◆◇◆試行錯誤に漂う12 ◆◇◆
「みすず」2013年5月号   
小さい声で書く

 カフカはひたすら書いた、ベケットはもうこれ以上は書けないという地点で(から)書いた、どちらもその書く行為に意志が機能しないことで共通している。
 カフカにまつわる現代社会予見説(ひとまとめにして)や、ベケットの、おもに、というよりほとんど『ゴドー』のみの救済者・絶対者の不在説は、作品の意味の層において作品を社会と結びつける。文学作品を社会の読解ととらえるのは芥川賞の流布のされ方に至るまでそうなのだが、私は、明治初期に日本人がヴィクトル・ユゴーに会って、「国民国家を創るにはどうしたらいいか?」と訊いたら、
「国民文学を創出してそれを読ませることだ。」
と答えたという話を連想する。
 私はこの出典を知らず、知り合いが言うのを耳で聞いただけなのだが、ユゴーとかトルストイとか、近代社会のはじまりにいた作家が文学の枠をこえて社会的存在だったことを考えれば、作り話でも説得力はある。もっとも、その場合の社会というのが広がりの規模において今の社会のどこまでを指しているかということはあるが。
 カフカやベケットを大げさに解釈することにはいろいろ、そのつど反論が私はあるが、ユゴーやトルストイの延長として二人を見る、二人をユゴーとトルストイと同じ作家であるという前提を、この行為(解釈)において行為する人が疑っていないことに気づいていないことがおかしい。二人とももっと小さい声で書いた。自分の声が社会の隅々にまで届くことを二人ともまったく望まずに書いた。この声の大きい小さいは大事なことだ。
 作家が社会的存在であるわけは作家の書くものに社会性があるからで、それを読むことによって読者もその社会に関わり合いを持つ。カフカもベケットもこのサイクルを断ち切りたかった、というのはだいぶ意志的な言い方で、このサイクルから脱け落ちたかった、というか意志が機能しないところで書いたら結果としてそうなった。——しかし、とついでに言えば、社会の社会たるを擁護する勢力は、そこはフロイト的な意味も含めて見ないようにして(見ようと思わない人、見ることが最初からできない人もいっぱいいる)、カフカもベケットも社会的な意味として読んだ。カフカやベケットを社会的な深遠な意味で読むことによって、カフカとベケットが書く行為を通じて考えたというか、カフカとベケットの書く行為それ自体が考えたことを無視した。
 作家に限定せず人は書くという行為によって社会とつながる。人々とつながるのではなく、社会とつながる。人々とつながりたいのなら声だけでじゅうぶんだ。言い方を換えれば、書くという行為に習熟すればするほど人は社会化される。ということは、どれだけ自堕落なことを書いたり、反社会的なことを書いても、書くという行為をするかぎりにおいて社会の側に立つことになる。「言葉(文学)とはこんなにも自由だ」とか「言葉(文学)はこんなにも危険だ」とかいう言い方はよく聞くが、書くという行為においてなされるかぎり本当の危険も自由もない。——いや、この言い方は大上段に構えすぎだ。
 人は書くという行為によって社会とつながる。人々とつながるのではなく、社会とつながる。鉄道マニアとか猫好きとかグルメとかそういう同好の士のサークルとかソサイエティとかがあって、書くことによって自分がその一員であることが表明される。それはいま、ブログによってとてもよくわかる。ブロガーはみんな最初に自分の関心領域を明らかにして、ブログの文章それ自体でなくブログが属する関心領域で読者を得ようとする(私はそのことを批判していない)。
 本来、小説・文学というのはその関心領域に先立ってあった、あるいは関心領域を結像させないためにあった。しかしそれが主題や題材の社会性が取りざたされることによって関心領域の中に閉じこめられることになった、というのが芥川賞などの読まれ方のことなのだが、もっと深刻な問題は、小説・文学がそれが関心領域となるものになった。ここで私が言っているのは、いわゆる“文学自体を問題にする文学”“自己言及的な文学”のことではない。書き手が、「小説とはこれこれこういう形をしている」と事前に小説の広がりを限定して、小説らしく文章を書いてしまう姿勢全体のことだ。
 
 社会には規範(規則・規律・禁止などなど)があるわけで、私は規範になかなかなじめなかった子どもで今もそれをずっと引きずっているというか、その部分は全然変わらずそのまま来ている、その私の経験の実感として、規範に忠実な人ほど規範に対して鈍感だが規範になじまない人の存在には敏感で、嫌ったり抑圧したり弾圧したりする。
 私は何年か前に気がついたのは、一部の科学に詳しい人たちは、「地球は決して宇宙の中心でなく、太陽のまわりを回る惑星の一つにすぎず、しかもその太陽と同じ恒星が宇宙には無数にある。地球とはありふれた恒星のまわりを回る惑星というありふれた星にすぎない。」という言い方、生命に詳しい人は生命において同じようにこういう言い方をする。彼らはそれを知ったときのショックを自分の中で解決することができず、殴られた腹いせに自分より弱いヤツを殴ってウサを晴らすような感じで、自分より無知な一般読者にこういうことを書いて一般読者にショックを与えることで自分のショックが解決されるものと(たぶん無意識に)思ってそういうことをしている。
 小説を書く・文章を書くことをずうっと考えているうちに私はようやく気がついた、社会の規範において、ほとんど同じことが起きている。それが最も意識されず、ということは徹底的に組織的に行なわれているのが、読み書きだ。(あんまり、こういう強い調子にしたくないのだが。なぜなら、強い調子は外に向かってしまって、自分の考えの流れ・テンポ・持続を壊す。)
 読む・書くは学校であんなにたくさん時間がさかれるのに、聞く・話すはたいして時間がさかれない。読む・書くの方は、作文の時間があったり、長文読解の時間があったり、長文の主題や要旨を書いたりする時間があるんだから、聞く・話すの方だって三分間スピーチとかもっと初歩的な、「エー、……」とか「アー、……」とかを入れないしゃべり方を練習する時間とかそういうものがあってもいいはずなのに、そういうものはほとんどない。
 
 書くこと・読むことは社会とつながっているというのは、芥川賞の関心の意味での“題材としての社会”ということでなく、“社会の一員”という意味で社会でつながっている。
 だからそれに違和感を持ったことのない人は、カフカやベケットを社会を語るものとして必然的に、というか自然な流れとして読む。しかし二人とも個人として、ひたすら個人として書いた。だから二人の書いたものは小説らしい小説の姿をしていない。
 小説家たちは決して、自由だったり奔放だったりしていない。小説家たちは、自分の書くものが、受け入れられるとか誉められるとか以前に、まず「自分の書くものが小説であってほしい(小説だと認められたい)」と思っている。何度かそれに成功して、みんなは「自分の書くものが小説であってほしい」と思っていた懸念は忘れ去ってしまうのだが、それでもみんな、
「小説はこんなこともできるのか!」
「小説はこんな風にも書けるのか!」
 という賛辞を、はじめて紹介された海外作品などに向けてするのは、本人は忘れ去った「自分の書くものが小説であってほしい」という一番最初というより根本にある懸念が自分の奥で消えていないからだ。
 読み書きがそれ自体として社会の成員の規範の訓練でないのなら、聞く話すと同程度のことを教えれば足りる。長文読解させて、主題や要旨を書かせる必要はない。小説はユゴーやトルストイの時代の国民国家の創設の一翼を担うという役目はもう終わったが、社会の成員を創る、と同時に監視する機能はずうっと継続中だ。