◆◇◆試行錯誤に漂う 7◆◇◆
「みすず」2012年10月号   
ランボーのぶつくさ

『ランボー全集 個人新訳』(鈴村和成訳、みすず書房)にアフリカ時代のランボーの手紙がほとんど全部訳出されているそのランボーの手紙はなんかバカバカしい。私はそのバカバカしさが好きなのだが、ランボーはフランスにいる家族に宛てた手紙を誰に書いたのか? 家族に宛てたのだから宛て先は家族に決まってる。なかでも母と妹だ。しかし後世の研究者や評伝作者たちは、「後世の人々に書いた」と言うだろう。
「ここでなら僕はいまでは知られていますし、いつだって仕事がありますが、フランスではよそ者で、なにもすることが見つかりません。」(アデン、1884年5月5日)
「いまでは僕はここで知られていますし、生活の糧をみつけることもできます。ところが、他の土地ではまちがいなく空腹でくたばるほかないんですからね。」(アデン、1884年5月29日)
 と、ぶつくさ言ってるその手紙まで後世には出版されて資料になるわけだが、ランボーは後世の人々に宛てて書いたのでなく、まさに家族に向かってぶつくさ書いた。
 このぶつくさぶりが際立ってるわけだが、いまを生きる私はこれがあまり奇異と感じない理由は後回しにするとして、手紙というのはもっとロマンチックなもののはずではないか。たとえば同じように家族に宛てた手紙でも、太平洋戦争中に戦地から日本の家族に宛てた手紙などは、両親にも兄弟姉妹にも感謝や願いが手紙全体に満ち満ちている。
 私は父が外国航路の船員だったので母は次の入港地に宛てて手紙を書き、父からも手紙が届いた。そうでなくても一九五六年生まれの私はまだ手紙文化の中にいて、ラブレターも書いたし、北大に行った友達と手紙のやりとりもした。それで思い出すのは私の書くラブレターはぶつくさではないがテンションが低くロマンチックでなく、だってラブレターというのは郵便局員の手も郵便配達の手も介在して、家に届いたら届いたで、間違いなくお母さんの目にふれる。そのときお母さんが届出人の名前を見ないはずがない。
「あら、また保坂君から手紙が来たわ。ずいぶん熱心ね。」
というわけで、私は会ったことがないお母さんにじゅうぶん知られている。
だから私は、
「郵便配達さんへ いつもありがとうございます。」とか、
「お母さんへ 開封しないで○○子さんに渡してください。よろしくお願いします。」とか、
「いつかお母さんにも手紙を書きたいと思います。」
 などとくだらない一文を、封筒の裏や表に書いたのは、手紙というものの持つロマンチシズムがテレ臭かったからに違いない。向かいの家の五歳年上のショウちゃんがロンドンに住むことになり、筆マメな母は私にも手紙を書けと言うが、ショウちゃんと私の関係は身体を動かして遊んでもらっただけの関係で言葉ではない。当時中学三年の私は困って、その日一日のことをひらがなだけで書いた。
 ランボーのぶつくさはこれとは違う。いまを生きる私がこれを奇異と感じないのは、ツイッターに似ていると感じるからだ。ではなぜツイッターがあるのか。これが問題で、ツイッターというのは本当に不特定多数の人に向かってつぶやいているのだろうか。ちょっとした思いつきや今日一日のちょっとした報告を書く相手というのは恋人なのではないか。あるいは神なのではないか。この違いは、あるようなないような、ないようなあるようなビミョーなものだ。
 好きな人がいるとき人は誰でも、目に映るものや自分が今していることをその人に向かって、逐一ツイートしてないか。ツイートする宛て先がいるから、目に映る風景も自分が今していることも光度を増したり新鮮になったりする。風景が神に祝福されて光輝く。ツイッターというのは好きな人に宛てたツイートの代償行為、というのは大げさというより明確すぎるが、なんかその辺の、好きな人へともちょっと違うし、自分の存在を包み込み全肯定してくれる神のようなものともちょっと違うけれど、なんかそのあたりに向けてなされた発話あるいは心内会話なのではないか。
 その発話あるいは心内会話の内容は、ツイッターの内容が千差万別であるように、ピンからキリまで、硬軟とりまぜてあり、その千差万別ぶりは恋人同士の語らいが千差万別であるのと同じだ。私は恋人相手にもっともらしい真面目くさった話をするヤツは信じられない——「信じられない」というのは、その内容のことでなく、そのような話をするヤツが実在するということが、私のリアリティとして信じられないということだ——が、私のように恋人相手にくだらない話しかしないヤツがいることを真面目くさった話をするヤツもまた信じられないだろうし、何よりも私がそういう話しかしないことを恋人(というか恋人の手前)の女性は信じられないらしくて、「どういう人……?」みたいな感じで私はフラれつづけ、フラれる手前というかその過程で私はいきなり思いあまった泣きごとを書くがもう遅い。というかそれはそれでうっとうしい。
 いまはきっと私たちの世代がした恋人との長電話の半分とかそれ以上はメールのやりとりになるんだろうが、だいたい考えてみれば、どうして恋人同士はあんなに長電話するのか。直接会っているとしゃべるよりも別のことをしてしまう……という、別れたときに一番の反省点となる、なんというか、その、男の性? 色欲? 愛欲? みたいなことはあるにせよ、会話は相手がそこにいない方が成り立つ。恋人同士の長電話というのは電話以前にはなかった愛の語らいの形態だろう。電話によってなくなったものはひんぱんな手紙のやりとりとか、一晩かけて夜明けまで書いた長い長い手紙など、それはそれでいろいろあり、形態が変われば中身も変わるだろうが、とにかく恋人同士の長電話というのは独特の愛の語らいの形態で、長電話する恋人同士にとって相手は、たぶん、現前とも不在とも違う別の在り方で私の前にいる(いない)。
 ランボーがアフリカから家族に宛てて書いたバカバカしいぶつくさ言ってる手紙のこのぶつくさが、恋人を前にして、真面目くさったことを話す人とくだらないことを話す人では捉え方というか、響き方が違うんじゃないか。
「皆さん、
長いことお便りをいただいておりません。
僕のほうでは、商売はあい変わらずです。以前よりも、よくもなければ、悪くもありません。ですから今回はお伝えするおもしろいことはなにもありません。
 ただ健康と繁栄をお祈りします。
 よろしく。」(アデン、1884年10月2日)
全体でたったこれだけの手紙が、くだらないことばっかりしゃべる自分とかツイッターとかを考えに入れて読む、というか響きを聴くと、この手紙の宛て先である家族というのが、前後の日々を含めたこの手紙の時期、ランボーにとってどういうものだったのかと思う。ランボーがアフリカ時代に書いた手紙はみすずのこの全集に収められているものの他にはたぶんないわけだが、ランボーはアフリカにいるランボー以外は知らない誰かにも手紙を書いていたんじゃないか。 
1854年10月20日に生まれた三十歳を目前にした男が、相手の性別はともかく、一八八〇年から住んでいるアフリカにまったく全然恋人あるいは手紙を書いて送る相手がいなかったとは私には考えにくく、もしそうなら、家族に宛てた手紙のバカバカしさは、恋人との語らいでするバカバカしいくだらない話や恋人に書く手紙のバカバカしいくだらない感じのそのまま——というのは、あまりに私自身に引き寄せた想像だろうか。
この全集の家族宛、アデン、1884年9月10日の手紙を読み出すと、「皆さん、(改行)長いこと、お便りをもらっておりません。万事好調なん」までで、四一一ページの二段組の下段が終わり、ページをめくると、「でしょうね。」につづいて、
「実りゆたかな秋を祈ります。」
という一文が、あざやかに私の目に飛び込み、私は、1993年9月23日、秋分の日の昼前、もうすぐ遊びにくる妻の昔からの友達とそのダンナを迎える準備で、家の前の坂をおりて遊歩道を二分ばかり行ったところにあるセブンイレブンにビールを買いに行って、そのとき買ったのがはじめて買ってみたキリン秋味だったのを思い出した。
私とそのダンナは二人ともキリン秋味を飲むのがはじめて、「これ旨いね。」と言い合った。二人がうちに入ってきて、二人のすわる場所を決め、畳の部屋だったから二人は座布団で畳にすわり、ようやく落ち着いた頃、チャーちゃんがダンナがいるすぐ脇に置いてあった爪トギに乗って、ガリガリとカリカリの中間ぐらいの音を立て爪をといで隣りの座敷に行くと、ダンナが、
「みんな、ここを通るとき、爪トギしていく。」
と、彼は猫を飼ったことがないからおもしろそうにこんなことを言い、「ああ、そうなの?」みたいに、こっちはあたり前すぎていて気がつかないでいたことに注意を向けてくれたことを楽しみ、キリンの秋味を飲んだのはそのあとのことだが、93年というのは翌年コメがなくなって急遽タイとかからインディカ米を輸入することになるほどの不作になるほどの記録的冷夏で雨の多かった夏で、9月23日のその日も朝からずうっと雨模様だったがはっきり降っているわけでもなかったので、昼食を食べ、ビールを飲んだりお茶を飲んだりして一段落したところで私たちは近所にちょっと長い散歩に出た。
傘は手に持っていたが雨粒は落ちてこなかった。住宅街を特にあてもなくぶらぶら歩いていくと、小田急線の一駅向こうの国士舘大学がある一帯になり、それを過ぎると国士舘大の隣りにある都立明星高校が文化祭をしていた。そこは偶然にも妻の友人の出身校で、彼女はとても懐しがり、私たちは文化祭を見に入っていった。
などという記憶が、412ページ上段1行目の、
「実りゆたかな秋を祈ります。」
の一文で、ふわっと出てきて、布団に寝て眠る前のだいたいは三分とつづかない読書をしていた私は幸福感に包まれた。
ただ、この一日は私にとってありふれた一日というわけでも、忘却の彼方にあった一日というわけでもなく、たぶん私は年に一度はこの日のことを、これほど丁寧ではないとしても思い出している。たいていは暑い夏が終わり、「ああ、秋だなあ……。」と、思いがけず早くなっていた夕暮れにメランコリックな気分になりながら思い出す、というか記憶をよぎっていく、その程度には私にとっては忘れがたい一日で、何よりもそこには爪をとぐチャーちゃんが登場している。その日、ペチャ六歳、ジジ四歳、チャーちゃん一歳。私の日々に死の影はどこにもなかった。
もちろんそんな日は歴史のどこにも記録されないというそういう日がランボーの手紙の一節と響き合うのだが、ランボーのアフリカからの手紙が私にこんなに喜びを与えてくれる理由はきっとそれだけでは全然ない。