◆◇◆日経新聞 「プロムナード」3月4日(木)夕刊◆◇◆


 転機とか次のステージとかのない人生はない。私で言えば、小説家となった時とか××文学賞を受賞した時とかがそれにあたるだろうが、××文学賞を受賞したからといってそれまでと態度を変えたくない。それまで日本文学なんかろくに読んでいなかった私のような人間が、「この賞の歴代の受賞者のお名前を見ていると、日本文学という山脈を見るようで、身が引き締まる思いがします」なんて言ったらおかしい。というか、それ以前の自分自身や友達を裏切ることになる。
 ただしキャリアを積むというのは、それ以前には見えていなかったものが見えるようになることであり、変節ではない。小島信夫への傾倒などはその最たるものだったと思う。小説家としてデビューする以前から小島信夫を読んではいたが、自分で書く経験が増えるにつれて小島信夫の小説がどうしてあのように特異な変貌をとげるにいたったのか、ということが実感としてわかるようになった。読んだことのない人は、『アメリカン・スクール』(新潮文庫)所収の「馬」か「小銃」あたりから読んでみてください。主人公の妙な真剣さに笑ったら、もうあなたは小島信夫の魅力から逃れられない!
 それと平行してチェーホフもおもしろいと思うようになった。小説家になる以前、私はチェーホフをおもしろいと思ったことがなかった。チェーホフはひじょうに機敏な書き方をする。私はずいぶん鈍くさい読み方をしていたと思う。カフカにいたってはもっと速い。カフカはいずれこの欄で1回丸々書くつもりだから簡単にしておくが、たった今読んだ一行で何が起こったか? それを受けたはずの次の一行がどれほど予想外なのか? それが見えていなければ、文学史的にもっともらしく言われる“不条理”だとか“現代人の不安”だとかいう評価につくしかない。
 読み方は変わったが、日本文学の正統嫌いは変わらない。三島由紀夫・志賀直哉・小林秀雄、全員嫌いだ。正統には正統らしい独特のうっとうしさがある。正統を私なりに評価するようになったとして、私がそういう文章を書いたら、昔からの私の友達は「あいつ、変わったな」と言うだろう。そのとき、私は自分が子供の頃から経験したり感じたことを捨てて、文学の中で文学をお手本とした縮小再生産の小説を書くようになるだろう。
 「何を子供じみたことを言っている」と思う人がいるだろうが、私は子供じみていてかまわない(売り言葉に買い言葉のようなものだが)。70年代に大洋ホエールズにシピンという凄い二塁手がいた。もみあげと髭がトレードマークだったが、読売ジャイアンツに移籍した途端にもみあげも髭も剃ってしまった。彼はとてもわかりやすい裏切り行為をしたわけで、大洋ファンの怒りと軽蔑を買ったのは言うまでもない。
 バンクーバー五輪のスノーボードの国母選手が服装でバッシングされたが、彼もまた「五輪に出るくらいで、それまでの自分や友達を裏切るわけにはいかない」と考えたんじゃないかと私は思う。そういう気持ちは「成長するときには自分や友達を裏切ることがあってもやむをえない」と考えているタイプの人にはわからないし、わかってしまったらその人たちは自分の生き方を否定することになる。