◆◇◆試行錯誤に漂う 6◆◇◆   
「みすず」2012年9月号
未整理・未発表と形

『カフカ式練習帳』(文藝春秋)について古谷利裕氏が書いた書評を読んで、私は自分が、文学をやりたいのではなく、小説を書きたいのだということがあらためてわかった。
古谷氏の書評(「文藝」2012年秋号)はどういうことを言っているのか。ドゥルーズが『シネマ』の中で使っているらしい「総体」と「全体」という言葉を使って、「総体は限定されたもので、かつ部分(下位の総体)に分割される。しかし全体は決して閉じられることがなく常に全体であって部分を持たないとされる。」「全体は、全総体を包含する風呂敷のようなものではなく、あらゆる総体を相互に結びつける糸=ネットワークのようなものだ、」「下位の総体にとって上位の総体は地(文脈)として機能し、その関係はメンバーとクラスである。しかし全体=糸である「画面外」は階層中の各総体をフラットなネットワークに均す。」「本作の断片は、それを取り囲む空隙を通じて、文脈も階層構造も飛び越えいきなり宇宙と響き合う」というようなことを言った。
私は古谷氏が書いているように、まさに文脈とかs意味が嫌いだ。それは学校教育の中の国語の授業を通じてさんざん教え込まれたもので、学校の国語の授業と文学は、不即不離の関係にあり、国語の授業で教わったことは生涯を通じてフーコーが言ったパノプティコン(一望監視方式)のように人の文章との関係を縛る。文学が内面の吐露だったり訴えだったり叫びだったりする場合、意味は欠かせない。そこには首尾一貫したもの=作者という像がある。作者によってきちんと構築された作品であれば、フィクションであるかないかを問わず、文脈と意味はないわけがない。
そのような文学作品に対して私は無関心か嫌悪感にちかいような気持ちしか持たなかった。ベケットのように「全体として何が言いたいのかわからない」小説に私が激しく惹き寄せられたのは、「全体として何が言いたいのかわからない」ということを私はわかったからだったのかもしれない。私はベケットを読んでも全体として何が言いたいのかわからなかったが、それは私だけでなく、みんながそうだということを、ベケットを知ったかなり早い段階で私は察したのではないか。情報収集と呼べるほどの情報がベケットに関してなかったのだから、私はベケットを読むときのわからなさを他の文学作品と異質のものと感じることによって察していったに違いない。
というか、他の文学作品について、私は「何が言いたいのか言え」と言われると答えることはできないが、そこにかなり明白に何か言いたいことがあることはわかる。あることはわかるが私はそれはなんだか込み入っているというか手数がややっこしいというか、とにかく面倒くさい。『白鯨』とか『怒りの葡萄』とかまして『夜の果てへの旅』とか、そういうことを言いたくて読んだわけじゃない。
私は大学の終わり頃の一時期、古本屋の店頭のワゴンに世界文学全集が一冊百円ぐらいで並べて売られているのを読むのが好きで、定番化されている長篇小説をだらだらとりとめもなくけっこう読んだが(といってもきっと十冊とかそんなものだっただろうが)、そのような経験を経てもなお、一番読みにくかったのがカフカの『城』だったその理由は、だらだらとりとめなく読みながらも私は、「全体として何が言いたいのか」ということを、考えないと言いつつ気にしていたということだったのだろう。「全体」(古谷氏のこの文では「総体」)ということを気にしていたから、私はカフカの『城』をあの頃は、三十代後半ぐらいから楽しんで何度も読むようには、全然読めなかったのだろう。
私にとって小説は文学ではない。一番大ざっぱな言い方をするとそういうことだ。文学というのが、総体として意味を語る(創る)ものだとしたら、私が小説というときの小説は、行為とか手の動きとかにちかい。そのつど何かを考える。当然「そのつど」の意味はあるが、全体としてまとまりのある意味を構成する必要はない。日記がそういうものだ。その日その日に何かを感じたり考えたりするが、全体として一つの意味を構成するわけではない。
人は頭の中だけで考えるが、字にして書きながら考えるのは頭の中だけで考えるのとは違う。まず思うのは自分が書いた字によって自分の考えが書く前には考えていなかったずっと先の方に引っぱられる。が、これは本当のところ書く効用のようなものの中心ではないのではないか。一般には書いた文が書くその人を牽引する、書くその人の考えをまとめる、と考えられているが、そうではなくて、人は書きつつ、書いた字や書くために考えたその考えに誘発されて、いろいろなことが拡散的に頭に去来する。
書くことはその去来したものを適宜挿入したりしながら、基本的には一本の流れにまとめあげることだが、書くという経験は結局は書かれなかったいろいろな去来した考えを経験することなのではないか。私はニーチェについてハイデガーが書いた、ニーチェは若い頃から膨大なノートを書きつづけ、それがニーチェという特異な哲学者の思索を練り上げていったというような文章がどこに書かれていたか、それを捜したが見つからなかったが、とにかくハイデガーはニーチェの思索を練り上げたのは、ニーチェがノートを書きつづけたその行為(時間)だということを言ったそれ自体は、ニーチェでなくとも誰にでもありうることで、だから私はそれを何の難解さも感じずに受け入れた。私がハイデガーの本をぱらぱらめくってチェックを入れた箇所を捜しても見つけられなかったのは、私はあたり前と思いすぎて何もチェックを入れていなかったからかもしれない。その誰もが同意するであろう、ノートを書くことで自分の考えが練り上げられるというそれは、しかし、書くことによって小論文的な論述方法が上達するというようなテクニックの問題ではなく、書くその時間、書きながらその文に誘発されていろいろな考えが頭を過る、いろいろな考えが池に投げた小石の波紋のように複数同時にパーッと広がる、その経験こそが重要なのではないか。
こんなことは、経験とそれによる思考や人格の練り上がりみたいな関係は、人それぞれになるだろうし、こんなことに証拠をあげるのも自分自身の考え方を裏切るようなことでもあるが、そのような書くことによって複数の考えが同時に誘発された経験を積み重ねたことが、ニーチェの思索を論文の形式でなく、断章の形式にさせたのではなかったか。ニーチェの考えが断章であって論文形式にならなかったことの重要性もまたハイデガーが書いた。——そうか、私は『カフカ式練習帳』という断片を書くことを考えたのはカフカのノートだけでなく、それ以前から読んでいたニーチェもあったのか、ということにいま思いあたった。
私は今回の回を最初、ギタリストのジミ・ヘンドリックスのことから書きはじめた。しかし、ジミヘンについて、読者と私とでどこまで知識が共有されているかわからないことと同時に、私自身が1970年のジミヘンの突然の死以後の膨大な録音テープの権利関係がよくわかっていないこととで、ウィキペディア(またウィキペディアだ!)とか他のジミヘン関連のサイトを調べているうちに話が全然関係ない方に行ってしまったので、その原稿は反故にした。この連載は反故も使う方針ではじめたが、もう全然つまらない! sウィキペディアがあるために書く私は、ジミヘンについて私よりずっと知識がない人のために、必要以上に事実に拘泥してしまう。しかし事実なんか大筋だけでじゅうぶんだ。私はジミヘンの評伝を書こうと思ったわけではないし、だいいち評伝で興奮するほどおもしろいものには二つか三つしか出会ったことがない。
つまりジミヘンは短い活動期間に膨大な録音テープを残し、それが未発表のままになっている。死後すぐの十年間ぐいらはスタジオ録音に関わったエンジニアかプロデューサーがその人の解釈で勝手に編集してアルバムを何枚か出した。その後、ジミヘンの音源の権利は完全に(?)遺族のものとなり、90年代くらいから音源が整理されて、ジミヘンが最もそうしたかったであろう形のアルバムとして発売されるようになった。
これはカフカに似てないか? そして今日、気がついたのだが、ニーチェとも似ている。カフカはまず友人マックス・ブロートによって編集・出版され、ニーチェは妹エリザベートによって編集・出版された。どちらも後年、遺稿の権利が最初の人から離れ、膨大な遺稿が閲覧可能になると、死後はじめに編集・出版に関わった人はケチョンケチョンに批判されることになった。——これもジミヘンとだいたい同じだ。
しかし話はそれるが、私はそのジミヘンの死後の第三者の手による編集について書こうとしたがうまくいかず、全然別の話にしたら、書くこと→頭を去来する考え→ニーチェのノートと、話の流れに任せて書いたら、未整理の遺稿ということでニーチェからジミヘンにつながった。つながればいいという話ではないが、考えというのは違う話題(題材)に行ったかのように見えても、きっと同じ時期であれば何らかの形でつながり合うようなことを考えている。
この未発表の原稿(録音)なのだが、マックス・ブロートたちは「勝手に編集した(手を入れた)」とその後批判される。この批判がまったく不当であるというか、カフカの歴史的批判版と言われる手書きの原稿をそのまま出版するという考えによって出版された遺稿によって、カフカの未発表短篇が書かれた時期が、Aという短篇は『審判』より前だと言われていたが『審判』の後だった、というような研究が、マックス・ブロートの編集(解釈)よりマシかといえば、むしろなお悪い。
正しい時期を確定する、という考え方は作品を完成されたものであるとする考え方とまったく同じものでしかない。作者とは、ぶよぶよした不定形な考え方をずっと持ちつづけている人であるのだから、時期を確定しても意味がない。未発表・未整理の原稿(録音)
が膨大に残されたのならそれは時期未確定と同じことだ。それらは頭の中の未整理と同じ状態であり、書いては消し、書いては破き、書いては保留として脇に残しておく試行錯誤と同じ状態だ。
 研究者や版権所有者たちは、その未発表・未整理原稿に対して、作者が優位の立場にいると思い込んでいる。作者は未整理原稿に対して能動的にふるまいうる、と。しかし、能動的にふるまうことができなかったから、作者はそれを未整理状態にしておく結果となった。
 後から来た研究者たちは、最初のマックス・ブロートについて「勝手に手を入れた」とか「歪めた」とか批判するとき、自分の方が正解(本来の形、つまりあるいは正典)に近い地点にいると思っているだろうが、そういうものこそがない。
 マックス・ブロートたちは未整理・未発表原稿を公表しなかった。読者はそれが形であると思った。しかしそれらが未整理・未発表であり、そういうものが膨大にあることを知り、形になっていないものに出会った。形になっていないものの群れは、作者がもっと生きていたら、全然別の形となって発表されたか、そうでなければそのまま放っておかれた。放っておかれたにしてもそれらは忘れ去られるわけでなく、その人の中では鼓動しつづけた。いまは私にはここまでしか言えない。私もまた、まだ、作品・形と接することに馴れすぎているために、未発表・未整理について、言葉や考えがうまく出てこない。