◆◇◆試行錯誤に漂う10◆◇◆
「みすず」2013年3月号   
作者の位置から落ちる

この連載の今回は前回というより「みすず」の前号のアンケートに書いたことにつづく(と思う)。と、そのように私は書いても本当にそうなるのかわからない。
 なんだか私はずうっとこの問題を考えている。「問題」というともっともらしいが、私の中では問題という風に外に出せるほどにも整理されていないし、整理すると問題が問題でなくなる。あるいは事が事でなくなる。
 カフカは単行本として発表した小説(または文章)以外のものは発表しなかった。そのへんの基準がどうとかいうことでなく、カフカは基本的には、ただ書くために書いた。読まれるためでなく書くために書いた。だから本人が面白くなくなったり本人の関心とか意欲が持続しなくなったところで小説を中断したり置き去りにしたりした。
 よく作家は言うのが、「私は子どもの頃からお話を作るのが好きで、それを友達や家族に聞かせるとみんなが面白がってくれた。私がいまこうして小説を書いているのはその延長みたいなものです。」というこれはしかし、単純にそんなことが延長になるはずはなく(ごく稀にそういう人もいるだろうが)、今にいたるまでには断絶とか飛躍とか、もっと簡単に言えば階段をふつうに上っていたら途中で、「どっこいしょ!」とすごく足を上げなければならない大きな段があって、それを単純に延長とは言えず、そこでその人は小説観を自分の中に作る。

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 カフカは書くことの喜びと病いに取り憑かれていた。作家となった人で子どもの頃から何かを書かずにきた人はいないのではないか? いや、そうでもないか。ワープロができたことではじめて書くようになったという作家もいる。メールができたことで書くようになったという作家もいる。その人たちは例外といえるほど少ないわけではなさそうだ。
 作家となった人の中には子どもの頃から何らかの形でいろいろ書きつづけてきたタイプの人がいる、カフカはそういう人の一人だ、という風に言い方を換えておこう。
 書くことが習慣化している人にとって書くことは喜びであり病いであり、それは失敗を繰り返す恋愛から抜け出せないのと同じことだと言えば書くことには関心がない人にもわかるだろう。自分自身はそうではなくても失敗を繰り返す恋愛をしつづける人はまわりにたいていいる。それは病いであると同時に喜びであり、病いでまったくないとしたら喜びもないだろう。
 私たちは行為と職業を結びつける社会に生きているから、十代の後半から二十代の前半あたりにかけて、好きでやりつづけていることを職業とするかどうかの決断を強いられる、そして職業にできないなら趣味としてこの先もずっとつづけられるか漠然と考える、いずれにしても好きでやりつづけていること、子どもの頃からずっとやっていることを、ただの行為としてつづけることはなかなか叶わず、行為は、職業か趣味に分別される、しかしたとえば日記を書くということは職業でも趣味でもなく本人からすればただの行為だ。
 カフカの書いたものを読むときに、カフカにとって、書くことは職業でも趣味でもない、ただの行為だったということを読みながら並行して頭の一角においておく必要がある。
 カフカにとって書くということは、読まれることと対になっているわけでなく、書くことは書くことだけで完結する、というよりも放り出される。ふつううの人にとって一番イメージしやすいのは日記だろう。日記にしても、誰に読ませるわけではなくても「今日はなかなかいいことを書いた」と自分一人で喜んだりする。
 書くことを職業にしてしまうと、書くことをただの行為のままにしておくことは難しい。作家にかぎらず研究者でも書くことが発表することと結びついた生活を何年もつづけている人は、書くことは読まれることと対になっているわけではないということを忘れてしまう。
 カフカはただ書いた。ここで、作品と読者の関係において破壊的なことが起こった。これは誇張でなく、その証拠にみんなそこを見ないようにして、カフカの書いたものをテーマや題材で読む。
 どう読もうが読者の勝手だ——という意見は二つの意味で間違っている。一つ目は好き勝手に読むのであれば本を読む必要がないということ。本を読むというのは何という用語が正しいのかよくは知らないが教養主義とかそういうものの産物であって、全然好き勝手に読むというのは、読書という行為の根本に反する。ただ、レヴィ=ストロースのように『源氏物語』の中の親族の基本構造のところにばかり注目するような読み方はあるが、それは別の本(体系)の補完ということだ。
 二つ目は、一つ目ゆえに、読者は作者がその作品を通して言わんとすることは何かと考えるようになっているということ。作者は何か言いたいことがあったからそれを書いたのだ——という暗黙の了解がある。

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 芸術・作品・表現には、調和・統合という暗黙の了解がある。
 しかしこの全体が、人間が世界に向かって為した悪だとしたらどうなるか?
 人間が世界に対して能動的・主体的に振る舞うこと、それを否定する文学はすでにある。ベケットの『ゴドーを待ちながら』がまずそうだろう。
 しかしその作品を書いたベケットが、観客や読者の質問に答えて、
「人間が世界に対して能動的・主体的に振る舞うことが悪だから、私は主体的に振る舞わない人物だけが登場する芝居を書いた。」
 と言ったら、ベケットその人は作品に対して能動的・主体的に振る舞ったことになってしまう。
 作者が作品を掌握するという了解への不信——というより、作品を掌握する(作品を十全にコントロールする)作者の位置から落ちる。
 カフカは発表するしないは二の次にただ書きつづけたものが、カフカの意志と関わりなく世に出たことによって、偶然にも作品を掌握する作者の位置から落ちた。と言っても、出来事には大きな出来事と取るに足りない出来事という違いはあっても、偶然・必然という区別はない。それもまた「世界に能動的・主体的に関わりたい(関わらねばならない)」という発想の産物だろう。
 
 作り手と受け手、今は作者と読者という関係に限定するが、受け手というのは観客も聴衆も展覧会の客もみんなそうだ、作者と読者というのはどういう関係にあるか?
 作者が読者にテーマとか主張とか動機とかを理解されたいと思うなら作者は読者の行為を想定(先取り)することになる。この“想定”というのがひじょうに厄介なもので、ふつうの〈作者‐読者〉関係の中に生きてその外に出ようと思わない作者にとって、この想定ほど便利なものはない。作者が読者の読む行為を想定することで二人は同じ地平に立つ。
 
 いや、そういうもっともらしい言い方でなく、私の中にはもっと子どもっぽい教室の中でのやりとりがある。
 作者という生徒が読者という先生に褒められるように書く。その一方、
 読者という生徒が作者という先生の意図を斟酌してそれにすすんで従う。
 ほとんどすべての作者と読者はこの、生徒根性の中で書いて読む。
 
 いや、やはり、“想定”とかさっきの“暗黙の了解”とかはこれとは別物だが、両者は手を取り合っている。
 読者は作者に作品の意図を訊く。
「主人公はあそこでどうして×××をした(しなかった)のですか?」
 読者は作者から真理を与えられたい。作品に調和や統合や収束や中心や、とにかくそういうものがあれば読者は作品を理解したと思うから作者に訊くこともないが(ただしその場合は自分の理解を是認されたくて読者は作者に賞賛という形でそれを伝える)、作品に理解したと思えるものがない場合、読者は作者にそれを訊くというその行為は、母親に質問していた子どもの頃の延長ではないかと私は最近思う。
 その、母親に質問していた子どもの頃というのは、教師と生徒の関係の基盤となっているものであり、神父と信者、医者と患者などへとつながっていく大きなものと考えてほしい。学んだり教えを請うたりする基盤には、母親から与えられたという最初の幸福がある、と。
 しかしそういう面倒見のいい立場から落ちた作者あるいはただ書く人がいる。
 じゃあ、何のために書くのだ。と言うだろう。
 書くとは自分の中に外からかすかに聞こえてくる音ともいえない音、声ともいえない声、あるいは頭の中の遠くにある像ともいえない像、光の筋ともいえない光の筋を少しでも近づける、またはそれに近づくためだ、という書くがある。
 何のためにそんなものを読まなくてはならないのだ。と言う人がいる。しかし私はそういうものを読みたい。
 ベケットが何者であるかをまったく知らなかったというのもずいぶん物知らずだが、現にそうであった私は偶然手に取った『モロイ』を読み出すと、何と言えばいいんだろう……、自分の鼓動や脈搏を聞くような気持ちになった。
 
 想定(先取り)に話を戻すと、それは〈作者‐読者〉というフィクショナルな関係の中にしかない。ここで言うフィクショナルとは否定的な意味で、「閉じた関係」というような意味だ。「閉じた」「開かれた」もまた私は最近、ふつうとは逆の意味で使うことが多く、閉じた関係の方にこそ創造性があると考えることが多いが、いまは否定的な意味で使っている。(ということは、もっとよくよく考えると、きっとこの「閉じた」「開かれた」は逆転するのではないかという予感はあるが今はわからない。)
 読者を想定(先取り)して書き、その期待に応える読者は現実にいる。しかしこの関係の全体がフィクションなのだ。思い込み、錯覚というような意味で、出版のマーケットはわかりやすいところではミステリー小説がこのフィクションの中で循環している。というか、マーケットそのものがフィクションだ。
 書くことの起源に読者という想定はない。というか、思えば、起源とか正統にこだわる必要もない。そういうことを言っていると足元を掬われる。ただ書くこと。人を説得しようとか人から了解を得ようなどという気持ちから離れて、ただ書くこと。