◆◇◆試行錯誤に漂う18◆◇◆
「みすず」2013年11月号  
小説は作者を超える(2)

こうして書いてきて気づくのは、小説とは私にとって、私にとって魅力ある小説とは、外のないものなのではないか。外部のない運動体、それに対して外の視点を持つことができないもの、対象化されざるもの。
だから一番にメタフィクションが論外となる。
メタフィクションは書かれたこと(A)に対して外に立つ作者が書かれる(B)。Aを取り囲むBがあるのがメタフィクションで、それが明らかなメタフィクションの姿をしているのなら、Bは書かれなくても書かれたのと同じことになる。
メタフィクションはつまり、Bが書かれているかどうかが問題の中心でなく、Aに対して作者の意識的な操作が介在しているかどうかということだ。Aはふつうの小説に書かれるようなことであってかまわないが、Aとして書かれていることが、ずぶずぶにだらしなく、時間や空間のつじつまが合わない場合、読者は「これはどういうことか?」と居心地悪い気分になる。芝居で役者がひんぱんに台詞を忘れたら、
「これはこういう演技なのか? 演技じゃなくて本当に忘れてるのか?」
と考える、その答えが「こういう演技」の方だったら観客は安心するが、「演技じゃない」場合、落ち着かない気持ちになるだろう。それが素人芝居でなく、立派な劇場でやってるチケット代も一万円ちかいような芝居で、ひとりの役者が三分に一度台詞を忘れたら、観客はそれをどう受け止めたらいいか、わからない。いろいろな言い方があるが、「演技じゃない」場合、観客はどこまでが作品(としての意図)なのかわからない、作品の外部がつかめない。
「おもしろい」という言葉の定義にもよるが、本当におもしろい、リアルにスリリングなのは「演技じゃない」方だ。

ベケットに出会い、ベケットにハマるとしばらくベケット的な語り口が感染し、私はベケット的語り口でさらさら、ベケット自体の語り口はつっかえつっかえで言い直しがひんぱんにあるそれをさらさら書けてしまう、ベケット的言い直しは書いていてとても気持ちがいい。しかしそういう風に書きながら私は「何か違う、……」「何か、決定的に違う、……」と感じていた。
その決定的な違いが最近やっとわかった。それを私は三ヵ月前から書いているのだが、それは私自身がいままた次の小説を書くことと私の中で混然一体となっていた。人は心の中で思うことはそれをそのままセンテンスにして他の人に通じる必要はないし、実際ほとんどそのようなセンテンスでばかり考えている。
「暑いなあ、そろそろCDが届くはずなのにおかしい。」
と、たとえば心の中で考えたとして、暑いこととCDが届くことは心の中ではかなり直線的につながっている。
暑いのは今日だけでなく昨日も一昨日も暑かった、一昨日の暑さの中で私は学生時代に冷房のない部屋の中で当時つき合っていた女の子とセックスしたことを思い出し、急になつかしくなってそのときよく聴いていたボブ・マーリィの『KAYA』をまた聴きたくなった、しかし『KAYA』はレコードしかなかった、それでアマゾンで『KAYA』のCDを注文した、しかしまだ届かない――というこれは直線的につながっていて、直線的であるがゆえに心の中のセンテンスとしてもこんな形に省略されている。もちろんその女の子が頭を過ったりはするが、しっかり思い浮かぶわけでもない。
私が「混然一体」とさっき書いたのはそのような意味で、こうして書くためにはそれをいちいちほどいて書いていかなければならないのだが、ほどくたびに私は別のことを書いている、ほどいてすらいないのかもしれない。
この「混然一体」となっている状態は私自身にはなんだかとても楽しいことなのだが、書こうとすると、ほどく前にもつれてゆく感じがする。

いま書き出そうとしている小説は新聞の連載だから、もう何年も前から話はあり、私は『未明の闘争』の方を書いていたので何も準備などしてこなかったが、ひとつ「こういう書き方」というのを別の十五枚くらいのエッセイで試したことはあり、それは自分ではなかなか気に入ったので、その後、漫然と「あの書き方をしよう」と思っていた。
ところが実際にその書き方で書き出すと、たったの五、六枚のブロックが書けない。十五枚のエッセイの中の五枚と、四百枚ぐらいになるだろう小説の中の五枚は、書いてみたら全然違ったのだ。ふつうに想像されるのとは逆に、十五枚のエッセイの中で流せるはずの五枚を四百枚の小説では流せない。言い方はいろいろあるが、十五枚のエッセイの五枚は他の十枚に響くだけでいいが、四百枚の小説の五枚は、まさか「四百枚に響く」ということもないだろうが、もっと遠くまで響く力なのか予感なのか、何かを必要としている(らしい)。
これはしかしエッセイと長い小説の差ではないのかもしれない。そのエッセイを書いたかれこれ三年前、私はベケットと遠ざかっていた、『未明の闘争』は全体の三分の一か四分の一しか書いていなかった、『カフカ式練習帳』は全体の半分をまだ書いていなかった。
小説を書くということは作者である自分がその小説に影響を受けるということだ、影響を受けるというより書いた分だけ作者である自分は別の場所に連れていかれる。その意味で作者も(作者こそ)小説の登場人物=作品内人物の一員なのだ。一番具体的には自分が書くためにはベケットは遠ざけていたのが、もろにベケットを近くに置く、いやベケットの近くで自分が書こうと思うようになった。
私は次の小説というのは、山梨の母の実家で従兄姉三人に囲まれ、自分は従兄姉たちとのきょうだいの四番目の末っ子として育ってきたのに、四歳になる前に鎌倉に引っ越した、鎌倉ではあたり前に長男で妹が一人、でも夏休み・冬休みなどに田舎に行けばまた四番目の末っ子になる、だいいち山梨は親戚同士が近く、従兄姉たちはいつでも寄り集まって、くだらないことを言っている、鎌倉に帰るとドーンと淋しくなる、というそういう話を書こうとだいたいのところは考えていたのだが、自分の記憶の中にはっきりとあるエピソードや情景を書く気がしなくなっていた。
この「書く気がしなくなっていた」というのがところが今の私にとってほとんど困ったこと、ネガティブなことでなく、「じゃあ何が書きたいのか?」は、かなりはっきりしている。どう書いていいのかわからないことを書きたい。
エピソードや情景として像を結ぶ手前の状態を書きたい、あるいは逆に、みんながよく知っていることを書きたい。そういうことを新聞の小説として書いていいか、というためらいはしばらくあったが、書き出してしまうと、といってもそれが発表される小説の書き出しになるのか、私はまだ一枚目から全部書き直すのか、そういうことをこれから何度するのかわからないが、書き出してしまうと発表の媒体が新聞かそうでないかはどうでもよくなっている。

私はもうその新聞の小説のはじまりの部分を何度も書いている。全然違うことをそのつど書くのでなく、だいたい同じことを何度も書いている。私はワープロ、パソコンでなく手書きだから、「何度も書く」というのは、ワープロ式にあちこちを推敲することでなく、文字どおり「何度も書く」、「そのつど新しい原稿用紙に書く」ことを意味する。
考えてみると『未明の闘争』のときも同じことをやった。それ以前にはそんなに何度も何度も書き出しを書き直したことはなかったが、『未明の闘争』のときにはこれがおもしろいのかどうか全然わからず、私はしばらく書いては一ヵ月とか二ヵ月とか、放っておいた、というかなかば投げ出した。
で、また書き出した原稿を取り出してちょっと読んでみる、すると「あれ? これ、おもしろいんじゃないの?」と思う、思うのだがなんかギクシャクしている、音が聞こえてこない、それで前回の原稿を見ながらまた一枚目から書いていく、すると前回よりももう少し先まで書き進む、でもその頃また、おもしろいのかどうかわからなくなって、また放っておく。というのを「群像」で連載がはじまる前のたしか二年間くらい繰り返していた。
「音が聞こえる/聞こえない」というのは感覚的で抽象的な言い方で、音そのものではもちろんないわけで、私が原稿を音読するとかそういうことでは全然ないが、自分ではこの言い方がいまは一番実感または感触にそぐう。
もっと一般的な言い方はあるのかもしれない、しかし小説を書くというのは個人的な作業だ、あるいはバンドの演奏のような共同作業でも同じだが、発話するその人の実感は、相手に伝わる/伝わらないに関係なく個人的な言葉にして、相手はそれを受け止めるしかない、もしどうしても相手がそれを受け止められない場合、その人との共同作業は成り立たない。
何かをつくるというのは学校の授業のようにそこにいる全員がわかる言葉を使って全員の理解を得るという必要最低限の知識を共有してゆくこととは全然違う。以前会った大学院で数学の道に進むことを諦めた人は、先生から、
「数式を見て、『ここにホクロがある』と感じられるようではないと数学者にはなれない。」と言われたときに、
「自分にはホクロは感じられない。」と思って諦めたと言った。
聞こえてくる音というのは、書く私を先に引っ張ってくれる牽引力のようなことかもしれないし、書く私がその先を書こうと思う私の中の推進力のようなものかもしれない。しかし、あまり内的なものではなく、書いた文章の表面の言葉の響きとかいわゆる文体みたいなことにちかい。
私はどれだけ一人称で書くのでも、小説のたびに、前の小説とは違う一人称になってその小説を語る、だから「文章の表面の言葉の響き」というのは、その一人称の語りのテンポ、癖、言葉の選び方かもしれない、あるいはその一人称の身体の持つ視力や聴力かもしれない、あるいはその一人称の心を過る記憶の傾向なのかもしれない。
一つの小説というのは『失われた時を求めて』のように膨大な小説でないかぎり、記憶は全方位に向かって開かれているのでない(『失われた時』だって、しかしやっぱりそうだろう)。その開かれた向きと閉じられた向きが、小説が作品としてまとまっているという感じを醸し出すのかもしれない。いまさら言うまでもないが、ストーリーという流れのある/なしが小説にある統一感を与えるわけではない。
この「まとまっている」という感じを小説が持っていることは思いのほか不思議なことで、そうしようと思わなくてもそれができる人が小説を書きつづけられるのかもしれない。無理にそうすれば型通りのものにしかならない。
ところがいま私はその「まとまっている」という感じさえ疑っている、だから書き出しは全方位に向かって開かれる、結局は、こっちは閉じて、こっちはもっと開いて、ということになるのだが、できるだけ閉じたくないものだから、『未明の闘争』は何度も何度も書いた。閉じる開くは記憶だけでなく視覚聴覚も他のこともそうだ。
などと書くともっともらしいが、私が何度も書き直す最大の理由は、たんに新しく書き出した小説(になりつつある文章)に自分が馴れる、馴染むためなのかもしれない。
自分がこれから書いてゆく小説にまず作者が馴染む――その意味でも作者は作品内人物の一員だ。