日経新聞 「プロムナード」1月14日(木)夕刊

 今日は芥川賞・直木賞発表の日だ。新聞・テレビは芥川賞と直木賞しか文学賞がないかのような騒ぎ方をするが、それはいいとしよう。芥川賞と直木賞すら騒がれなくなってしまったら文学業界はいよいよ苦しい。それに芥川賞・直木賞はたぶん(現存する)一番古い文学賞だから、それなりの敬意は払われてもいい。私だって高校生ぐらいのときは芥川賞と直木賞しか知らなかった。そして、「小説家になって芥川賞とる」なんて、単純なことを考えたものだ。
 文学に関係のない人間がそう考えるのは問題ない、というか仕方ない。しかし文学の周辺で仕事をしている人たちが、「新人作家は芥川賞を目指して書く」というような言い方をするのはやめてほしい。私も新人の頃はインタビューのときに、「保坂さんも芥川賞を目指して書いていらっしゃるんですか?」と訊かれたり、受賞したらしたで、「芥川賞をとったら、もう目標がなくなってしまったんじゃないですか?」と訊かれたりしたものだ。質問者があまりに罪のない表情をしているから、いちいち「そうじゃない」とは言わなかったが、本当はそうじゃない。「××××を目指す」「目標は△△△△」という発想は、大学受験や高校受験の発想なのだ。
 受験はそれをクリアすることが目標となり、しかも高校も大学もよっぽど怠けなければ卒業までスルスルいく。だから高校も大学も入学試験を突破することが最大の関門となるのだが、小説は全然そういう風ではない。芥川賞と直木賞は賞の性格か違うから話を前者に絞るが、芥川賞をとっても、次の小説がダメならそっぽを向かれる。賞の効用が少しはあるから、2、3作は辛抱してもらえるとしても、それ以上はつづかない。——というこの説明はわかりやすいが、肝心なのはそういうことではない。この説明で、評価が外からなされていることに気づいただろうか。
 小説を書くことにおいて何より大事なのは、自分がどこまで納得できるか? 自分のイメージをどこまで達成できたか? なのだ。新人が最初からそんな確固たるイメージなり基準なりを持つことは難しいと思うだろうが、キャリアとともにイメージや基準が変わるとしても、こういうものがない人に小説は書けない。小説家は70歳になっても書きつづけなければならない。30歳でデビューしたら40年以上、40歳でデビューしたって30年以上ある。外からの評価でふらふらしていたら、そんな長い年月書きつづけられない。

 もっとも私はもともと人から目標を設定されたり、あれしろこれしろと指示されたりするのが大嫌いで、ついでに言えば、子どもの頃から課題がよくできたからといって褒められることすら好きではなかった。とにかく自分がすることは自分で決めたい。だから「よく12年もサラリーマンが勤まったねえ」と言われるが、先日久しぶりに会社の人と飲んだら、「全然勤まってなかったじゃないの」と言われた。そのとおりだ。
 こんな人間の言うことを真に受けるか、参考にならないと無視するか、それは自由だが、小説を書きたい人にもうひとつ私が言っていることがある。それは、「書いてあることは裏読みしたり、比喩的に解釈したりせずに、真に受けろ」だ。真に受けることで、自分の価値観・世界観が変わるのだ。