◆◇◆静かな生活、静かな小説◆◇◆
「文学界」1995年9月号
 保坂和志VS樫村晴香   

 人間に与えられた何十年という時間の流れを、
自分なりに探り、意味付けしたい。
新芥川賞作家が、既成の小説概念を覆す「順列組み合わせ的」発想での作品世界を語る。

■=保坂和志   ●=樫村晴香

■芥川賞受賞のお祝いとして、誰かと会話していいと編集部の方から言われたので、高校からの友人で現在は哲学をやっている樫村に相手をお願いすることにしました。
 高校時代、ぼくは同級生に恵まれていまして、現在、映画監督をやっている長崎俊一もそのひとりで、彼は高校二年の終わりから自主製作の映画づくりを始めて、大学卒業前後には劇場用の映画を撮って、もう映画監督という肩書を得てた。そのあいだ、ぼくは何もしてなかったわけだけど、現実に行動している長崎という友人の存在はとても支えになった。その長崎の映画に、ぼくは役者として出演して、樫村はカメラを回していたんだけど、高校卒業後、樫村は京都大学にいって、一貫して哲学をやっていた。
 そして二十代の後半に樫村が東京に戻ってきて、それからの二年間ぐらいかなり密に会って、会っては何時間も、哲学とか思想の個人講義を受けていた。恋愛の相談もだいぶしたけど(笑)。だから現実には、友人であると同時に師弟関係のようなものだったと思っています。今日はこういう場でもあるし、一応あんまりくだけた喋り方しないで、少しあらたまって喋ろうと思います。
●そうしましょう。
■では、本題に入りましょう。
 大学にいた頃から、ちょろっと小説を書いてたけど、二十八ぐらいのとき久し振りに書いた小説を樫村に読んでもらった。
●そう。デビュー作の『プレーンソング』と比べると、けっこうテンションの高い、死の問題とかが直接に出てくるような小説だったね。
■自意識がものすごい強い小説だった。その自意識を薄めることで『プレーンソング』を書いて、それが初めて活字になった。『プレーンソング』以前の小説を見せたときに、「この小説で何か文芸誌の新人賞が獲れるかなあ」と言ったら、樫村が「そんなレベルはとっくに超えてるけど、別に新人賞獲ってそれでいいわけじゃないだろう」っていってくれたのを覚えてる(笑)。
●その「とっくに超えてる」っていうのは、本当にそう思ったけど、同時に新人賞は通りにくいタイプであるっていうことだった。でも、それは直接言いづらかったからね(笑)。
■自分でも、十分それは認識してたよ。
●だから最初から覚悟しといたほうがいいと、そういう意味合いで言ったんだ(笑)。
 保坂の小説を読んでると、主人公の「ぼく」は、ほとんど何事も考えてないように思える。読者はこの「ぼく」と作者を簡単に重ねちゃうかもしれないけど、実際作品を書き始める上で、作者を強く牽引してきた考えや思いというのはあるんだろうか。
■『プレーンソング』を書いたことで大きく何かが変わったのは確かです。それまでは、ほんとに自意識ごりごりの話を書いてたんだから。
●自意識ごりごりっていっても、あの、なんかだらけて収拾がつかない文体は昔から確立してたような気がするな。『プレーンソング』と全く別ものということはなくて。
■『プレーンソング』は、比較的収入が楽な「ぼく」という人間の部屋に、収入のない友達が入ってきて、だらだらした生活を続けていくという話なんだけど、「ぼく」は部屋を友達に開放する。それと同時に、そのまま小説の中のスペースを、登場してくる人たちに、どんどん開放して、普通ならもっと書くだろう語り手の「ぼく」のスペースを減らしていった。それによってあの小説が成り立っている。書きながら初めて思いがけないくらいに自分のスペースを減らしていくことができたわけで、そのスペース配分は今に至っても変わらない。
▼考えるテンポとしての文体
●でも、あの文体というのは、考えたあげくに出た人工的、戦略的なものではない気もするけれど、どうなんだろうね。
■書いてみて体質的に自分の息継ぎに合うっていうか、文章を頭の中で音読する、というような感じ。実際の音読じゃなくて、頭の中で音読している。「ぼく」の語りは、ふだんの語り口とそのままイコールだとも思う。
●『プレーンソング』の「ぼく」と周りの人との関係、つまり周りの人に対して「ぼく」がちょっとずれたところにいて、落ちこぼれているような雰囲気というのは、文体を考える上で出てきたものなのか、それとも何か非常に深い体質(笑)、のものなんだろうか。
■あの文体がぼくのいわば商品価値としての体質の部分を引きだしたわけで、文体がなかったら、体質は出なかったし、体質がなかったら、あの文体にもならなかったと思う。普通、だらだらしてるっていうと、考えのほうもどんどん減ってくるイメージがあるでしょ。だらだらすればするほど、この人は考えてないというね。ぼくの場合は、だらだらしてる時間が考えてる時間なんです。だらだらは、ぼくにとって考えるテンポで、だから切り詰めた文体にしたら、ぼくは考えることができなくなっちゃう。
●「ぼく」と周りの人との関係を見ると、実は「ぼく」というのは、後からくる別の、というか遡及的な時間にいる感じがあって、これは具体的には、例えば相手の言葉は「 」に入ってるのに、「ぼく」の言葉は地の文で、しかも〈……と思ったけど、……とも思い、……という言葉になった〉という、不決定性を確認する形で頻出する。ここら辺が保坂の文章の特異さを形成しているわけだけど、作者はいつもこういう風に一歩退いて世界に接している人なんだろうか。
■人とやり取りしてたり、猫を眺めてたり、道を歩いてる犬を見たりするときは、いろいろ考えてはいるんだけど、表明するほどの考えは形成されてないんじゃないの?完結しないセンテンスのようなものが頭の中にあって、それが貯蔵されて、書くときに初めて今まで考えてたことが、一つの小説の流れを追って出てくる。だから普段、ぼくが道歩いてるときに、何か感想を訊かれても、全然何にも考えてないようなバカな感想しか出てこない。
●もともと思考が閉じられて、はっきり命題になっていくような力動とは、ちょっと遠いところにあるのかな。それともそういったことに対して、強い拒絶の気持ちがあるから、特にそれを戦略として作品をつくっているということなのかな。
■ぼくは、ある種の人と喋ってると、瞬時にして退屈してくる。どういう人と喋ってるときに退屈かというと、紋切り型を言う人。現実にあるものに対して何か言うときには、紋切り型じゃなくて、人それぞれの観察があるはずでしょ。その観察が語られている限りは、面白くてずっと聞いてる。それは、目の前にいる猫に関する素朴な感想でいい。たとえばこの猫の尻尾は短いとか、見たままの観察でいい。そのときに突然、「やっぱり猫は人じゃなくて家につくからね」なんていう紋切り型を言われると、それに対して、ぼくはものすごく苛立つし、退屈する。目の前の猫からは一切そういう情報はないわけだから。退屈な人というのは別にそこだけが退屈なわけじゃなくて、全面退屈。そういうふうに成り立ってしまった人だから。
●それは要するに、猫について喋ることで、実は猫より自分のことを喋りたがっていて、それがため結局、社会的に規定されたつまらない自分の考えを喋ってしまう、ということかもしれない。
■自分のことを喋るという人は、また別種にいるんじゃないの?そういうのは退屈というよりも、ちょっと不快だけど、それでも会話にはしばらくは付き合うことはできる。そうじゃなくて、個別の猫が目の前にいるにもかかわらず、猫の一般論をすらすら言われちゃうのは(笑)、この猫はいる必要なくなっちゃうから、つまんないわけ。
 猫の話だとピンとこない人もいるだろうけど、恋愛の話なんかをしてて、突然「愛とは得られないものだから」とか言い出すような人がいると、ズルッときて、もう困っちゃって退屈しちゃう。その人の個別の経験が恋愛の話のなかに出てきている分にはやっぱり面白いんだよね。靴下履いたままやっちゃったとか、なんかいろいろあるじゃない(笑)、ここでは言いにくいことが。
●ところで、『プレーンソング』とか、たしかにいろんな話が取りとめなく続いて、気持ちいいと感じる読者もいるわけだけど、一方では、限りなく退行し続ける閉じられた世界で、不愉快だと言う人たちもいただろう。むしろ文壇の中では、そういう人たちのほうが主流だろうと思うんだけど、そういった声は何か圧迫感というか、書いていく方向に影響力を行使することはあったんだろうか。
■作品を書くごとに必ず、この主人公はどういう会社でどんな仕事をしている人なんだろう、という疑問を発する人がいる。それを言われることで、読んでほしい部分が消えちゃう、読んでほしい部分を読んでくれなくなっちゃう。だから、もうちょっと状況設定を入れたほうが、読んでほしい部分を読んでもらえると、特に『この人の閾』を書いているときには意識してた。
●今までの作品は完全に外部のない世界だった。たとえば保坂の作品には必ず出てくる、「ぼく」にとって重要だけど「ぼく」と性的関係をもつわけではない、美里さんや上村さんといった女性が、「ぼく」の知らないところで持っている関係とか、あるいはそういった彼女たちが「ぼく」の考えに異議を差し挟むとか、そういう要素は全然なかった。ところが、閉じられた世界に対して、外側が入ってくるという動きが、『この人の閾』にはそれなりにある。たとえば「真紀さん」が、言葉のないところはまったくの闇なんだといって、「ぼく」をちょっとアグレッシブに攻めていく。これは言葉の手前で自分の考えを宙吊りにしてしまうことで、換喩的というか退行的な世界に閉じてしまう、これまでの「ぼく」を、明示的に攻撃しているようにも感じられる。これは今までとかなり違う。そこらへん、意識的なものなのか、それとも別にそれほどのものではないのか、どうなんだろう。
■あの展開は、イルカの知能という話が出てきたからなの。イルカというはっきりした話題が二人のあいだに生まれちゃったんだよね。今までは、目の前に猫がいるとか、競馬が展開されているとかいう話で、目の前で起きていることを書けばすんでいた。ほかの話題に飛んでいっても大丈夫だった。目の前にいないイルカが話題として出てきたから、二人がそこに踏みとどまってしまった。
●逃げられなくなっちゃったんだね。
■そう。小説をつくる上でも、初めて抽象に踏みとどまったということがあるかもしれない。
●今までの文章だと、「ぼく」の場所と相手の場所とが違うというのが、常に明確だった。『この人の閾』では、相手と「ぼく」の場所がずれてるというところがなくて、どちらも会話がしっかりカギ括弧に入って、相手を対等の資格に置いている。ここらへん、読者は−−芥川賞を審査するような先生方も含めてね−−ちょっと堪えやすくなったという要素はある。だけど今度の作品のような方向にどんどんいってしまえば、これは必然的に、これまでの幸福で不決定な文体で担われていたものが、闇だとか死だとかいった隠喩で指し示されることになって、保坂の作品の固有性は失われる。ちょっと危うい場所にもいるかな、という気がしたんだけどね。
▼「世界とは何か」への解釈
■今書いてる小説も、ぼくのやり方をすると、この人の考えはこうだった、ぼくの考えはこうだった、もう一人はこういうことを考えたという、複数の考えが、一つに統合されずに別々になってないと困るのね。
 前に樫村が、ぼくの書く小説には、時間が流れない、と言ったことがあったでしょ。そこで言う時間というのは、ぼくなりに解釈すると、命題が変わることが時間が変わることであって、Aさんは「世界は何とかだ」と言い、Bさんは「世界は何とかだ」と言う、それが数日経ったときに、それぞれの言うことが、少しずつ先日の命題とは変わっている。ただし、ぼくの場合には統合される方向ではやっぱり変わらないんだけどね。
●普通時間というのは、目的論的なものだから、思考や会話を進めていって、結局、分からなかったことや自分の無意識が、何らかの形で分節されて分かるようになるという時間だけど、保坂和志という作家は、そういう時間とは別の時間を生きてるタイプの人のような気がする。
■「世界とは何か」ということは、すごく考えているんだよね(笑)。登場人物も全員、「世界とは何か」をすごくヘンな形で考えている。みんな奇矯な世界観を持っている。いろんな人のヘンな世界観が同居しているのがぼくの小説なんだけど、「『世界とは何か』という問いは答えが出ないでしょ」というのがぼくの考えなんだよね。
●そうね。ただ普通の人はその問いに対して答えが出なくていいとは思っていないから、保坂の小説を読むと非常にハラが立つだろうね。
■うん(笑)。
 例えば、今騒がれているオウムの人たちは、世界はこうでなければ嫌だっていう考え方なんだと思う。世界を一つの価値観で統合したい人というのは、知的なモラルとして世界はこうでなければいけないと考えているんじゃなくて、ぼくの感じでは、それ以前に世界はこうでなければ嫌だという幼稚な感覚に支えられているように見えちゃう。「世界とは何か」というような問いを発するときに、根本はその人の感情が支えてて、「世界はこうあらねばならない」っていえばいうほど、大人の意見じゃなくなっちゃうように見えてしまう。
●「世界はこうあらねばいけない」っていう人は、要するに、世界が何なのかということを強く知りたいわけでね。それは結局、「自分が何であるか」というのをはっきり知りたい、明確にいえば、言語で分節された形で知りたい、ということにつながっている。
 でも、自分が何かということは、意味や意識の内側では結局答えられないから、人は倒錯的な行為に走ったり、あるいは文学作品という隠喩を通じて、意味の向こう側にある何らかの幻想的審級を示そうとしたりする。保坂が幼稚だという人たちから見れば、結局、保坂というのは、そういいことを逃げてる、つまり「世界とは何か」と考えようとはするけれども、それを言葉としてとことん追及していくことからは逃げていると映るだろう。
■世界はそういう形で解明されるわけじゃないと思っているから。小説とか、論文のレベルで、世界はこうあらねばならない、というような形で解明されるんじゃなくて、世界の輪郭を示すのは、やっぱり物理とか、宇宙論とか、生物学とかなんだと思う。そこでは意味を言ってくれないわけでしょう。宇宙はビッグバンで始まり、ビッグクランチで終わるとかさ、人間は遺伝子に支配されているとか、その輪郭だけは言うけれども、そこに思想をのせるのは解釈の問題だから、その解釈はいろいろあっていい。
 ただ人間中心の一つの価値ということを主張する人は、嫌だし、許容しにくい。
 ぼくは、飼ってる犬が死ねば人一倍泣くけど、死ぬという運命の中で生きているんだから、それ以上はどうしようもない。だから死ぬことを誤魔化すよりは、死に対する解釈がそれぞれあって、それはそれで受け入れてくれれば、それでいいじゃないかというのがぼくの考え方だから。
●その達観というのは、ある種の防衛であって、なにか不安の抑圧を孕んでいるんじゃないかと感じる人もいるかもしれない。たとえば「ぼく」があと半年で癌で死ぬと言われても、やっぱりああいう世界は書かれるんだろうか。
▼想定済みの事実には驚かない
■『この人の閾』にも本筋と関係ないけど、そういったことがでてくる。「アル中って、病院入ると必ず治せるんだけど、退院するとまた戻っちゃうんだって。三ヶ月で戻る人もいるし、三日で戻る人もいるし、十年たって戻る人もいるんだってさ」−−って「ぼく」が言うと、真紀さんが、「でも、三日で戻るのと十年たって戻るのは全然意味が違うじゃない。それは戻るの方にごまかされてるのよ。三日なのか三ヶ月なのか十年なのか、その長さに重点を置けばいいのよ」と言うんだけど。
●あそこは感動した。
■ワッ。ありがとう。
 だからね、まさかあした交通事故で死ぬという前提で普通生きてないから、そこで急に半年後に癌で死ぬというようなことを持ち出すのは、逆に話を単純化するようにしか、ぼくには思えない。
●ああ、なるほどね。たしかに極端な話をする人は、相手にも同じ結論を押しつけて、自分を納得させようとしている気配がある。
■大抵は可能性として想定している中でしか事実は起きない。だから、結果としてどうなろうと、全部想定済みなんだよね。例えば、例の空中浮遊というのは、最初聞いたときは、ちょっと驚いたけど、「飛んでどうなるの」という問題もあるけど、すでに知ってしまうと、その後はほんとに飛んでる写真を見せられても、もう驚かない。小説というのは、そういう事実がもたらされて結論がつくことになってるんだけど、普段の生活というのはやっぱりそれでは変わらないと思う。一方で思いがけないことがあっても、「じゃあ、それでどうなるの」っていう感じがぼくにはずっとある。
●保坂には、世の中をはっきり理解して全部繋げて押さえ込もうという意志がない。目の前にあるものの向こう側にあるものまでも、無理に押さえようという気持ちがないから、世間の人が驚くようなことにも、それほど驚かないんだろうね。
■はい(笑)。
●保坂の小説に対して、現実から逃げててモラリティーがないというようなことを、三島賞の選評なんかで江藤淳とか、石原慎太郎が書いている。そこには不快感が込められているだろうけど、不快感を感じる人たちにも正当な根拠があるだろうと思う。つまり人間というのは、元来現実世界との緊張のもとにあるものだし、だからこそ、言葉や観念で世界を統一的に把握しておかなきゃならない。これは自分が何かということを、はっきりさせなきゃいけない、ということでもある。そんなとき、誰かが空中浮遊したら、ひとは驚くし、世界や自己の統一はがたがたになってしまう。だけど保坂はそういう行動形態とはちょっと遠い世界にいるのかな。
■うん、遠いんだと思う。空中浮遊したら、驚くより、それを解明すればいいんで、現に起きちゃったらそれを受け入れていればいい。だから奇跡っていう観念も薄いんだよね。どんな奇跡でも現に起きたら、奇跡でもなんでもないほかの起きたことと同じになっちゃうんだよね(笑)。
 だから何だろう。ある面で個別性っていうようなことに関心がないっていうことなんだろうか。今書いてる小説の話になるんだけど、その中で長い散歩のシーンが何ヶ所も出てくる。舞台は鎌倉の稲村ケ崎っていう山の多いところで、その山を見て散歩しながら作者のような主人公は、その山に針葉樹もあり広葉樹もあり、落葉樹も常緑樹もあり、高い山も低い木もあり、その下に生えている下草もあり、その落ち葉を食べて腐食させるバクテリアもいて、落ち葉の中に住む虫もいて木の実を食べる鳥やリスがいて、その山が山となるときの造山活動というものもあって、そういう虫と造山活動と木というようなまったく違うスケールの時間が一つの山に全部流れている。非常に複雑なスケールの時間が流れていて、そういうものを山を見ながら感じることができたらいいなと主人公は思っている。
●それは普通、小説に出てくる風景描写とはかなり違う世界との接し方だよね。
■全然そういう風景じゃない。
●言葉の中には結局「私は何か」という答えはないから、「私」の全体性を捉えようとするときには、その全体性を隠喩するために、普通、人は風景を持ってきて、思考から退却して風景に向かう視線と同化し、「私」の幻想的な全体を捉えようとするわけだけど、保坂の風景描写は、そういう動きとは異質の、もっと原始的、動物的な、環境との関係みたいなものなのかな。
■風景描写が心理の説明になっているっていうことを知らなかったの(笑)。
 今書いている小説では、山全体に流れる時間だけを書ければいい、なんてことを思ってる。そして、人間もその時間の中にいる。造山活動のように何万年単位で測られる時間と、小さい虫の何日単位で測られる時間があって、人間に与えられたのは何十年単位の時間。ぼくは何万年単位の造山活動と比べて人間の何十年というのは儚いものとかとは全然思ってない。そこには、それぞれの時間の流れがある。
●「達観」した人が言うようないかがわしさもある語り口なんだけど(笑)。


▼「順列組み合わせ的」なリアリティー

■一応、意味も考えてるんだよ(笑)。人間に与えられたのは何十年という時間だから、その何十年という時間の意味をぼくなりに探っていきたい、意味付けをしていきたいと考えているんだよ。今のところ、まだ分からないから、とりあえず人間に与えられたのは何十年という時間だということをまず確認したい。そのための小説が『プレーンソング』以来のこれまでのものだと思っているんですけど。
●いずれは意味がつくわけ?
■はい、つけたいと思ってます。小学校とか中学のときから、人間は何のために生まれて死ぬんだろう、ということは考えているわけで、それについてもうほとんど小説はみんなお手上げになっちゃってるじゃない。
 以前の小説は文学は永遠だという。でも、地球はあと五十億年しかないんだから、永遠ということはもうあり得ないわけでしょう(笑)。だから永遠に支えられた人間観というものはもう持てない。個人は何十年、人間の歴史は何万年、地球は百億年。すべて永遠じゃないわけで、そこでそれなりの意味をつけていきたい。今までの小説の方法ではもうその意味は出てこないとは思う。
●ところで、『猫に時間の流れる』では、猫という人間以外のものを通じることで、かえって時間のリアリティーが強まっていたような気がするんだけど、人間が相手だと、言葉を喋るから、逆にその言葉によって一つの方向が決まってしまうことに対する危惧が働くんだろうね。猫が相手だと、そういう力が働かないから、反対にリアリティーが強く出てくるのかなあ。
■普通リアリティーっていうと、自分のリアリティーなんだよね。その人が強く思っていることがリアリティーでしょ。子供の頃は、先生はこういうことを考えている人、こういうふうに感じて、こういうところで怒る人、という風に感じていた。子供はそんなことに関係なく単にイタズラをするもの、だから先生は立場上イタズラをしたら子供を叱る。そういう立場ごとの分業が、ぼくの子供の頃からのリアリティーだったと思う。それぞれの人がそれぞれのリアリティーで生活している世界に住んでいる、これがぼくのリアリティーで、だからリアリティーがないとも言えるんだけど(笑)。
 ぼくは昔から文学少年でもなんでもなくて、小学校のあいだは算数しかできなかった。すごくしっくりしたのは小学校五年か六年の頃に習った順列組み合わせで、面白いを越えて、嬉しいぐらいの感じだったよね。ABCD、ABDC、ACBDという、それが全部出てくるということが嬉しかった。
●世の中に対して分からないことは出てこないんだ、という高をくくった気持ちがあって、それが実証されたという喜びなのかな(笑)。
■ただ、ぼくにとって困るのが、そういう世界であるにもかかわらず、順列組み合わせなんていうのは現実にはあり得ないと思ってる人がすごくたくさんいるでしょ。体育会系とか、暴力的な人っていうのは。
●うん(笑)。
■ああいう人はほんとに困るんだよね。順列組み合わせ以外のところからぼくの困るものが出てくるんじゃなくて、順列組み合わせを認めない人が困る人なんだよね。
●保坂の小説の「ぼく」というのは落ちこぼれっぽい雰囲気でもあるけれども、それは自分の欲望に対して落ちこぼれているだけで、科学的な知というのか、ひたすら対象の側に立って認識を深めていこうという、科学的な動きは、逆に受け入れやすい体質なんだね。
■すごく受け入れやすいね。小学校のときは勉強できたわけで、算数は常に百点で国語はあんまり点がよくないんだけど、小学校の先生からは、今まで私が見てきた子供から想像するに、この人は東大の理Iに行って、どこかの研究室に入るタイプの人だ、と言われていたの(笑)。ただ、その後勉強しないから、どんどん落ちこぼれて、国語だと勉強しなくても保ってられるから、国語のほうに行かざるを得なかったというか、やっぱり思春期なりの自我をすくい取ってくれるのは文学的なものだったので、そのときだけは接点が生まれたわけ(笑)。だから、もう大学生活も終わる頃だったけど、ベケットを読んで、圧倒的に面白かったよね。ベケットは、寝たきりの人とかが、あらゆる可能性を頭の中で考えてるだけだから。
●ほかにも感動した作家は当然いたんだろ。
■高校二年で周りが読んでるから、安部公房と大江健三郎を読んで、それは漠然と思っていた文学というものだったから、その範囲での面白さは分かった。高校生ぐらいというのは読み方分からないじゃない。大江健三郎と安部公房はテーマがあるし、面白かったけど、大学に入って、いよいよ自分がものを書きたいとなると、ああいうふうには全然書けないわけ。何で小説にディテールがあるのかというのも全然分からなかった。テーマだけ書けば、それで済んじゃうって感じがあったから。それからしばらく空白期間があって、田中小実昌の『ポロポロ』がくる。ああ、こういう一行一行が小説なんだって非常にしっくりきて、前後してベケットを知った。その頃、高校一年のときに面白いと思っていた深沢七郎も再浮上してくるんだよね。深沢七郎も、高をくくっていて、人間は生きて死ぬだけ、というとこあるから。あと、熱心に読んだのはフォークナー。自分が書きたいという前提で読むことが多かったけど、それとは関係なく、わりと性に合って読んでたのが高橋たか子とか、倉橋由美子。デュラスは大好きだけど、やっぱり書くのとは結びつかない。カフカはその両方にまたがって読んだ。
 『プレーンソング』に至る決定打になったのは、小島信夫だった。目の前で起きていることが作者の検閲をくぐらずにそのまま書かれてる。ちょっとなにかを操作して、都合のいいような情景に変えたり、繋げあわせたりしてないで、目の前のことをそのままどんどん書いてっちゃう。頭の中のもやもやがそのまんま文章になる異常な事態にびっくりした。ほんとに自由な小説に見えて、小島信夫のように書ければ、自分の中にあるものをうまく表現できると思った。
 『この人の閾』を書いた内的な動機はいろいろあるけど、ぼくにとってはじめに必要だったのが、東京に通勤する人間にとっての小田原という場所。それと、会社員の夫、小学校と幼稚園に通う子供という三人の家族のタイムテーブルのなかで折り合いをつけて生活している主婦という立場。どっちもぼくのなかでは、幾何学的なイメージなんだよね。その二つだけは事前に必要だった。
●幾何学的という表現には、けっこう負荷がかかっているようだけど。
■ほかの言い方をすると「関係」ということになるのかな。東京と小田原の地理的関係において、小田原は中心じゃない。話題になっているものが中心にあるんじゃないというのがぼくの幾何学的なイメージなんだけど。
●小田原という、東京の「ぼく」の時間からちょっと外れたところにあって、だけど、そう遠くもないところで、小説を書く場所としてちょうどいい安全な遠さと近さを持った世界ということかな。
■ぼくの小説は二種類しか書き出しがないんだよね。どっかに行ったか、引っ越したか。『プレーンソング』は引っ越しで始まり、『草の上の朝食』はその続編で、『猫に時間の流れる』はやっぱり引っ越してそこで知り合って、『キャットナップ』もやっぱり、わざわざ「引っ越して二年後」って書いてるんだよね。ほかに『東京画』でも引っ越してるし、『夏の終わりの林の中』では、植物園を訪れて、『夢のあと』では鎌倉を訪れている。
●常にどっかにフラッと出かけて行って、それでビールかなんか出されて、肉体労働ちょっとさせられてとか、どうしてそうなっちゃうのかね。
■猫を書くのも、猫をよく知らない、知りきれないという感じがあるからね。引っ越したり、訪ねて行ったりする場所にも、よく知らない部分がたくさんある。小説の中で語りながら、その場所がどういうところなのか語り手が知っていくという構造にしないと技術的にうまく書けないんだよね。
▼書くことは心理テストに似ている
●東京だと、もう新しい視覚として入ってくることがなくて、どんどん相手のことを詮索したりするからそれを避けようとしているのかな。
■小説家の作業というのは心理テストに答えるのに似てるところがあると思う。「あなたが久し振りの女の人と会います。その場所はどこですか」って言う設問に対して、「うーん、やっぱり仕事で出かけた小田原がいい」と答えるのには、その人なりのリアリティーがあるわけでしょ。よく知らない場所というのは、ぼくなりにしっくりくるリアリティーなんだけど、なぜそれを選んだかは心理テストに答える人と同じで本人にはわからない。
●この場所の移動というのは、保坂の場合かなり特徴的な選択ではあるよね。
■さっき樫村も言ってたけど、訪ねていった先で草むしりをするとか、労働が必ず出てきちゃう。
●労働っていうけど、大抵ビール飲んでから労働して、こりゃ真面目に働いたことがない人間だと一発でわかるね(笑)。
■どこを訪ねるのとか、引っ越すのと同じで、肉体労働もたまにやるからいいんだよ、やっぱり。寒い冬に道路工事してる人とか見ると、ああ、自分にはできないなってしみじみ思う。
 ただ、人には適性があるわけで、毎日道路工事するのは大変だけど、道路工事している人が、お前は毎日小説書いてろって言われたら、それはまた苦痛なわけでしょ。またここでも、そういうそれぞれのリアリティーになっちゃうんだけど(笑)。
●なんか世界は役割の組み合わせだ、っていうのが、保坂の世界の本源的リアリティーなのかなあ……。
■これは仏教学者から聞いた話なんだけど、お釈迦さんが「世界とは何か」と考えながら歩いてたら、農夫がそばにいて、「お前は働きもしないで何やってるんだ」ってお釈迦さんに言ったんだって。そしたら「おれは世界について考えている。お前は農作業をせよ。それでいいじゃないか」と答えたというの。ぼくもそれと同じ心境なわけ。別に楽して小説書いてるとは思ってないし。うまく書けたときは楽しいけど、毎日書くのは、そんなに楽なことじゃない。これも順列組み合わせ的発想の世界観になるんだろうけど。
●結局それぞれの役割というか、世界のなかでの自分の場所に固執しなくて、それがいつか反転する、という感覚があるから、組み合わせ的世界観がでてくるような気がする。ところで保坂の小説をバブルの時代の小説だ、という人もいるけど、「ぼく」の肉体のあり方が維持されうるかどうかというような、「ぼく」の物理的存在を支える社会的、時代的背景には、けっこう気を配っているのかな。
■みんな無視するけど(笑)、気は配っている。『プレーンソング』のなかにはチェルノブイリの話題が出てくる。世界で起きている大事件は、書かなきゃ気が済まない方なんだよね。だから、小説の登場人物もそういうことをきっとどこかで考えているんだ。
●チェルノブイリって聞いたときに、現実に自分へ害が及んでくる危機感を本気で感じる。
■それはもうメチャメチャ強く感じる。阪神大震災のときは、家にある二台のビデオデッキを回しっ放しにして地震の報道を録画して、それで情報を仕入れる一方で、水や食料を買いに走り、箪笥をL字の金具で止め、いつ地震が起きても大丈夫なようにした。地下鉄でサリンが撒かれれば、怖くてもう乗れなくなっちゃう。たまに乗るときも、すごく周りに注意してて、もう撒かないだろうっていうような顔をしてうたた寝してる人みると頭にくるものね(笑)。
●一般にインテリにとって、政治はある種意味の領域で、自分の存在や価値と、社会や他人が、どういう仕方で結びつくかを探索するような場なわけだけど、保坂は政治に関してどんな意識をもってるんだろう。
■大学出た頃に、池袋の街頭でチラシを撒いてた過激派と口論になったことがあったんだけど、ぼくが何を言ってたかというと、「別にあんたたちが望む世界になろうが、ぼくは絶えず誰かに支配されている」という、その一点だけ。それで、勝って帰ってきたわけ(笑)。
●勝手に一人勝ちしたわけね。
■そうそう。しまいに向こうは、「今ここで我々のいうこと聞けば、あんただって偉くなれる」とかって言うわけさ(笑)。ところがおれは偉くなんかなりたくないし、支配される側として自由が欲しいし、いい生活を送りたい、と言ってるだけなんだ。ナチの収容所の話を聞いても、収容される側でしか考えないものね。
 それで思い出したけど、こないだ『この人の閾』のタイトルの由来を聞かれたの。閾というこなれない漢字を使ってたことを追及されたんだ。特別に何かを意識してつけたつもりはなかったんだけど、やっぱり考えてたんだよ。これを書いたのは去年の六月、七月で、当時「シンドラーのリスト」っていう映画が流行ってたのね。当初は「真紀さん」の子供の洋平君が、「シンドラーのリスト」を観て、収容所というものに興味を持つんだけど、どうもユダヤ人の側じゃなくて収容所を支配する側として考えているらしいという設定にしようとしてたの。真紀さんが、旦那の人事を平気でいじるという現在の仕事が洋平君の発送にどこかで影響してるんじゃないかと「ぼく」に相談をもちかけてくるという展開を考えてた。だけど、洋平君は元気良すぎて、そんなこと考えるような子供じゃないっていうことになっちゃって、その設定はやめちゃったけど。その前後に何故だかいつも詩なんか読まないくせに、ユダヤ人のパウル・ツェランを読んでて「閾(しきい)から閾(しきい)へ」というのがあったんだ。それで閾がでてきたんだよね。
▼登場する女性の固有性について
●話がちょっとずれちゃうけど、『この人の閾』の内容を「女友達を訪ねたけれども、情事が起こるわけでもなく、何事もない時間がながれて……」なんて要約する人がいるよね。セックスをしなかったら、どうして何事もなかったことになるのかもおかしな話だけど(笑)。でも保坂の小説で登場する女性が、自分の彼氏とか、夫のことを喋るというのは、今回が初めてだよね。真紀さんが夫と取り結んでいる関係を述べて、そこに保坂が今言ったような、何らかの抑圧が示唆されるという緊張感は、あの作品構造全体に影響を与えていると思う。今までの作品だと、女性というのは、ほんとに固有性が失われてた。「ぼく」という不決定な場所を、同じ形で先取りし、体現し、フォローしてくれるという形で女性がでてくる。
■そうだね。
●女性の固有性というのは、なかったわけで、同時に固有性、つまり現実的時間がないことで、女性は世界に外在する「ぼく」の時間と照応し合い、それを支えていた。
 だけど『この人の閾』で真紀さんは、「ぼく」のああでもない、こうでもない、というような、世界に外在するゆえに不決定でいられる場所を、ただの無だと攻撃しだしている。これは一貫して、隠喩とは無縁だった「ぼく」の世界、要するに保坂の文体そのものを、隠喩という装置を持ちこむことで、本質的に揺さぶることになっている。そしてこの隠喩への要求、つまり性急さのようなものは、彼女が夫に対して、ちょっと非抑圧的な場にあることから帰結したんじゃないか。
 もともと保坂の作品の固有性は、世界からちょっと退いた場所にある「ぼく」の視線を、意味決定を宙吊りにできる換喩的な文体が保証する所にあって、これが隠喩によって何らかの幻想的全体性を感知させるタイプの、いわゆる「文学」と一線を画していた。もちろん世界からちょっと落ちこぼれた主体の場所、というのは、他の作品でも見られるけど、その場合は世界は主体に対して暴力的で、その攻撃を反復強迫的に主体は抱え込んでいることが多い−−この反復は大江健三郎とかだと著しいけど。だけど保坂の場合は、ごく単純に世界に対する落ちこぼれがあって、これは要するに、「ぼく」が原初的な抑圧をあまり被っていない、それがため抑圧に由来する攻撃性も弱く、その結果幻想的全体性への希求も弱まり、隠喩が必要とされなかったのだ、という感じがする。つまり保坂の文体というのは、それ自体が、文学が常に抱えている世界や主体への問いへの、一つの固有の回答のあり方だった。
 だけど真紀さんには抑圧が働いたので、彼女は隠喩を要求しだした。ちょっと別の言い方をすると、彼女はやっぱり夫に対して不満があって、だから「ぼく」にさかんに来いといったはずで、彼女は絶対に「ぼく」に欲望をもっている。でもその欲望は、それこそ情事とかいう馬鹿げた形ではなく、保坂の文体そのものへの問いとして展開した。しかもその攻撃に対し、「ぼく」はそう簡単に動かされはしないようにも見える。いずれにせよ、真紀さんを巡って導入された新たな要素は、保坂の世界の固有性において、つまり換喩的文体を隠喩への要求が攻撃する、という形で定着された。ここらへんの偶然の外的要素があくまで作品世界の本質的組成の水準で処理される、という仕方は、くだらない言い方だけど、成熟した作家の力量というものだろう。保坂に芥川賞を出すことにした先生たちは、結構偉かった、という気がする。いずれにせよ、真紀さんが醸しだすちょっと暗い要素は、危険な方向もはらんでいるけど、作品に強力なバイアスをかけている。
■それに関してはすべて樫村のお陰。『この人の閾』は一応、去年の八月に一旦仕上がっていたんだけど、ちょうどその頃、「保坂の小説には自分よりも頭のいい人が一度も出てきたことがない」と樫村が言ったじゃない。それがすごくショックでさ。文芸時評でケナされてもどうでもいいんだけど、樫村も含めて、何人かの以前からの知り合いに書き続ける過程でそっぽ向かれるのがぼくにとってはいちばん辛いから。それでもう一度、自分なりに考えたのが、小説の後半を書き直すという作業だったわけで、樫村と話す前は、「ぼく」が言ってたようなことを真紀さんが言って、二人は何となく別れて、真紀さんと意見が一致しながらもわだかまっているというところで小説が終わってた。でも、そこまでの話だったら、書く以前に頭の中で考えてたことだから、樫村のあの言葉で真紀さんの科白がまさにでてきた。それ以前にも、ぼくが、「イルカの知性というのは、言ってみればヨガの行者みたいなものなんじゃないか」と言ったときに、ちょっと戸惑ってから「つまりそれはバカなんだ。知性というのは、建造物をつくったり、哲学して本をかくということなんだ」と言ったんだよ。その言葉が頭に残っていて、「イルカに知性があるとしたら、それはイルカの尺度を用いなければ分からない」というようなニュアンスに変形させて今回書くことができた。
●動物が、自分を超える知性を持っているんじゃないかと常に考えてるんだね。
■人間が知性と思ってるものとは別のやり方で世界と接してるのが動物で、その中に別種の知性を見たいというのがある。
●それは子供のときから?
■猫を飼うようになってからじゃないかな。猫というのはヘンに頭がいい瞬間があって、本能を超えた反応をすることがたまにある。本能に触れてる部分での経験はちゃんと記憶されていくんだけど、瞬間的にでる知性は記憶されないらしいんだ。それで知性の在り方にもいろいろあるんだと思うようになった。さっきのリアリティーと一緒で、知性の在り方にも順列組み合わせ的にいろいろあるってことだよね。
●人間が数少ない能力の中で何とか言葉を組み合わせ、物事を考えていく、ということのメカニズムは、遠からず科学的に解明されつくすだろうと、多少知的な人は今日考えはじめている。人間は猫と絶対的に違うものだという思い込みは、認識とは別の、自分の存在価値に固執する、幻想の回路に起因している。科学の場所に身を置けば、猫と人間が違わないという発想に違和感はない。保坂の小説は、世の中の先端の感触を素直に受け取っているんじゃないかな。
■そうあってほしい(笑)。大袈裟なことを言うと、二十世紀に入ってしばらくした時点で、文学は文学だけの流儀をつくってしまったような気がする。それ以前は、文学と哲学と科学はそれほど遠いところになかったと思うんだけど、二十世紀に入ってから、文学はどんどん文学なりの問題をつくり出していった。ぼくは、文学以外の部分での関心しかなかったような人間だから、小説を書いても、文学の流儀がつくり出した関心と別のところに興味がいく。猫と人間も一緒になっちゃう。今の科学が言ってることに近いものがあるんじゃないかなあ。
▼世界全体を俯瞰したい
●新しい科学とか、数学とかが、面白くてたまらない。
■わりとそうだね。「科学がそんなに解明しちゃったら人間の崇高な部分はどうなるんでしょう」とか、言う人をみてるとすごく稚拙だと思う。客観的に異議が挟めないようなレベルで解明されていく分にはどんどん解明されればいい。それでも解明できないことがたくさんあるんだから。もし仮に全部解明できちゃったら、別の人間がつくられるわけで。でもやっぱり「まだまだ科学じゃカンジンなことはほとんど何も解明できない」っていう前提はある。
 明らかに三百年前の人間よりは、今の人間のほうが一般レベルで科学的でしょう。地球が丸いということをみんな知ってて疑わない。でも、証明までできる人はそうそういないじゃない。地球は丸いという前提はすでにある。そういうふうに科学が浸透している。
●話を混ぜ返すけど、そういう前提があっても、でもオウム真理教に入っちゃう人はいるわけだよね。それで尊師は空を飛ぶと信じてる。それは、科学が進歩してきても、何か絶対的なものを求めたいという気持ちは変わらないからで、人間は往々認識とは逆側に向かってしまう。でも保坂はそういう動きとは遠い所にいるんだろうね。
■ぼく自身も、科学のいってることを証明はできないけど、ただ、いろんな現象を科学で説明するほうが辻褄が合うぐらいには思ってる。
●ところで、今までの作品は何事も起こらない作品ばかりだったけど、これからもやはり、何事も起こらないのかね。
■新作では何か起こすつもりだったんだけど、やっぱり起きないんだよね(笑)。
●作者と他人との関係を追いかけていったら、普通何事か起こるはずだけど、起こらないというのは、目の前にある猫の動きとか、一人ひとりの人間の日常の会話を書くのが面白くてたまらないということなのかな。
■そうだろうね。
●言葉では考えるというより、絵を描いて世の中と接していく感覚に近いのかもしれないね。
■子供のとき得意だったのが、算数とお絵描きだから(笑)。
●今後はどんな小説を書いていくんだろう。方向性みたいなものはあるのかな。
■目の前で何人かが喋っていて、その奥に、別のグループが二、三個ある。それがまた喋っていて、そのまた遠くに風景があって動物がいてという、近景、中景−−って言葉あるかしらないけど−−、遠景、が全部同時に展開するような小説を書くのがひとつ理想だよね。幾何学的な空間装置みたいなものにどうしても興味があるんだけど、小説というのは一行一行だから、なかなかそれができないんだよね、映画と違って。
 それと、「ぼく」という一人称の視点をとる限り、「ぼく」の周辺しか出しようがないから、三人称の視点にして、世界を一望するような話を書きたいと思っている。これはデビューしてから考え始めたことだけど、三人称の世界のなかで、まったくバラバラの価値観で人が生きているということを一望したい。
●一望というのは、とにかく対象に即して世の中を眺めたいと。
■そうだね。もう少し力がついたらの話だけど、時間の流れなんかも一望してみたい。一望しないことには、一人ひとりの位置づけが出てこないと思うんだよね。
●世界全体を俯瞰したいという希望はけっこう本質的なものみたいだね。
■自分の望んでいる、こうあらねばならないという世界を一望したいのではなくて、なんでもいいからバラバラなものを見たいという意味での一望。
●とにかく見えてくることが快感なんだね。もし山下清が輪廻転生して、作家になったら、きっと保坂みたいな感じなんだろうな(笑)。
■ありがとう。それは最高級の褒め言葉です。
                        <了>


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