◆◇◆遠い触覚 保坂和志 第二回 『インランド・エンパイア』へ(1)後半◆◇◆
「真夜中」 No.1 2008 Early Autumn


『マルホランド』という映画の中で起こる出来事は、ナオミ・ワッツ演じる女優志望の女の子がピストル自殺する前に見た妄想――ないし、広く一人称の主観の中でのみ起きた出来事――ということらしい。が、私にはそういう解釈は興味がない。
 だいたい私は入り組んだ話を時系列に整理したりするのが苦手で、それどころか私はふつうの小説や映画でもあらすじを半分も言えない。だから私は、『マルホランド』をそういう風に整理して解釈する人がカウボーイの場面をどう位置づけているのかわからないが、カウボーイの場面はナオミ・ワッツの妄想としてもうまく収まっていないんじゃないか。ナオミ・ワッツの一人称の視点からはこんなことまで妄想する必要はないわけで、とすれば『マルホランド』の"現実とは違う出来事群"はたんなる妄想というよりも一種の並行世界での出来事というようなことになるのではないかと思うのだが、並行世界であっても、たった一つと想定される現実とそれに回収されないもう一つの出来事群という二分法があることには変わりない。
 並行世界も含めて『マルホランド』で、このシーンは妄想でそのあとのこのシーンは事実で……と区別したり、『インランド』で、このシーンは現実で次のシーンは劇中劇で……と区別したり、そういうことをする理由は何なのか? または、そうすることで何が得られるのか? 私にはそういうことをしても、間違ったものしか得られないとしか思えない。
 そのシーンが現実であろうが妄想や劇中劇であろうが、映写機から一秒二十四コマでスクリーンに投影されてゆく映像を見るという観客の作業は変わらない。ふつうの映画では、回想や妄想だったら、そうであることがもっとずっとすっきりとわかりやすく処理されていて、観客はたとえば、1→2→3→4→5→6という順番に映されたシーンの3と4が回想だと判断したら、3と4をカッコに閉じて1→2→(3→4→)5→6という風に、現実の時間の流れを頭の中で再構成する。その再構成の作業はあまり意識しなくてもできる。それゆえ観客は回想や妄想という区別をつける。この区別はわかりにくいものを整理するという必要から生まれたものでなく、もともと整理されているから区別も自然と生まれた。つまりフィクションのごく初歩的な文法ということでしかない。『マルホランド』や『インランド』ではただその仕組みが複雑になった、ということではない。しかし『マルホランド』や『インランド』のシーンを現実かそうでないかという風に整理してしまったら、単純な構成の映画を見るのと同じ作業をしたことになってしまう。
 一番わかりやすいのが『ワイルド・アット・ハート』のラスト、ニコラス・ケージがローラ・ダーンと車の上で「ラブ・ミー・テンダー」をバックに踊るシーンだ。あのラストが現実かそうでないかなんて、きっと誰も考えない。あれはあれだけで、もう全部いいことになってしまう。
 古い例だけれど『ゴースト/ニューヨークの幻』は「アンチェインド・メロディ」のもともとの歌としてのよさにかなり寄りかかった映画だ。デミ・ムーアが陶芸のろくろを回していると「アンチェインド・メロディ」が流れてきて、そうこうしていると死んだ恋人が出てくるという歌でいうサビのようなシーンで、この映画のために作られた新曲を流すよりも誰もが知っている曲を流す方が間違いがない。仮りに知らない若い人たちでも、テレビのCMなどで繰り返しこの曲を流しておけば間違いなくハマる。
 ここには『マルホランド』でのカウボーイとのやりとりとは別の意味でのフィクションの外がある。キャッチーな言い方をしてしまえば、"感動の方程式"というようなもののことで、フィクションの出来がそこそこだったら"感動の方程式"を持ち込めば感動したい人たちが喜んでそこに入っていく。
『ALWAYS 三丁目の夕日』のラストで、それまで登場した人たち全員が、それぞれの場所から建設中の東京タワーを見るシーンも"感動の方程式"だ。ラスト間近で登場人物が全員、次々に映し出されれば観客は感動してしまうようにできている。ほとんど"条件反射"と言ってもいい。しかしこれはフィクションの力による感動ではない。映画をちょっと見馴れた人ならこの条件反射が映画を見る回路の中にできあがってしまっている。
 それならもういっそのこと"感動の方程式"をそのまま使ってしまえばいい、と考えたのが『ワイルド・アット・ハート』のラストの「ラブ・ミー・テンダー」なのではないか。結果、「ラブ・ミー・テンダー」はただの"感動の方程式"の機能を逸脱する。もちろん、ふつう"感動の方程式"は、「ここで"感動の方程式"を使っています」という風に露骨には言わずに、フィクションの流れの中に溶け込ませてある。――いや、実際には全然溶け込んでいないのだが、そこで感動したい人は、あたかも自分がいま見ているフィクションに感動させられたかのように感動する。
 しかしこの感動は予定調和というか、露骨に了解済みの感動であって、たとえば、
「サザンオールスターズの今回の全国ツアーでは、『TSUNAMI』と『いとしのエリー』がアンコールでつづけて演奏されるんだって。」
 という風に、すべての曲順がわかっているコンサートのようなもので、『ゴースト』で「アンチェインド・メロディ」が聞こえてきたときに観客は、心の中で「待ってました」と掛け声をかけて感動する。あるいは、もっと悪いことには映画の方から「はい、ここが泣きどころですよ」と言ってくる。そして観客は「ああ、ここが泣きどころなんだな」と安心してそれを受け取る。
 感動はフィクションの外にあるということだ。いつからそうなってしまったのかはっきり「この時」と記憶にあるわけではないが、映画は「感動」と切り離しにくくなってしまった。映画の宣伝で「感動」という言葉を使っていないものなんかほとんど考えられない。製作費が大きい映画ほどそうだ。しかしそういう風に「感動」が前面に出てくるようになったのは、映画が臆面もなく"感動の方程式"を使うようになったからで、その「感動」はフィクションの中からのものではない。
 もともと、感動というのはひじょうに個人史的な経験に訴えかける要素が強く、フィクションの本筋と全然関係ない、役者のちょっとした仕草だけでもそれがこちらの心の琴線に触れれば観客は泣いてしまって、それを「感動」と呼んでしまうことになる。私はおととしの秋にTBSで放送された長澤まさみ主演の『セーラー服と機関銃』を見て、毎回涙を流していた。本当にもう、あのドラマではちょっとしたことでみっともないくらいに涙が出てしまったのだが、だからと言って相米慎二の『セーラー服と機関銃』よりよかったと思っているわけでは全然ない。
 ドラマの『セーラー服と機関銃』だのテレビでやったのを見た『ALWAYS 三丁目の夕日』だの『ゴースト/ニューヨークの幻』だの、リンチとはあまりに違うような映画やドラマの例しか出てこないくらいで、私は一九九五年くらいから映画をほとんど見なくなってしまった。キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』を見たときに、映画への関心がぷつんと切れてしまったのだ。そのきっかけが『オリーブの林をぬけて』であった理由はまったくわからない。私は映画館で見ていたあいだ、あの映画をとても楽しんでいた。「キアロスタミの他の作品も見たい」とも思いながら見ていた。しかし、見終わってしばらくしたら、ぷつん、と、私の映画への関心が終わってしまっていた。
 だからそれ以降は一年で一回か二回しか映画館に行かず、どれも「こんなもんだろうな」としか思わなかった。だからデイヴィッド・リンチもいっさい見ないできた。二〇〇三年に友人Kと久しぶりに会ったときも、彼が、
「『マルホランド・ドライブ』見た?」
 と言ったのだが、私は、
「面倒くさそうだからいいよ。」
 としか言わなかった。いま思えば単純なフィクションが嫌いなんだから「面倒くさそう」だと思えば見るべきだったのだが、その面倒くささにつき合おうという意欲が映画に対して持てなかった。実際こうしてリンチの映画を見てみると面倒くさいのとはまた違うけれど。友人Kは「小説の登場人物は文字の中にいるだけで生きているわけじゃない」と言ったが、それはリンチの映画のことを話す話の流れで言ったのではない。彼はリンチの映画がものすごく好きなのだが、私が理解しているかぎり、フィクション内の人物が生きているかどうかというようなことの関係で好きなわけではない。といっても、ひとりの人間から生まれた二つの関心が全然無関係ということはないけれど。
 自分の好きな作家がいかにもフィクション然としたフィクションを年齢とともに書かないようになったことに関心を持つようになったのも『オリーブの林をぬけて』を見た後だったかもしれない。が、それはつじつま合わせにすぎないのかもしれない。田中小実昌、小島信夫、大島弓子。フィクションを書くということは、自分の態勢をなんというか"フィクション化する"ことからはじめなければならない。
 短歌や俳句もきっと同じだと思うのだが、短歌や俳句を作ろうと思ったらそれを作るためのフィルターを心の中かどこかに作らなければならない。その作業はすでにフィクションの側にある。その"フィクション化"ができあがっているからこそ、たった一行の短歌や俳句が世界を言い切ったかのような錯覚を与えることができる。私はつい最近、万葉集にある、

 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも

 という歌を知って、短歌とは何とすごいんだろうと、心の深いところで感動したのだが(結局「感動」が出てきてしまう)、すべてを言おうとしないからこの歌が生まれ、それに出会った私はまるでこの一行ですべてが言い尽くされているかのような気持ちになった。しかしこの歌を詠んだ人も、短歌を詠むための"フィクション化"が自分の中に生まれていることに違和感を持ってしまったとしたらこの歌が生まれたかどうか。
 しかし友人Kがリンチをものすごく好きだということは私はずっと気にしていて、去年の夏、『インランド』が公開されるというのを知って、映画館に行く前に『ブルーベルベット』と『ワイルド・アット・ハート』を近所の小さなレンタルビデオで借りてきた。この二本だった理由は、他の作品が置いてなかったからだ。しかも『ブルーベルベット』の方はテープの劣化がひどくて何も見えずじまい。
 私が『ワイルド・アット・ハート』を見ていると妻が言った。
「リンチ、好きだったじゃない。『ツイン・ピークス』借りてきて喜んで見てたじゃない。」
『ツイン・ピークス』は二巻目か三巻目まで見たところで、つづきがずうっと貸し出し中で、そのまま立ち消えになったことしか憶えていない。
 これはつい最近のことなのだが、『ブルーベルベット』をDVDで見ていたら、私はこれを前に見たことがあることに気がついた。特に、デニス・ホッパーが口紅を塗りたくってカイル・マクラクランにキスしまくる場面。
「おれ、この映画、見てるなあ。」
 と言うと、妻は、
「見たわよ。一緒にロードショーに行ったじゃないの。」
 と言うのだが、私にはまったく記憶がない。リンチは私にとって全然憶えていないくらい重要な映画監督だったということらしいのだ。