◆◇◆遠い触覚  第四回 「インランド・エンパイア」へ(3)後半◆◇◆ 
「真夜中」 No.4 2009 Early Spring

『マルホランド』と『インランド』は映画の撮影現場が絡む話であり、『ロスト・ハイウェイ』は撮影現場は出てこないが、玄関にビデオテープが置かれ「謎の男」なる不気味な男が手に小さなビデオ・モニターを持っていた。そういえば、中年男フレッドの妻レニー役の女優が一人二役として出てくるアリスの方はポルノビデオに出演していたから撮影現場が全然ないわけではなかった。
 私は以前『そうみえた『秋刀魚の味』』という誰も小説とは思わない、エッセイのような短い小説の中で、『秋刀魚の味』の一場面の、笠智衆が日本酒を自分の盃に注いでいるカットが、笠智衆が一人だけで飲み屋で酒を飲んでいるのかと思ったと書いたことがある。私はその頃毎朝、食事をしながら少しずつ『秋刀魚の味』のビデオを見ていたのだが、そうしたらある朝、笠智衆が一人だけで飲み屋にいて酒を注いでいるかのようなカットがいきなり映ったのだった。
「こんなシーンがあったっけ?」私はわからなくなった。しかしそれは中村伸郎と一緒にいるところが前日途中で終わり、その朝、そのつづきが再生されたからたまたまそう見えてしまっただけだった。しかしそれは私にはたまたまではなく、それ以来私は小津安二郎の人物が真っ正面から映るショットが、本当は一人きりなのだ。しかし一人きりでいるショットを二人分、交互に映すから二人が一緒にいる。ように見る側が錯覚しているのだ。
 映画の撮影は時間の進行を切り刻み、ただ切り刻むだけでなく前後も自由に入れ替える。やらない(起こらない)のは人がうしろに向かって歩くというような逆回転だけだ。フレームで空間も切り取る。何かを見る人物Aの顔が映り、カットが換わって壺が映れば、人物Aが壺を見ているという了解が生まれる。逆に、まず壺が映り、次に何かを見る人物Aの顔が映るとどうなるか。やっぱり人物Aが壺を見ているという了解が生まれるだけで、壺が人物Aを見ているという了解にはならない。
 いや、そんなことより、映画では同じアングルのショットがあるときには誰かの視線になり、別のときには誰のものでもない視線になる。しかし誰のものでもない視線≠ニいうのはどういうことなのか? 誰のものでもない視線≠ネどというものがこの世界にありえるのか? 誰のものでもない視線≠烽ワた起源を辿っていけば、人が空間の中で自分のいる場所がどこで、自分の姿がどう見られているのか? というイメージに辿りつくだろう。それは映画のアングルにするにはだいぶ稚拙で、なんだか間が抜けている。それがリンチ・アングル≠セ。
 それを少し加工して粒子の粗い映像にすれば監視カメラのビデオ映像になって、『ロスト・ハイウェイ』の室内を盗撮した映像になる。こうしていま机に向かっているとき、自分の姿を想像すると、想像する私の視線は部屋の天井の一番端っこ、天井が壁と交わるあたりから、机に向かっている私のうしろ姿を映している。しかし実際には前回も書いたが、映画として撮るにはそこでは低すぎて距離も近すぎるので、リンチ・アングル≠フカメラは天井と壁の交点の延長線上のところにまで延びていっているだろう。
 もともと今回は、『インランド』で部屋に一人だけでいてテレビに見入っている女性とローラ・ダーンがラスト間近に出会う話だった。この場面を、『ロスト・ハイウェイ』の中年男フレッドから青年ピートへの入れ替わりに関連づけようとしていることは隠しようがない。
『ロスト・ハイウェイ』では、中年男フレッドから青年ピートへの入れ替わりと、妻のレニーを演じていた女優がアリスを演じるという一人二役がある(起こる)。「俺はそこにいる。」が、写真やビデオ映像の中にいる「俺」を指していない場合、この発言をふつうに受け入れるもう一つの理解は分身だ。男の方の入れ替わりも女の方の一人二役も正確には分身ではないが、分身に向かおうとして起こっていた細胞分裂が複製を書き間違ったと言えばいいか。これもやっぱり違うが分身と少しだけは似ている。一人二役の方はだいぶ似ている。入れ替わりの方はだいぶ似ていないが、大もとの出来事としては同じなのではないか。
 分身の方はわりとふつうに受け入れられるが、入れ替わりの方は受け入れにくく、受け入れにくいから特別な説明がほしくなる。分身の方は特別な説明をいらないように感じる。その違いはしかし、分身譚が古今東西いっぱいあるのに対して入れ替わり譚の方はほとんどないから、というそれだけのことなのではないか。
 もっとも、「それだけ」と言っても、分身譚の多いのは分身にそれだけ普遍的なリアリティがあるということだ。入れ替わり譚が少ないのはそっちにリアリティを感じる人が少ないということだろう。ある朝目が覚めたら自分が消滅してそこに他の人間がいた。これではすでに自分は消滅しているのだから、そこに驚きようもない。しかし分身が生まれていたとしても、この私の意識が継続しているのはどちらか一方だけであって、もう一方=分身の気持ちはこの私は感じていない。追いつめていくと、分身も入れ替わりもやっぱりあんまり違わないような気もする。
 私は確かにここにいるのに、私に関するすべての記録が消滅し、それどころか私を知っていたはずのすべての人から私の記憶が消滅している。私は何十年も生きてきたのに私はこの世界の誰からも知られていない。これはフィリップ・K・ディックが一九七四年に発表した『流れよわが涙、と警官は言った』の主人公タヴァナーにふりかかった出来事だ。
 終わりちかくに、この出来事についての明快な説明が登場人物の一人である検死官によってなされる。
「時間保存は脳の働きのひとつで、脳が入力(インプット)を受け入れているかぎりはつづきます。で、同様に脳が空間を保存できなければ脳は機能しないというのはわかっています。しかし、なぜかということになると、まだわかっていないのです。おそらく、順序が前後関係で――時間ということになるんでしょうが――整えられるような形で現実を固定させようという本能と関係があると思われます。またもっと重要なのは、その物体の図面とちがって、立体のように、空間を占有するということです。」
 この時点で主人公タヴァナーに関する記録と記憶はすべて元どおり、この世界に戻っている。検死官はどうして、一人の人間に関する記録と記憶がすべて消滅してしまったのかの説明をしているわけだ。
 私は「しかし、なぜかということになると、まだわかっていないのです。」という言葉に感動する。というか、うれしくなる。いま「脳科学者」なる肩書きを持つ学者が日本には何人もいて、人間の認識についていろんなことをしゃべっているが、この検死官が言っている「なぜ」には全然応えていない。それに応えようとしたら彼らは学者を廃業するしかないのだろうが、しかしこういう「なぜ」を大真面目に考える人がいるわけで、それがディックでありリンチである。検死官の説明をつづける。「です」「ます」はじゃまなので、「である」調にして、不要と思われるところも省く。
「空間についてのひとつの概念はこういうものだ。あるひとつの単位空間はその他すべての単位空間を排除する(A)。ひとつの物体があそこにあれば、それはここにはない(B)。」
 この説明はしかし話題がズレているんじゃないか。Aにつづけるなら、Bは「ひとつの物体がここにあれば、ここには別の物体はない。」と言うべきではないか。Bのセンテンスを言いたいのであれば、Aのセンテンスを「あるひとつの単位空間は空間内で同時に二ヵ所以上には存在しない。」とするべきではないか。小説内での説明として読んでいたかぎり、私は話題のズレに気づかなかったし、大枠では同じことを言ってるんだから、「ま、いいか。」と思うが、しかし正確さにこだわると、Bは分身の不可能性についての説明ということになり、Aはその対として当然、入れ替わりの不可能性についての説明ということになる……と思ってAをよく読むと、これは入れ替わりの不可能性についての説明ということになるんじゃないか? なぜなら、ひとつの空間に同時に二つの物体(単位空間)が存在することができないんだとしたら――実際そうなわけだが――、青年ピートがそこにいてしまったら、中年男フレッドはもうそこにいることはできない。現代物理学の宇宙とか空間とか次元の話を、計算式がわからないまま聞いて勝手に妄想したときの奇っ怪な空間像のような話だが、正確さにこだわったためにAが、入れ替わりの不可能性ではなく可能性になってしまったところが私はうれしくなる。
 人間の頭は、「いま私が東京にいれば、いま私がアラスカにはいない。」とか、「一八世紀が一九世紀より前で、二〇世紀が一九世紀より後なら、一八世紀はニ〇世紀より前だ。」とか、「この土地にあなたの家が建っているんだから、同じこの土地に私の家は建てられない。」とか、倫理的思考のユニットをいっぱい持って、それを実際に使いこなしているようなつもりになっているけれど、ユニットはどれも小さいものでそれがいくつか繋がって長くなったらわからなくなるし、そういう論理を生み出した大本の考え方までわかっているわけではない。だから、「クジラが魚でないように、コウモリは鳥ではない。」なんてことも言い出す。クジラが魚でないことを検証するだけではコウモリが鳥ではないことの検証は全然なされていない。
「おまえ、そんなことダメに決まってるだろ。常識で考えてみろよ。」
 と、私は人生で何百回言われたことか。
 検死官の説明をつづける。
「空間の排他性は脳が知覚を司るときの機能にすぎない。脳は相互に排除しあう空間単位ごとにデータを作る。しかし、本来、空間は排他的なものではない。事実、本来、空間はまったく存在しない。」
 ここで「空間はまったく存在しない」の意味がわからないが、「ニュートン空間のような固定した空間はない」という意味だろうか。「空間が排他的なものでなければ、それはもう空間とは別のものだ」という意味だろうか。そしてともかく、「KR - 3」という強烈なドラッグを服用することによって、空間の排他的な性格が消え、競合する空間回廊が開かれ、脳には 、新しい宇宙全体が創造されるようなことが起こる。それがこの小説の中で起こったことだ。
 これはもちろん、ドラッグを服用した人ひとりの中で起こることなのだが、ここがディックの真骨頂で、ひとりの脳の中で起こったことがまわりの人間を巻き込む。SFでもSFでない小説でも世界の混乱はいろいろ描かれてきたが、たったひとりの人間の脳の中で起こったことによって世界全体が混乱するという発想はディックだけのものだ。そしてディックはそれはきちんと説明する。『ユービック』でも『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』でもそうだった。私はそこに最大に興奮する。
「私が死ねば世界も滅びる。」という唯我論が私は大嫌いだが、「一人の脳の混乱によって世界全体が混乱する。」というディックの発想には痺れる。ディックの発想と唯我論は同じではない。なぜなら、唯我論は私が世界の中心だが、ディックの発想は私でない人間が世界の中心にいる。だいたい、「私が死ねば世界も滅びる。」タイプの唯我論者はディックのこの世界の混乱をリアルと思えないんじゃないか。唯我論者は自分と世界を同等とするほど妄想的なのに、一方で嫌になるほど現実的で論理にこだわり、みみっちくて思考の飛躍に対して懐疑的だ。いや、現実的で論理にこだわり、思考の飛躍に懐疑的な人間こそが唯我論に陥るのか。
 さて、ディックになりかわって検死官はこう説明した。
「タヴァナーは自分が存在していない世界に移ったのだ。そして我々もタヴァナーとともにそこに移った。我々はタヴァナーの知覚の対象だから。」
 しかしその元はタヴァナーでなくアリスだった。アリスというのは、「流れよわが涙」と言った警官であるバックマン本部長の双児の妹だ。ディックにも双児の妹がいた。ただしディックの双児の妹は生後四十日で死んでしまったそうだが。アリスが「KR - 3」という強烈なドラッグを服用したのだった。全員が元の世界に戻ったのは、アリスが死んだからだった。検死官の説明のつづき。
「タヴァナーはアリスの知覚系統のひとつの基準点になった。そして彼女がKR - 3によって別の座標系に移ったとき、タヴァナーもそこに引きずり込まれた。」
 私はこの説明に興奮する。私はこの説明にリアリティを感じる。
「リアリティ? どこが?」という人の方が多いだろうが、私はともかくタヴァナーの記録と記憶が世界から消滅したことについて、何かそれらしい言葉が二、三センテンスあればよかったんじゃないか。それらしくある必要すらもない言葉であっても、二、三センテンスもあればよかったのかもしれない。ディックはこうして説明したというか、言葉をつけた。一方、リンチは言葉をつけない。『ロスト・ハイウェイ』では、中年男フレッドが青年ピートに入れ替わった直前の晩のことが話題にあがりかかり、それは相当大変なことらしいのだが具体的な中身はついに一度も語られない。語られない方が語られるよりもずっと強い。それは「ずっとリアルだ」という意味なのだろう。
 ――と、ここまでで今回の分を書き終えたあと、昨夜、NHKのBSハイビジョンの映画の予告で、宇宙との交信を試みていた男が三十年前(だったか)に死んだ父親と交信がつき、二人で悪と戦う、とかいう映画の筋がナレーションで紹介された。リンチの映画で死んだ人間との交信がはじまったら大事件というか、「?」だらけになるが、テレビで紹介されたこの映画では死んだ父親と交信がついたこと自体は問題とはならず、すぐにフィクションの前提に組み込まれてゆくと考えたとき、私は「?」が解消されず、説明不能なまま凍結されるリンチのフィクションにあらためて感動した。「?」が解消されないということは、フィクションの中の出来事を現実を見るのと同じ見方で了解しようとしているということであり、私はあの入れ替わりをそのまま受け入れられる予感を抱いてさえいるのだ。

「真夜中」 No.4 2009 Early Spring