◆◇◆試行錯誤に漂う19◆◇◆
「みすず」2014年5月号
書きながら生まれる感じ

私はいま『朝露通信』という小説を読売新聞の夕刊に連載している、新聞小説というのは忙しいが一回が900字なのでひどく忙しいというわけではない、一日2枚か3枚というのはちょうど私が書くペースだ、とくに夕刊なので週に一回は休みがある、だから「みすず」のこの連載を休むことはないだろうと思っていたがはじまってみると思いがけないことがいろいろあった、2月にはついに骨折までした。
 小説は読んでいる時間の中にしかない、それは音楽と同じことだというのが私が繰り返し書いていることだ、小説を書く日々を送っていると、小説を書くことによって考えたことは小説を書く時間から離れると忘れる、全部とは言わないがほとんどにちかい、だからこの連載を『朝露通信』を書くのと併行して書くのは望ましい、事情が許すならそうだ、この連載は四百字で12、3枚というのがだいたいの量で12、3枚だと三日で書ける、二日で書けるときもある、12、3枚のうち8枚ぐらいはいつも一日で書く、今回は一日目に7枚書いた、書き出すのに一日必要とするか、8枚書いたその先をどうするか、とにかく8枚書く日の前と後に一日ずつかかるかどちらかの一日はないか。
 三日の中断は書きつづけている小説のペースを乱さない、たとえば月・火・水とこの連載を書き、木曜に小説に戻るとふだんの一日とまではいかなくてもだいたい再開できる、それが五日となるとなかなかそうはいかず、五日離れると戻るのにもう一日か二日かかる、そうすると新聞の連載だとだいぶ距離がつまる、そういうことが11月1日に新聞の掲載がはじまってから毎月ひとつはあった、3月は連載五ヵ月目にしてそれがなく、ようやく「みすず」にまわる余裕ができた。
 連載がはじまる前、私は最初の何枚かを書くのに、15枚のエッセイで試した書き方は通用しなかった、意外なことに四百枚の小説のはじまりとなる何枚かは15枚の文章よりもずっと濃密なエネルギーを内包させた文章でないとならなかった、というような意味のことを書いた、書きつづけているとこれは本当だった。
 しかし、この本当だったというのはどういうつもりなんだろうか、私はいままでどうして一度もそれに気づかなかったのか、理由はたぶん、いままでは一度もいつまでに書き出さなければならない、という書き出しの期限を切られたことがなかったので私は気ままに書き出しを何度も書き直し、というか出直し出直し、書いては捨て書いては捨て、を繰り返していればよかったので冒頭何枚かが持つ初速に気がつかなかったのだろう。
 書き出しをクリアすると無気味なほど進みあぐねない。すらすら書くというのとは違うが、
「うえー、困った、全然進まない、」というのがない、一回だけ連載の42回目は木に竹を継ぐようなやり方をした、やりながら、こういう気合いでつなぐようなことがもっと必要だと思った、思ってしまうと今度はそれを待機する気持ちになるので気合いを入れきる手前で気合いが入ってしまう。
 140回台の前半はついこのあいだ書いた、そのときそれより三回ぐらい前からだったか、というかもうずっと前から書こうと思っていたことを書く流れになった、ところが書いてみると、それを書くために何回分かを使ったようで面白くない、面白くないというのは私が気に入らない、だからそれはやめた。それは書きたいことではあったがすごく書きたいことではなかったというか、『朝露通信』はそういうことを求めていない、それを書いたら『朝露通信』は私の話になってしまう。
 『朝露通信』はほとんどが私の子ども時代の出来事であり私が子ども時代に考えたことだが、それは私=作者や僕=語り手の記憶や経験として閉じられるのでなく、読者の記憶や経験に接続していかないと面白くない。
 書きながら気がついたのは、私はすごくよく憶えていると読む人は思うだろうが、たとえば同じ鎌倉市内の御成小学校の強い少年野球チームの三番ファーストの倉林というサウスポーの格好いい六年生と出会う場面がある、私はそこを書いて何日かしたら、あれは倉林でなく椿という名字だったんじゃないか、倉林でなくあれは椿だった、と記憶が替わっている、こういうことがたびたび起こる。
 『朝露通信』を書きながら、これは『未明の闘争』の終わりの何十枚かぐらいではじめたことだが、「。」を使うべきところを「、」にすることがますます多くなった、もともとは磯阜寤齪Yが『往古来今』の中でやったことだ、私もやってみたらこれはいい、接続詞を使う頻度が減った、「、」と「、」でつながる節が接続詞的な拘束から離れ、順接逆接でない箇条書きか羅列の気配を帯びる、ときに後ろの節が前の節に影響を与える、実際そうなっているかわからないが書いている私がそう感じている、これは大きい、文章は線の流れで同時に二つの節を読ますことは不可能だが幾分かそれにちかづく感じがする。
 『朝露通信』とした光景は私の中にはっきりあった、山梨の母の実家で夏休み従兄と夏、ラジオ体操した広場に行った、その広場の向こうは住宅地でなく畑と田んぼだ、広場の向こうの左は桑畑で右は田んぼ、その田んぼに沿った畔道の草に朝露がいっぱいついていた。
 1月31日、その後2月になると東京は大雪が二度もあり平年よりも寒い日がつづくことになった、1月中旬は天気予報で、私は天気予報を見るのが好きで見逃したときのために録画までしている、一月中旬は天気予報で、
「これから一日か二日平年を下回る寒さの日があっても、何日も寒さがつづくことはなくなるでしょう。」と、確かに言った、最近天気予報の精度が格段に上がり、翌日どころか週間予報もほとんど外れない、これは二十年前には信じられなかった、
「週間予報は全然当たらないんだから、わざわざやらなきゃいいのにな。」
「いや、それでもやった方がいいんです。やるべきなんです。」
という会話は95年頃私は友達の奥さんの友達の旦那の証券会社のディーラーと交した、彼はその後中東の支社に行ったから時期は間違いない、あの頃と比べて週間天気予報の精度は素晴しいが中期予報は見事に外す、その1月後半、暖かい日がつづき、1月31日は春のように暖かかった、その日私は読売新聞の担当記者と山梨に行った。
 私は母の実家の裏にあるラジオ体操をした広場に行こうとしたら、そのあたりはもう何もない! 母の実家の裏が畑が少しと田んぼが広がり、といってもそのあたりに専業農家はないから専業農家主体の農村の田んぼとは広さが全然違うだろうが、向こうの富士川の堤防と住宅の地帯との中間が幅300メートルくらいでずうっと田んぼがつづいていたそこが、もうほとんど何もなくなっていた、かつてあった住宅地と富士川の堤防を結ぶメインの道はなくなり、別の道を工事のトラックが休みなく走っている、広場はその畑と田んぼの地帯と住宅の地帯の境いにあったからなくなっていた。
 草も生えない。朝露も降りない。
 私は何度かエロスを感じた瞬間を書いた、まぼろし探偵がゴザかムシロにくるまれて川に投げ落とされる場面で幼稚園だった私は激しくエロスを感じた、しかしあれが本当にエロスだったのか語り手の僕はわからなくなった。語り手の僕はそれをすぐに訂正して、あれこそがエロスでその後の自分が逆にわからなくなったんだとたしか書いた。それ以上書かなかったから読む人は意味がわからないかもしれない、私はそう考えたからそう書いた、それ以上はうまく書けない、それ以上うまく伝わるように、というか書いている自分にもわかるように書くと自分にも読む人にもわかるだろうがそのわかり方は語り手の僕がそう書いたわかり方ではない。
 次回はそのことを書くと思うが、神秘体験をしたり神を感じたりした人の文章はよくわからない、とくに私はいまはマイスター・エックハルトが書いたものを読んでいるが、それらは常識と同じでないために、その文章の流れの中でわかろうとするしかない、エックハルトの書いたものをまったく神秘体験をしていない、神を感じたことのない私が少しでも理解できたとしたらそれは文章の流れに身を任せたからでしかない。
 一昨年の今ごろは私は酒井隆史の『通天閣』という本のアナーキズムについて書いた章に感動してスラムのことをしょっちゅう考えた。スラムの住人と小説家は同じように疎外されている、スラムに住む人たちは自分を語る言葉を持たない、スラムは住み心地が悪いとは断定できない、スラム出身者がスラムを語ることがあるがその人はもうスラムの外に出た、その人はスラムに住み心地の悪さを感じたからスラムを出てスラムについて語る言葉を獲得した、スラムをとくに住み心地が悪いと思わず生涯スラムから出なかった人たちはスラムについて語る言葉を持っていない、持つ必要がない。
 この構造はほとんど小説とそれについて語る言葉と同じだ、小説家が小説について語るとき小説家は小説家でなかった小林秀雄の言葉などで小説について語ってしまう、小説家は長いこと評論家が小説について語る言葉にまどわされてきた、エロスのことを考えたとき私は一番、子どもは自分を語る言葉を持っていないと感じた。
 最近私は神とか修行のことを書いた本を読むと、自分に修行をさせるようにしむけるエネルギーとエロスの違いがわからない、リビドーという言葉も一種のテクニカルタームなので今は使いたくない、子どもというか幼児期に私が感じて今も憶えているエロスの場面はいわゆるエロではない、というかいわゆるエロはアダルトビデオを見ればわかるが最近はどんどん細分化し、細分化した中で過激化して、それを見て興奮する人はかなり少数としか考えられない、一人のAV女優を十何人の男が取り囲んで順番にその女優の顔に射精しそのAV女優が精液まみれになる、これのどこがエロか、カン違いした余興でしかない。
 ではいつからエロビデオがそうなったかと考えると八〇年代の代々木忠監督のときにはそうなっていた、その前の『ハウ・ツー・セックス』というベストセラーになった本もそうなっていた。あるいは個人が自分の性的嗜好や性的傾向に気づいたときエロはもうだいぶ怪しくなる、職人が技を習得したいような気持ちと重なってこないか、もっと言えばオナニーという技は中にたまったエロスの衝動を解放させるのだからエロスから逃げているのかもしれない、――ここまで来ると自分の書いていることが考えていることを裏切り出す気配になる、小島信夫さんはよく私と話していて、
「このへんにしておきましょう。」と言って、話をあまり前に進むことを避けた。
 あのとき私が感じたエロスは自分の人生の方向とか態度とかを深いところで決める力だったのではないか、その力はエロスに反応しやすいがエロスと同じものではない、それは技術・技法的なものとは一番遠いところにある。よくわからない、……