◆◇◆試行錯誤に漂う11◆◇◆
「みすず」2013年4月号   
素振りについて

 これは素振りの話だ、巨人からメジャーリーグに行った松井秀喜が引退の記者会見で、
 「二十年間で一番に思い浮かぶシーンを聞かれると「長嶋監督と二人で素振りをした時間」と答えた。」(朝日新聞2012年12月28日夕刊)
 その同じ面に載った長嶋茂雄のコメントも、
「個人的には、二人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている」だった。
 ここで素振りというのは全然比喩でなく、文字どおり野球選手がバッターボックスに入る前にバットを振る素振りのことであり、毎日試合が終わったあと一人で自宅の庭とかでする素振りのことだ。が、前者の素振りと自宅でする素振りとではひと振りひと振りの真剣さが全然違い、二人が言ったのは自宅や練習場でする素振りのことだ。
長嶋茂雄にとって素振りは絶対的なもので、阪神の掛布がスランプに陥ったとき長嶋が掛布に電話をかけてきて、
「掛布君、そこで素振りしてみて。」と言ったのは、もうほとんど伝説化している話で、私も実際掛布がそれをしゃべるのをテレビで見た(と思ってるだけで本当は見てないかもしれないけど)。
長嶋に言われたとおり掛布が受話器を置いて受話器のそばで素振りすると、何回目かの音を聞いて長嶋が、
「今のスウィングだ。」と言った。
これはもう本当でも作り話でもどっちでもよくて、長嶋と素振りを結びつける重要な話だ。選手はバットを振りながら一回一回、バットと対話し、自分の体と対話する。これもまた比喩じゃない。松井は長嶋とそうやって二人きりで、一回一回、ブンッ! ブンッ! とバットを振ることで対話した。
 素振りというのは試合でない練習なわけだけれど、その日の試合でどれだけいい結果を出そうがそれが翌日の試合につながるわけではなく、翌日の試合の結果につながるのは練習だ。練習だけが選手としての自分の根拠になる、というとわかりやすいが精神論っぽく、精神論っぽいと退く人が多いだろうが、落合博満にしろイチローにしろ優れた選手は人一倍練習した。効率のいい練習をしたとかそういうことでなくとにかく量を自分の意志で練習した。
 というそこまではまあ誰にでもわかるが、彼らにとって練習はある時期以後、試合以上のものになっていった。結果よりもプロセスの方が大事でおもしろい、という言い方をすればわかりやすいがその言い方もやっぱり違う。まず前提として、その中に入り込んだ人しか知らない手応えとか実感がある、それを外にいる人に外にいるままでただ言葉の意味として伝えることはできるが、そのときには中に入り込んだ人が感じた手応えや実感は消える、だから少なくともそれを伝えようとする言葉は外にいる人が、自分の想像ではそれはわからないんだな……という言葉でなければならない。
 人の理解とか想像力というのは、論理的にはおかしく見えても、その人が経験してないことについては、「わかった」と思わせるものよりも、「これではまだわかったことにはならないんだろうな」と思わせる言葉の方がまだしも少しは伝わる。
 そういものを「秘教的」とか「結社的」とか批判しても外の人同士でしか通じない。だから虚しいだけだが外の人同士でしたり顔で言葉をやりとりする人はその虚しさに気づかない。というかそっちに顔を向けない。何かをすることというのは言葉で逐一トレースできるかどうか、と全然別次元のことで、そんなことはしている本人には関係ない。

 私の中ではそれと素振りはほとんど同じものというか同じ領域にあることになるのだが、セザンヌがサント・ヴィクトワール山を描いたそのセザンヌが画架を立てた場所というのはサント・ヴィクトワール山が見える山の中腹かどこかで、そこはものすごく風が強く、セザンヌは体を木にロープでつなぎ止めて絵筆を使った。
 セザンヌって、やっぱりすごいんだな! と思って、多摩美の油絵の先生にそれを言うと、ゴッホが風車を描いたか糸杉を描いたかその場所も、画架を立てていられないほど強い風が吹くところだったという。
 それで、これはセザンヌだけでない画家に共通の何かなのか、と思っていたら、テレビ東京の「開運なんでも鑑定団」に出てきた足立源一郎(一八八九—一九七三)という山岳画家は、「木曽駒頂上から」「北穂高岳南峰」「滝谷ドームの北壁」などの絵を現地に行ってだいぶ高いところまで登って、画架を立てるのもようやっとのようなところで描いた。場合によっては雪山を描くために画架の設置場所の気温も氷点下で絵の具を溶くのもままならなかった。というようなことを私の記憶では番組のナレーションが言った。
 私の書き方はなんだかすごい大ざっぱだが、私は北アルプスがどこで南アルプスがどこかも知らない。この段落を書くために調べて、日本の「アルプス」には北と南だけでなく中央アルプスというのもあることもはじめて知った。だからこれらの山を描くために別の山の切り立った壁面にこの人が登っていったそれがどこか知る由もないがとにかくそういうことだということを知ったらまた、数学者の岡潔の『春宵十話』というエッセイ集に、岡潔が訪ねた奈良に住む洋画家は林ばかりを十年間描き、次に渓流ばかりを十年間描き、谷あいを縫う清流の絵があって、「この構図にどれくらいかかったかをたずねると、一週間かかった」。そして、
「描き上げるのに要した時間をさらに聞くと、三脚をすえる余地もないような水ぎわでカンバスが風に飛ばされないように手で支えながら描いたので、はっきりわからないが、まあ三時間半ぐらいだという返事だった。」
 ここでも画架の設置の困難さが出てきた。
 セザンヌ、ゴッホ、足立源一郎、この人と、四人とも描くためにすごい負荷をかけている。私はカフカが「書く」のではなく自分で「引っ掻く」と言っていた書くことをするために、体をとことんまで疲労させて睡眠とも闘いながら自分の意志が極限まで小さくなったところで書くと、私はこれを読んだのでなく高橋悠治さんが言ってたのだが、それを思い出した。
 私は岡潔の『春宵十話』だけは手元にあるからそれを律儀に書き写したがそうする必要があっただろうか。カフカの言葉を自分が読んだのでなく高橋悠治さんから聞いたと書く必要があっただろうか。
 言った言葉も書いた言葉も正確に内面や世界を記述できているわけではないんだから、その言葉の正確さにこだわることにはさして意味がないとも言える、フロイトならそう言うだろう、フロイトがやったことは言った言葉、書いた言葉を媒介にして本人が記述できないでいる正確——しかしこれも「相対的に正確」「別の相の正確」ということではないのか——なところを浮かび上がらせるということだったのだろうから、言った言葉、書いた言葉の正確さを飛び越して、内面の正確さに飛びかかったっていいんじゃないか、もっともこれはやりすぎると歯止めがきかなくなるが“悪用”“誤用”を気にしていると世界はどんどんつまらなくなる。

 岡潔は同じエッセイの中でこういうことも書いている。
「芸術はまた、時として非常に精神を鼓舞し勇気づけてくれる。私は研究が行き詰まるといつも、こんな難問が自分にできるだろうかと思うが、その中でも特に六番目の論文にかかっていたころは困り抜いていた。そのころ好んで読んだのはドストエフスキーの小説『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』だったが、これらは一つページをめくると次に何が書いてあるかが全く予測できないという書物で、ある友人が「さながら深淵をのぞくようだ」と表現したとおりだった。そして、人がそういう小説を書いたという事実が、問題が解けなくてすっかり勇気を失っていた私をどれだけ鼓舞してくれたかわからない。」
 書いた言葉の正確さうんぬんを言ったすぐ後にこうしてあっさり引用したのは、たんに自分でこれに代わる言葉を考えるのが面倒くさかったからだ。私は手書きだから本をコピーして貼ればよくて一番安直な方法をとったわけだが、言った言葉、書いた言葉の表面的な正確さにこだわるというのは、私はコピーして貼り付けるのに似た安直さを感じる。
 読む書く、言う聞くという行為は本質的にアナログであって、デジタル的な正確さというのは、読む書く、言う聞くの持つアナログ性を裏切ることになる。きっとそうだ。
 岡潔がここで言いたいのは、困難を掻き分けて力を振り絞って書いた言葉は、困難を掻き分けて進んでいる人間に勇気を与えてくれるということだ。私はそれが、野球の試合でバッターが打席に立ち、ピッチャーがバッターの胸元をえぐるような球を投げてきても腰を退いたりしないことよりも、毎晩試合が終わったあとに疲れた体で五百回とかする素振りの方がよっぽど困難を掻き分けることと感じる。試合で相手ピッチャーが投げる球なんかその素振りに当たるだけのことでわざわざ試合モードに切り替える必要もない。
 素振りは単調な反復練習ではない。バットとの対話、体との対話だ。
ジャズの坂田明は休みの日は一日中サックスでスケールを吹いていると、かつて言った。つまり、ドレミファソラシドを一日中吹いている。譜面の練習をするわけではない。日野皓正は、吹奏楽部の中学生に「一日十二時間吹かなくちゃダメだ」と言った。「眠ってる時間以外はずうっと唇を鍛えろ」とも言った。中学生だと言って力を抜かない日野皓正はすごい。
 私がここで書いていることは、自分にものすごい負荷をかけることと一見単調なことをひたすらやりつづけることの二つがごちゃごちゃになっているということは私は自覚しているけれど、その二つを分けて考えることができない。
 人はやりたいこと表現したいことがとめどなくあふれ出てくる状態を芸術家(行為者)の幸福だと考えがちだが、芸術家(行為者)の幸福はそんなものがもう何も出てこないと思われるその先にある。
 ベケットがいたのはそういう世界だった。ベケットについて、何か語るとその言葉が愚かに見える。「わかった」と思うことがすべての愚かさになる。それに気づかずにみんなベケットについて書くから愚かさの上塗りになる。
 私は最近なんだかやたら、まわりの人たちが学校の教室にいた子どもたちの変奏にしか見えないのだが、たとえばクラスで飼っていたウサギがある朝学校に行くと死んでいた。先生がすかさず、
「誰か感想はありませんか?」と言うと、
「ハイ!」
 と言ってすぐに手を挙げる優等生がいる、
 「ピョンちゃんはきのうまで生きてました。ぼくたちはピョンちゃんが元気だとばかり思っていましたけど、ピョンは本当はどこかが痛かったのかもしれません。
 ピョンちゃんの痛さや苦しさをわかってあげられなくて残念です。」
 と答えるバカ。
 ベケットによって、書くということがそういうものになった。