◆◇◆試行錯誤に漂う17 ◆◇◆
「みすず」2013年10月号  
小説は作者を超える(1)

 小説の登場人物は作者を超える。
思考の輝き・狂気の闇の深さ・存在の崇高さ……etc.において、すぐれた小説の登場人物たちはそれを書く実在の作者を超える。ドストエフスキーの小説を考えれば、誰でもそれに同意するだろう。
しかし今回私は、アルゼンチンに生まれた作家フアン・ホセ・サエールの『孤児』(寺尾隆吉訳、水声社)という邦訳で二百ページに満たない小説を読んで、小説は作者を超える、という、私自身何度も書いたかもしれないし他の人も何度も書いているかもしれないこの言葉を、小説を読んではじめて発見したみたいに発見した。
小説は作者を超える。
どういう力学や運動によってそれが起こるのか、いちいち説明することは難しいことではないが、そこをいちいち説明しなければわからない人に説明しても、それでわかったと言ったその人は翌日にはわからなくなっているだろう。小説を書くのは作者なんだから、小説が作者を超えるはずがない、「人生は短いが芸術は長い」という成句を言い換えたつもりなんだろうが、これは言葉の詐術だ、百歩譲って、小説が作者を超えるのが正しいとしたら、それはその小説を書くことによって作者が成長し、だから小説はそれを書く以前の作者を超えたが、その小説を書いたあとの作者はその小説以上であることは間違いない、……うんぬんかんぬん。いちいちこんな想定反論を書く私も不毛だが、こう書いてみるとこの想定反論の貧しさに驚く。これではまったく反論になっていない。
サエールの『孤児』は、十六世紀に港町で育った孤児が西まわり航路の船に乗って中南米のどこかに着くと、いきなりその孤児以外の全員が原地のインディオの弓矢で咽を射抜かれて死ぬ、死んだ彼らはインディオによって全員食べられる、ひとり助かった孤児だけは一種の客人待遇を受けそこで十年間暮らす、ヨーロッパから船が十年ぶりに来たので孤児である語り手はその船に乗せられる、残ったインディオたちはヨーロッパからの船に乗った兵士たちに皆殺しにされる、その死体が川に浮いて流されてくるのを孤児は目撃した、というのが前半で、後半で晩年を迎えた孤児がそこで暮らした十年の歳月を回想することによって、この世から消えてしまったインディオの一部族のコスモロジー(宇宙観・世界観・死生観)をずうっと考えていく、という小説だ。
私はこの一冊はニーチェの全著作にも匹敵するのではないかと思った。もちろんそこにはカラクリがないわけではなく、私は十冊か十何冊だがニーチェを読んでいる、ふだん自力ではまったく喚び戻すことができないニーチェの記憶が『孤児』の後半を読みながら次々あふれるように戻ったということだから、私はかつてニーチェを読んだから『孤児』をニーチェの全著作に匹敵すると思ったがニーチェを読んでいない人はここからニーチェが言ったことを喚びさませない、それゆえニーチェを読んだことのない人にはこの本はニーチェの何にも相当しない——しかし! 仏典を読んできた人なら、『孤児』をきっと、何巻もの仏典に匹敵する、と思うだろう。
そういう本を全然読んでいない人なら——しかし本か経験か何かがなければこの本を読まない(この本に出会わない)のだから何かはある、その何かの一番深いところに響くと感じるだろう。
そんな本を人間は書けない。だからすぐれた小説を書くとき作者は人間を超えた何かになる。
人間とはおそろしいことに人間を超えた行為が連綿とつづく何ものかである——という言い方はマッチョで嫌だし、そういうことを言いたいのではない。

インディオたちを殺害した兵士たちは夢にも思わなかっただろうが、犠牲者とともに、彼らもまたこの世界を失っていたのだ。(144ページ)

天空は、彼らを守ってくれるどころか、彼らの支えがなければ、星を抱いたまま剥き出しの大地の上に広がっていることもできない。(同前)

だが、最後には、光の跡はまったくなくなった。その後数分間続いた暗黒は、何と喩えればいいのか想像もつかない。そして、生命の気配が消えたあの状態は、沈黙という言葉とは程遠いものだった。私もインディオたちも、深い暗闇に体を貫かれ、普段なら時折内面を照らす儚く小さな光ですら、その時ばかりは完全に消えてしまっていた。(179ページ)

一部を抜粋してみたが、小説は全体があっての、その一文その一段落なのだから、抜粋で何かが伝わるかは全体を読んだ私に読んでいない人の受け止め方はわからないが、とにかく、作者と訳者への敬意を表わすにはやはり抜粋しかないので抜粋する。

最近またまたラテンアメリカ文学ずいてる私は、次にレイナルド・アレナスの自伝『夜になるまえに』を読み出したが、『孤児』の余韻が残っている体にはこの小説は子どもっぽすぎて読めない。なんだか、「臆面もない」。
小説には、題材があって語り方がある、その両方か片方があれば小説は小説としておもしろいものになる、という自信が油断というか、得意顔になってこの小説にあらわれている。
前回私が凹凸と書いたことはこれとつながっている(同じことかもしれない)。ベケットには書き手として自信を持てる何もない。何もないところからベケットは出発している。『孤児』にはベケットと同質のものを感じる。大航海時代という時代的な背景(=非日常的設定)とか食人という刺激的な題材とか、それらは『孤児』においては全然、小説それ自体を駆動させる力とはならず、小説は静かな思索みたいなものがゆっくりゆっくり広がってゆく。
抜粋をするときに、「小説は全体があっての、その一文その一段落なのだから、」という、抜粋が多い私がふだん書きもしないことをわざわざ書いたのも、ベケットの小説のときとりわけ私はそれを強く感じるからだ。
ベケットの小説には案外、「ここだ!」といって線を引きたくなるところが多い、しかし、

この点では無邪気さはなんの役に立つのだろう? 無数の悪霊に対してどんな関係を持つだろうか? その点ははっきりしない。ぼくの印象では、彼はとんがり帽子をかぶっているようだった。よくおぼえているが、ぼくはその帽子にびっくりした、庇つきの帽子や山高帽だったらそんなにびっくりしなかったろうに。ぼくは彼の不安にとりつかれたまま、彼が遠ざかるのを眺めていた、いや、それは必ずしも彼の不安ではなく、彼がその一部をなしている不安であった。もしかするとそれはぼく自身の不安で、それが彼にとりついたのかもしれぬ。彼はぼくの姿を見なかった。ぼくは道路のいちばん高い場所よりもさらに高いところに坐り、おまけにぼくと同じ色の、つまり灰色の岩にへばりついていた。たぶん彼はその岩を見たのだろう。いまさっき指摘したが、彼はその道の特徴を頭のなかに刻みこむかのように、あたりを眺めていた、だからよくおぼえてないけど、ベラッカやソルデロのようなぐあいに、ぼくがそのかげにうずくまっていた岩を、彼は見たにちがいない。しかし一人の人間は、ましてやこのぼくなんかは、厳密にいえば道の目じるしにはならない、何故なら。という意味は、もし彼がまったくの偶然の機会に、長い期間がたったあとで、悲しみに打ちひしがれて、あるいはなにか忘れたものを探すために、あるいはなにかを焼き捨てるために、その道をふたたび通ることがあっても、彼が目で探し求めるのはその岩のほうで、たまたま岩かげにいて、まだ生きている人間のからだというこの不安定でかりそめのもののほうではないのだ。いや、たしかに彼はぼくを見なかった、それは前に述べた理由のためでもあり、またその夕方、彼は生きものには興味を示さなくて、むしろ移動しないもの、あるいは老人はもちろん子供でさえ嘲るほどゆっくりとしか移動しないものに興味を示したからだ。

これは三輪秀彦訳『モロイ』の一節だが、あとになって読んでみると、私はなぜこの二箇所にだけ傍線を引く必要があったのか? 私は(たぶん二十年前くらいの私は)ここにある「不安」とか「不安定」という言葉にでも反応して、ここに線を引いたのだろうが、ここに線を引くなら前も後も引くのが筋というものだろう。
結局のところベケットの小説は空間全体であって、読む側は線など引いて、べたーっとした(べたーっと見える)空間に凹凸をつけたくなるのだが、あとになれば、線が凹凸の機能を果たしていない。線を見つけたら、読む私は線のしばらく前から読み出して、しばらくあとまで読む、ただそれだけ。——というわけで、長い抜粋になった。
目の前にもしベケットがいたら読者は、「『モロイ』の××ページのこの箇所に書かれていることは、——」と質問するかもしれないが、ベケットはただ首を横に振るだけで答えない。ベケットは作者の特権として知っていることを隠したいわけではなく、答えられないから答えない。
たとえば村上春樹はいつも新作が話題になるたびに「多崎つくる」という名前は、「たくさんの崎=岬」だからリアス式海岸を意味しているに違いない——という風な、謎本的(ゲーム的というか)興味を読者に掻き立てるが、『孤児』にはそのような謎解き要素はない。
それはもちろん再読、再々読のたびに新しい発見はある、しかしそれこそが小説の厚みであって、二読目三読目にやっと感じることができて初読時には感じることができないものがあるのが芸術というものだ。二十年聴きつづけた音楽、二十年部屋に飾っていた絵や写真、それら二十年目に抱く感想は一回目には抱けない。
作者だけが知っている、作者ならわかる、読者に謎解きとして与えられる、つまり作者に訊けば一発でわかる謎について、私は前回も書いたが、小説を読むことを作者の意図を推測することだという誤解は広がる一方なので、二回や三回言っても多すぎることはない。
小説に謎など必要ない。題材もとくに目新しくない、語り方も趣向を凝らしているわけではない、そして読者に向けられた謎もない。小説はそれでも成立しうる。小説とはまさにそのようなものだ。しかし、そのような小説がどうして成立しうるのか?
成立しうることはわかっていても自分がいまこうして着手したそのような小説がどうして成立しうるのかはわからない。
何かをつくるとはそれをすることだ。小説にかぎらずすべての芸術作品・表現行為は、おもしろさを言葉によって誰にでもわかるように説明できるそこには、その作品を作品たらしめている何かはない。それは作る過程で生まれる遠い手応え・遠い響きをかすかな導きとして、おぼつかない足取りで進むことでしかない。