◆◇◆試行錯誤に漂う14 ◆◇◆
「みすず」2013年7月号  
意識と一人称

 あたり前だが、意識と意識化は違う。意識がない人はいない、人は目覚めていればほとんどずっと意識がある、しかし意識して意識するとか、意識していることを意識するとか、意識があることを意識することは誰もつねにしているわけではない。
 私は一人称小説ばかり書く、理由はいろいろあるが三人称小説の持つある自在さ、というのはフィクションの流儀の中で保証された自在さがどうも自分が書くときには抵抗があるらしい、読むときには一人称小説よりも三人称小説の方がずっといいが私は三人称小説を一人称小説のように読み、一人称小説はほとんど独白と感じるその度合が強いほどもう読めない。
 人は一人称でしか生きていない、ということを私は『カンバセーション・ピース』を2000年から03年にかけて書いている過程でそうではないんじゃないかと思うようになった。
 一番単純な疑問は、三人称小説も一人称でしか生きていない(はずの)人間が書き、三人称で書かれたものが抵抗なく読まれるということは、おおかたの思い込みとは別に、一人称は三人称を含むということなんじゃないか? ということだったが、これはきっかけとしてはわかりやすく、きっかけの機能としては私にはじゅうぶんに機能したが、これは単純すぎるというか、まあ、間違っている、というのは、三人称で書いたりそれを抵抗なく読んだりすることができるのは、フィクションの流儀を基盤とする習慣のようなことにすぎない。

 この、いまこうして生きている私が一人称であるというのは意識化の話であって、生きている私の意識は一人称ではなかった。
 おそらくこのことをリアルに伝えるための手段は、その手段こそ小説がふさわしいのだろうが、とりあえずどういうことかといえば、たとえば道を歩いているとき私は「私は歩いている」とは考えていない。私というこの私は意識と言い換えてもいいだろうから意識と書いてみることにする。私=意識でなかったら、途中で違和感が生まれるはずだ。
 意識は歩いているとき、「私は歩いている」と考えているのではなく、「人がきた」と思ったり、「車がくる」と思ったり「狭い道なのにスピード出し過ぎ」と思ったり、「この辺にこんな人いたっけ?」と他にも見覚えがない人がいっぱいいるのに特定の誰かのことをそう思ったり、「脚が長い」「残念、胸が小さい」「この二の腕いいな」「あ、猫だ、ぺチャに似てる」「このカラス大胆だな」「ここの花は(妻に)教えなくちゃ」と思ったりしているそこに「私は」という主語はない。意識はただ見たり聞いたり気をつけたり、暑さを感じたりしている。
 「暑い!」と意識が思うときも、「私は暑い!」ではない。It’s hot!と言う英語表現のitは、なるほどと思うが、主語がない方がもっと意識にちかい。
 そして意識にはいろいろなことや言葉が去来する、たまにしばらくそれについて意識がめぐる、心配事があれば意識はそれをずうっと考えている。「俺はどうなるんだ……」と一人称が出てきたりするそのときの一人称で指される「俺」はここにいる意識とイコールではない。意識が考える対象としての私のことだ、この「俺」は意識の考える対象・観察の対象・意識に見られる存在だから「俺」という名称の三人称だ、この「俺」は意識において(ぼんやり、または明確に)見える姿を持って意識にあらわれている。
 こんなことはきっといろいろな哲学者書いてきただろう、そんなことはそうに決まっているが、「これはハイデガーの『存在と時間』の第××章に書いてある」とか「カント『純粋理性批判』の第××章に書いてある」と書いても話は詰まっていかない、一人がそのつど考えていかなければならない。ついでに言えば、ヴァージニア・ウルフ等の「意識の流れ」のことを考えようとしているわけでもない。
 道を歩いているときに向こうから、わりと背が高くミニスカートかキュロットスカートから長くてきれいな脚を出した女の子が歩いてきた、意識はそれを見ている、必ず少しはスケベな気持ちとともにそれを見えている、その女の子が見ている目に気づいたと思うと意識は目を逸らす←これは変だ、私は目を逸らす、目を逸らすそれをしたのは意識がではなくたぶん私の方だ。
 意識はしかしそういえば最初こそスカートから出ている脚を見ていることをいs機していなかったが、意識はその女の子から見られ返すことを意識した瞬間から見ていることに意識的になった。「意識」は紛らわしいので「自覚」としよう。
 意識は最初こそスカートから出ている脚を見ていることを自覚していなかったが、意識はその女の子から見られ返すことを自覚した瞬間から見ていることに自覚的になった。最初だけ、意識は無色透明にちかかったが、自覚をともなったら私という姿が生まれた(戻った?)。
 これが女の子でなく猫だったら、猫が家と家のあいだから出てきて、ちょっと道の端を歩いてまだ別の家と家のあいだに入っていくのを見ているのだったら意識は見られ返すことを自覚せずもっと大胆に見るに集中する、しかしこの場合、意識はたいていそこで妻との架空の会話をしたりしている、そのときも妻の姿とともに私の姿も少しは見えている。
 女の子の脚に戻る。それと並行して意識は、
 「おい保坂、女見るときまずどこ見る?」
「そりゃあ、顔だよ。」
「そうだよな。
『顔か。顔見てるうちはダメだな。女は脚だ。』って、坂本さんが偉そうに行ってたけど、俺も顔だな。」
という、大学一年のとき、サークルの部屋で同級生の森野とした会話を思い出す。意識は女の脚にまず目が行くようになったことを自覚するようになってから、脚に目が行っているたびにその会話を思い出していると言ってもいい。
意識がその会話を思い出していることに意識は自覚することもあるし自覚しないまま会話がただ過ぎ去っていくこともある。見られ返した見によっては、
「スケベなオヤジ」という声が聞こえてくることもある。いや、それがはっきり聞こえた(もちろん心の中で)ということにしたらやっぱり作り事になる。意識ではその萌芽くらいのところで止まる。「あ、目が合っちゃた。まずい、――」くらいのところだ。
それと並行して、これはいつもではないが、その女の子の脚がよっぽどきれいに伸びていた場合、意識はいくつかの印象的な脚を思い出す。たとえば、三年前だったか、夏、鎌倉駅のホームに女の友達と二人で立っていたTシャツにショートパンツの子の脚、まだ十代だった、背は高くないがお尻が上がっていて、お尻のトップからショートパンツの生地が太腿につくのでなく太腿と隙間があいてぴらぴらしていた、そういう上がったお尻のショートパンツを見るといつもカール・ルイスのお尻を思い出す。鎌倉駅のホームにいたその子はぺったんこのサンダルだったのにまるで爪先立ちをしているようだった。
「そういうときは、『きれいですね』って言えばいいんですよ。」と、デザイナーをやっている女の知り合いが私に言った。
「言えないよ。」
「カメラマンだったら必ず言いますよ。その場で声をかけないと二度と会えませんから。」 
そこで私は「だからカメラマンは女に手が早いのか」と思ったが口には出さなかった。
というその会話まで、女の子の脚を見ながら思い出すこともある。イントロ当てクイズの不思議は、最初の「ジャン」よりもっと短い「ジャ」だけで曲名がわかることで、曲がわかるということはその曲の一番有名か印象的なフレーズがその一秒以下の時間に頭で鳴るということで、それはどういうメカニズムなのか解説している本をまだ読んだことがないが、音楽という、早回しすることに限界があるだろうものさえ記憶の中では十倍とか二十倍の速さで再生される、――のだとしたら、右の会話が一秒で頭の中で再生されても不思議はない。
「意識の流れ」は小説として、ということは文章として線的に記述されたものだ。単線的とまでは言わないが、同時多発的・同時複合的に展開されつづける意識とそのまわりのことまで記述したわけではない。実際の意識において、ここにいままで書いてきたことは順次的に起こるわけではなく、ほとんど一挙に起こる。
意識は脚を判断するのと並行して、体の全体のバランスも見る、肩幅も見る、髪型は当然見る、脚がきれいなのだからその子が美人であれと期待する(しかし、通りすがりの女の子の脚がきれいだとか、その子が美人じゃなくてガッカリするとか美人だったらうれしいとか、なんでそんなことが、たちまち過ぎ去る気持ちであるにしても、小さな出来事となるんだろう)。それと並行して、その女の子の向こうの風景も見ている、荒っぽい運転の車が来たらアブナイ! と思う。
いまこの舞台となっている道は商店街から一本外れた住宅地の狭めの道路で車の通りは多くない、車は自転車よりちょっと速いくらいのスピードしか出さず、車の気配がないとき人は道の真ん中とは言わないが、もろに端でなく、車が通るときには一歩端によけなければならないくらいのところを歩く、自転車は道の真ん中を走る。
意識はこの道を歩きながら冬なら陽が当たるところ、夏なら陽が当たらないところを選ぶ。意識は道沿いの家が育てている花も妻のおかげで気をつけるようになり、だから花に注意がいくときには妻の顔が過ったり声が一瞬過ったりする、こう書くと意識は妻を愛しているように響くだろうが、愛するという動詞ではもはやなく瞬間の積み重ねとか習慣のようなものだ、いずれにしろ私はもともと道を歩くこと、散歩することが好きだったが妻のように一軒一軒の家が育てている花に注意を向けていたことはなく、五月の晴れた日に吹く風とか夏のカンカン照りの日の青のずうっと遠くには闇があると感じさせる空など、個物でなく気候の方を楽しんでいた。
意識には語りかけたり目についたものを報告したりする相手がいる。語りかけや報告は一方通行というわけでなく返事も聞こえる。友人のKは、「保坂の小説の風景描写は語りかけになっているから、それを自分への語りかけと感じる読者がいるんじゃないか。」と、かつて私に言ったが、風景を見てそれを楽しむことは語りかけを伴うものではないんだろうか。というのは友人Kは一人でいるときそういう語りかけはしていないと言うのだが。
その語りかけをしているとき、しかし、私がいま問題にしている一人称の、一人称となる以前の状態を意識といま呼んでいるんだとしたら、語りかけが順調に行ってそれが少し長くつづくと意識の中で「私」の像があらわれてきているような気がする。像となった私は、一人称でなく三人称のように感じる。
五月の風に吹かれたり、夏の遠くまで晴れた空を見上げたりしているとき、一人称の私は本当にここにいるんだろうか。猫が調子悪くて猫の様子を観察しているとき、この「観察」という言葉を使うと観察者の存在を即座に前提してしまうが観察しているとき意識は私である必要はない、ただ観察という行為そのものになることが観察の理想だ。
こんなことは誰かがズバッとひと言で言い切ってしまえばいい、しかし私はそれがうまくない、言葉というのは目から、さらには耳から入ることで信憑性を発する。行為の最中において一人称がなくなるのはいわゆる没入ということだ。弟子は師匠に言葉で教わるのでなく見てならうというのは、言葉にすると一人称が生まれ、行為者の実感をそこですでに裏切るということもあるだろう。
意識とはアンリ・ミショーのようにメスカリンを服用しなくてもいくつものことが渦巻いている。一人称はそれを抑圧し、単純化し、伝達可能であるかのように思わせる、小説を三人称で書いていたらそれが問題とならない、一人称を意識にちかづける、私の関心はそういうことになってきた。