◆◇◆日経新聞 「プロムナード」6月10日(木)夕刊◆◇◆

 私は猫の言いなりだ。日々のペースの決定権は猫にあり、仕事は猫が寝ている間しかできない。猫が若くて元気な頃からそうだったのだから、歳をとって具合悪くなり、順調な日の方が少なくなった最近ではますますそうだ。端から見ればただ猫にかまけているだけだが、これだけ猫に手間がかかって、なおかつ仕事をしているなんて超人じゃないかと思う。しかし、手間がかかり自分の時間が割かれることもまた猫と暮らす喜びだ。長生きしてくれなかったら、こんなに手間がかかることもない。

 私は子供はいないが、もし子供がいたら子供を猫と同じようにかわいがっただろう。躾なんてことはまったくせず、ひたすらかわいがり、学校に通うようになったら毎日ついていって教室の後ろで子供を見ていただろう。だから「子供がいなくて良かったねえ」と妻だけでなく、友達はだいたいみんな言う。私の猫のかわいがり方を見ていると、子供がいたら毎日学校についていったと、みんな本気で思う。もちろん私も本気で言っている。

 こんな私が言うのだから全然説得力がないが、いまの子供は大事にされすぎている。このあいだテレビに映った卒業式では、一人ずつ壇に上がって卒業証書を受け取っていた。授業風景を見ても、主導権を握っているのは生徒の方で、先生は生徒の関心が逸れないようにひたすら楽しい授業をする。しかしその子たちが社会に出ると途端に厳しい風に晒される。会社訪問に100社まわったというような話を聞くと、本気かと思う。企業はこれから働こうという学生たちの能力を知りたいのでなく、奴隷のような忠誠心だけがほしいとしか思えない。だいたい三年生の早い時期から就職活動をさせるなんて、大学が四年間ある意味が全然ない。企業は本音では大学生を採用したくないんじゃないか。学校にいるあいだの大事にされ方と、社会に出てからの風当たりの強さの段差が激しすぎる。本来能力がある人でも潰されてしまう。

 厳しさにもいろいろあって、能力を問う厳しさと規律を守らせる厳しさは同じではない。というか相容れないことの方が多い。それは私自身が体現していた。私のように規則にがんじからめにされると能力を発揮できなくなるタイプが確実にいる。企業が「独創性のある人材がほしい」と言うなら、規律など形にこだわる厳しさを押しつけるのはおかしい。

 なんてことを言っておきながら話は変わる。最近の若い人とのつきあいは多くないが、直接間接の印象を合わせて言うなら、若い人たちはわかっていないのにわかっていると言う。知っていないのに知っていると言う。大言壮語をしているわけではない。彼らは本当に自分では「わかっている」「知っている」と思っているのだ。だから「知っているなら任せよう」と言って任せて、後でうっちゃりを食らうことになる。若い人たちと仕事をしたことのある人はきっと経験があるはずだ。

 私たちの年代の人は、10のうち4くらいしか知らない場合「あんまり知らない」と答えるのだが、若い人たちは10のうち1か2知っているだけで「知っている」と答えるみたいなのだ。原因は自分を基準にして物事を測るところにあるのではないか。子供時代に大事にされすぎた弊害かもしれない。物事の基準はもちろん物事の側にある。