◆◇◆日経新聞 「プロムナード」2月25日(木)夕刊◆◇◆


 部屋が片づかない。机の上もごちゃごちゃだ。机の上がきれいさっぱり片づいていた記憶など子供の頃から一度もない。勤め人時代の私の机を見たことがある人なら、全員が「ごちゃごちゃだった」と言うはずだ。部屋の床は捨ててもいい紙や雑誌で足の踏み場もない。だからそれを踏んで歩くわけだが、たまに片づけて床が見える床の上を歩くと歩きやすくて胸がすく。だったらいつも片づけらればいいじゃないかと思う人が大半だろうが、私には片づける能力がない。
 いわゆる「ゴミ屋敷」とは違う。ゴミ屋敷というのは住人の心の状態のなんらかの反映、つまりメッセージであり、ゴミ屋敷にはだから意味があるのだが、私の場合は、たんに片づけていない。本人もできることなら片づけたいと思っている。よく、「散乱しているようでも、本人はどこに何があるかわかっているんだから、そのままにしておいてくれ」という人がいる(らしい)が、私はどこに何があるかわかっていない。どこに何があるかわかっていないから、下手に物を処分したら必要な物も一緒に捨ててしまうという心配もある。だからいっそう片づけられない。
 片づけは能力なのだ。終業時間になると机の上をきれいに片づけて帰る人は「そんなバカな! 片づける気がないだけだ」と言うだろうが、片づけは、音感や運動神経と同じ能力であり、能力だから遺伝する。
 「うちのおふくろの血筋は片づけができない」と、去年、年の離れた従兄が何気なく言った一言でわかった。長年の心のもやもやが晴れた。その従兄とは母親同士が姉妹で、片づけられない元は祖母に発しているらしい。その直後、従兄の妹にあたる従姉と話していたとき、従姉が「あ、それはこのあいだ片づけちゃったから、もう出てこない」と、笑いながら言い、片づけができない人間にとって、片づけることは二度と出てこないことを意味する。だから、やっぱり片づけには勇気がいる。
 パソコンのCD−ROMのように、もう二度と使わない可能性が強いものはさすがにどこかにしまうわけだが、使う必要が出てきて探すと当然出てこない。仕方ないので同じのをもう一枚買う。で、それを「どこにしまおうか? ここにしよう」と置こうとすると、見つからなかったCD−ROMがそこにある! それでひとつわかった。「見つけよう」と思うから出てこない。「しまおう」と思えば、きっとそこにある。片づけができない人間の頭の回路は、「しまう」と「出す」が繋がっていない。
 「そんなバカな!」と片づけができる人は言うだろう。しかし私だってそういう人に言いたい。「こんな文章もまともに書けない? そんなバカな!」「この小説が難しい? そんなバカな!」
 字のうまい下手だって能力だし、料理だって能力だ。それぐらいはみんな賛成するだろう。だったら片づけが能力であることも認めてほしい。最近、オフィスのデスクの共有化が流行っているらしいが、机を片づけられない人にとって、使うたびに机を片づけるなんて、いじめみたいなものだ。そんなことをしているとまた一人うつの人が生み出されるに違いない。効率でなく、人にやさしいオフィスを!