◆◇◆試行錯誤に漂う29◆◇◆
「「みすず」2015年7月号
論理、自我、エス、スラム

 ラカンが『精神分析における話と言語活動の機能と領野』の中でフロイトの『日常生活の精神病理学』と『機知』の二冊を完璧な論文だったか完璧な論述過程だったか、とにかく完璧であるとたしか二回言っている、しかし「二回」というのは私がその部分を二回読んだから二回言っていると思い違いしているのか私はもう確かではない。
 私はフロイトを読んだ頃その二冊は話がこじつけに感じてちゃんと読まなかった、今回、しょうがないやっぱり読もうかと思ったら岩波書店の「フロイト全集」の該当の巻はすでに品切れだったので人文書院の著作集の方で『機知』から読み出した、あの本は厚くて重い、私はやっぱりこじつけっぽく感じないわけではなかったがまあ適当に読み進むうちにまたカフカの小説を論じた論文の新刊を見つけた、パラパラとそれの中身を見たかぎりこれもやっぱりカフカを深刻な、暗い、不安の、話として読んでいる、一つの論考だけ読むとそれはもうほとんどカフカの小説それ自体を読んでない、読むというのは一行一行読むということだ、ざざっと読んだ記憶や印象やあらすじや作品の構成で小説を思い出すのでなく一行一行読むということだ、何度目でも気持ちをできるだけはじめて読むときの状態に置く、その小説に対して知ったかぶりしない、先入観を持たない、もうすでに五回も十回も読んでるんだからはじめてと同じに読めない、そんなことはわかってる、それでもはじめて読むように読む。
 フロイトの『機知』はカフカの読解に応用できるんじゃないか? カフカはどうして深刻な話としてばかり読まれるのか、ウィット、ユーモア、滑稽が相手に通じなかったとき相手の反応はどうなるか、相手はどのような心理状態に置かれるか。
 ハンガリーのある村で鍛冶屋が死罪に値する犯罪を犯した、ところがそこの村長は鍛冶屋でなく仕立屋を絞首刑にすることにした、なぜなら村には仕立屋は二人いるが鍛冶屋は一人しかいなかったから。
 という話が滑稽な話の実例として『機知』で考察の対象になっているがこれはとてもカフカっぽい、笑う人は笑うんだろうが笑えない人は笑わない。贖罪は行なわれねばならない、しかしそれをすると後で困る、それで贖罪の対象が【転位】した。『変身』のザムザも『審判』のヨーゼフ・Kも言われのない罰を与えられた、しかしそれは絶対でもう動かすことはできない、という気分が作品の全体を被っている、カフカは贖罪の仕立屋として、自らの行ないとまったく無関係に贖罪の犠牲者として死罪となる家系というのがあるとしたらその家系の一員として生まれてきた。岩波の全集でも【転位】という言葉が使われているかわからないが話としてはそういうことだ、論理の法則には反するが無意識の思考には少しも反しない、無意識の思考は論理的でないが論理的でないがゆえに強い、意識はそれを覆えせない。
 八っつぁんが夢で上等な鯛が手に入って鯛を肴に酒を飲んだら旨かった、という話を次の日、熊さんにしたら熊さんが、「なんで俺を呼ばなかったんだ」と文句言うのと同じようなことだ、ここまでならどうということもないが、八っつぁんは「だからお前んとこ行ったよ」と応える。
 「でもお前、どっか遊び行ってて留守だった。」
 「あ、そうだ、ゆうべ俺は吉原に行ってたんだ。」
 とか何とか、大筋はこうだが細部は私の創作になってるかもしれない、こう書いてみて、最後の熊さんの応えは【夢で】とも【実際に】とも言わないでいる方がいいなと思った。フロイトはこう言っている。
 「抑制に用いられる給付エネルギーがここでは、聴覚を通じて禁じられた表象が出現されたことにより、突然余分なものとなり、それで笑いによる排出へと準備された」(352ページ)
 「機知の聞き手が笑うのは抑制への給付の廃棄によって自由となった量の心的エネルギーをもってであり、いわばこの量を笑いで使いはたす」(同)
 (機知の聞き手としての第三者の適性)「彼はどうしても機知作業が第一の人物において克服したと同じ内的な抑制を行なっているといえるほどの、その人物との心的合致点をもっているのでなければならない」(353ページ)
 機知はすべての人に通じるわけではない、通じなかった場合、最初の二つの引用で言われている笑いとなって排出される心的エネルギーはどうなるのか、ここからは私の想像だが笑いとなってポジティブな作用を心にもたらすエネルギーが逆にネガティブな作用を心にもたらす、その結果、不安に感じたり暗い気分を感じたりすることになる。
 デレク・ベイリーやポール・ラザフォードの即興演奏はふつうに音楽を聴いてきた人には音楽には聞こえない、自分の音楽の知識に絶対の自信を持っている人なら、「ふざけるな!」とか「バカにするな!」と言って席を蹴って出ていくだろうが、演奏者が偉い、素晴らしいとされていて自分はそれを学びに行くような気持ちであの即興を聴いたらどう思うか、「身もだえするような苦悩が表現されていた」とその人が言ったとしても不思議ではない。
 私もカフカは暗くない、深刻じゃない、不安のかけらもないと強弁するつもりはないが、カフカをもう何と言っても前提として、暗く、深刻で、不安な話と決めつけて読む人が相変わらず多すぎる、カフカのかたよった読解がウィットやユーモアが通じなかったり滑ったりした結果の産物と考えることが可能かどうかと思って読むことで『機知』が読み通せた、そうでなかったらやっぱり全部を通して読むのは辛い。私は最近該当箇所の文章をノートに書き写すことにしてる、あとで調べやすいというのが理由だが読むときに少しぐらい手を動かしていると仕事した気になるみたいなところがある、読むという受動的行為の中での息抜きの効果もあるみたいだ。
 フロイトはフロイトでまたつき合いすぎると嫌になるのだがフロイトを読むとラカンとの違いに私はいつも風通しがいい気分になる、ラカンはフロイトの正統な後継者を自任しながら全然フロイトと違う、ラカンはなんかやたら上から目線で論争的で、何より言うことが自信に満ちている、フロイトはどれを読んでも自分がやっているこの学問が本当に科学と言えるものか、この学問を広く科学と認知させるにはどうしたらいいか、という自問自答がある、フロイトは論争とか闘争とかそういうエネルギーを精神分析という学問の確立や一般的認知のために使った、ラカンは他の人たちの誤りを暴くためにそういう種類のエネルギーを使ったように感じる、フロイトもユングやアドルノへの当てこすりや批判はするが一行で通りすぎる、ラカンはそこにやたら力を注ぐ、私はラカンは人間として尊敬できないと思うのはこの本の印象が強すぎるだろうか。
 学説の正しさや価値にとってそれを唱えた人の人柄は問題とならない、それどころか偉大な学説を唱えた人は往々にして人間性には問題がある、と人が言ったとしても私は学説より人間をとる、それどころかそこに学説や論理的思考の問題があるんじゃないかと最近思うようになった。このあいだドラマの『相棒』の劇場版Ⅲ、南の島で元自衛官の伊原剛志が中心となった民兵組織が生物兵器を隠し持って暴走しかかった話をテレビでやったそれを観た、そのラストで拘置所にいる伊原剛志が日本の軍備の必要性だったかもっと強い兵力の必要性だったかを二、三分かけてしゃべる、それはとても説得力があり水谷豊演じる杉下右京は伊原演じる男の理屈に対して正しく反論できたように見えなかった。
 『相棒』のこのラストは私は全体として伊原演じる元自衛官の理屈を支持している印象があると思った。それはいつからか、何が起点となっているか、一つ思いつくのはヒッチコックの『ロープ』でイギリスの優秀な学校の寮長だったかのジェームズ・スチュワートは「優れた人間は劣った人間を殺す権利(か価値)がある」という理屈で寮生たちを洗脳したら寮生たちが本当に殺人を実行した、ジェームズ・スチュワートはびっくりして「君たちは間違ってる、あれは思考のゲームだった」とか何とか言うわけだが、あのジェームズ・スチュワートにしても弱かった、現実の殺人を前にしてヒューマニズムを持ち出しただけだった。
 そういえばそれのもっとはじまりは『罪と罰』だったが『罪と罰』には理屈で暴走したラスコーリニコフの反省だったか後悔だったか、それが読んでるこっちにまで感染するほどしっかり書かれていた、あれはヒューマニズムを超えていた、信仰ということだったんだろうがそこはきちんと憶えてない。人は人を殺したら人でいられなくなる、ラスコーリニコフの熱病にかかったような苦悩はそれだったと今は私は理解している、そこは理屈じゃない。
 私はこの連載でたしか前に坂口ふみの文章のことを書いた、坂口ふみが繰り返し書いていると私が理解しているのは西洋の思考の中心にあるキリスト教はその起源において矛盾を孕んでいる、神学者たちは論理的な根拠づけをするためにいろいろな論理を構築するのだが論理はどこかがチグハグだったり、もっと言えば破綻したりしている、それでも西洋の人たちは何度でも何度でもキリストを根拠づける論理を構築しつづけてきた。
 論理は言葉によるものであり言葉は発せられた途端に指し示した事象と別のものになる、論理と言葉が現にある世界を指し示しつづけようとするなら論理は破綻を孕むのは必然だと私は感じる、医学は人の命を救うという現実の目的を持っているから二十年三十年後に平気な顔して自説を覆す、ひかえめに言って修正する、【医学の進歩】と彼らは言うが正しくは【医学はたえず修正される】だ、非難してるわけじゃない、現実を指し示す意思があるから修正が起こる、それでも医学は現状でじゅうぶん暴走していると思うが論理的であることはたぶん破綻を孕んでいる自覚を織り込んでいる。
 一九九〇年代、私はフロイト、ラカンとニーチェ、ハイデガーだった、偉そうに言ってもどれもきっと三、四冊しか読んでないが自己認識としてはそうだった、九六年十二月にチャーちゃんがほとんど突然死んだとき私はニーチェがまったく読めず、
「ニーチェがこんなに読めないのは、ニーチェはきっとものすごい本当のことを言ってるからだ。」と思った。
 ハイデガーはニーチェが晩年主著を構想し、しかし完成できなかったのは著書として構築することが断片の力と本質において矛盾するからだと言っていると私は理解している、ニーチェは主著どころかほとんど全部が断片だ、そのハイデガーだがソフォクレスの『オイディプス王』だったか『アンティゴネー』だったかでコロスの歌う、「げに恐しきは人間なり」みたいな詩を元にして、人間が人間となったのは荒れ狂う海に乗り出す猛々しさだということを言う、ハイデガーの称揚する猛々しさを真に受けるとナチスになるのは簡単だと私は感じた、だいいちハイデガーは語り口、論証過程の全体が雄々しい、私はあるハイデガー読みにそれを言うとその人はまったくそれに同意せず、「『存在と時間』でナチスにつながる言及は一箇所しかない」とバカなことを言う、つまりその人はバカなだけでなく文章を読む感受性もない、それきり私はその人と話をしてない、もっともはじめからリスペクトもしてなかった。
 ハイデガーを読んでると雄々しさによくうんざりする、その瞬間、本のページの上をモロイがよたよた横切っていく、ベケットはある意味ハイデガー的思考に対する深い反省、あるいは恥らい、あるいは絶望として書いていたのだ、どこがどうと言われたって、ハイデガーのページを横切るモロイが何よりそれを証明している、証明という論理の側の言葉くらいここで不適切なものもないが。
 論理的思考というのは言葉が指し示す対象から離れる性質を増幅させた言葉の使用法でそれはせいようヨーロッパがアフリカやアメリカやアジアを植民地にした暴力性の背景というより背骨になったと思う、ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』でフランス人の調査団が村の大事な仮面とか墓碑を略奪するのを現地の人は抵抗できないのは武力のためだけでなく論理で現地の人たちを黙らせた下地があったと思う、論理というのはそっちに言い出した人が勝つようにできてる、ゲームみたいなものだ、だから論理に言い負かされることは論理が正しいことを意味しない、というより論理はいつも正しい、それゆえ論理の正しさは行動や世界を生きる根拠にならない。
 「ここ数日頭痛から解放されて楽だ」と思ったときにはたいてい直後に頭痛がはじまる、自我にそのように語らせるのがすでに頭痛のはじまりを察知しているエスからの言葉である、というフロイトの言うエスと自我の関係は私が最も好きな人間の自己認識パターンの一つだ、私は論理的なもの、フロイト的なものに勝つにはエスを優位にさせるのが良いと、フロイトを誤読しているに違いない。『素人分析の問題』という論文の中でフロイトはこういう面白いことを言ってる、

 幼少期の性行動にはどう対処したらよいのか、という問題です。それを抑え込むことでどんなことになるか分かっていますが、それを無制限に許そうなどとは思いません。文化の低い国民、あるいは文化の高い国民でも下層の階級にあっては、幼児の性欲は放任状態にあるようです。そのようにすれば、おそらく個々人が大人になってからの神経症の発症は強力に予防できるかもしれません。しかし、それは同時に文化的な能力水準の著しい低下をもたらすのではないでしょうか。(『フロイト全集19』石田雄一・加藤敏訳、岩波書店)

 酒井隆史『通天閣』を読んで以来のスラムに対する関心、というよりスラムを肯定するにはどうすればいいか、スラムの中の人と同じように小説家であれミュージシャンであれ、子どもであれすべての当事者は語る言葉を持たない、という私の関心がここで交わる、フロイトは自我によるエスの飼い馴らしを良しとする、ここでもまたベケットがそれに異を唱える、それより前にカフカが作者が書かれるものの方向をコントロールしない書き方をした、もちろん小島信夫もした、だいいちフロイトは何を基準に「文化的な能力水準の著しい低下」と言うのか、その文化とは自分が被った抑圧を相手にも追いつける行動様式のことじゃないのか。
 ここで終わるつもりだったら、『続・精神分析入門講義』の第三十講「夢とオカルティズム」でフロイトはオカルト現象を支持する人の心理について、
 「人生の厳しい規律を教えこまれるそもそもの初めから、私たちのなかには、思考法則の仮借なさと単調さに対する抵抗、ならびに現実吟味の要請に対する抵抗が蠢き出します。理性は、数々の快の可能性を奪い去る敵ということになります。」(『フロイト全集21』道籏泰三訳、岩波書店)
 と言っている、まさに私は【思考法則の仮借なさと単調さに対】して抵抗していると感じるのだが、こう言ってオカルト現象を否定するフロイトがこの中で思考転移つまりテレパシーだけは認めている、占い師は相談に来た人の無意識をその場で聞き取り、それを未来の予言のように言うと。
 ただこれは私はすごくあたり前と感じる、人は休みなく発するエスの声を聞いてない、目の前にいる人のエスの声がものすごくよく、ほとんど自然に聞こえている人がいる、もちろん聴力の問題ではない、仕草からも言葉使いからも目の動きからも体臭や汗の臭いからもその人は聞く、微妙な声の高低、遅速、間など聴力の部分もある、そういう能力があることをわからない人に言ってもしょうがない、わかる人にはわざわざ言う必要もないが、その能力を【超】能力と言いたい人が多い、この連載で一年くらい前に書いた明恵上人が修行中に離れたところに置いてあった水を張ったカメに虫が落ちたから助けてやれと若い僧に言ったのが超能力でないように超能力みたいな能力はいっぱいある、それ以上の能力もしかしやっぱりふつうにある、あるとかないとか、それを半ば定期的に言ってる私はあると言いたいのでなくあることを誰かに認めてほしいのだろうか。
 ところがフロイトはさらに踏み込んだ、考えうる非オカルト的な合理的な推論を並べたあと、
 「こうした類いの合理主義的推測は、これ以上積み上げても意味がないでしょう。どのみち行き着くのは、《決定不能〔non liguet〕》でしかないからです。とは申しましても、白状いたしますが、私の感じておりますのは、ここでもまた天秤は、思考転移のほうに傾かざるをえないということです。」
 「皆さんはきっと、私が、程よく有神論の立場を保持し、オカルト的なものについてはいっさい峻拒する態度をとったほうがいいとお考えのことと思います。ですが、私としましては、世間に媚びるようなことはできませんし、皆さんに、思考転移、ひいてはテレパシーの客観的可能性にもっと歩み寄った考え方をなさるようお勧めするしかないのです。」
 「申し上げたいのは、精神分析は、物理的なものと、これまで「心的」と呼ばれていたものとのあいだに無意識的なものを挿入することによって、テレパシーのような出来事を受け入れる準備をしてきたということです。」
「これ(テレパシー)こそが、個体どうしが意思疎通を行うためのもともとの太古からの道筋であって、この道筋が、系統発生的発展のなかで感覚器官でもって受け取られる記号を用いたよりすぐれた伝達方法によって駆逐されて行くのかもしれないということです。」
 と、第三十講「夢とオカルティズム」の終盤部分を順に書き出した、「世間に媚びるようなこと」というのはオカルト現象はないという定説のことだ、ただ私はフロイトがこう言ったからといって味方を得た気にならない、こういうことは自分で言わないと言ったことにならない。