◆◇◆試行錯誤に漂う21◆◇◆
「みすず」2014年7月号
神に聞かれないように祈る

マイスター・エックハルトがこう言った、
「必要でないすべてのものを無しに済ますことの出来る人こそ、精神において真に貧しき人である。それ故に、樽の中に裸で坐っていたあのディオゲネスは、全世界に君臨するアレクサンダー大王に向かって言ったのである、「私は貴方よりも遥かに偉大な主である。なぜならば私は、貴方が手中に収めたものよりも更に多くのものを無視したからである。貴方がその所有を大したことと思っているものは私にとっては無視するにも足りぬほど小さなものである」と。まことに、すべてのものを無しに済ませ一切を必要としない人は、すべてのものを必要としてすべてを所有する人よりも、遥かに浄福である。」
 これは「人類の知的遺産シリーズ」の一冊『マイスター・エックハルト』が文庫化されて講談社学術文庫に入った『エックハルト』に収録された「教導講話」の一節だ、訳は著者の上田閑照、同じものが相原信作訳の『神の慰めの書』(講談社学術文庫)に、「教導説話」として収録されている、私ははじめにこの一節に上田閑照訳の方で出会ったので、今はこっちは絶版だがこの訳にした。
 一つ目のセンテンスでまず「!」と思う、つづいて二つ目で「!!!」と思う、
「これはまさにベケットの『名づけえぬもの』じゃないか!」
『名づけえぬもの』のぶつぶつつぶやきつづける語り手はカメの中にずうっといる、ああ、そうだったのか! と、しかしそのように「何かをわかった」「手がかりをつかんだ」と思うことほどベケットを読むことのつまずきはない。それでもやっぱりここでエックハルトが言っていることはベケットの心のありようにちかい。
私はカフカとベケットにものすごく惹かれ、信仰にもものすごく惹かれる、私をこういう風に信仰に惹かれさせたものは田中小実昌の短篇『地獄でアメン』だった。『地獄でアメン』は田中小実昌が父が遺した文章を読みつつ、書き写しつつ、考える小説で、田中小実昌のお父さんの信仰は、「信じる」ということがもうすでに主体的で意志をともなった行為である、信じるのでなくただ「仰ぐ」、というあり方で私はそれを読んでものすごくしっくりした。
その頃私は旧約聖書の『ヨブ記』も読んだ、ヨブは敬虔な信仰生活を送っていたが、サタンにそそのかされた神の気の迷いによって、子どもも財産もすべて取り上げられてしまう、それでもヨブは神への信仰を投げ棄てない。ヨブは最後には報われることになるが、すべてを失うところが私はものすごくリアリティがあった、この話についていろいろな人がいろいろに解釈した本を書いているようだが私はそのまま納得できる、それは最初に読んだ頃はまだ完全に納得しきれないと感じた、という記憶はあるにはあるが、今は解釈や解説はいらないと感じている、信仰とはそういうものだ、何か善いことをしたから報酬を得られるなんて、それは経済であって信仰ではない、あるいは人間世界のルールであって神のルールではない。私は私自身はそのような信仰、信仰がそのようなものであるなら私には耐えられない、私は自分はできないがそのようなことが可能な人がいることがすごいことだと思っているのか、現状の自分にはできないがいつかそのようなことができる人間になりたいと思っているのか、どっちなのかさえわからない、この二つは同じことなのかもしれない。

先日NHKのEテレの「日曜美術館」で鈴木空如(くうにょ)という、法隆寺金堂の十二面の壁画を生涯三度にわたって模写した、日本画家というのか仏画師というのかその人のことをやった、「あなたは何故、自分の仏画に署名しないのか?」という質問に、
「もともと仏画は署名しないのがならわしです。したがって年月が経つにつれ絵師の名は忘却される。私はそれでよいのです。」
と、鈴木空如は答えた。
番組ゲストのみうらじゅんによれば、鎌倉時代の運慶・快慶の慶派より前、画も彫刻も作者は署名しなかった。
鈴木空如の答えがすでに言葉足らずというか、自分で字で正確に書いたらこういう答えにはならなかったと私は思った。
仏画を描くことは特別なことだ、仏画は誰が描いたでなくすべて仏の慈悲によって描かれる、仏の慈悲に誰が署名できようか。
仏画は特別なものである、仏画はこの人間の世界に存在しているわけではない、仏画を描くものはすでに人間の世界の名から離れている。
正しい、という言葉もまた誤解があるが、正しく言えばこういうことだろう、それにだいいち名前が残らなくても画がある、画があるのに名前があるかないかにこだわるのはあまりに狭い近代の発想だ。
キトラ古墳の壁画は誰が描いたかわからない、あの古墳の壁画を見て、「この作者の名前が気になる、……」と思う人はいない、「この作者はどういう人だったんだろう、」とか「どういう人生を送ったんだろう、」と考える人は少しいるだろうが、そう考える人はきっと自分も少し製作に関わっているだろう。キトラ古墳の壁画は名前でなく行為が残った、それでじゅうぶんだ、「どういう人だった」のでなく、まさにこういう人だったのだ。
それら画も形あるものなのだからいくら大事に保管しておいてもいずれは消滅する、それでいい、仏画や貴人の墓を守る画を描いた人たちは自分の人生をそのような尊いことに奉仕することができただけでありがたい、これは私にもわかる、私にもわかるが、私が書いたこのことが「まだわからない。」と言う人にこれ以上の説明はできない。

カフカもベケットも、信仰や宗教を大伽藍を建てることとは思ってない、そこが共通している、信仰とは主体性・能動性・意志、これらから離れて小声ですることだ、同時に神はおそるべきもの、無慈悲なものだ、という認識も一致している、呼びかけには応えない、万が一呼びかけが届いたとして神からの応答はどんな手ひどい形でくるか見当もつかない、だから祈りはなるべく小さく、神に聞かれないように祈る。

『明恵 夢を生きる』という本がある、ユング心理学の河合隼雄が書き、いまは講談社プラスα文庫に入っている。
明恵は鎌倉時代の僧で、法然、道元など新しい宗派が次々興った時代にあって旧来の仏教を守った(らしい)、特筆すべきは不犯(ふぼん)の戒律がほとんどまったく守られなかった日本の仏教にあって生涯女性と交わらなかった、そして生涯夢を記録した。
夢というのはいろいろな言い方があるが無意識の活動・思考であり、夢は日頃の訓練あるいは注意力のあり方によって自分のもう一つの思考とすることができる、つまり昼間の活動で得られなかった解釈が夢で与えられることがある。
私自身は夢をそのように鍛錬したことはないが一度だけ、猫のトイレのゴミつまり汚物を入れたビニール袋がふつうに結ぶだけでは結んだところは一箇所だけだからニオイがわずかに洩れる、もっといえばビニール袋自体がごくわずかニオイが洩れるようだ、それは仕方ないとして結び目を二つにすればニオイの洩れは少なくなるはずだ、でもどういう結び方があるんだろう、と何日か考えていたら夢の中で新しい結び方を自分が実演した、目が覚めてやってみたらちゃんとできた、ということがあった。うーん、書いてみると夢の思考、夢による回答としてはなんか小さすぎた。
明恵の夢の思考を知って以来、私は夢をもっと見て、目が覚めても記憶していたいと思うようになったが、これが全然見ない、見ると目覚める直前に「やった!」と喜んでいて、目覚めて五分か十分は憶えているがその後忘れてしまう、「しっかり憶えているぞ。」と思っても眠すぎてノートに書き止められない、それでもただ夢のことを考えるだけで頭のいつもと違うところが活動しているのを感じる、小説を書くとき、空間とかそこに至る時間経過とかがうまい具合に多重的に活動すると頭の中がなんだか騒がしく線でなく面あるいは空間的な奥行きを伴って活動している感じがすることがたまにある、それに似ている。
明恵が『却廃忘記』にこういうことを書き遺した、
「ワレハ天竺ナドニ生マレマシカバ、何事モセザラマシ。只、五竺処々ノ御遺跡巡礼シテ、心ハユカシテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ」
原文は漢字カナ混りなのか漢文なのかわからないが、句読点はないことは間違いない、手書きだから校注した人の読み取り違いもあるかもしれない。
去年、上野の国立博物館で書の展覧会があった、私は最近書を眺めるのが好きだがそのときひらがなのことで発見した、平安時代ひらがなは全然固定してなく、細い水の流れのような墨の跡から音が結ばれてくる、ひらがなはまだ「な」にしても「奈」の変化であったり「名」の変化であったり「那」の変化であったりする。
これは明治政府によって文字が固定されるまでつづいたらしい、2000年正月に山梨の親戚で町の会報誌みたいなものがあり、そこに死亡欄があったが亡くなった70代80代の女性の名前が読めない! それはひらがなにしか見えないが見たことがない、大正十四年生まれの伯父に訊くと変体がなだった、1920年代、少なくとも山梨では生まれた子どもにふつうに変体がなで名前をつけた、ネットで「変体がな」で検索するといっぱい出てくる。変体がなはしかしたくさんあったひらがなの氷山の一角でしかなかったのではなかったか、みんなが勝手気ままに漢字からかなを描き出していたのではなかったか、そこには毛筆という独特な道具の運動が作用していたのではなかったか、私は昔の人たちの毛筆の文字を見るとその動きの自由さにうっとりする、しなやかな動きが一時的に文字となったように感じられる、いまの人たちが書いているように既に確固としてある文字の形にはめているのとは全然違う、彼自身もまた剣の師範である前田英樹氏が鋳型に流し込んでつくる鉄は死んだ鉄だが日本刀のように叩いて鍛えあげてゆく鉄は生きている鉄だということを書いていたが、明治以前の毛筆による文字とそれ以後の印刷が普及してからの文字は日本刀の鉄と鋳物の鉄くらいの違いがあるように感じる。
読みやすい文字、聞きやすい発語、これらはそこに突然現われる他所者に便利な言葉の使用法でしかない、言葉というのは本来人それぞれひじょうに癖があるもので、聞き取る・読み取るのは木目の模様から人の顔の形を見つけ出すようなものなのではないか、ベケットの小説のようなごくわずかの小説がそういう言葉の本来というか原初というか、そういう言葉の運動に接していると私は感じる、鋳型に流し込んでつくるような形がもともとあるものなんてこの世界にはほとんどない、そのつどそのつど生成する。
 私はここで明恵の「ワレハ天竺ナドニ生マレマシカバ」を引用したのは、そういうことを言うつもりではなかった。ここを読んだとき、ひたすら巡礼だけをして学問的なことは関係なさそうな僧の姿を、インドのことなのかスリランカのことなのかわからないが写真でたくさん見たことがあるのを思い出した、さらには「15年間右手を上に上げて一度もおろしたことがない」というそれだけをしているヨガ行者をテレビで見て、「何でもすればいいってもんじゃないだろ!」と大笑いしたことも思い出した、明恵が想像したとおり、聖なる大地インドにいれば、インドということだけで何をしても明恵の修行と同等のことになり得る、これは本当なのかもしれないと私は感じた。
 仏のご加護かそれ以外の神のご加護かわからないが、そこではすべてが善しとされる、そういう土地がたしかにある、またはあった。