◆◇◆小説をめぐって(2)—— 〈私〉の濃度◆◇◆

「新潮」2004年1月号掲載

小説の語りとはどうなっているのか。
あんまりにも漠然とした言い方で、自分でも歯がゆいのだが、そうとしか今は言えない。これは一人称か三人称か(場合によっては「あなたは今……している」というような二人称を使った呼びかけか)というような簡単なことではなく、主人公の人称をこえたというか、その基盤となっている、小説の書き方と世界との関係の作り方のようなもののことだ。
ひとくちに「一人称小説」と言っても、〈私〉が語るときの、語られる内容への〈私〉の関わり方は一様ではない。書かれる世界に及ぼす〈私〉の濃度のようなものとでも言えばいいのだろうか。たとえば———、

私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高いあし蘆がひょろひょろ生えていて、土手の上までのぞいている。向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。
片方の海の側には、話にきいたこともない大きな波が打っていて、崩れるときの地響きが、土手を底から震わしている。けれども、そんなに大きな波が、少しも土手の上まで上がってこない。私は波と蘆とのあいだを歩いて行った。
しばらく行くと土手の向うから、紫の袴をはいた顔色の悪い女が一人近づいて来た。そうして丁寧に私に向いてお辞儀をした。私は見たことのあるような顔だと思うけれども思い
出せない。私も黙ってお辞儀をした。するとその女が、しとやかな調子で、ご一緒にまいりましょうと言って、私と並んで歩き出した。女が今まで歩いてきた方へ戻って行くのだから、私はあや恠しく思った。ちょうど私を迎えにきたようなふうにものを言い、振舞う。しかしともかくもついて行った。女は私よりも二つか三つ年上らしい。(A)

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、へんぴ辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
成生岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学佼へ徒歩で通った。
父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんもしぐれ時雨が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。
五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野のただなか只中に、金屏風を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。(B)

いまは著書はどうでもいいことにして、引用した(A)と(B)では、書かれていることと〈私〉との関わりがかなり違っている。(A)は〈私〉が遭遇したことを書いていて、(B)は〈私〉の生い立ちないし成り立ちについて書いているのだから、違うに決まっているのだが、「一日に四五へんも渡る時雨」が「私の変りやすい心情」と結びつき、「若葉の山腹が西日を受けて」いるのをただ見ることができずに金閣を想像してしまう〈私〉の作品世界への関わりはいかにもうっとうしい。
(B)はもちろん三島由紀夫の『金閣寺』の冒頭部分だが、この小説から、〈私〉から離れた描写や記述を探すのは難しい。たとえば次の箇所。

十三世紀に吉野山の桜を移植したと云われる嵐山の花は、すでに悉く葉桜になっていた。花季がすぎると、花はこの土地では、死んだ美人の名のように呼ばれるにすぎなかった。
亀山公園にもっとも多いのは松だったので、ここには季節の色が動かなかった。大きな起伏のある広大な公園で、松はいずれも亭々と伸び、かなり高くまで葉をつけていず、こんな数しれない裸の幹が不規則に交叉していて、公園の眺めの遠近の感じを不安にしていた。
登るかとおもえば又くだ降る広い迂路が公園をめぐっており、あちこちに切株や灌木や小松があり、巨岩が白い岩肌を半ば土に埋めているあたりに、べに紅むらさき紫のさつき杜鵑花の夥しい花々が咲いていた。その色は曇った空の下で、悪意を帯びて見えた。

すぐに目につくのは、「公園の眺めの遠近の感じを不安にしていた」というところと、「その色は曇った空の下で、悪意を帯びて見えた」という二箇所だが、「死んだ美人の名」と「数しれない裸の幹」と「白い岩肌を半ば」が対応しているように見えなくもなかったりして、全体に抜けが悪い。視界の先に広がっているはずの風景が〈私〉の側にどんどんたぐりよせられて、嫌な色に染められていく感じがする。
三島由紀夫は垂れ流し的に自分を書く私小説作家と違って、たしかに技巧に富んだ書き方をした人なのだろうが、すべての技巧(技術)を自由自在に使える小説家というのは存在しない。使える技巧は小説家それぞれに限りがあり、その技巧の使える場所や技巧が向かう方向も限られている。だから三人称小説の『豊饒の海』でも、前述の亀山公園の風景をああいう風にした書き方は基本的に(驚くほど?)変わっていない。次の引用は『春の雪』冒頭部分で日露戦争の戦死者の弔祭の写真を説明する箇所だ。長くなるので中ほどだけにする(文庫で入手可能なので『金閣寺』同様、文庫の表記で引用する)。

前景には都合六本の、大そう丈の高い樹々が、それぞれのバランスを保ち、程のよい間隔を以てそびえ立っている。木の種類はわからないが、亭々として、梢の葉叢を悲壮に風になびかせている。
そして野のひろがりはかなたに微光を放ち、手前には荒れた草々がひれ伏している。
画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。
そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がってつづいている。

これは写真にうつった風景だが、ともかく風景を風景としてただニュートラルに描くことができず、「悲壮に」「ひれ伏している」など人間を書くのと同じ言葉が使われ、兵士たちもただ下を向いているのではなくある種の判断なり心情なりを含んだ「うなだれている」と書かれることになる。簡単に言ってしまえば「仰々しい」ということだが、こういう風に仰々しく書かれたものしか「文学的」と感じない人がたくさんいることはまちがいない。
しかし、とにかく私は三島由紀夫が好きではない。文章というのは特徴をいくら指摘してもわからない人にはわからないだろうし、私自身このように具体的に指摘できる箇所によって三島由紀夫の小説・文章が嫌いなわけではなくて、匂いとか肌ざわりのような漠然としたところでまず好きになれないのだが、三島由紀夫の文章を批判するためにこれを書いているわけではない。
わかってもらいたいのは、ここにある〈私〉と書かれるものとの関係、書かれるものに及ぼされている〈私〉の濃度のことだ。これは当然、三島由紀夫に個別の問題では全然ない。小説は、
往々にして〈私〉が感受したものとして世界が描かれていくものなのだ。そしてついさっき書いたばかりのことの繰り返しになるが、そういう風に書かれたものだけに文学性を感じる人
が、読者にも書き手にもいっぱいいる。

と、ここまで書いても文章の特徴というのはやっぱりどうしてもわかりにくいのではないかと思う。文字に書かれたものは、視覚や聴覚のような直接性とか具体性がなく、いきなり抽象性として与えられるからピンときにくいのだ。
いま(十二月)ちょうどNHK・BSで小津安二郎生誕百年の作品特集をやっている。小津の映画を見ながらだいたい同じことを考えたので、それを書いてみることにする。
誰でも知っている小津のカメラの特徴は、(1)ローアングル(2)ワンカットが短い(3)会話している人物を真正面から写す、だ。(1)は、いまは私には小説の〈私〉の濃度と結びつけられないが、(2)と(3)はかなり関係しているように思う。
誰かが歩き去っていったり、一人部屋に残されたときに、小津の画面はパッと切り替わる。つまり余韻を作り出さない。この“余韻”とは何のことか。余韻とは実体のある何かでなく、ただ何となくあるような気がする何かのことではないかと私は思う。人が歩き去って誰もいなくなった風景をほんの数秒撮ることで、見ている者は何となく何かを感じているような気分になる。つまりそこに心情が発生する。
しかしその心情には何も実体はない。しかし実体はないのだが、何かを感じているような気分は醸し出される。それが映画の何ヵ所かで演出されることによって、見ている者の気持ちはだんだん誘導されやすい状態になっていき、ラストあたりで雪崩を打つように感動させることができる。
そのプロセスが〈私〉の濃度が増すことと同じことになっているのではないか(もっとも、小説の方では私は「濃度が増す」という言い方はしていなくて、しだいに増えるものでは、なくて、最初からそれだけの濃度があるものとして考えているのだが)。普通に言うところの、「感情移入をする」というやつだが、小津映画ではそういう安易な感情移入、というよりも“心情化”ないし“人間化”を見ている者にさせないまま淡々と進んでいく。
そして、人が歩き去っていったその場所ではない別の場所が、ぱかっと挿入されたりする(これを(4)として追加しておくことにしよう)。
(3)の会話している人物を真正面から写すのも、機能としては同じ役割を果たしているだろう。
映画では「切り返し」と言って、会話しているA、B二人の人物を写すときには、ふつうAB二点を底辺とする二等辺三角形の頂点Cにカメラを置くことになっている。そうするとCがA←C、B←Cという自然な観客の視点になるのだが、架空の点Cを設定せずに、AとBをダイレクトに往復する視点では観客はカメラの視点と同化することができない。
正面から写したら観客はより直接に、その発話者と向き合っている気持ちになれるという解釈をすることもできなくはないだろうが、私はそういう“心情化”“人間化”の解釈をとらない。観客は映画では、登場人物と同化して感情移入するのではなくて、目撃者として感情移入するのだと思うからだ。
言葉の意味を確定しないまま書いているために、読者だけでなく書いている私本人としても紛らわしいのだが、“感情移入”という状態と“心情化”“人間化”という状態を私はいちおう区分して書いている(以下いちいち二つ並べるのは書くのにも読むのにも面倒なので“人間化”の方は略す)。“感情移入”は“心情化”の結果というようなつもりだ。作り手の行為として(なかば)意図的にできる領域が“心情化”であって、“感情移入”が起こる・起こらないは受け手の領域に属する。
もちろん“心情化”させる作り手は受け手の“感情移入”を計算したり期待したりするわけだが、それは空振りすることも珍しくない。逆に、作り手が“心情化”させていなくても、受け手の“感情移入”は起こりうる。
(1)〜(3)を書き並べているときに忘れていたが、たぶん(1)〜(3)より前に書き出すべき小津映画の特徴として、固定、つまり移動撮影をしないというのがあった。これはホラー映画のカメラと比べてみれば違いがはっきりとわかる。ホラー映画では、何も気がついていない人物に(たいていは後ろから)、手持ちの不安定に揺れるカメラが接近していく。“心情化”されていないところにホラーは生まれないからだ。あるいはホラーでないアンゲロプロスはゆらゆら揺れるカメラは使わないけれど、長回しによる移動撮影がつづくことによって見ている側は自然と感極まった気分にさせられている。タルコフスキーの長回しも同じ効果を持っているだろう。
そしてさっき(4)として追加した、ほとんど唐突に挿入される風景というのが出てくるのだが、小津が写す風景はアンゲロプロスやタルコフスキーが長回しの中で写す風景と違って、人物たちを取り巻いていない。風景の中で事が起こるのではなく、映画の中で展開する事と別に風景があるように見える。アンゲロプロスやタルコフスキーの映画では人物を追っていれば自然と風景を見ることになって、風景自体の意味をことさら考えなくていいというか、風景が作中の事や人物を補完する機能を果たすことになるのだが、それに対して小津映画では風景の意味を別に考えなければならない。
というか、小津映画で風景の意味を別に考える必要があるのだろうか。
映画の中で唐突に挿入される風景のカットに対して映画は何も言及していないのだから、見ている側はその風景に対して考える手掛りを何も与えられていない。考える手掛りを与えられていないものを観客が考える義務はないのではないか。
たぶん小津の唐突なカットの中で最も有名なのは『晩春』の、原節子と笠智衆が泊まる旅館の壺のカットだろうが(これは風景ではないが同じことだ)、あの壺のカットにしても、観客は意味を考えてはいけないのではないか。もちろんここで言う〈意味〉とは、映画の筋や人物の心情を補完する〈意味〉とか、「ちょうどこの壺のように……だった」と読まれる隠喩的な〈意味〉ということだが(まさか「ここがこの映画の“壺”」なんてことを思う人はいないだろう)、そうではなくて、観客はそれが映画の筋と別に存在しているその原理や姿なり、あるいは、ただそれが存在しているというそのことだけを見ればいいのではないか。
壺は、「悲壮に」立っているのでなく、「毅然と」立っているのでもなく、「淋しげに」立っているのでも、「迷いを断ち切るように」立っているのでもなく、壺としてそこにあるのだ(たぶん)。
しかし、「ただそこにある」とはどういうことか。文としてこう書くのは簡単だけれど、「ただそこにある」と、そういう風に理解することが人間にできるのだろうか。
映画の筋からも人物の心惰からも切り離されて、ぱっかりとどこか別の方に向かって開かれたものとして壺のカットは挿入された———と、こう書けば、(その理屈っぽさゆえに?)少し了解できた気持ちになるが、「ただそこにある」とはそういうことなんだろうか。

と、ここまで書いて翌日は一日外出して、帰ると夜にちょうどBSで『晩春』を放映した。もうビデオで十回くらい見たはずなので、あらたまって通しては見なかったのだが、原節子が父・笠智衆の縁談話を聞かされて怖い顔をして帰るシーンで、つづけて二度、移動撮影が使われていた。
移動撮影は初期にこそ、何回かはあったけれど戦後では『麦秋』の大和の風景を写すラストシーンでしか移動撮影がない、という話を人から聞いたことがあるが、移動撮影は『晩春』にもあったわけだ。娘・原節子の心情を強調するようにそれは使われている。
この移動撮影の指摘によって、私がここまで書いてきたことが、強められるのか弱められるのか、私自身でもわからないが、作品とはそういうものなのだ。つじつまの合うところや、意味や構造が明確なところを拾って論じていけば、作品はいくらでも明確に感じられて、理解しやすいようになるものだけれど、作品はそれだけで作品になっているわけではない。小津の移動撮影のように、受け手が禁じ手と想像しているものでも、作り手の側にはっきりとしたその意識があるとは限らない。
もし、『晩春』『麦秋』『東京物語』の三作品が小津の円熟期の代表作だとするなら、むしろ逆に、小津は「ここぞ」というときのために、移動撮影を温存しておいた、という考え方もできないわけではない。「円熟期」に傍点を打ったのは、ありがちな考え方だからで、私個人はカラーになってからの『秋刀魚の味』や『秋日和』のたらたらしたところのある作品の方が好きだ。特に『東京物語』は、笠智衆、東山千栄子の老夫婦がかわいそうで見るにしのびない。女優にしても、原節子より淡島千景や岡田茉莉子の方が好きなのだから、私は小津安二郎のいい観客ではないのかもしれない。
今回のこの文章の主旨にそってこだわるなら、小津安二郎が、里見_と広津和郎の小説の熱心な読者で原作にも使い、その二人とともにかそれ以上に志賀直哉を尊敬していた、ということにもまわり道する必要がある気がする。
といっても、この三人の本が雑然としている本棚からすぐ出てくるはずがないので、近所の図書館に行って、数年前に古本屋の店頭のワゴンで一冊百円で買ったのと同じ筑摩書房の「現代日本文學大系」をさっき借りてきたのだが、いまとなってはもう出版されることもないであろう、このような大掛かりな全集の奥付を見て驚いた。「志賀直哉」の巻が昭和四十三年発行の昭和五十五年で第十二刷、「里見_・久保田万太郎」の巻が昭和四十七年発行の昭和五十七年で第十一刷、「宇野浩二・廣津和郎」の巻が昭和四十六年発行の昭和五十七年で第十一刷、なのだ。
本当に昭和は遠くなったものだが、それはともかく小津安二郎が熱心に読んだ小説とはどんな小説だったのか。

この三人の書き方は、三島由紀夫ほどには“心情化”“人間化”されていない。特に里見_(一八八八年生)と広津和郎(一八九一年生)は息苦しさがなく軽みがあるようで抜けがいい感じがする。短いが、引用してみる。
まずは里見_の昭和三十三年(一九五八年)の『彼岸花』。これは小津の『彼岸花』の原作ということになっているが、映画と小説が同じ年の発表と上映で、原作に忠実でもなく、映画はあくまでも小津風にできているので、いまでいうメディア・ミックスのようなやり方で、小津側と里見側で大枠だけ話し合って、その後はそれぞれ勝手に作品化したのではないかと思う。そういう成立の事情はともかく、引用する。


鎌倉駅十三時半発、上り三等車のあけ放した窓際で、着た物を通してし滲み入るやうな秋口の日射にも、速度につれてみみたぼ耳朶を鳴らすほどの風当りにも、たばこ莨を三本喫ったのとそれが癖か、時をりくちもと唇辺をもぐもぐさせるのとを除けば、殆どみ身じろ動ぎひとつしずにゐる半白の紳士があつた。遠く近く移り行く外景に、睫毛があ接はんばかりの薄目を据ゑたきりにしてゐたが、この目、終戦までは、海軍中佐の軍服を着けての日ごとの通勤に、混み合つて立たされないかぎり、二等車の一隅で、乗るから降りるまで、必ず書籍の頁の上を、縦か横かに忙はしく動いてゐたもの、……さう言へばがらりとみなり身装も変つた。ワイシャツは洗ひたてだし、濃紺、三揃の背広にも、一目瞭然、着る前の念入りなブラッシュやプレスが思ひやられたけれど、褐のソフトからネクタイ、靴まで、人品に似合はしからぬ質素さだつた。

電車の三等はいまの普通車、二等はグリーン車のことだ。それはともかく、意外なほどニュートラルな、つまり最初にもどると〈私〉の濃度が薄い書き方をしていることに驚く。しかしこの書き方は次にちょろっと引用する大正十年(一九二一年)の『潮風』を見るとわかるのだが、樋口一葉や永井荷風の語り口と本質的に同じらしいのだ。

 まは周りごく短く、上だけ長目にした田舎臭い散髪の、少しくらゐはおしろい白粉を塗つてゐはしまいかと思はれるほど、柄にない色白の若者が、あらい格子縞のゆかたに角帯、白足袋の草履ばきで、大きくまた跨を割り、……

つまりどういうことかと言うと、作者は講談師のような語り手であって、作品世界の外から人物や出来事を説明している。この作者と作品世界の関係は近代小説のものではないために〈私〉性も生じない。これはたぶん文学史の常識に類することだろうから、ここで私がくだくだ説明するようなことではないだろう。
しかし作者と作品世界のこの関係は当然消えてなくなったわけではなく、現在もおもに三人称小説の書き方としては普通に使われている。作者が語り手となるそのイメージが、講談師からカメラ+ナレーションになったようなもので、そのために調子が抑えられ、「白粉を塗つてゐはしまいかと思はれるほど」というような評言も抑えられてはいるのだが、完全に無機的な書き方というのはありえないのだから、この関係における〈私〉の問題もやっぱりいずれは考えることになるだろう。
次に広津和郎の大正六年(一九一七年)の掌編『崖』で風景を書いてあるところを見てみる。

海岸の右端には小さな丘陵が小さな岬を作りながら海中に突き出てゐて、その丘陵の上に何とかいふ神社があつた。土地の者達はこの神社の附近——つまりその丘陵全体を神聖なものと見做してゐて、そこに生える草や木の花は、何人と雖ももこれを摘まなかつた。私は始終その丘陵に登つて行き、そこから海の景色を眺めた。
その小さな岬は師崎の港を形造る墻壁となつてゐるばかりでなく、また渥美湾と伊勢湾との丁度中間に位してゐた。左を向けば渥美湾に沿うた低い山々がかすかに見え、右を向けば又伊勢湾の彼方に高い山々が重なり合つて聳えてゐるのが見えた。私は丘陵の一番末端に立ち、よくこの海と山との広々とした大きな風光を眺めた。私は胸がからつと開けて来るのを感じた。私は腹の底から力いつぱい大きな声を出して、「おうツ」と長く引つぱつた叫びを揚げたりした。私は歓喜に似た感情を経験した。と同時に、自分の声の響きの中に、長い間いろいろな事のために胸の中にいつの間にか積み重なつてゐた憂欝が、一時に勃発したとでも云ふやうな、或重苦しさの爆裂を聞いた。

このあとに引用する志賀直哉も含めて、三人の中で最も現代的というか、このまま現代に書かれた文章として通用するような気がする。風景は〈私〉の色に染まらず、つまり心情化されず、ほぼカメラのように書かれている。
もっともそれで広津和郎の小説に風景がいろいろ書かれているかと言うとそんなことはなく、これは題名どおり崖の上に立っていたことが話題の中心だから珍しく風景が書かれているだけで、主たる作品として収録されている長篇『若き日』(大正七年)には、風景はほぼまったく書かれていない。が、書き方は基本的に『崖』と同じだ。いちおう冒頭だけ引用しておくことにする。

溜池から飯田橋行きの電車に乗ると車内に杉野が腰かけてゐた。
学校を出てからもう殆んど四年ほど顔を合はせた事がなかつたが、その四年の間に彼の様子は昔とまるで変つてゐた。薄鼠色の春のトンビを著て金縁眼鏡をかけ、白足袋に畳つきの下駄をは穿き、鼻下に八字髭を短く刈込み、顔なども昔から見るとずつと磨かれて綺麗になつてゐたが、それでもステッキの上にひぢ肱を乗り出すやうにし少しく身体をそ反らしながら、いかにも自己の存在を主張してゐるといつたやうに腰掛の上にどつかりと構へてゐる、かつかう恰好が意識的でぎこちなかつた。若く見られると患者から信用されないと思つて、一所懸命大人に見えようとあせつてゐる若い医者などによく見かける、あの容態振つた感じであつた。

「学校を出てかもう殆んど四年ほど顔を合はせた事がなかつた」という節に、主人公の〈私〉が省略されているわけだが、この書き方はほとんどこのまま三人称小説でも通用する。最初に書いたことに戻ると、〈私〉の濃度は、一人称小説であるか三人称小説であるかとは別の次元のことなのだ。
「いかにも自己の存在を〜意識的でぎこちなかつた」と、いう評言は、さっきの講談師的な語りからきているものだが、ここでは語り手のキャラクターが抑えられたナレーションになっているので、この部分を読んだだけで作者というフィルターを一度通ってこの文章が書かれている、つまり作者が作品世界を色づけしているという風に感じる作者はあまりいないだろう。この書き方よりも、『金閣寺』と同質のものを持っている『春の雪』の書き方の方が、作者が介在して文章が書かれているということを感じさせる。
一度や二度や三度や、何回か説明したぐらいでは私が言いたい「〈私〉の濃度」ということが理解されないと思うし、私自身の中でも確定した概念となりきっていないので繰り返し書くのだが、「作者が介在して文章が書かれる」というのは、あたり前で不可避のことだと誰も思うだろうが、じつはそんなことはない。これを「文章に作者の意識が明らかに反映する」という風に言い換えてみるとだいぶ理解されやすくなると思うのだが、作者は文章とそれによって生まれる作品世界に対していろいろな介入の仕方が可能なのだ。次の引用は同じ『若き日』の少し先に書かれている子供時代の杉野のことだ。

近所の子供をあつめてゴムまり鞠で野球の真似をやる時私と杉野とが餓鬼大将になつた。竹の棒でポンと鞠を打つては杉野は右足をびつこ引き引き一塁の方へ駈け出した。平生は殆んど目立たないが駈け出すと彼の片足の短いのが急に目立つた。後になつて彼と一緒に洗湯に行つた時彼の右の腰部に三角の尖つた骨が一本つき出てゐるのを私は見たことがある。その骨の鋭い尖端で皮膚が引つぱられるのでそこだけ多少青味を帯びた灰白色を呈し、糸みみずのやうな細かい血管の網目がその灰白色の皮膚の下に紫色に気味悪く透けて見えた。
小さい時分に何かにはさ挟まれてそんなになつたのだといふ事を彼から一度説明されたことがあつたが、何に挟まれたのであつたか今は私は忘れてしまつた。それは兎に角洗湯に行く時彼は手拭を二枚持つて行つて、一枚を腰のまはりに巻いてその醜い不具の個所を隠さうと努めてゐた。———思ひ出して見ると、その時分からさういつた不幸な神経を何かにつけてよく彼は見せてゐた。それが子供時分から妙に私に暗い、顔をそむけたいやうな気の毒な感じを起させたが、併しその神経の現れ方の調子によつては同情などしてゐられず、不快を感ぜずにゐられなくなるやうにさせられることもあるのであつた。

かなりはっきりした身体的特徴というか欠陥だが、ずいぶんあっさり書かれている。三島由紀夫だったらもっとずっと大仰に、ないしえげつなく書いただろう。作家のような目で見ていないと言ってもいいかもしれない。これが仮りに若手作家の書いたものだとして、大仰なことが文学だと思っている文学信奉の編集者が読んだら、
「君、こんなことしか感じなかったのか? 気の毒だとか、たまに不快を感じたとかじゃなくて、もっと激しい嫌悪感なり何なりを感じたはずじゃあなかったのか?」
とでも言いそうだ。
生誕百年であちこちで小津を賛美している一方で、小津が嫌った大仰さが相変わらず求められている。
それはともかく、小津安二郎が好きで読んだ小説の感じが少しわかってきた。もっとも小津安二郎についての話題自体が本筋から外れていたというかこのエッセイの補足的なことだったのだが、里見_や広津和郎の文章を実際に引用して読んでみると、本筋に戻っているようでもあることだし、このままつづけていくことにする。
『晩春』の壺を、映画の筋や人物の心理を補完するものでなく、「ただそこにある」という風に考えることにすると書いた方の話に戻ると、小津の映画ほど、ほんの数秒(ないし一、二秒)映される風景を見て、「ああ、こういう風景が本当にあったんだなあ」と強く感じられる映画はないような気がする。
昭和五年(一九三〇年)に撮られたサイレントの『朗かに歩め』を見ていたら、道端を犬が歩いていったのだが、それにも「ああ、この犬も本当に生きてたんだなあ」と、映画の筋に関係のないところで私は感慨にふけってしまう。昭和十一年(一九三六年)の『一人息子』の冒頭で、信州の風景が映ると「こんな風景はもうどこにもないんだなあ」と思い、劇中の人物である飯田蝶子にさえも「こういう人が昔はいたんだよなあ」と思う。飯田蝶子が演じている「母」は演じられた母だけれど、そういう母(というか女性)が本当にいたから飯田蝶子演じる母が『一人息子』という映画の中に存在しえた。『晩春』の壺もそういう、フィクションによってはじめて私たちが知ることができる、フィクションを成立させる力としての現実なのではないだろうか。

話を小津が熱心に読んだ小説家の話に戻すと、志賀直哉は一八八三年(明治十六年)生まれで、里見_(一八八八年生)広津和郎(一八九一年生)より年長だ。この辺のことは私はまったくわからないから筑摩書房の全集の年譜を見て知るしかないのだが、「白樺」を創刊したのが一九一〇年(明治四十三年)で武者小路実篤、有島武郎、柳宗悦らが創立メンバーだが、里見_もその一員で……と調べていくと、里見_は、有島武郎の弟なのだった。私の妻はこういうことを一般常識として持っているから、いつも「そんなことも知らなかったの?!」と、バカにされることになる。近代国家の初期は社会のサイズが小さいから、あちこちで兄弟だったり縁戚関係だった同級生だったりする。
広津和郎が志賀直哉とはじめて会うのは一九二一年のことで、年譜を見ても「白樺」に何かを発表したというのが見あたらないが、一九一九年に「新潮」に「志賀直哉論」を発表している。そういうわけで三人のつき合いは浅からぬものなのだろうが、それよりも広津和郎が一九一〇年早大英文科一年のときにチェーホフの「二つの悲劇」の翻訳を発表しているのを見て、私は「なるほど」と思う。広津は卒論も「チェーホフとアルツィバーセフ」だし(その人は知らないが)、『接吻外八篇』や『六号室外八篇』という翻訳も出版している。
現代的だと思えばやっぱりチェーホフだったのか、というのが私のいまの思いだが、それより何より志賀直哉の一八八三年生まれというのはカフカと同じなのだ。ついでにいうとジョイスとヴァージニア・ウルフが同い年で一歳上の一八八二年生まれで、『特性のない男』のムージルが一八八○年生まれだから、二十世紀後半の文学は一八八〇〜八三年に集中して生まれた四人の小説家をこえられなかったというか、この四人が現代小説としての小説の頂点を極めてしまったために、それ以降の小説家はいよいよ八方塞がりのところで書かざるをえなくなったことになる。
それで志賀直哉はどうか。私が中学生だった七〇年代前半には志賀直哉は横綱審議会の委員として、土俵のすぐそばにすわって、テレビに映っていた。中学の国語の教師が、
「やせて背が高い爺さんが映るだろ?あれが志賀直哉だ」
と生徒に教えたのだが、当時の文字どおりの国技(少し大げさか?)だった相撲の横綱審議委員をしていたというだけで、その社会的地位の高さがわかるというものだ。里見_と有島武郎の関係も知らない小説家が書くことだから怪しげなところもいろいろあるが、私より若くてもっと知らない人のために書くなら、作家の評価というのはものすごく浮き沈みが激しい。読者数はともかく、七〇年代前半までは漱石と森_外では_外の方がやや上、悪くても互角だった。谷崎、川端、三島という、売れていて同時に評価もあった作家たちと比較して志賀直哉が文壇や一般でどれだけ大きな位置を占めていたか私にはわからないが、大変なものだったらしい。「大変なものだった」では漫才のボケみたいなものだが、志賀直哉とその周辺の流れがごっそり空白になっているのが今だ。小島信夫さんと話していると、現代の小説のことをしゃべっているうちに比較か連想で大正から昭和二十年代ぐらいまでの作家の名前がよく出てくるのだが、そこでも志賀直哉の名前は聞いた記憶がない。小島信夫さんがよく話題にするのは漱石と横光利一で、横光利一も忘れられつつある大作家の一人だ。
それで志賀直哉の小説なのだが、文章としてはやっぱり一つの完成形であるように思える。引用するのは大正十年(一九二一年)の一月から八月まで「改造」に発表された『暗夜行路』の前篇だ。年譜によると『暗夜行路』はその後、後篇が翌年から昭和十二年(一九三七年)まで、と長期にわたるが、前篇は二、三年のうちに書かれていると考えてよさそうだ。しかし前篇は新潮文庫にしてたった、二四三ページしかないのだから、掲載期間と同じ期間で書いたとも考えられる。
引用部は前篇の中ほどにあたる。つまり一九二〇年頃に書かれたということで、その頃一九二四年に死ぬカフカは生きていて(『審判』か『城』を書いていただろう)、ジョイスは
一九二二年に出版する『ユリシーズ』を書いていて、ウルフは二つ目の長篇『夜と昼』を一九一九年に発表して、『ダロウェイ夫人』の前の、作風が決まったと言われている『ジェイコブの部屋』(一九二二年発表)を書いていた頃だろう。『特性のない男』は一九〇五年からすでに書きはじめられている(らしい)。二十世紀だなあ……と思う。書き忘れていたが、音楽でもバルトークが一八八一年生まれで、ストラヴィンスキーが一八八二年生まれなのだ。
話を戻して、引用する。謙作が心理的に煮つまって、それを打開するために尾道へ行く、その途中の神戸までの船に乗って港を出たところだ。文庫で入手可能だから、三島同様、文庫から引用する。

彼は又甲板へ出て行った。おもい案のほか外、船は進んでいて、もう人々の顔は分らなかった。然し群集を離れて、左の方に二人立っている、それがそうらしかった。つぼめた日傘を斜にかざしているのはお栄に違いなかった。彼は手を挙げて見た。直ぐむこう彼方でも応じた。宮本が大業に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。顔が見えないと謙作も気軽な気持でハンケチが振れた。そして船がせきてい石堤の間へかかる頃には二人の姿も全く見えなくなった。薄い霧だかけむり烟だか港一杯に拡がっていて、船が進むにつれ、おか陸の方は段々ぼんやりと霞んで行った。そして一寸わきみ傍見をしても今出て来た岸壁を彼は見失った。艦尾にミノタワと書いた英国の軍艦がえんとつ烟突からわずか僅ばかりの烟をたてながら海底に根を張っているかのようにどっしりと海面に置かれてあった。其そば側を通る頃はもう、岸壁に添うてたちなら建並んだ、大きな赤煉瓦の建物さえ見えなくなった。
彼は今は一人船尾の手すりにもたれながら、推進機にかき廻され、押しやられる水をぼんやり眺めていた。それが冴えて非常に美しい色に見えた。そして彼はさつき先刻自分達の通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮べていた。

情景と謙作の行為が自然に融合して描かれていて、もちろん(?)三島由紀夫のような大仰さはない。このまま映像に置き換えられそうな文章でもある。一行目にある「案の外」という判断なり感想なりが映像にはないかといったらそんなことはなくて、一度船内にひっこんだあともう一度デッキに上がって陸を映したときの距離の遠さで、映像でも「へえ、もうこんなに離れたんだぁ」と観客もたいていは思うだろう。そういう使い方での「案の外」だ。「薄い霧だか烟だか」という一人称小説のような断定しない言い方も映像を見てそのまま感じるだろう。
しかしこの「一人称小説のような」というのはこの小説の大きな特徴で、「彼」「謙作」という箇所を「私」に置き換えても、だいたい違和感なく読めるようにできている。小説に書かれる風景は謙作が見たものだけで、謙作に見えないものはいっさい置かれない。他の人物の心情も、謙作が推し測るだけで、作者も謙作と同じことしか知らない。
三人称の主人公の箇所を「私」に置き換えてもそのまま違和感なく読めてしまうというのはカフカの特徴とされていて、『城』でも『審判』でも、K、ヨーゼフ・Kはそのまま「私」に置き換え可能なのだが、近年出版されたカフカ自身の手稿によると、『城』は冒頭部だけがKで、すぐに「私」になっているという話だ。
「一人称小説」「三人称小説」という、形の上での分類がほとんど意味を持たないということがこういう実例によってわかってくる、というか、〈私〉の濃度の問題は、人称とは別のところにあるということがここからも予想されるだろう。
「私」に置き換え可能という点では、『暗夜行路』は『城』と同質だが、他の点では似ていない。
私はいまここで、風景の書かれている箇所を引用したが、ここに至るまで風景描写らしきものはいっさいない(カフカも風景描写は少ないが——、人称のことから離れるのでもうカフカのことは忘れてください)。
そしてひじょうに特徴的だと思うのは、ここを読んでいて、風景を読んでいるように感じないことだ。ここだけをこうして抜き出せば「風景が書いてある」と感じるしかないが、小説の流れの中で読んでいると、風景を読んだという気持ちにならない。これから先、何ヵ所も風景がはさまれるから少しずつ「風景も書いてある」という気持ちになるのだが、一度目や二度目ではそういう注意が働かない。
これはどういうことなのか。私はさっき「このまま映像に置き換えられそうな文章でもある」といったけれど、大事なことはそういうことではなく、私たち自身がふつう、「文章を読むように映画を見ている」ということを示唆しているのではないだろうか。あるいは、私たちがふつうに想像する映画というのは、文章を読むような注意の働かせ方で理解可能な映画のことである、ともいえるのではないか。
ここでもまた小津映画の、壺や風景の挿入され方を思い出すが、小津について書くのがこのエッセイの主旨ではない。今回は、尻切れトンボのようだが、ここでやめておく。中上健次の風景と人物との関係や、それと全然異質の風景の書き方をしている若い小説家の小説にふれつつ、〈私〉の濃度を考えるつもりだったが、それは次回に繰り越しになった。結論を求めて書いているわけではないので、これからも毎回このような尻切れトンボになるだろう。小説を書くことに結論なんかないのだから。
ひとつ小津でつけ加えておくと、戦後の作品で原作がクレジットされているのは、『彼岸花』の他に二つあって、同じ里見_の『秋日和』と、広津和郎『父と娘』を原作とする『晩春』だ。
しかしこれが何ともおかしくて、一方で、『秋日和』は『晩春』のリメークとされている。『晩春』の父の縁談を母の縁談に置き換えたのが『秋日和』で、構造としてはたしかにそのとおりだ。しかし同時に『晩春』と『秋日和』はそれぞれ別の原作を持ち、『秋日和』を見ているときの気分は『彼岸花』とほとんど区別がつかない。だからどうだと言いたいのでなく、私はおもしろいと思う。
ついに置いただけで触れることができなかったが、はじめに引用した(A)は、現代表記に換えてあるが内田百_の『花火』(『冥途』所収)の冒頭部分だ。


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