◆◇◆遠い触覚  第九回 『インランド・エンパイア』へ(7)前半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.9 2010 Early Summer

最近とみに感じるエッセイを書くときに感じる不快感は何なのか? 私の家は物が散乱していて特に私自身の部屋となると床に反故にした手書きの原稿用紙やゲラの校正のファックス紙や薄い雑誌やパンフレット類が散らばっているそこを歩くときの不自由な気分と通じ合うその感じは何なのか? だいたい原稿用紙にして三枚とかそこらのエッセイの連載を持ってしまったことが良くなく、三枚かそこらの長さで何を書けばいいのか? たった三枚を事前のプランもなく、ということはこの連載の文章のようにアテもなく書くことは難しく、いきおい「何かを伝える」という書き方になるのだが、それは自分が書く前にすでによく知っているか書く前に何を書くか大筋を決めたものでしかない。思えば不思議なことで、まだ書きはじめて三百字程度にしかなっていないこの文章は書きはじめた途端にアテもなく書くことができるのだからたった三枚とはいえそれができないはずもない、ということは結局は長さが問題なのではなく、書くときのこちらの構えが問題なのか。つまり新聞という媒体に対する遠慮があるということなのか。情けない。
 本当に気合いの入ったエッセイなら違うのかもしれないし、それは評論にも哲学にもあるいはもしかしたら自然科学の論文にさえも当てはまるのかもしれないが、私にとってエッセイというのは書き手の位置が書く前と後で一歩も動かない文章のことで、自然とそれは俯瞰的になる。書き手があたかも確固たる尺度を持っているかのようになる。できの悪い書評などその最たるもので、「おまえのそのいいの悪いの言っている基準はどこから来たんだよ。」と言いたくなる。
 一年前なのか二年前なのか忘れてしまったが偶然何冊か評伝を読みかけた。半分も読まないうちに全部やめてしまった。評伝に書かれるほどの人物なのだからその主人公は書き手より大きいはずだ。どれも書き手が対象者である主人公を熟知しているみたいな書き方をする。私が読みかけた評伝のレベルが低かったのかもしれない。私は書き手が対象の大きさについて、何といえばいいか、わきまえない、リスペクトがない書き方が何と小説と別のものであるかということがわかった。
 川島清という彫刻家の作品を見るようになったのは五年前か六年前のことだ。私はそれより二十年ちかくも前に川島清と一晩酒を飲んで口論し、そのわりとすぐ後にあった個展を見に行ったりしたらしいがそれは全然憶えていない。川島清という名前だけは憶えていて、個展の記事が新聞に載っていたので見に行った。線路の枕木のようにニスかワックスを塗られた、枕木よりもずっと太くて大きい木が会場に横たわっている。私は「わからないなあ……。」と思う。それ以上の言葉は一つも出てこない。「わからないなあ……。」と思いながら、長さ五、六メートルあるその木のまわりをぐるぐる歩いたり、屈んで顔を近づけて見たり、離れて見たり、そのあいだ私はまったく退屈していなかった。
「わからないなあ……。」という言葉にだまされていた。一つの作品を前にして十分、十五分、二十分と見ていることができるなら、私は作品をじゅうぶんに楽しんでいたわけだ。二カ月以上のあいだ私はルー・リードばっかり部屋でかけている。かけるのは『エクスタシー』が半分、『セット・ザ・トワイライト・リーリング』が残りの八割であとの残りは『ブルー・マスク』。カタカナじゃなく英語で書けよ。ルー・リードはメロディ・ラインがはっきりしないところがいい。二カ月以上かけていて、どれか一曲口ずさんでみろと言われたら、その日にかけたばかりのアルバムの中のワン・フレーズぐらいしか口ずさめない。そこがいい。メロディがはっきり私の記憶に入らないから何度でもかけていられる。『トワイライト』の最初の二曲はメロディがキャッチーすぎるからかけない。ルー・リードを私は「わからない」とは思っていない。「わかる/わからない」という形容が音楽や美術や文学や映画やダンスや写真に可能だとしたら、何度でも聴ける、どれだけ長い時間でも見ていられる、「わかる」とはそういうことでしかないのではないか。
 川島清の展覧会のカタログを見ると、学芸員とか美術評論家とかが、
「川島清の作品はつねに記憶と時間をめぐってうんぬんかんぬん……」
 なんて書き出している。川島清の作品をはじめて見た人がいきなり記憶と時間について考えることができたみたいだ。ロッククライミングというのはまずどこに最初の手掛かりをつけるか見当をつけることからはじまるだろう。やったことはないがそういうことだろう。いきなり登りはじめるわけではなく見る時間からはじまるだろう。現代美術は全般にそうだ。作品と自分との接触面を探すことからはじまる。それは言葉にすると「わからないなあ……。」でしかない。「わからないなあ……。」ではあるが、その前からあっさり立ち去らせない何かがある。難解な作品にこそ深遠な思想が宿るという幻想がかつて六〇年代七〇年代頃まであったことは間違いない。私がそれをまったくひきずっていないとは私自身には断言することはできない。「難解そうな作品」「深遠そうな作品」と川島清の彫刻が別であることは間違いない。川島清の彫刻は目は退屈していないが言葉が見つからない。大きく長い木のまわりをぐるぐる歩きながら見ているのだから、目は体の動きでもある。
 私はヴェルヴェット・アンダーグラウンドをまったく経ずにソロとしてのルー・リードを九〇年代前後から聴くようになった。ヴェルヴェッツの現役時代、ヴェルヴェッツのレコードはまったく日本で発売されなかった。ディスクユニオンなどで輸入盤は売っていたかもしれないが、売られていなかったかもしれない。ウォーホールがデザインした有名なバナナのジャケットのアルバムを聴くのも私はルー・リードを聴くようになった後だ。はじめてそれを聴いたとき私は「宿命の女」という曲を知っていた。ポップスの古典といってもいいくらいのメロディで、私は「宿命の女」を真似たメロディに聞き憶えがあったのかもしれない。聴き憶えのあるメロディだから耳にすんなり入ってくる。心地いいと言ってもいい。三分ぐらいの一曲が終わるまでに私は飽きている。ユーチューブには六〇年代の、私が中学で聴いたりそれ以前に聞き憶えたりした曲が全部あるといっても過言ではなく、私は何か曲を思い出すたびにユーチューブで聴く。懐かしく耳が喜ぶのは最初の一分くらいまででそこで飽きる。馴染まなさというには別の魅力があるに違いない。
 作品について語られるときその馴染まなさが飛ばされて何ものかとしていきなり語られ出すのはおかしい。作品のあり方に対してじゅうぶんな配慮あるいはリスペクトが欠けている。作品は簡単には馴染まないものとして作者によって制作された。受け手はその馴染まないものと自分の気持ちとの押したり引いたりみたいなことをする。それはすでに作品を肯定している過程でもある。馴染んでしまったら次に余裕か油断がこちらに生まれてしまうことを止められない。それをいいものと感じてしまったら受け手は、いいとか悪いとか感じはじめる。この状態になるともう私はつまらないとも感じている。受け手をどれだけ馴染まなさに踏みとどまらせることができるか? どれだけ受け手からの攻囲に対して閉じつづけていられるか? それが作品として存在する基底の力だと言うこともできるのではないか。しかも作品は馴染ませないと同時に、自分の前から受け手を退場させないようにしなくてはならない。
 それを二つの要素の兼ね合いと解釈する人がいる。つまりテクニックだと考える。小説論の中で私は繰り返しテクニックを否定した。するとアマゾンのカスタマーのレヴューみたいなところで、「保坂はテクニックではないと書くが、テクニック以外の何物でもないじゃないか。」みたいな反論を書く人がいる。そんなことばっかり言ってるから自分では何も作り出せないんだということを考えもしないで、すべての話を技術の問題にすり替える。
 テクニックではない。浜崎あゆみの全盛期だったから十年前ぐらいだったか、太って髪の毛を伸ばした元たのきんトリオの野村ヨッちゃんがギターを持って、ジミ・ヘンドリックスのフレーズをじつに楽しそうに楽々と弾くのを見たとき、「時間が経つとテクニックに回収されてしまうんだ。」
 と思った。マイケル・ジャクソンの『ジス・イズ・イット』でギターを弾くオリアンティはテクニックはすごいんだろう。だから『ジス・イズ・イット』ぐらい英語で書けよ。ウィキペディアなどで書かれているオリンアンティの経歴の「父親の影響で六歳でギターを弾きはじめる」というのがすでに間違っている。記事によっては「父親から英才教育を受ける」みたいになっているものもあるが、ギターは子どもが親の支配の外に出るために手にするものだったはずではないか。それを親に習ったらギターじゃなくなってしまう。テクニックなんていうのはそんなものだ。
 

『インランド・エンパイア』のローラ・ダーン演じるニッキー・グレイスの夫だが、あの人はどういう俳優なのか? あの人はだいたいプロの俳優なのか? 
『インランド』のDVDとシナリオがパックされたDVDブックというのか、そのシナリオは日本語に訳されていない英語のままで『インランド』はもともとシナリオなしで撮りはじめられた映画なのでシナリオというよりもスクリプトらしいが、うしろに短い付け足しみたいな感じで、これは日本語でリンチの経歴と、キャストの経歴が載っている。そこに選ばれているキャストは掲載順に、ニッキー役のローラ・ダーン、監督役のジェレミー・アイアンズ、ニッキー演じるスーザンの相手役のビリーを演じるデヴォンを演じるジャスティン・セロー、助監督のフレディ役のハリー・ディーン・スタントン、部屋で一人テレビを見ながら涙を流しているタイトルバックではLost Girlとなっているカロリーナ・グルシカ、以上五人だけでニッキーの夫は紹介されていない。
 英語のままのシナリオつまりスクリプトは最後にタイトルバックがそのまま載っている。タイトルバックのキャスト紹介は役の重要度でなく役者の登場順にずらずら並んでいるだけなので誰が誰なのかじつに特定しづらい。スクリプトではたとえばLost GirlはWOMANと書かれているだけだし、はじまってわりとすぐにニッキーの大きな家に訪ねてくる『ツイン・ピークス』で殺されたローラ・パーマーの母親を演じていた、『インランド』のこの訪問ではニッキーを気味悪がらせることだけを一方的にしゃべったグレース・ザブリスキーはタイトルバックではVisitor♯1だがスクリプトではREDHEADとなっている。
 私はニッキーの夫役の俳優が何という人なのか名前すら長いこと特定できなかった。ニッキーは、Nikki Graceなのだがグレースというのはニッキーの芸名か結婚前の名字であって夫はグレースではない。ウィキペディアを見てもそこのところがわからなかったのだが、英語のウィキペディアを見て、ニッキーがNikki Grace Kro´lであり、それなら夫はPiotrec Kro´lでありその俳優の名前はPeter J. Lucasであるということがわかった。英語のウィキペディアでもこのピーター・J・ルーカスという人は赤で表示されていて、つまりクリックして飛んでいくことができず、ピーター・J・ルーカスという人物に関する情報はそこで行き止まりだ。
 ウィキペディアでわからなくても英語のグーグルでPeter Lucasを検索するという手があった。検索するとPeter Lucasは一九六二年六月二日ポーランド生まれで、本名はPiotr Andrzejewski、身長一メートル九一センチ。エンジニア特に農業機械のエンジニアの修士号を持っていて、ポーランドで歌手として賞を取ったことがあり、一九八九年にアメリカに渡ってから役者の勉強をし、
 なんてこんなことを知っていったい何になる。わかっていることというのはこのようにすらすら書いていくことができるが、書いているそばから心に空虚さが募ってゆく。そういうことばかりを書いて何かのプロを名乗っている人はいっぱいいるが。
 大事なことは何故リンチは『マルホランド・ドライブ』でそれまで目立った役を与えられたことのないナオミ・ワッツを大抜擢したときのように、ピーター・ルーカスを『インランド』の宣伝・広報を通じて前面に押し出せなかったのか? ということだ。という風に考えの進路を修正するともっともらしくなるが、じつはこれも知っていることを書き連ねる寒々しさと五十歩百歩だ。映画や小説の題名から作者の意図を推察するのもまたこれと同じだ。そこには作者が作品をコントロールしている、作者が作品の正解≠知っているという大間違いがある。作者もまた作品を知悉しているわけではない。作品がはじめた運動に作者は必死についてゆく。
 何故リンチはニッキーの夫役のピーター・ルーカスを前面に出そうとしないのか? というこの疑問に対する答えを知っても意味はないが、この疑問を持って『インランド』を観るのはおもしろい。意味はないかもしれないがおもしろい。ニッキーの出演が決まったときに階段の上からそれを見る夫の目。夫の目ははぅきりニッキーの出演決定を喜んでいない。何故か? どういう心理によって喜ばないのか? それについて説明されないし、説明する必要もない。
 夫は後日、訪ねてきたジャスティン・セローの肩を、自分との身長差を存分に利用して抱いて威圧しながら「夫婦の絆は固い」うんぬんと、二人が不倫関係にならないよう警告したりするが、夫はニッキーの映画出演が決まったあの時点でジャスティン・セローの存在を知っていただろうか? 夫のあの目は、たんに妻が職業を持って社会に出てゆくことに対して表明された不快感だったのかもしれない。「そろそろ落ち目の女優と結婚して、家の中に置いておけると思ったのに、また映画に出るのか。」とでもいうような。
 夫の目の説明は何とでもこじつけられる。説明なんかどうでもよく、ただとにかく夫の目は妻のニッキーに対して不吉なものあるいはネガティブなものとして機能する。

 ここまでは前回書いた。私はここまで来るのにすでに六回使っている。ほとんどが『ロスト・ハイウェイ』と『マルホランド』で『インランド』については何も書いていないに等しい。私は前回、そろそろ『インランド』について書かなければまずいよなあ……とでも思って、ニッキーの夫についてこれから書くかのように書いたし、そのときには書こうと思ってもいた。しかし考えるほどに、それについて書くことが浅薄なんじゃないか。私は現在無期限中断にしているが「新潮」で「カフカ『城』ノート」という連載をたしか五回目までやり、『城』のおもしろさをあっちこっちの方向から書いて、まだあと五回分くらいは書くことは簡単だと思っているのだが、しかしカフカに対して根本的なところがそれでは欠けているのではないか。
 私はカフカに対して不条理とか深刻とか深遠という評価はいっさい書かず、これまで「カフカ『城』ノート」以外の他のエッセイでも、おもに場面のおもしろさと言葉と書かれる情景とのズレのようなことを書き、「とにかく深刻ぶらずにまずおもしろがって読む。」ということを強調してきた。私自身がそう読むようになる前のわからなかった頃についてはきちんと書いたことがない。そのわからなさというのはテーマの深遠さ・深刻さから来るものではない。日本ではたぶん長いこと「不条理」という言葉で逃げていたこと。ふつう小説で期待されることがカフカの小説では起きない、というようなことになるのか。ふつう小説で予期される事の順番がカフカの小説では入り乱れている、というようなことになるのか。
 私は『審判』は『城』ほど好きではなかった。読んだ回数だけなら『審判』だって五回くらいはすでに読んだ。五回というのはたった五回≠ナしかなく、このあいだから読み直していると、うれしくなってくるほどおもしろい。私はたしかにそのページに線を引いたりページの角を折ったりしてあるのだが、こんなにうれしくおもしろがった記憶はない。