◆◇◆試行錯誤に漂う 3◆◇◆   
「みすず」2012年6月号
果てもなくつづく言葉の流れ

書くことにおいてカフカがどういう人間だったかということは、フェリーツェに書いた手紙とミレナに書いた手紙を見るとわかる。朝までかかって書いた、というよりも「書いているうちに朝になった」あるいはもっと簡単に「朝まで書いた」手紙を投函し、それが相手に届く前に、というより次の朝までに次の手紙を書く。
 電話をしていて朝になってしまったとしたら「朝までかかって電話した」とは言わずに、「朝まで電話した」と言うように、カフカは朝まで手紙を書き、その手紙は投函される、投函されなければ相手のフェリーツェやミレナには届くはずがないのだから手紙は投函された、だからカフカはその手紙が相手に読まれ、相手の心に何らかの働きかけをし、相手から何らかの応答があることを求めていないわけではないが、応答など待たずに次の手紙を次の夜になれば書く。場合によっては役所での勤務中に書く。
 カフカの中にはものすごく強い力が渦巻き、カフカは社会生活においては基本的に物静かで、穏やかで、分別があり、礼儀正しい人間として記憶されている、だから日本で言う「無頼派」とかヨーロッパでもそれにあたる生活破綻者である作家はたくさんいるがそれにはまったく属さないが、その内側での力の渦巻きぶりはものすごく、あばれ馬にしがみついている乗り手か荒れる波に翻弄される小舟のようだ。
 そのあり方それ自体が主体の位置、主体の主体性をぐっと低いものとさせた二十世紀の主体像そものだが、そういうことよりもそのあばれ馬のような荒れ騒ぐ波のような内側の力に従ったカフカがすごい。といってもそのような力が猛威を揮ったら従うしかないが、そういう状態に身を任せた一夜のあとに、役所に出勤したのもまた一方の事実なのだから、従うしかない、その力の前では主体の主体性つまり内側の衝動に対する主体の優位性など何ほどのものか! と言いつつも、昼の時間には役所でカフカは内側のその力を制御できていたのだから夜にまったくできなかったわけではないだろう、というのは私はまだ好きな相手に手紙を書いた世代に属するから、好きな相手に手紙を書くという行為を知っているから、そのように果てもなく湧き起こってくる手紙を実際にその衝動に任せて書いたとしても、書いた手紙をすべて投函した常軌を逸したその勇気、としか私には言いようがないものに私は感服する。
 愛すること、誰かを好きになることは、その人のことが一日中頭から離れないことで、私は一日中その人といる。見るもの聞くもののすべてが愛するその人と共有する出来事、というほど大げさでなく幸福な事象だから、私はすべてをその人に語りかける。ということは、語りかけるならばその人は私と一緒にいないということだが、愛する人と一緒なら二人で同じものを見ていても私はいま隣りにいるその人に語りかける。語りかけることによって私の心はある満足を得るが、私は同時にその人がいま私のすぐそばにいないことを確認してもいる。だから愛する人がいる状態というのはその人がそばにいないことを片時も忘れることができない辛い状態だが、つねに私はその人に語りかける、私の中から果てもなくその人に語りかける言葉が生まれてくる、そのきっかけである見るもの聞くものがすべてその人と語りたいほど生き生きしているのだからそれはやはり幸福な状態だ。
 だいたい、幸福と不幸は言葉という秩序の中で反対語であっても、現実にあるその状態は幸福だとか不幸だとか明確に区別しうるものでなく、自分がいまいる状態のある側面だけを切り取って評価すると、それに適しい言葉が「幸福」か「不幸」かになるとしたら、それは評価する側の主観にかかわるものでしかないのではないか。こう書く私はもちろん一回目に〈永遠〉と〈一瞬〉が反対でなく対の概念だと書いたことを思い出しているが、〈永遠〉と〈一瞬〉に話を持ってきたくてここまで書いてきたわけではない。
 愛する人がいるときの、充満と不在が同時にある状態、これをカフカは利用した、というのはあまりに矮小化した言い方だが、私もまた、私にはカフカのように愛する人に向けてすべての言葉を書き連ねる勇気と努力がなかったし、書いたとしてもそれを投函する勇気はなかったが、私もまた愛する人がいるときの充満して不在する状態を知っている者として考えると、書くとはまさにこの状態によって起こることなのではないか。果てもなくつづく流れがあって、それが一時的に紙に書かれて、小説になったり手紙になったりする。
 枠組みや形が先にあるのではない。それらを目指して作られたり成ったりするのではない。「水は方円の器にしたがう」という老子の言葉をここに持ってくるのは安易だが、考えの通過点としてまったく無意味でもない。ある時代を境いに、小説を書く者にとっても読む者にとっても不幸は、小説という形があまりにありすぎることなのではないか。書く者たちは、ただ書きたいのでなく、「小説を書きたい」と思ってしまう。読む者たちは小説としての構成を考えたり意味を考えたりすることが小説を読むことであって、書かれつつある時間の中に身を任せることなど想像もつかない。小説が運動を欠いた固定したものとなる。
 そんなことは読む側の勝手だ――という、読む側に立った反論は一見、理があるように思えるかもしれないが、これに理はない。
 いや、そんなことより、私はたんに、書き手としての率直、素朴な考えとして、小説を書かれつつある時間の中に身を任せずに読むのは、小説のおもしろさの何分の一しかわからない読み方である、と言えばいいのかもしれない。私はなぜ、わかろうという気のない人に自分の考えを伝える必要があるのか。私はただ自分の考えを進めればいいのではないか。それとも、この「わかろうという気のない人」もまた一種の愛する人であり、当面愛する人のいない私は次善の策として、この「わかろうという気のない人」に熱心に語りかけているのか。
 わかろうという気のない人を説得しようというのは、私の考えの中で私の意志とかかわりなく勝手に動き出す回路であり、私はこれはうっとうしい。この回路が動き出すと私の考えは間違いなく少し後退する。だから私はこの回路が動き出したと感じたら、中断して、考えもまた中断するようなことを何かはじめて、この回路とつき合わない癖を半ば強引に身につけるべきなのかもしれない。性格の何割かは日頃の鍛錬によってつくられる(というのは本当か)。私はこの、わかろうという気のない人の説得にはいつも手を焼き、イライラし、上手くいかないことが少なくない。というより、それがわりとふつうで、結局私は説得を諦める。それでも語りつづけるのは何故なのか。
 神の真理のように、私の考えがあまねくこの世界に行き渡ることを私は夢見ているのか。あるいは逆に、私は自分の考えが行き渡らないことを承知で、むしろ行き渡らないことを願いつつ語って、自分の考えの独自性を確認して喜びたいのか。このどちらも間違っている。私の中にいる「わかろうという気のない人」は、昨日まで、比喩的な意味での昨日までの私であって、この人を説得する手間が後退することであるということは、今日の私は昨日の私より前へ進んだ、というそれを私は確認しようとしている……しかし、これも違う。
 ひとつ、ありそうなのは、最も単純な書くことの持続、考えることの持続なのではないか。「わかろうという気のない(私の心にいる)人」に向かって書き、しゃべっているあいだ、私の言葉は途切れない。これもまたしかし、フロイトが言った「夢は眠りの番人である」、人は夢を見ているあいだ眠りを引き延ばすことができるという考えに近いが、夢は眠りを夢ゆえに中絶させもする。
 小説家の言い分がどうであれ、読者は勝手に読めばいい――という考えに理がないのは、そうは言いながら読者は、小説が何を言わんとしているのか、作者が何を言わんとしているのか、題名にはどういう意味があるのか、等々を考えない人はいないからで、それを考えておいてあっちに耳を貸さない、というのはおかしい。が、それもまた仕方ない。小説という形などないものとして書いた小説家など、カフカと小島信夫くらいしかいないからだ。となると、私の言っていることこそ理のないことになるだろうか。私の小説観があまりに特殊であるということになるだろうか。
 ある客観性を想定した考え方ではそういうことになるだろうが、カフカを読んで別次元といってもいい運動を感じたり、小島信夫の小説を読んでアナーキーと感じたりするなら、それがどれだけ少数であっても、特殊ということにはならない。
 カフカは自分の書いた原稿やノートの類をすべて燃やしてくれと、自分の小説をよく理解してくれている友人のマックス・ブロートに頼んだ。もちろんブロートはそれを実行しなかったから私はカフカの書いたものを読めるわけだし、小島信夫もまたカフカを読んだことがあのようなアナーキーな瞬間が訪れる小説を書くことができたはずだ。しかしそんなことは今は関係ないし、いつまでも関係ないことはきっといずれ私自身がわかるはずだ。カフカがブロートにそう言った真意を人はあれこれと忖度し、たいていは、本心ではなかったとか、一時的な気紛れのようなものだったと解釈する。
 しかし、カフカが何よりも、ミレナやフェリーツェにあれだけの量の手紙を毎晩毎晩書いた、そのカフカの内側の衝動を考えればわかる。カフカは本心から「燃やしてくれ」と言った。ブロートはむしろ、「いや、やっぱり、燃やすのは……」という、ためらいの方こそ一時的に訪れる気紛れであった、その気紛れと、ブロートが信じたカフカの書いたものの文学的価値を口実にして、カフカの頼みを裏切った。カフカにとって「燃やしてくれ」という願いこそが本心であり、それに対するためらいの様子を見せることがあったとしたら、そっちの方こそが気紛れだった。
 カフカが書いた原稿はミレナやフェリーツェに書いた手紙と同等のものなのだから、手紙と同じように一度相手の目にふれさえすれば、もう消滅する。小説だって書き上げてブロートならブロートひとりの目にふれたり、何人かの前で朗読されればそれでじゅうぶんだ。即興演奏と同じことだ。カフカの内側には大きな衝動があり、それがある晩にはミレナ宛ての手紙となり、ある晩には『判決』となり、ある晩には『城』と呼ばれる小説の一部分となり、数知れない断片となった。実際カフカは自分自身で原稿や日記を燃やしてもいる。
 このことを繰り返し考え、イメージし、自分の中に確固としたものとするべきだ。小説とか、作品とか、形ある何かに囚われるべきではない。私は雑に“衝動”と言ったそれは“力の流れ”であり、“思考の搏動”か“生の搏動”であり、“光”であり“植物”であるかもしれない。カフカの文章にふれることによって、人はそれまでと違った回路を開くようになって、言葉や文章との関係がまったく違ったものになる。人は自分の中に果てもない言葉の流れや搏動があることを知る。
 だからみんながいっせいに語り出す。語り出すとは歌い出すことでもあり、演奏をはじめることでもあり、踊り出すことでもあり、絵を描き出すことでもあり、粘土をこね出すことでもある。私は評伝という形式の本でおもしろいと思ったことがなく、その理由は書き手が残された証拠にこだわること、そういうものを根拠と信じて疑わないこと、その結果、評伝の対象となった人物が書き手のサイズに押し込まれることだと、以前別の場所で書いた。それと結局は同じことだが、評伝として形あるものにすれば評伝の対象者が歴史の中に残ると安易に考えていること、歴史の中に残っても時間の中では残るものなどないということを考えもしないこと、残そうとすること、形をあらしめようとすることの中には運動がまったくないこと、評伝の書き手がまず何より書くということが運動であることを考えもしていない。