◆◇◆試行錯誤に漂う 8◆◇◆
「みすず」2012年11月号   
一字一句忘れない

今はまだこの号の締切りよりずっと前だが私は中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房、2004年)に収められた二つの論文にあまりに激しく感動したために、その余韻が消えないうちに書いてしまおう。だから今はまだロンドン五輪の開催中で、私は男子体操競技の演技を見ながら感じた、
「どうしてこの人たちはこんなことまでしなければならないのか? こんな動きはスポーツというよりもはやアクロバットであり、驚きはあるにしても、身体本来の動きの喜びがもはやここにはない! ある方向に動き出したものは、こうして起源と乖離して、ただその内部で勝手にランナウェイしてゆく。
こういう体操競技のあり方に疑問を感じて、鉄棒をクルクル回る純粋な喜びを体現する選手がもしいたとしても、そういう選手は早々に淘汰され、動きの喜びを奪ったこの不自然さに疑問を感じない人だけが選手になっていくのだから、体操競技の内側からはもう本来のあり方に流れを戻す人は出てこないんだろう。」
ということを唐突といえば唐突に書き、しかし私の中ではこれは、
「これまで私が法廷に立った回数は多くないが、判決文という語りnarrativeの成立に向かって、すべてが動いているように感じた。人間の行為の動機は、犯罪であれ、恋愛であれ、職業選択であれ、根底の根底までゆけば言葉にならないものであろう。それを言葉にし、一つの語りとして、被告の人生の語りに統合させるのが判決文であるとすれば、副弁護士の「納得する判決文をかちとろう」とする意図も、深い意味を持つのではないかと思う。」
という、『徴候・記憶・外傷』所収の「高学歴初犯の二例」という文章を締め括る段落の一節とも響き合う。
引用した箇所は「副弁護士の「納得する判決文をかちとろう」と……ないかと思う」(B)の部分に収斂する文脈になっているので、文脈を最優先させる読み方をする人は、もしかしたら「判決文という語り……人生の語りに統合させるのが判決文である」(A)の部分を副次的なものと読むかもしれないが、意味の重さとしてまったく副次的でないことは言うまでもない。私は(A)の部分だけを書き抜いた方がよかったのかもしれない。しかしそれをすると、そういう恣意的な引用を行為の実践において私は容認したことになり、連載5回目のシュトックハウゼンの「アートの最大の作品」という言葉だけを抜き出したバッシングへとつながってゆくことになる。
だいたい引用というか文章というものは面倒くさいもので、一つのセンテンスでもいろいろな他の箇所と響き合い、それを引きずり歩く。文章のそういう特性を最大限に発揮したのが私の知るかぎりでは小島信夫の長篇小説『寓話』の文章で、読む私は泥に足を取られながら前に進んでゆくような気持ちに捕われた。
文章からそれを削ぎ落とせば、読むという行為はどれだけラクになるか! ベストセラーになった『カラマーゾフの兄弟』の新訳はどうもそういう削ぎ落とした、よく言えば「軽快な」文章でできていると、何ページか読んだかぎりで感じたが、何ページしか読んでないからこれ以上は言葉を控えよう。
その文脈上は主となる(B)部分は、この文章(いや、私は「論文」と書くべきだった)前半部を締め括る段落にある、
「判決文は、おそらく、被告が一字一句忘れないで、何度も繰り返し、刑務所の中で想い浮かべる文章だからだ。」
という一文と、響き合うどころか直結する。
判決文は、被告が一字一句忘れず、何度も繰り返し思い浮かべる文章だから、判決文は被告が納得するものでなければならない。

「高学歴初犯の二例」で読者として忘れがたいこの記述が、つづく論文「「踏み越え」について」で発展する。
話はもどるが、判決文を被告が一字一句忘れないとは、私は想像したこともなかった。だって判決文というのは新聞にたまに載る重大事件の判決文はもう、やたらと長い。
しかし一字一句忘れないと言われれば、そうなんだろうと思う。「人生を決める」という定形句があるが、裁判の判決といったらその定形句の起源といってもいい事だ。喩えや比較になっているかわからないが、どんなに長い判決文であってもすべての人はそれより総量として多い言葉を暗記している。短歌・俳句・ことわざ・挨拶・歌詞、それらだけで優に新聞の一面ぐらいは埋めつくせるのだから、特別な心理状態にある人がそれを一字一句忘れなくても不思議ではない。
これは最近私が思っている、「結局カフカの小説は丸暗記するしかないんじゃないか」という考えとも響き合う。
恋人から(別れの時に)言われた言葉を考えてみよう。その言葉はそのまま記憶されて、意味を変えてゆく。言葉とは意味に変換して記憶したらいけないものなのだ。言葉とは言われたそのままで憶える。そのままで憶えるから、こちらの状態によってそのつど意味を変える。仏教の経典も聖書も、僧は丸暗記しているのだし、中井久夫自身も「私はしばしば好みの文章の暗誦を好む」と24ページの欄外に書いている。
だから私はこんなに激しく感動したのだがら、「高学歴初犯の二例」と「「踏み越え」について」の二論文は、暗記するほど読もうと思った。少なくとも、書いた本人が記憶しているだろう程度には読もうと思った。
しかし今はまだ、あらっ、、、「高学歴初犯の二例」というタイトルすら、いちいち確認し直さなければならない。
私はおとといの夜、「高学歴初犯の二例」を途中まで読み、さあ寝ようと、布団の上で横になってつづきを読んだら、後半部の殺人事件についての中井氏の記述の被害者・加害者を見る目の本当の意味での愛、それはごく自然に判決文という語りに収斂されることを強く拒むであろうと読みながら予感される愛が正義となってゆくそういう感じに私は激しく感動して、目がどんどん冴えて、そのまま次の「「踏み越え」について」を読み出したらいっそう気持ちが高ぶった、やはりそれを再現というか移入、この原稿にそれを移入しなければしょうがないんじゃないか、私は二論文の内容を冷静にここにまとめたとして何も意味がないんじゃないか、もともと私はそういうことはできない、そして私の書き方があまりに感情的だ、わからない、という人がいるとしたらその人は矛盾している。今風の言葉で言えば自爆している。よくいるが、そうなのだ。だって私の文章ではわからなくて「もどかしい」ともし言うのなら、『徴候・記憶・外傷』を買うなり借りるなりして、当の論文を自分で読めばいい。そういうこと。
文章を書くのには波があり、私はずっとこの連載の態勢が手さぐりで、ようやく六回目で感触がつかめたその勢いで七回目を締め切りより一カ月ちかく早く書き上げ、その状態で二論文を読んだという背景があり、だから私は高揚のスイッチが入りやすく、というより入ったままで読み、私はなんとかそれをここに移入したい。
受け止める側は冷静であることが望ましいというのがだいたいにおいて学校教育で教えられてきたことで、私はいまやはり、学校というシステム全体の見直しの時代なのではないか、このままでは学校教育は役人のような人間しか生み出さない、小説も芸術もただの消費の対象にしかならない、その面から見れば小説は売り上げを伸ばしているがそれこそが衰退の徴候である、冷静であるからよく見えるということはなく、激しく高揚している状態の方が細部も全体もよく見えるのは私は横浜スタジアムのライトスタジオで応援歌を歌いながら観戦していた頃に確実に経験した。

意識化、イメージ化、言語化のあいだにはそれぞれ断絶がある。そして、これら「内面」に明滅する事柄と行動のあいだにも断絶がある。断絶の態様はそれぞれ独自である。(「「踏み越え」について」305ページ)

私たちは、イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースを普通であると思い込みやすい。それは心理テストなどの場合に暗黙の前提としているコースであるけれども、果たしてそれは妥当であろうか。一つの理想型にすぎないのではなかろうか。現実には、あるコースから別のコースへの移動に順序はない。行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることもある。例えば、行動の追想であり、後悔であり、合理化である。審判や裁判はこの過程に社会的に通用する形式を与えるものである。裁判はそのために存在するとさえいってよい。行為はすべて因果論的・整合的な成人型のナラティヴ(語り)で終わらなければならないという社会的合意が裁判の前提である。でなければ、何か修復されない穴が社会的に残るのである。
この過程は、強引に言語化する過程であり、させる過程である。その過程の無理は公衆が鑑定や判決文に抱く不満の本当の源である。「心の闇」を明らかにせよと人はいうが、 明らかにしたものはもはや心の闇ではない。(同、309ページ、傍線引用者)

私がこうして気持ちが高ぶった状態の中で書くのは、いかにも一線の「踏み越え」と人には映るだろう。学校教育批判など大阪の橋下市長と同列と見えるかもしれない。しかし私の連載を通して読めばわかる(と私は勝手に期待する)。
整除された、論理的な文章こそに、人間を一方向へとまとめあげ向かわせる暴力が内包されている。気持ちの高ぶりを言葉でトレースし直さないこと。気持ちの高ぶりを次の次元に引き上げないこと。無駄に気持ちを高ぶらせておくこと。
「だから?」とか、
「それで?」
とか言われたときに、応答せず、
「それだけ!」
と答えること。