◆◇◆ことばの外側へ◆◇◆
「文学界」2001年1月号

保坂和志VS野矢茂樹(哲学者)


■=保坂和志   ●=野矢茂樹


▼猫は退屈するか

●猫、飼ってるんでしょ。
■うん。
●うちでも飼ってるけど、やっぱり犬のほうが忠実でいいな。わがままだもの。一般化できないかもしれないけど、少なくともぼくが飼ってた犬と、いま飼ってる猫は、かなり違う。
■いや、ぼくが飼っていた犬は本当に言うことを聞かなかったんですよ。気に入らないとすぐ噛むぐらいで、だからあんまり猫との違いを感じないですね。まあ同じ哺乳類じゃないかっていう(笑)。
●ぼくはわりと動物を差別するほうで、大概の動物はあまりものを考えてないと思うんですが、とくに猫は、まじまじ見ても考えてない。ただ刺戟に反応してるだけという感じがする。
■そうでもないですよ。うちの猫は、医者に連れていくときの籠の話をしていたら、籠が置いてあるところに上っていった。
●それは証拠にならない。こいつはものを考えているとこっちに思わせるのは、反応が少し遅れるからでしょう。猫の動きには、ためてから動くっていう感じがない。それはぼく自身もあんまり変わらないんですけどね。人と話をしているときに、ためてから答えるのではなく、ほとんど反射的に答えてるから、あまりものを考えているような気がしないんですけども(笑)。で、物を考えないから猫は退屈もしない。これ、どう思います?退屈しているかどうかって、外から観察して分かるものではないですけれど。
■いや、猫は間違いなく退屈する。
●飽きるってのと退屈するってのは違うと思うんですよね。たとえば「うまいものでも毎日食べていると飽きがくるね」という言い方はするけれど、「うまいものでも毎日食べていると退屈するね」とは言わない。「飽きる」というのは、かなり感覚上の慣れが大きいけれど、退屈はもっと知的なものだから(笑)、猫は飽きることはあるかもしれないけれども、退屈はしない。
■仮説ですが、脳波というか、心の波が、普段は静かに流れているけれど、楽しいことや大変なこと画アルと、波が大きく振れるんだと思うんですね。その振れが少ない日々が、まさに退屈なんです。
●保坂さん、退屈をあまりネガティブな感情としてとらえてなくて、退屈って好きだな、とか思ってるでしょう。
■うちの猫はね、退屈でおなかの毛をなめるので、毛が半分無くなってしまうんですよ。獣医によれば、それは室内で飼われている猫に多い症状で、外に出すと一発で治る。それはやっぱり退屈の証明になると思うんですね。
●してるのかなあ……。いや、別に、しててもいいんですけどね(笑)。
 ベルクソンが『笑い』のなかで、笑いがとても知的なもので、情緒が大敵だと言っていて、確かに、喜びとか悲しみとか怒りのようなものって、環境に対してダイレクトに向かってゆくけれども、笑いにはちょっと間接的な態度という感じがある。同じように退屈というのも、環境に対してダイレクトな態度を取る連中には無いものだと思う。


▼モグラの思考

●一番最近読んだ保坂さんの本は『羽生』ですが、これも面白かった。ぼくは将棋が分からないから、棋譜のところは飛ばして読んだんですが、保坂さんは、人生にダブらせて将棋を見るような見方から、将棋自体が持っている動きを取り出していくことを目指していますよね。小説についても、基本的には自分がコントロールしていくよりは、自分が書いてきたものの動きを見て、それを展開していくという感じで考えられているでしょ。
■ええ。
●哲学も、目指すものがあって、そこに向かってどうやって行けばいいか考えるという山登り型の思考じゃあないんです。むしろ、考えてきたことが材料になって、それが展開していく道を探すみたいな感じ。
■ぼくは、考えるということは山登りじゃなくて、モグラが穴を掘るようなものだと思ってるんです。穴を掘ると、掘った分だけ、穴の壁面すべてが次に掘れるところになる。つまり、考えるっていうのは、考えたことすべてが次の考える材料になるという、際限がないことだと。
●モグラの比喩は、保坂さんのつくった比喩ですか?
■ええ。
●貰っちゃおう。授業で使います(笑)。それで、一番最初に読んだのは『<私>という演算』なんですが、これがものすごく面白くて、しかも、何が面白いのかよく分からない面白さがあった。
■ぼくは野矢さんの『無限論の教室』を読んだときに、教室のなかでの情景の作り方とか、窓の外とかを見る感じからして、この人は『季節の記憶』を読んだんじゃないのって思ったんですよ。だから『<私>という演算』も、この人が読むと面白がるんじゃないかと思っていました。
●いや、だって、保坂さんのこと知ったの、『<私>という演算』で初めてだったんですから。それから過去の作品を次々と読んでいって、『プレーンソング』『草の上の朝食』の連中と『季節の記憶』『もうひとつの季節』の連中、二系統の人たちの生活ぶりがぼくのなかに移植されたようで、すごく「儲けた感じ」がしました。自分の中にね、いるんですよ。
 ぼくは文壇の事情を知らないけれど、『プレーンソング』のような作品は、発表当時は異色なものとしてとらえられたんですか?
■やっぱり異色だったと思います。
●ぼくは、「純文学」という感じではなく、自然に、ふつうのお話として楽しく読んでしまった。そういう反応をする人はいませんでした?
■『プレーンソング』が出た当時は、本当にごく一部の人たちだけがいいと言って、あとは反応がほとんどなかった。それでぼくは、やっぱり駄目だなあ、この国は−−と思ったんです。
●「駄目だなあ」の後に何がくるのかと思ったら、「この国は」になるわけね(笑)。ほかの国ならば?
■分かんないですけど(笑)。
●あれはけっこうサービス精神があるでしょう。ちゃんとくすぐりというか、楽しみどころを、パン屑のように撒きながら引っ張っていっている。
■でもぼくは、展開をあらかじめ考えているわけではなくて、ただ書いていったことを後で回収するから、撒いたかのように見えてるだけかもしれない。
●回収するというのは?
■それをあとでもう一度使うんです。大体いつも当てなく書いていますから、次に何を書くか出てこないときには、前に書いたことを思い出してその辺から拾ってくるというか、それを少し発展させるようにするような感じが多い。
●『もうひとつの季節』は、新聞小説だったからかもしれないけれど、サービス精神が旺盛で、高階さんの話や、自由律俳句の話、最後の猫を返さなくちゃいけないという話と、ぼくとしては楽しい読みどころがたくさん撒いてある。自由律俳句の話も楽しかった。「変な名字の人だ」というは、なかなかしみじみとしたいい句じゃないかと思うようになって(笑)。猫を返すところも、どうってことないエピソードなんだけれども、あの脈絡で、最後にあれを突きつけられると、あざといくらいこっちの気持ちを揺するんですよね。「どうなっちゃうんだろう?」と思って。あれはすごく情動的にこちらに働きかける小説で、ぼくは単純だから、ああいうのをたくさん書いてもらえると嬉しい。
■結局、『プレーンソング』の彼らと『季節の記憶』の彼らの二系列しか、まだぼくは作ってないんですよ。
●十分でしょう。


▼小説の立ち上げ

■ぼくは『プレーンソング』を書く三、四年前から、悲しいことや不幸なことが一切起きない、汽車の窓から風景を眺めるような楽しさがある小説というのは成り立つのかと考えていたんですね。その前は、ロラン・バルトの『物語の構造分析』なんかに影響を受けていて、小説の仕組みをきちんと構造分析して、人物とか日付とか、項目をいくつも立てて、それを関数のように入れ替えていけば、一つ小説ができるというふうにぼくはわりとマジに−−けっこう考えること極端なんで−−考えていたんですが、やっぱり面白さというものは分析できないことだと考え直して、八八年に『プレーンソング』を書き出したんです。その後は、九六年に『残響』を書くまで、わりあい熱心に仕事をやっていました。
●仕事って、小説のことですか?
■ええ。プロになって、そんなに書くことがあるのかなという疑問はあったんですが、周りの人に掲載するって言われると、それが励みになって「豚もおだてりゃ木に登る」みたいに書く期間が五年から十年はあるんです。でも、実際に小説を書いてばかりで、これから書く小説を考える時間がないのは不自然だと思ったので、いまは書かない。
●そうですかねえ。書けるときに書いといた方がいいと思うんだけど。
■いままで書いた小説の系列は、どういうふうに書くかが大体分かっていますから、もうちょっと生産の気力が衰えるときまで取っておいてもいいかなと。六十になって『プレーンソング』を書いても、「何だこのじじい」って感じになりますけど(笑)。
●でも小説の才能なんて、いずれ涸れちゃうものでしょ。
■ぼくにとって、小説を書くときに一番大切なのは、「このメンバーでこういう感じの話を書こう」という、最初の部分を立ち上げることなんです。そこから先は、楽とは言わないけど、ある程度できる。だから、一度立ち上がっているものは、その涸れる涸れないの範疇の外になると思ってるんです。
●うーん、そうかなあ……。楽に仕事ができるときと苦しんで仕事をするときがあったら、楽にやった仕事のほうが絶対に出来がいいと思うんですよね。苦しんで作ったものってたいてい面白くない。作り手としては、苦しんで作ったほうに愛着が湧くかもしれないし、苦労して作ったものを褒められたほうが、自分が褒められたような気がするけど、楽に作ったもののほうが受け手の側は絶対楽しい。楽に書けるときには、どんどん鼻歌まじりに書いてしまったほうがいいと思うんです。
■ぼくは、そういうふうに楽に書けたことはないんです。
●そうなんですか。それは失礼いたしました(笑)。
■一日に書く分量は三枚から五枚で、それにかかる時間は三時間に満たないんですけど、でも、それはスイスイ楽にやってるという感じとは違って、ここから先どうするかも全然分からずに書いている。まあ、順調に書けてるときには、とても機嫌はいいんですが、二枚しか書けない日が三日ぐらい続くと、あまり機嫌はよくなくて、まあ今までできたんだから、これからさきもきっとできるだろうっていう気持ちだけでやっている。
●それは保証できないでしょう。何人もの小説家が、パタッと駄目になったりしてきたわけだから。駄目というのは読者の勝手な言い分だけれども、読者ってわがままだから「この人はもう終わり」と思っちゃう。ぼくは、当然のように、保坂さんだっていつかは終わると思ってますけれどね。
■ええ(笑)。
●その点、ぼくは気が楽なんですよ。哲学を仕事にしているけれども、文献学的な素養なしにやっているから、そのとき考えたものがほとんどすべてで、蓄積というものがない。素養がある人だと、漢方の薬を調合するみたいに、抽出しからいろいろな学説を取り出して、混ぜ合わせて出せるけれど、ぼくには抽出しがなくて、そのとき持ってるトレー一つでやってますから、そのうち考える材料がなくなってくるし、あまり面白いことも考えられなくなるでしょう。だけど基本は公務員ですから。


▼フィナーレにさからって

■でも、実は小説を書くことに関して、メソッドとして身につく部分がまるっきりないわけではないんですよね。
●蓄積の部分があるんですか。
■ええ。それは、いままでやってきたからこれから先もできるっていう、ほとんど根拠のない自信も含めてなんですけど、小説家というのは、そういう自信も取り込まないとできない職業なんだと思います。
●ラッセルが言った言葉を差し挟んでいいですか。「きのうまでぬくぬくと餌を与えて育てられてきたヒヨコが、ある日突然首を絞められる」(笑)。
■ええ。ぼくが小説の立ち上げにこだわるのは、立ち上げだけには、こんなのは見え見えだとか、古臭い手口だとかいう抵抗がいっぱいあるからなんです。そこに目をつぶれば、幾らでも立ち上げることができるし、その先の作業については、メソッドが身についていますから。ただそのときには、傍から「もう止めればいいのに」と思われている作家になっている可能性はある。それでも、需要があるから書くんだって開き直ったって構わないんですけど、いまはそういう気分ではないから、次を立ち上げるために何年間か書かなくたっていいじゃん、と思ってる。
●まあ、保坂さんの小説を読んで、ただ能天気に書いてるんだろうなとは思いませんよね。
■よくそう言われたんですけどね。
●それは能天気なものを書いてるからでしょう。能天気なものを書いてるっていうのと、能天気に書いてるっていうのは全然違います。
■アハハハ。
●メソッドだけではもちろん小説は成り立たないので、それを取り巻くふくよかなものがほしい。あそこの科白は面白いとか、あの登場人物は楽しいとか、こいつは嫌いだとかいうものですが、『コーリング』と『残響』にはあまりそれが感じられなかったんですけど、『プレーンソング』や『季節の記憶』にはふんだんにある。だから、その部分をはぎ取って方法論の話になると、ぼくが読んで面白かった部分とは遠くなってしまう。
 と言いながらも方法論の話なんですが、小説を立ち上げるのが難しいと言われたけれども、終わり方はどうなんですか。
■ぼくは、どの小説も初めはもっと先まで書いてるんですね。
●そうなの?いやあ、読んでて一番びっくりするのは、どうしてこの人はここで終われるんだろうって。あ、そう。先まで書いてるの。
■先まで書いてて、ここで終われると思った場所で切っちゃう。フリージャズのセシル・テイラーのトリオが七二年か七三年に来日したときの演奏で、他の二人が引っ込んでセシル・テイラーが一人で弾きまくっていたんですが、突然プチッと終わっちゃったんです。これは『アキサキラ』っていうレコードにそのまま入ってますけど。観客は、トリオなのにセシル・テイラー一人で弾いているときに終わることがあるのかと思ったんだけど、どうも終わりらしいんで、一泊おいて盛大な拍手をして、他の二人も慌てて飛び出してきた。それを見ていた山下洋輔は、ものすごい演奏ができたとき、自分たちなら三人揃って終わりたいと思うのに、セシル・テイラーは、ものすごい演奏だったらどこで切っても一緒だと思っているんだろう、と推測していたんですが、ぼくはその話にけっこう感動したんですよ。小説だって、未完だろうが何だろうが構わない。たとえば全五巻の本があって、二巻目しか手に入らなかったら、そこだけ読めばいいと思ってるんです。『プレーンソング』も、初め三百二十枚あったんですが、「群像」の編集者に、新人賞に回すとしたら二百五十枚が上限だから書き直すかと言われて、「じゃあ二百五十枚目で切ってくれ」って言ったんですね。
●それがあの終わり?
■「まあ、でもそれはないよ」って向こうが言うから。
●それはない(笑)。
■二百五十枚目ではないけれど、あそこで切ることにしたんです。
●終わる少し前で、ゴムボートの上の会話があるでしょう。あれは圧巻だと思うんだけれども、あそこで切るということは考えなかった?
■考えなかったんじゃないかな。まあ、どこでも切れるとは言いながらも、やっぱりこの場面は入れたいとか無意識に思ってる部分もあるんですね。
●うーん(笑)。とにかく終わりはカッコいいですよ。『草の上の朝食』でも、最後にサチという女の子を呼ぼうと言って終わる、あの終わり方がジワーッときますね。あれが一番不思議なんだなあ……。終わりに対しては、かなり意識的・自覚的なのか、それとも偶然に委ねるような感じなんですか。
■意識的というべきなんでしょうね。書き手が書きたいこととか、書き手が終わりに持っていきたいことっていうのは、本当は邪魔なものであることが多いから、書かないほうがいい。作り手にはいじましいところがあって、つくるほうは何ヵ月もかけているのに読む人は何日かで読むから、最後の部分で自分の努力をもう一度表に出してしまいがちになるんですけど。
●たとえばフェリーニの映画なんかもエピソードをつなげていくわけだけど、終わりがダサイ。終わらなくちゃいけないと思ったかのような、無理やり取って付けたような終わり方をしたりするでしょう。ぼくも終わり方が下手で、フィナーレみたいなものをつけたくなっちゃう。論文と小説では違うけど、最後に振り返って、ちょっとカッコいい言葉を入れて終わりたい。で、そうしちゃうんだけど、そうしてる自分が、野暮ったいなあという気持ちを拭いきれない。保坂さんにはそういうところがなくて、終わりが水際立っているのがうらやましい。


▼言葉の外部を捉える

■野矢さんは、言語哲学の人だと言われるのは嫌なんですか?
●だって実情に反してるから。
■実情は何なんですか。
●哲学者。
■ハハハ。でも、やっぱり言語哲学とか分析哲学とかっていって否定しきれるものではないですよね。
●お望みなら否定しきってみせますけど。
■話の展開のさせ方が、やっぱりニーチェなんかとは全然違いますよね。
●それはそうかもしれない。だけど、そう言ったら誰とも似てないんじゃない?
■でも、大きく分ければ、バートランド・ラッセルには似た感じがするし、こだわっているところは、ウィトゲンシュタインに近い。
●なるほど。じゃ、言語哲学の人ということで。それで?
■ぼくは、言語哲学が言語を完結した体系と見なして、言語の外に自然なり世界なりが実在することを認めようとしていないと思うんです。だから、言葉で自然を記述するにも、まず言葉をどういうふうに組み立てていけばいいかというテクニカルな面が重視されていて、いきなり自然を語ったり、自然を関係づけたりしにくいわけですよね。
●表面的なレベルでいえば、必ずしもそうではなくて、言葉の外部を自然なり世界なりと呼ぶことにすると、概念ならその概念が適用される諸対象、名前ならばそれが指示している諸対象というような形で、たえず世界を捉えながら言語を考えてますから、言葉だけで閉じた体系をつくっているということは決してない。
 だけど……、そうだな、ちょっと外側から話しますね。
 自分の意識で捉えられる範囲を世界として、自分の意識に内在しながら世界を捉えていく感受性というのは、哲学では典型的なものです。ただ、自分は自分の意識しているものから出発するしかないというのはそうかもしれないんだけれど、それが方法論の基礎になってしまうと、意識の外部を捉えられなくなって、排除してしまうことになる。同じことが言語哲学にも言えて、われわれは言葉でものを考えるから、言葉の内部に立ち止まるしかないけれども、それによって言葉の外部が排除されてしまうのであれば、何かとても大事な問題を落っことしてしまう感じがする。だから、言葉を閉じたものとしないで、外から迫ってきたものを取り込む、取り込みきれないでまた逃げる、というように絶えず動いていくものと見ることで、言葉の外部、たとえば実在とか他者というもののリアリティを捉えてみたい。言葉の運動を言葉で語るには、語ること自体を動かして、変化を見せるという形でしか語れない気がするんです。だから、言葉に内在して仕事をすることには変わりがないけれど、外部を切り捨てるんじゃなくて、言葉が外部と関わりながら動いていく在り方を見つめるというのが、いまのぼくの立場です。これはもう、言語哲学とか分析哲学の立場とは違うものでしょう。
■じゃあ、野矢さんの哲学では、自然はどう位置づけられるんですか。
●自然とか世界あるいは他者というものは、言葉の外部にあるとするのではなく、言葉に取り込もうとするけれど逃げていくものとしてしか位置づけることはできない。そういう感じ。


▼曖昧さの魅力
■ぼくは『プレーンソング』を書きだすときに、極力曖昧な言葉の使い方をするように心がけたんです。それは、気分が書くモードに入ると、普段何かを感じてるときの気分じゃなくて書き言葉の気分につい入っちゃうから、できるだけ普段のように言葉を使おうと思ったからなんです。ぼくは、普段とりわけ曖昧な言葉の使い方をするようで、「お前の話は分かんない」と頻繁に言われるから(笑)。ただ、『<私>という演算』は、わりあい細かいことを考えようとしたから、多少厳密な使い方になっていると思うんですけど。
●いや、大丈夫です。ぼくは『<私>という演算』を読んでも、全然厳密な言葉の使い方だとは思わないから。
■ハハハハ。それで、なぜ曖昧な言葉のほうがいいかというと、たとえば入院患者に栄養を与える場合も、昔は点滴でいいとされていたのが、口から摂ったほうが治りが早いとか栄養になることが分かって、なるべく食事で摂らせることになったわけですね。言葉も、書き言葉のように厳密さにこだわり出すと、点滴のようなものになってしまう気がするんです。口から食べるということは、成分で説明できないものまで食べているわけで、ふつう使っている言葉も、その説明しきれない部分を平気で使っている。ぼくは、言葉というものはそのように使っていかないと駄目になると思ってる。自然とか世界とか、「あんた、何が言いたいの?」と言われるようなことに必要以上にこだわるようになったのは、そのせいかもしれません。
●今の話を聞いていても、自然とか世界というのは、決して言葉の向こう側ではなくて、言葉の使われている場面の中で、言葉自身の運動の中で、保坂さんが自然とか世界に感じているものがでてくるんじゃないですか。
■うーん、それは分からない。ぼくの自然に対する考えを言いますと、『季節の記憶』を書いているときに気がついたことなんだけれど、大多数の人間が花を綺麗だと感じるのは、虫や鳥が鮮やかな色に向かうという進化の系が人間のなかにもあるからだと思うんですよ。だから花が綺麗だというのは、決して計算力や記憶力で説明できるものではなくて、自然の側に入っているものだから、それ以上説明しなくてもいいことじゃないかと思っているんです。
●自然のなかで生きていくために、花の鮮やかさに対する感受性を持った生物が淘汰されてきたから、その名残りとして、現在の人間も自然に対してそういう感受性を持っている、というのはたぶんそうなんでしょう。ただ、花の鮮やかさとか空気のきれいさに対する感受性を生物が持つことによって、その生物が属している環境そのものもまた変わるわけですよね。こちらが花の鮮やかさを認めるようになれば、その花の鮮やかさが自分にとっての自然になるし、そうすると花の鮮やかさが折り込まれた自然のなかでより生きやすいように、こちらの感受性も開拓されてくる。こちらの感受性が開拓されれば、またそれに応じて自然の姿も変わってくる、そういう相互的な運動があるでしょう。
■ええ。ただ花の鮮やかさを感知する力というのは、その相互作用のなかでも確かにあるわけで、だからぼくは、少なくとも小説を書くときには、それにこだわるわけです。
●うーん、分からないな。頭が停止してしまった。
 話題を変えていいですか。
 保坂さんの『<私>という演算』のなかの「祖母の不信心」の章に、「つじつまが合いすぎてどうもリアリティがない」という言葉がありましたよね。
■ええ。あれからもずっと考えていて、最近では「つじつまが合わないことこそリアリティがある」という気分なんです。言語が閉じているとしたら、人間の入力機構の許容量からあふれたり、計算能力が乱れたりするようなことはないと思うんです。言語の外にあるものを言語で考えたり語ったりしようとするから、計算能力が乱れるわけで、それが、言語の外に何かが間違いなくあるという証拠になり、その乱れがリアリティになる。トートロジックな説明になってしまいましたが。
●ぼくは、意見が一致する話をするのはあまり好きじゃないんだけれども、それについては意見が一致してしまった。だから少し補強する感じで言いますと、自然とか世界というものは、つじつまが合っているとか合わないとかいう評価の対象外だと思うんです。自然現象って矛盾しないでしょ。台風がどんな変な進路を取ろうと、動物がどんなに奇天烈な動きをしようと、ともかく現実化しているわけだから、その意味ではつじつまが合ってるといえば合っている。現実には矛盾なんか何一つなくて、可能性、あるいは思考が入ってくることで初めて矛盾とか不整合が起こるのであって、そういう意味では、リアルなものというのは完全につじつまが合っているんですよ。
■ええ。
●ところが保坂さんは、「つじつまが合いすぎていてリアリティがない」と言われる。これはぼくにとっては大変面白いし、しかも共感するんです。なぜかというと、ぼくは、自分が言葉で何かを考えているときに、何かつじつまが合わなくなって、自分の思考や言葉の外部から自分を揺るがしてくる、しかも自分が捏造したものではないから受動的な対応をしなければならない、そういうものにリアリティを感じるし、それが自分のなかでうまく言葉にならないと、もっとそう感じるわけです。ただ、そのリアリティは、つじつま合わせを放棄したから生じるものではなくて、徹底的につじつまを合わせようという努力のなかで生じるものだと思う。もし、いまぼくが言ってることに保坂さんが、共感しないんならば反論してほしいし、共感してくれるとするならば、自然とか世界という言葉を不用意には使わない方がいい。不用意に使うと、さっきぼくが言った現実化したリアルな自然現象というふうに受け取られてしまう。
■共感したんです(笑)。
●そうすると、この話はここでだいたいおしまい。「うん、そうだ、そうだ」ということになって。
■ただ、そこまでは一緒なんですけれど、ぼくが野矢さんと違うのは、そのリアリティがどこにあるのかというときに、ぼくは、あくまでも言葉の外側ではなくて、思考の回路のほうに、リアリティを感じるということです。外に実在するだけでは、リアルだと思わなくて、それを自分の言葉で解釈したり記述したりしようとするのに、それまで使っていたメソッドではそれが十分にできない、そういうときにリアルだと思う。
●変だな、ぼくもそう思ってますよ。
■そうでしたっけ?
●そう。本当にただつじつまが合わないだけのものだったら、理解できないから自分の視野から外れて、リアリティどころじゃない。それが自分にとって差し迫ったものになるには、つじつまが合いそうで合わないという、微妙で、非常に誘惑的な物腰が向こうになければいけない。
■その誘惑的な物腰が向こうにあると感じるか、向こうとこっちの関係にあると感じるかが、ぼくと野矢さんの違いですね。
●いや、保坂さんは、ぼくとの違いを強調されるけど、ぼくは、どこが違うのかよく分からないというのが、一番大きな違いでしょうね(笑)。どこが違うんだろうな。

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