◆◇◆試行錯誤に漂う31◆◇◆
「「みすず」2015年10月号
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 NHKのEテレで日曜の早朝と再放送を土曜の午後に放映する「こころの時代」という宗教の番組に釜ヶ崎で活動している本田哲郎というカトリックの司祭が出て私は感動した、感動したというのは心を強く揺さぶられたり自分の中に力が湧いてくるのを感じたりしたという意味だ、本田司祭自身が力強い。私は物静かな宗教者は好きではないというかうさん臭い、宗教者を演じているように感じる、宗教はこの社会の秩序に鋭く対立するものであるはずだ、本田司祭は社会の不正や不平等というか虐げられた者を作り出して維持されるこの社会への怒りが全身から発散している。
 その放送は七月だった、たしかまだこの夏の猛暑ははじまってなかった、本田司祭の本をアマゾンで買おうとするとすでにどれも品切れだった、しかし妻が銀座に行く用事のついでに教文館に寄ると岩波現代文庫の『釜ヶ崎と福音』が置いてあった、本に書かれてあることはテレビの中で肉声で語られたことと重なる部分が多く肉声の記憶があると印刷された言葉は弱く感じたが読むうちにだんだん強くなった。しかし私はこのことをこの連載に書こうとは思わなかった、しかし今日、フロイトの「強迫行為と宗教儀礼」という短い論文を読んでいたら、
「「復讐するはわれにあり」とは主の発する言葉である。古代の諸宗教の展開に見てとれようが、人間が「悪徳」として断念した多くのものは、神に譲り渡されることによって、その後もなお神の名のもとに許されていた。」(フロイト全集第九巻、道籏泰三訳、岩波書店)
 この箇所に出会い、本田司祭を思い出した。
「貧しき者は幸いである」とかそういう言い方が聖書にある、本田司祭は「貧しい人」を「貧しくされた者」と訳す、「貧しい人」というのは、ギリシア訳原文では「プトーコイ」、物乞いしないと生きていけないほど貧しく小さくされた状態をあらわす言葉だと言う、「プトーコイ」はイザヤ書などにある「アナウィーム」というヘブライ語で、この語は「虐げられて、虐げられて、もうどんな立場も、立つ瀬もない」という、本当に弱い弱い立場に立たされている人を指す。
 引用箇所の「悪徳」を私はいわゆる悪徳と感じたのではない、「復讐するはわれにあり」これは「ローマ人への手紙」にある言葉だそうだがその激しい意志、やむにやまれずどうにも抑えきれない感情、それを「悪徳」とここで言ったのだと私は感じた、その激しさが私は本田司祭のテレビで見た姿、表情、語り方を思い出した、本田司祭は「貧しい人」を「貧しくされた人」と訳す。
 貧しく〈された〉、小さく〈された〉、弱く〈された〉、この〈された〉が釜ヶ崎で本田司祭の肉声で聞くととてもよくわかる、というか胸に響く、というかそのまま来る、この人たちはこの社会によってそう〈された〉、自分が悪いから、自分がだらしないから、自分が劣っているからそうなったのではない、社会によってそう〈された〉。一方で、貧しくない、小さくない、弱くない人たちは、
「「信者だから、わたしは神に選ばれた者。世の中に対して地の塩としての役割を果たす、世の光としての使命を果たすのだ」と錯覚している。」(『釜ヶ崎と福音』103ページ)
 今の世界は宗教が力を失なったから、人々の中にじゅうぶんに浸透していないから悪い方向に向かっていけるわけではない、宗教が、宗教を広める活動をしている人たちが本来の宗教を歪めているから良くならない。本田司祭は正しいことを行なうために教会がじゃまだと思ったら教会に行く必要はない、キリスト教徒である必要もない、他の宗教でもいいし、宗教なんかなくてもいい、と言う。聖書を読まなくてもいいと言ったかどうか、それは言ってない気がする、本田司祭は厳密に最も本来の聖書をあらしめようとしている、だいいち本田司祭は「新共同訳聖書」の訳者のひとりでもある、キリストその人が本当に言ったことは何か、キリストその人の言葉として本当に記録されていることは何か、キリスト以前の聖書で書かれている本当の意味は何か、本田司祭はまさに宗教者として聖書に命を吹き込もうとしていると私は感じる。
 私はたぶん本田司祭が実際に言ったり行なったりしていることとズレたことを書くだろう、私のこの文章で本田司祭に関心を持った人は本田司祭の本そのものを読んでほしい、私の書いたことで本田司祭を批判したくなった人は私の書いたことをもとに批判するのでなく本田司祭の書いたものをじかに読むべきだ、それでも私のこの文で本田司祭をはじめて知り本田司祭について負のイメージを持ってしまったことが本田司祭の書いたものを直接読んでも私の文のイメージによって損なわれるということはあるかもしれない、そういう場合はどうすればいいのか、私はわからない、というかそういうことにいちいち拘泥する人はもうどうでもいい。
 テレビを見てこの本を読んだすぐあとくらいにテレビのディーライフで『ヘルプ 心がつなぐストーリー』という映画を見た、ヘルプというのは白人家庭で通いの家政婦をする黒人女性のことだ、映画の舞台は六〇年代前半の南部ミシシッピ州だ。豊かな白人家庭は家事や育児を黒人のヘルプに任せる、そして自分たちはチャリティをしたりしている、白人は黒人のヘルプが作った料理を食べ赤ん坊の世話をヘルプに任せているのに白人はヘルプが自分たちのトイレを使うことを許さない、黒人と同じ便座に裸の尻をつけるなんておぞましいことはできないということだろう、それで家の外にわざわざヘルプ専用のトイレ小屋を作って、
「自分のトイレがあるって、いいでしょ?」と言ったりする、専用のトイレがない家ではどこでしてたのか、庭の隅でしてたのか、映画ではそこは描かれてないがヘルプは黒人居住区からバスに乗って通うくらいだから自分の家に戻って用を足したのでないことは間違いない、案外ホントに庭の隅でしてたのかもしれない、ひどい矛盾だが同じ便座にすわるのを拒絶するほど汚ない人が作った料理を食べて自分の子どもの入浴させたりオムツを替えさせた、その矛盾は当時の白人女性は心の中でどういう風につじつまあわせをしていのか。素朴すぎる考えかもしれないが正しくないことには矛盾が多い、不思議なことにそれをしている人にはそれが矛盾と映らない、文化というのはおしなべてそいうものだと言ってしまえばそうかもしれない、そうだとしたら文化に染まるということは矛盾に気づかなくなることでそこにはフロイトの言う否定か抑圧が働く。
『ヘルプ』でひとりの家政婦が雇い主である白人女性に、息子を大学に通わせたいので給金を前借りさせてもらえないかと頼む、すると雇い主は言う、
「「神は自ら助くる者を助く」よ。人に頼らず自分で努力しなさい。」
 こういう場面に出会うと私は本田司祭の顔が浮かぶようになった、これはささいなようで心の出来事としては決定的な変化だ。考えとは言葉だ、それは外からくる、フロイトはこう言う、
「言語表象が媒介して、内部の思考プロセスが知覚されるようになる。これは、すべての知識が外部の知覚から生まれるという理論を証明するかのようである。思考を翻訳する際に、思考は現実的なものとして(すなわち外部から来たものであるかのように)知覚され、真実とみなされるのである。」(「自我とエス」『自我論集』所収、中山元訳、ちくま学芸文庫)
「現実的なものとして」というのは現実の世界にある物理的現象としての音のようなものと同等にとかそういう意味だろう、つまりとにかく思考は幻ではない、その思考を伝える言葉がここでは私は本田司祭の肉声で語られるように感じる、言葉がずっと信頼できるものになる。
 本田司祭はイエス・キリストを探し求める読み方をしろと言う、「聖書はわたしについて証しする書だ」とキリストは言った。聖書にはペテロとかマルタとマリアとかいろいろな人が出てくる、その人たちの中から自分に好ましい人物を探し出す読み方をする人がいるがそうではない、いろいろなタイプの人間描写を読みたいのであれば小説『徳川家康』でいい(『釜ヶ崎と福音』136ページ)と、聖書を読むとはそれぞれの登場人物を通じてイエスがどういう人だったのかを探し求めることだ。
「ことば」へブライ語の「ダバール」とは出来事のことだ、「言語の異なるどんな人間にも理解できることばは出来事であり、それをダバール=ことばという」(同、134ページ)。
 「受肉した神の子イエスのことを「御ことば」といったりしますが、それは「神のことば」ということであり、神を現し出しておられる方という意味です。人間には見ることも触れることもできない神を、自分の生活に受肉させ、生活化した方だから、それが御ことばなのだということです。」(同、135ページ)
 坂口ふみが書いていたキリスト教思想史における〈全く神〉で〈全く人〉の問題がここでは一蹴されているように見えるがそれは私が浅薄だからだろう、私は坂口ふみの本に戻ればきっとまたそっちの問題に心を捕われるのだろう。小学校のとき毎週日曜学校に行かされている同級生の女の子が、
「キリストなんて本当にいたのかなあ。キリストがいなかったら日曜学校行かなくて良かったのに。」
 と言ったとき、私はキリストが本当にいたとかいなかったとか考える人がいることがちょっとした驚きだった、私はその半年後にカトリックの中学に行くことになるが宗教教育を強制しなかったので相変わらずいたとかいなかったとか考えたことはなく、全体としては実在とは無縁の神話上の人物だった。その後三十歳をすぎた頃から少しずつキリスト教に関心を持つようになったがキリストの実在はどうでもよかった気がする、キリストが本当に生きたことの大事さ、というか「キリストが何をした」「キリストがいたから××××である」と考えるようになったのは坂口ふみでもなく本田司祭かもしれない。
 イエスはマリアの私生児として生まれた、それは道を外れた、穢れた出産だったのでヨセフの家の中で出産することは許されず家畜小屋という最低の場所しか与えられなかた、そこに駆けつけた「三博士」というのも実際は占い師だった、占い師が来た「東方」というのもパレスチナ地方では死海にそそぐヨルダン川の向こうに広がる荒れ地を指し、東の方から来るものは貧しさをもたらすとされていた。そしてイエスは無学で酒飲みで食い意地が張っていた、と本田司祭は最低の人物として、聖書の記述を通してイエス像を描きだす(同、139ページ以降)、しかしここを読むときすでに私は、
「だからキリストなのだ。」という気持ちになっている。旧約聖書の申命記の七章6―7節でモーセが民に確認する、
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(同、101ページ)
 本田司祭は「イエスさまはふつうに暮らせる人だった。だけど英雄的に、貧しい人たちの仲間になられた」というような、そんな人じゃなかったと繰り返し強調する、イエスはつまり神は最も小さくされた者、最も弱くされた者、最も虐げられた者としてこの世にあらわれた。貧しく小さくされた弟子たちがユダヤ人による襲撃をおそれて、「戸という戸に鍵をかけて」集まり、祈っていたとき、舌の形をした「ほのお」が一人ひとりの頭の上に止まった。これが聖霊降臨だが、なぜ聖霊が炎や火で象徴されるのか。
「上に向かって燃えあがる火ですよ。火は、やはりいちばん下につけるしかない。たき火をするときもそう、竈に火をくべるときもそうです。新聞紙をまるめて、火をつけて、それに細いほだを並べて、そこまで火がまわってきたら薪を乗せて、下から上へと燃え移っていく。聖霊のはたらきもそのようなのです。貧しく小さくされた仲間たちをとおして聖霊ははたらいているのです。父も子も聖霊も、はたらくのはいつも低みからだと言い切ってよいと思います。」(同、146ページ)
 私はこうして書き写すと意味を伝えてないように感じて仕方ない、じつは私は珍しく、今回この連載を書くのに何度もやり直した、本田司祭の言葉を書き写すとどうしても違うものになる。本田司祭はまさにキリストその人に向かう、聖書を二千年読みつがれたものでなくはじめて読むように読む、はじめて読むように読めるようになるのは繰り返し読み聖書のことばかり考えたからだ、はじめて読む人ははじめて読むように読めない。聖書から教えを取り払いキリストを描く、それが福音だと私は感じた。
「「信頼してあゆみを起こす」、そのことが信仰なのです。ですから、宗教あるいは教派・教団の違いなど、いっさいこだわらない信仰理解こそ、ほんものと思っています。
 福音は告げ知らせるべきであるけれども、宗教は宣教すべきものではない」(同、167ページ)
 聖書から教訓や道徳や社会規範を読まず行動や思考の原理を読む、まして修辞に惑わされない、私の小説観はそれにちかい、カフカの『変身』をひきこもりの話として読まない、ザムザは汚わしい虫になった、カフカは汚わしい虫になったザムザが家族にうとまれて死んでゆくまでを書いた、小説は余暇の時間に読むものではない、人生の時間として読まれるものでなければ小説ではない、社会に流通する因果関係のような思考様式でない別の思考様式を作り出そうとしたり時間や空間の、人をそこに縛りつけるのでない像を作り出そうとしたりすることが小説を書くことだ、この社会に流通する思考様式や世界像を使って小説を書いたら、小説はそれだけでこの社会を追認することになる。
「なぜ聖霊が炎や火で象徴されるのか」って、これは一見あたり前のことを言っていると思わないか? 聖霊なんだから火なんじゃないの? 聖火だって火だし、大事なものの象徴なら自然と火になるんじゃないの? と思わないだろうか?
 下から上に向かうから火なのだ。貧しく小さくされた人たちがいるのが下だから聖霊は下から上へと燃え移る火でなければならない、それは修辞やイメージでないある種物質的な出来事なのだ、という私の驚きや感動が私はどうしても伝えられない。ことば=ダバールとは出来事なんだ、だから聖書はすべてがキリストのこと、神のことなんだ、というのは私はもっと伝えられてない、これは二〇世紀の言語観に染まった自分の考えを大幅に換えないとこの部分を読んでるあいだだけわかったつもりになるだけだ。
 旧約の神はイスラエルの民が最も貧弱だから彼らを選んだ、神は人としてこの世界に姿をあらわすとき最も虐げられた人たちの一員として姿をあらわした、神は上から人々を教え導くのではない、一番下にいる人の力となる。