◆◇◆遠い触覚  第七回 ペチャの魂 (後半) ◆◇◆ 
「真夜中」 No.7 2009 Early Winter


 風呂で湯船に浸っていると、ペチャの魂がないと考えることの方が馬鹿気た考えだと思った。魂というのは何なのか。魂は意識ではない。魂は思考もしない。魂とは、自分が知っているその人や動物にたしかに自律的な内面があると感じたその源泉のようなもののことなのだろう。言葉にすればそのようなことになるが、それは魂よりずっと痩せた概念でしかない。視界がなくなる吹雪の怖さを何か別の他の怖さによって類推しても、その怖さは吹雪の怖さと全然別物でしかないようなものだ。
 こんなことはもう私はそれこそ百回も書いた。しかし何度書いても私たちはそれを否定する言葉に包まれて生きているのだから書きすぎるということはない。ペチャの魂を身近に感じた私自身が、あのときから離れてしまえばあやふやな追体験しかなぞれなくなっている。何度でもたどり直せること、誰にでも了解可能なこと、そういうものだけを事実とする思考様式の中では、あのときにたしかに感じたことは、幻想・妄想・錯覚……などと切り捨てられる。しかし魂はたしかにある。しかし、目の前に本があるとき、自分がいま手に本を持っているとき、「本はたしかにある」とは言わない。ただ「本はある」とか「本がある」と言えばいいのだから、「魂はたしかにある」という言い方を選ぶだけで、その発話者たる私は魂の否定を前提としている立場を選んでいることになる。これが言葉による思考の落とし穴、というか私たちが使っている言葉が前提としていて、日々強化している世界観だ。
 十一月に闇雲に外出を避けていたとき私はそういう言葉としてでなくペチャの死が近いことをわかっていた。というか、ペチャの死が近い空気の中で生きていた。ペチャはもう子猫のときのようにぴょんぴょんどこにでも跳ぶことができない。床からほとんど離れない低く狭い空間だけを生きている。
「こんな不自由な体はそろそろ脱ぎ捨てて新しい体に着替えるのがいいよね。――魂がもしあるなら。」
 と、その頃にはじめて私は考えたのだが、この考えは二つ目の保留の文があるために魂を否定しているようでいて、やっぱりしっかり魂を肯定している考えだったのではないか。前半の一文はいかにもありふれた考えに見えるけれど、私はこんなこと、いままで一度も考えたことがなかった。二つ目の保留の文はこれは知的操作として生まれた考えでしかない。一つ目は私の中よりももう少し遠い、自然なところから無邪気に発している。二つ目が「――でも魂はない。」ともっとはっきり否定していたとしても同じことで、自然に発した考えを世間と?ぐために二つ目が出てきたのではないかと思うのだ。本当のことがつい口をついて出てしまったばっかりに取り繕うためにしてしまった苦笑い。二つ目文はそういうものだ。
 八月二十一日は『終の住処』で芥川賞を受賞した磯崎憲一郎の芥川賞受賞パーティだったが私は出席せずペチャのそばにいた。私は何人かに、欠席の連絡と一緒に、
「ペチャは満一歳になる前に猫ジステンパーにかかり、子猫にはかなり死亡率が高い病気なんだけど、そこから生還したことで、僕は『プレーンソング』を書きはじめた。
 つまりペチャがいなかったら、小説家・保坂和志はいなかったか、違うタイプのぱっとしない小説家にしかなっていなかった可能性があるわけで、ペチャは現代日本文学の流れの一翼を担っている、というわけです。
 小説家・磯崎憲一郎の芥川賞受賞の日々とペチャの死の過程が平行モンタージュのように進行するなんて……」
 というメールを送って、そこに書いたことは本当なんだけれど、大きな間違いもある。というのはペチャがある役割を果たすために生まれてきたかのような印象を与えてしまうからで、それはペチャの生命を人間的に歪めてしまうことになる。いや、すべて動物は人間と接するかぎり人間的に歪められるのだから、ここは「社会性を付与されて歪められる」と言う方がいいのだろうか。とにかく私がしなければならなかったことは、このような人間的なものから可能なかぎり遠く離れたところでペチャの魂を見ることだった。
 チャーちゃんが死んだのは一九九六年十二月十九日で、そのときチャーちゃんは四歳四カ月か五カ月ぐらい。私が夜、道でニャアニャア鳴いている子猫のチャーちゃんに出会ったのが九二年十月一日で、そのときチャーちゃんは生後二カ月か三カ月だった。だから私はチャーちゃんと一緒にいたのは四年と三カ月に満たない。ペチャが口内炎かと思われた異変に気づいてから死ぬまでに半年の時間があったのに対して、チャーちゃんは十一月十五日に獣医に見せに行っていきなりウィルス性の白血病と診断されて一カ月しか時間がなかった。ペチャはそれ以前の十一月の私の気持ちから計算すれば、チャーちゃんと比べてとても長い時間があり、何しろそれ以前に二十一年半の歳月があった。
 チャーちゃんが死んで一カ月か二カ月か三カ月か忘れたが私は毎日のように近所を歩き回って、チャーちゃんの生まれかわりの茶トラの子猫と出会うことを願った。そして家の外にいるあいだ、私は家の中でチャーちゃんが動き回っている映像を想像するというよりも、頭の中で映像として必死に出力しつづけた。気狂いじみているように見えるが、小説や音楽や絵を創作するときの気持ちの状態というのはこういうことであり、作品を真っ正面から受け止めようとしたらやっぱり、受け手は気狂いじみて中に入り込んでいくしかない。一歩ひいて作品を俯瞰したり、作品の構造を把握しようとする行為は作品が生成する強い圧のかかった状態から逃げることにしかならない。
 作品が体験と呼べるほどの濃度を持っていたり、人に霊感を与えたりすることを本当だとするなら、そこで人は言葉による記述の不可能性や思考という構築的なプロセスの破綻を経験するわけであり、魂はそのような状態にいるときにしか存在を知ることができない。私はチャーちゃんの死のときに魂というものを捉えそびれていたのだが、それはチャーちゃんの映像にこだわったことだった。
 私はもともと視覚記憶が悪く、それゆえ頭の中で映像としてチャーちゃんを出力しようとすると大変な負荷がかかったわけだが、魂は映像にはなかった。映像は人の心に激しく訴えかける力を持っているが、それは聖アウグスティヌスが『神の国』の中で書いているように物質的な次元にとどまる。私が最も奇抜なことを考えると思っている小説家ビオイ?カサーレスの『モレルの発明』は、孤島で死んだはずの男女のグルーブが毎日同じ時刻に同じ場所で同じ行為を繰り返す装置を発明した話で、それは驚くべき小説だが、その驚きゆえに私はそれがただ映像の反復であるという欠点に蓋をした。
 実際、ビオイ?カサーレスはそれにつづく『脱獄計画』では、ただ視覚でなく、アルファベットに色を感じたランボーや音に色を感じたオリヴィエ・メシアンたちが持っていた共感覚を使って視覚刺激から架空の体験を作り出すという、『モレルの発明』よりもずっと踏み込んだ構想にして、小説としては『脱獄計画』には本当にぶっ飛ぶのだが、魂はそのような刺激は必要としない。シュレーバーが手記に、
「私は自分の見た妻がもはや生きた人間ではなく、「仮そめに急ごしらえされた男たち」と同じように奇蹟によって捏造された人間の姿にすぎぬと思った」
 と書いたように、映像・像には魂はない。映像・像と魂との混同は近代の視覚優位の文化ゆえの錯覚の産物であり、私たちが視覚的明証性を求めるほどに魂は遠ざかる、とさえ言えるかもしれない。平安期の人たちは、かすかな残り香・移り香や衣ずれの音だけでもありありと相手を思い出すことができたのではなかったか。しかもその相手というのが暗い寝室に入ってきたのだったら、もともと顔もろくにわかっていなかった。といっても二人のあいだにほ肉体による濃密な接触があったわけだから、そこに感覚的媒介がないなどとは全然言えないわけだけれど、濃密な接触の記憶が視覚像を上回るということは大事なことだ。
 音楽も絵も直接に感覚に訴えるものだけで形成されているわけで、音楽家も画家も感覚に訴える音や色や形という物質的次元に心血を注ぐ。当面の作業としてはそのように見えるわけだが、音楽家も画家も必ずや受け手の内側に、物質的次元をこえた何かを作り出そうとしている。そして事実、物質的次元をこえた何かを生まれさせることに成功する。映画や写真や小説も同じだが、どの表現形態においても物質的次元をこえた何かに受け手が出会うことができるのはひじょうに稀な機会にかぎられる。2+3=5とか√2×√3=√6という式のように、プロセスに対して結果の恒常性が保証されていることはなく、むしろこのよな式は偏った世界の切り取りでしかないと考えるべきなのではないか。
 私は現に魂に触れ合わない、魂の実在をむしろ積極的に否定する社会に生きているのだから、感覚か思考を積み重ねることしかできない。カフカは「『城』はKの魂の彷徨を描いた小説である」という風に魂の作家に祭り上げられてしまっているが、魂という言葉をこういう風に簡単に使ってしまうかぎり、心理と同じ程度の意味、受け手のサイズに歪められて文の意味を理解するのにさして労力を必要としない意味の言葉にどんどん堕ちてゆく。そうでなくカフカの小説や書き遺した断片を、書いてあるとおりに意味やテーマなどを考えずに、ただ書いてあるとおりにたどってゆくと、一人の人間が紙に書き記していった時間ないし行為そのものが浮かび上がってくる。カフカは具体的なことしか書かなかったが、カフカの書く具体的なことは機敏に飛躍して繋がってゆく。
 カフカが偉大であるとか、難解であるとか不可解であるとか不条理であるとか、現代を先取りしたとか、そんなことばかり言ってカフカの書いたものを読もうとしない人たちには、カフカがたしかにある夜、この文章を書いたのだとうことがわからず、そういう人たちは偉大な文章とは生身の肉体を持って時間の中を生きた人間が書くのでなくあるとき突然空から舞い降りてくるとでも思っているに違いない。カフカは自分がいま書いているものをどういう方向に持っていこうというような、いわゆるそれが作家だと一般的に素朴につまりは保守的に考えられている意図はなく、いま自分が書いた文章にどれだけ自分が驚くことができるか、ということに心を奪われ、ひたすらそれを持続させることを願っていた。それゆえ、その先が書けずに書きかけで投げ出した断片がいっぱい残されることになった。
 ペチャの死の過程に立ち合った時間の中で、ということは八月十一日以前私はペチャの死が日に日に近づいていると思いながらも同時に一日でも長くペチャと一緒にいたいと思ったり、三月の半ば以来いろいろやっている代替治療や二十二歳になったペチャにはたいして効果的な治療が残されていないとはいえかぎられた西洋医学の治療が劇的に効いて半年一年命が延びることを願ったりしていたのだが、十一日を境いに私はペチャの命が延びることを願わず、一日でも早く苦しまずに死ぬことを願い、その時間の中で私はペチャの魂を感じた。
 それは人生の中で特異な時間であり、その外に出てしまったらその中で感じたことは錯覚としか思われないのだから、それそのものについて語ろうとは思わないし、現にいまこうしている私はペチャの魂をありありと感じてはいないが、あのときにペチャの魂を感じたことだけは事実だから、私はペチャの死をあまり悲しんでいない。
 自分に子ども時代があったこと。母の実家でいとこに囲まれて育ったこと。鎌倉の浜で夏に野球をしたこと。秋に山に入っていってアケビを取ったり木の枝を組み合わせて秘密基地を作ったこと。これらは揺るがない記憶だがいつもリアルにそれがあるわけでなく、それらは何かきっかけがあったときだけリアルに記憶の中で展開される。ペチャの魂も大さっぱにたとえればそのようなことで、ふだんリアリティからは遠くに私自身があるとしても魂を感じたことは揺るがない。これは二十二年間という長い具体的な接触を積み重ねた結果だと思う。
 私は例によっていろいろな本を読み散らかしていて、ここのところ、樋口一葉の日記とダーウィンの『ビーグル号航海記』とシエサ・デ・レオンという十六世紀のスペイン人が書いた『インカ帝国地誌』を読んでいるのだが、この、過去の出来事を書き記した文章を読んでいると、ここに書かれていることがひじょうに身近な、年をとるほどに身近になってくる自分自身の子ども時代の記憶ほどにも身近なことに感じられて、文章を読んでいるときの自分のまわりの空気の濃度が変わっている。ほんの二、三年前までこれら過去の出来事を書き記した文章は遠く、読むそばからてのひらから砂がこぼれ落ちるように記憶に残ることがなくすかすかしていたのだが、いまではただ文字によって書かれている光景がありありと浮かび、書いている人の息づかいが感じられてきて、自分がいまここに記された光景を思い出しながら書いているような気持ちになることさえある。