◆◇◆試行錯誤に漂う 4◆◇◆   
「みすず」2012年7月号
書き手の時間・揺れ

 中学・高校の十代の騒がしさの中に今の自分がいるという思い。今の自分の中にあの騒がしさが持続しているのか、今の自分がまさにあの騒がしさの中にいるのか、時間の前後関係あるいは関係の主‐従はどうでもいい。
 男子校はエネルギーが充満し、休み時間になると体の大きい四、五人が突然、体の小さい一人を押さえつけ、暴れる手足を掴んで持ち上げ、体を丸ごと三階の窓から出す。出された体はせいぜい三人の手だけで支えられて宙に出る。支えてる方も不自然な姿勢だから落とさないように必死だ。次の日にはそれが特高ごっことなり、押さえられたヤツの指の股にエンピツがはさまれ、ぐりぐり拷問される。
 しかし騒がしいのはそういう誰が何をしたということでなく、教室全体が休み時間になるとざわざわがやがやして、教師が入ってくるまでつづき、教師が入ってきてもがやがやざわざわの余韻はしばらくつづく。
 こんな風に書けば不思議なことのようにも思えるが、高校生は荒っぽい遊びをしつつも倦怠もしていた。小学生の頃のように廊下を走ったりすることはめったにない。走ったとしたらそのときは楽しい。放課後には裏の山にのぼり、二人か三人でいつまでもしゃべる。部活はとっくにやめた。ある日は野球をしたりサッカーをしたりする。本はたまに誰か一人が読み、それがおもしろかったら友達にしゃべる。一人はあるとき突然『人生劇場』新潮文庫、全十巻を読み出した。
 ここにいわゆる“文学”はない。まあふつうに健全でテキトーな高校生は文学を必要としていないが、文学かどうかは保留されるとしても言葉や文章はここから生まれてくるそれが一番自然だ。文学から文学は生まれない。昔の人たちは蛆は腐った食べ物や死体から自然に発生するものだと思っていたという意味で、文学は文学からでなくこういう騒がしさから自然に生まれる。
 今日久しぶりに見た川島雄三『わが町』は大阪の貧乏長屋とそれがある町が舞台だ。長屋の中も町も、画面は物があふれている。貧乏長屋にはさまれた狭い路地はリヤカー一台しか通れない。路地の両側から廂が人の頭に当たりそうに低く出ている。長屋の板の引き戸や板壁が両側に何枚も何枚も並んでつづいていく。細い角材の柱も何本も立っている。長屋の壁のつっかえ棒なのか路地の上に横に棒が通っている。表面がぼこぼこの石畳もある。路地の先は入口の門なのだろうが瓦屋根が二段になっている。門らしきものの両脇は二階建てでこれまた瓦屋根がうっとうしい。という物、物、物の騒がしさに目が奪われる。と思っていたら、今度はテレビで井上有一の書が映り、それは「貧」や「花」などの一字書でない、紙いっぱいに字が書かれた書で、私は同じ力の違ったあらわれではないかと思った。『噫横川国民学校』までの強烈さはないが、紙いっぱいに字が埋め尽くすそれはそれだけで目を奪われる。

 小説をたちまち解釈する人がいる。そういう人はけっこう多く、明晰だとか頭がいいとか思われているが、そんなことはない。小説が解釈されて、その解釈で足りるなら、小説はその言葉の連なりである必要はなく、解釈されたその言葉でいい。
 小説を解釈すること・小説を理解することは、私にはとても防衛的な態度に見える。こういうときに私は決まって小島信夫の小説を思い浮かべているのだが、小島信夫の小説は読んでいると予想もつかないどこかに連れていかれる感じがする。「持ってかれる」という言い方ならもっといい。小島信夫は今ここで何を言おうとしているのか、そんなことはろくにわからない、わからないがとにかくなんだかおもしろいから読むしかない、自分がなんでこんなことを読んでいるのかわからなくなっている、そんなことはふつう小説を読んでいて経験しない。
 ところがその小説をある評論家は三十枚ほどの評論にていよくまとめた。ていよくまとめたと思っているのは評論家本人だけで、その評論はまとめにも何もなっていない。小説のはじまって五分の一くらいのところにある二段落か三段落くらいを取り上げて、あたかもそこに書かれた場面がこの小説の象徴的シーンであり、この小説のすべてはこの場面から生まれたと言いたげであり、それがこの小説のテーマであるかのように書く、その書き方が、いちおうは評論家だから、小説を読んでいない人には評論になっているような書き方になっている。つまり(「つまり」でも何でもないが、まあ、つまり)彼はせっかく小島信夫のそれを読んだのに全然持ってかれてない。そのような防衛的態度をとって持ってかれる共振を拒んだ。
 読むとはどういうことか。読むとは読むのにかかった時間のあいだに、読者であった自分が進んだりどこかにズレたりすることで、その時間の響きが読んだ人に起こらなかったら読んだことにならない。
 と、考えると、小説を書いた方も当然、その小説を書くのに要した時間の分だけ、前に進んだりどこかにズレたりしたはずだ。かりに小説が三〇〇ページあるとして、一ページ目と三〇〇ページ目では作者は文章が上手くなったかもしれない。
 しかし一般にはそうは考えられていない。作者はいま書いている小説の外にいるという了解がきっと広く行き渡っている。作者はいま書いている小説の外にいるということは作者はいま書いている小説に影響されない。その小説の執筆に一年かかったとして、その情報は当然のことと受け入れるとしても、その一年で作者が成長したり変化したりすることはイメージされない。しかし作者は自分がいま書いている小説に影響される。その小説と最も深くつき合っているのは作者なのだから、作者こそが最も強くいま書いている小説の影響を被る。そうでないはずがないのだが、これはものすごく複雑な作業となる。
 作者はいま書いている小説の外にいて、小説の影響を受けていないように振る舞う方がずっと易しい。ここで”超越”という立場が生まれる。と考えると、”超越”というのは書くことに内在する機能なのではないか。物語は書く以前からある。これを考えに入れると私の論旨がこの先、破綻とまではいかなくてもガタガタになるのは明らかだが、そんなことはかまわない。結局、投げ出す袋小路に陥るただの思いつきでも、休まず書くことに何か意味がある。袋小路にはまったとしても、袋小路にはまる行程それ自体が書くことだ。
 口承による物語を書く物語のひな型としたために、作者が口承による物語が過去形である、過去の出来事の報告である体裁をとった、それゆえ語り手であったものが書き手となった作者もまた物語の影響を受けないことになった。――しかし、それでは『源氏物語』はどうなんだろう。私はあいにく『源氏物語』を読んでない。最近も読み出したら「雨夜の品定め」と呼ばれる第二帖「帚木」で挫折した。男が集まって、自分が経験した女たちの話を得意気にするというそれが私は下品で我慢ならない。エロとかスケベとかはいろいろな欲望の形態があるが、裸を見るとか挿入するとかの即物的な次元以外は私には下品で汚ならしい。経験を語ること、セックスにまつわるあれやこれやを遠回しに語ること、仄めかすこと、それらは私にはすべて女を囲っていた旦那衆の趣味としか感じられない。私の性的なものとの関わり方は経験していない中学高校生の域を一歩も出ないだろうが、私はそれしか清潔ではない。
 ではなぜ、性が不潔であってはいけないのか。なぜ、性は清潔でなければならないのか。そんなことは自分ではわからない。ただ、自作についてのインタビューでルイス・ブニュエルが、ある場面で少女が全裸でなく服を身につけていた理由を訊かれて、
「私はエロスを撮りたかったんだ。全裸だったらそれは美だ。」
 と答えたのが忘れられない。私はこのときブニュエルに近しさを感じたのだが、いま思うとこれは完全に私の思い違いらしい。このブニュエルの答えさえも私はたんに「裸」という言葉にしか反応していないではないか。
 どうも私は、ある文化を共有することができないらしい。と考えると、自分が『源氏物語』を読まない説明になるかもしれない。私の友人は『源氏物語』のある場面を指して、文化の洗練の極致だ、その後の日本文学はどれひとつとしてあの場面の強度に達していない、と言った。私にとって文学はそういうものではない。
 書くことそれ自体に“超越”がある。書くことすべてに“超越”があるのでなく、ある種の書き方には“超越”が内在している。平たく言うと、といってもそれは一面だが、いわゆる“上から目線”になる。日記、と簡単に分けられるものではないが、自分のあり方を問うような書き方は上から目線にはならない(なる場合もある)が、その書き方は書いている自分が巻き込まれていってドツボにはまる。だからそれに陥らないために、またここで“超越”が必要になる。書く対象と書き手である自分との距離が必要になる。
 多くの人はこんな話を聞きたくないだろう。多くの人は「よく書くにはどうすればいいのか。」ということを読みたいだろう。しかし私のいまの関心はそこにはない。そうでなければカフカと小島信夫は別のものになってしまう。ということもあるが、これは試行錯誤の問題だ。小説を固定した完成品でなく動きをやめない運動状態にさせるにはどうすればいいか。と、言いながら言っている私自身がふらふらしているのは、それがカフカと小島信夫を拠り所としつつも、いまだ完全には実現したことのない夢見られた小説だからだ。というのは本当か。私は間違いなく、カフカと小島信夫からはある瞬間、というよりずっとひんぱんに、固定しない運動状態を聞き取る。
 きっとこれは制度に関わることだ。社会はそれぞれの個人を、不定形なものでなく、固定した同定可能な構成員としたがる。その人がその人である動かぬ証拠は、指紋による同定からDNAによる同定へと精密さの度を増し、生きているこっちも、「そうなんだろうな。」と、さして疑問に思わずそれら同定するものを受け入れてゆく。平たいレベルでは血液型判断もその人がその人である同定に作用する。血液型判断は実際には、その人自身を見ずにその人をあるタイプに分類するという別のことをしているのだが、信じる人たちは、「××さんは外見は豪放磊落だけど、本当は小心者なんだ。」という風にその人を見分け(たつもりにな)る。
 小説の登場人物は一貫性を持っていなければならないとされている。もしその人物が一貫性を欠くのであれば、それについての説明がなければならない。そうでなければ不出来な小説とされる。小説家はそうすることで個人を同定する社会の制度を無意識に容認している。私は登場人物に一貫性を持たせること自体をいま批判しているのでなく、そういう風に書いているときに書き手がまったく感じていないはずはない窮屈さ・不自然さ・息苦しさ(の予感)のようなもののことを言っている。
 書き手は書き手で、作品のはじまりから終わりまで一貫した意図を持って作品を書く、という了解に従うかぎり、書き手は一つの作品を作り上げた揺れがない人格となるだろう。これは絶対におかしい。何よりここがおかしい。