歴史に残る数学者」という栄誉が来て、世間ではふつうそっちの方ばかり注目されるけれど、そんなものは外から来たものでどうということはない。ワイルズにとって、フェルマーの最終定理の解に向かってぎりぎりぎりぎりと歩を進めていた過程こそが至上の時間であり、その時間の濃密さはワイルズ自身、きっともう二度と体験することができない。
 私はギル・エヴァンスの大ファンだ。ギル・エヴァンスはアレンジャーとしてマイルス・デイヴィスの『スケッチ・オブ・スペイン』や『ポーギー・アンド・ベス』などのアルバムに関わり、マイルスのアルバムはその後もずうっと売れつづけて、マイルスには莫大な印税が入りつづけたのだが、アレンジは買い取り契約だったためにギル・エヴァンスにはその後一銭も入らず(しかし、作曲もしているので作曲の印税は入りつづけただろうけれど)、貧乏生活を強いられた。
 そして六〇年代に入ってマイルスと別れて自分のオーケストラを率いるようになってからはレコード・セールスもぱっとせず、コンサートの機会にもレコーディングの機会にもあまり恵まれなかった。というのが、下田奉行の井上清直と岩瀬忠震の生涯をまとめるようなまとめ方だが、ギル・エヴァンスの生涯が不遇だったとは私はまったく思わない。
 ギルが専属契約を結びたいと言えば、ジミ・ヘンドリックスだってOKした。ジミヘンはその契約の寸前に急死してしまったから契約にはいたらなかったが、八七年にはスティングを呼んでコンサートをした。つまり、ギルが「一緒にやりたい」と言えば誰でも大喜びで参加するが、呼びたいミュージシャンがジミヘン以降スティングまでいなかったのだ。ギルと誰かが話をしている脇でミック・ジャガーがうれしそうにそれを聞いている写真があるという話も聞いたことがある。ミックはギルの話すのを横で聞いているだけでうれしかったのだ。
 八〇年代に入って、ギルはスイート・ベイジルというクラブで毎週月曜日の夜に定例で演奏できることになったが、そのときオーケストラとして招集されたメンバーは全員が出演料ナシだったとも言われている。ギルに声をかけられたらみんな喜んで集まった。これが「不遇」だろうか。それはカネで価値を測っているだけだ。
 しかしそんなことよりも演奏だ。ギル・エヴァンスがマイルスと別れて以来残した十数枚のアルバムの中でも、八〇年のニューヨーク・パブリック・シアターの演奏と八七年のイタリアのウンブリア・ジャズ・フェスティバルでの演奏が突出している。定例のスイート・ベイジルでの演奏もすごいが、この二つの演奏は数段すごい。ウンブリア・ジャズ・フェスティバルの一枚目はもう本当にすごくて、このCDをかけていると空間に炎となった色が飛び交う。
 この演奏こそがギル・エヴァンスだ。ギル・エヴァンスはここにしかいず、ギルへの評価もギルに対するミュージシャン達のリスペクトも、すべてこの演奏に内包されている。しかし、こうして演奏という形あるものとして結実する必要すらなく、この演奏を生み出したギルの生涯の音楽との関わりこそがすべてなのかもしれないが、それでは話が茫洋としすぎるので、私自身が考えるための標(しるし)として「この演奏」としておくことにしよう。
 この演奏が、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理のために全力を投入した一年間や、下田奉行の井上清直と岩瀬忠震がハリスとの交渉に全精力をかけた日々に相当する。人は簡単に「全力をふりしぼる」と言うけれど、全力をふりしぼることはかぎられた人にしかできない。たとえばふつうの人は走ることに全力をふりしぼることはできない。五分か十分も走ればそこで終わってしまう。これ以上走れなくなって倒れ込んだとしても三十分も経てばケロッとしている。それで体重が一キロ減るなんてことはない。しかしマラソン・ランナーは体重が何キロも減るまで走りつづけ、回復に何日もかかる。そういうところまで力をふりしぼることのできる人だけがマラソンを走りきることができ、その中でもさらになお、からからの雑布から一滴の水を絞り出すような力のふりしぼり方ができる人だけが世界記録かそれにちかいタイムで走ることができる。
 その境地、というより肉体と精神の活動ぶりは本人以外には実感しようがないことだけれど、「全力をふりしぼる」というそのあり方は、人それぞれの"主観"などという次元のことではなく、"事実"なのだ。「「全力をふりしぼる」と言っても"全力"は人それぞれ違う」ではなく、「全力をふりしぼる」ことがほとんどの人にはできない。
 全力をふりしぼることができているその状態は、外からくる評価はもちろんのこと、その人の生涯も包括する。さらには、そのジャンルの過去から未来へといたる時間のすべてを包括する。『私の作家遍歴』と『寓話』を書いていた小島信夫もそうだった。

 小島さんが死んで一年以上経ったときに私に送られてきたメールを読んで、「これをプリントアウトして小島さんに見せたら喜んだだろうな。」と私は考える必要はない。『私の作家遍歴』と『寓話』がすでにそのメールを内包している。これは科学を無視した神秘主義的な世界観ではない。雪国の鳥たちが冬を前にして獲物を木の幹にくちばしで打ち付けたその位置で雪の深さがわかるように、"事実"なのだ。
 それさえも科学的でないと言うなら、セザンヌやジャコメッティやクレーの絵や、バッハやバルトークやノーノの音楽の魅力を、逐一科学的(傍点)に説明する義務がある。芸術や表現や人の中で起こる活動の全体は、科学という粗い網にはかからない。
 でも小島信夫はそのメールの具体的な文面まで予想できていない、という反論こそが、科学と神秘主義の二股をかけた混乱だ。私たちは厳密さ精密さということについて間違った方向づけをされている。厳密さというのはそういう些末なことではない。ある種の考えが可能かそうでないか、問うべきことはそれであって、「厳密さ」というならそれだけが厳密さだ。たとえば十二桁の暗号が一致するかしないかというようなことは片隅の問題でしかない。
 小島信夫によって拓かれた言説空間があり、死んで一年以上経ったときに私に送られてきたメールはその言説空間の中で書かれた。厳密さとはそのことだ。言葉や思考は特定の言説空間の中でしか起こらない。
 それは小島さん本人も、そのメールを読んで喜ばなかったということはないだろうが、そのメールを読む小島信夫もまたメールとそれを書いた人と同じように、『私の作家遍歴』と『寓話』によって拓かれた言説空間を生きていた。小島信夫という人間の晩年が丸ごと『私の作家遍歴』と『寓話』に内包されていた。
 私はある小説家の作品について小島さんに考えを訊きそびれたという思いがある。私が小島さんと行き来するようになったのは一九八九年の十二月からで、そのとき小島さんはすでに七十四歳になっていた。私はそれから小島さんが亡くなる二〇〇六年まで、じかに会って話をしたり、電話で話をしたりしたのだが、私がそんなにも親しく小島さんと行き来をつづけられたのは、六十代までの小島信夫が持っていた鋭さがなくなっていたからだろうことを私は知っている。六十代までの小島信夫には話している相手の足元を無遠慮に崩していくような野蛮さがあった。書いたものからもそれはわかるし、その頃小島信夫と行き来した人たちの言葉にこもっている愛憎相半ばする感じからいっそうはっきり伝わってきた。六十代の小島さんとはとてもあんなにひんぱんに話はできなかった。私は小島さんと話をしながらその野蛮さが目を覚ますことをいつも期待しつつ、期待するよりずっと怖れていた。
 だからこそ六十代までの小島さんから考えを訊きたかった小説家が一人だけいる。私は小島さんにその小説家について訊こうとしたことはあった。私はいつも言葉が多いから、訊くより前に自分の考えをしゃべってしまう。そうすると、
「あなたの言うとおりなんだろうねえ。××さんのことをそういう風に言う人はあんまりいないけれど、聞いていると私もあなたの言うとおりじゃないかと思いますよ。」
 というような返事しか返ってこないのだった。それを聞きながら私は「もう遅かったんだな……」と思うしかなかったのだが、しかし私は本当に聞きそびれたのか。私はいまからでも聞くことができる。『私の作家遍歴』と『寓話』に、それは書いてある。それについて考えるための言葉の質や様相がそこにある。