『コーリング』&『残響』


『コーリング』『残響』
『残響』に収録されている2作は、もしかしたら私の最も好きな小説かもしれない。といっても、『コーリング』と『残響』が本人の期待通りには評価されなかった、という思いが影響している、ということを本人である私には否定することができないのだが……。この「自分について語る(評価する)自分」というものの客観的な正否の定めがたさ、というのはいまさら言うまでもなく厄介なことで、誰かが外から判断してくれればこんな楽なことはないだろうけれど、それをした途端に〈私〉は〈私〉について語る資格をたぶん失ってしまう。これは小説というものにとてもよく似ていて、(これについても『小説論』で書くと思うけれど)小説というのはただ自分が起こし持続させる運動によってしか小説の価値を作り出すことも保証することもできない。小説の中では、「世界」も「私」も「人間」も、それらすべてのあたり前と思われている概念があたり前ではなくて、それらを保証する中核となる概念は何もなくて、不確定な概念同士が互いに規定し合うという運動によってしか、概念を作り保証することができない。こういう構造についてのイメージらしきものが私の中にはいちおうはあるのだけれど、それをサラリと人に伝えることができない。しかし「伝える」とか「理解する」ということは、じつは伝えようとしている者(A)と同じだけの労力を理解しようとしている者(B)が費やさなければ理解することができないのだと思う。Aにできることは「それは違う」と言うことだけで「こうだ」と言うことはできない。「それは違う」という指摘が可能なだけでも、BはAよりも短い時間でAの考えたことを理解することができるのかもしれないが、BははたしてAと同じだけの思考力と熱心さを持っているだろうか……。余計な話はこのくらいにして――。

『コーリング』は、94年3月4月に第1稿を書き、「どうしてもうまくいかない」と思って、6月7月に『この人の閾(いき)』を書いて、『この人の閾(いき)』が手が離れたところで8月に書き直しを再開した。
『コーリング』という題名は珍しく自分でつけたものだけれど、「コーリング」という言葉が浮かんだのは完成の2日前のことで、美緒がかつて勤めていた「東京コーリング人材開発派遣センタア」という会社名もそのときにつけた。「コーリング」という言葉が浮かんだことによって、私はこの小説に「輪郭が与えられた」と感じて、心の中でガッツポーズをした。では、「コーリング」という言葉がどういう風にして浮かんだのかと言うと、友達の映画監督の長崎俊一がかつて『ロンドン・コーリング』というタイトルの映画を撮ったことがあったからで、長崎のそのタイトルはクラッシュというバンドの『ロンドン・コーリング』というアルバムからもらったものだが、「コーリング」という言葉を思いついて、長崎に「ロンドン・コーリング」の意味を問い合わせてみると、「おれもよくは知らないけど、第二次世界大戦中にロンドンが空襲されたときに、ロンドンのラジオ局か何かが世界に向かって発信した有名なフレーズらしいよ」という返事で、まあそれだけでもじゅうぶんだったのだけれど、英和辞典を引いてみると、「強い衝動」「転職・職業」というあまりにもうってつけの意味が書かれていて、私は再びガッツポーズをした。
 と、こんな裏話を知ると、『コーリング』の完成形しか知らない読者は「まさか」と思うと思う。しかも「コーリング」と決めてから直しというか統合というか、そういう作業に2日しかかけていない。つまり、『コーリング』という小説は、「コーリング」という題名を当てはめるべき空項のようにして待っていた、ということなんじゃないか。とまで言ったら言い過ぎだろうか。ついでに言っておくと、『バグダッド・カフェ』で流れる曲が『コーリング・ユー』で、「それから来たんじゃないか」と想像した人が何人かいたけれど、私はまったくそれは考えなかった。『バグダッド・カフェ』は大好きで、「『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のあとに来るのが『バグダッド・カフェ』で、そのあとに来る映画はいまのところない」なんて吹聴して、いまでもその気持ちは変わっていないけれど、とにかく『コーリング・ユー』のことはまったく考えなかった。――しかし、『コーリング』を読みながら、『ロンドン・コーリング』を多少なりともイメージするのと、『コーリング・ユー』をイメージするのとでは、読みながらの感じかたがかなり違ってくるのではないだろうか。クラッシュというバンドはパンクのバンドで、ヴォーカルのジョー・ストラマーは、アキ・カウリスマキの『コントラクト・キラー』の中で場末(?)の店で一人でギターで歌っていた。
 ところでこの小説ははじめからワープロに打ち込んだ。つまり、いつもやっている、〈手書き第1稿――ワープロ第2稿――ワープロ第3稿……〉というプロセスの手書きのところが抜けている。理由のひとつは前のところでも書いているけれど、93年の年末に頸椎ヘルニアになってしまったからで、手で書くのもワープロで書くのもどっちも楽ではなかったけれど、「第1稿の手間が省ければその方が負担が少なくていいのではないか」と思ったからだ。頸椎ヘルニアの原因のひとつは肩凝りで、いつか知らないうちに私はひどい肩凝りになっていた。で、もうひとつの理由は、この小説がシークエンスの連鎖で、美緒(A)、浩二(B)、恵子(C)に大別できるそれぞれのシークエンスは、A―B―C―A―C―A―B……とするのがいいのか、A―B―A―C―B―A……とするのがいいのか、実際に書いてから並べて、読んでみないことには確信が持てないからだった。(こうしてふたつの理由を並べるといかにも後者の方が強い理由となりそうだけれど、書いている本人としては前者の理由の方が強かった。手書きをワープロに入れるときには、いくら大幅に書き直しながら入れていくといっても元があるとやっぱり早くて、そのときの肩凝りのひどさはもうすでに何度も経験しているけれど半端じゃない。それを考えただけでも憂鬱になる。頸椎ヘルニアの後遺症(?)はそれほどひどかった。)
 シークエンスの繋ぎは、音楽とかで繋げているところもあるし、まったく唐突に繋げているところもある。2年後に書く『残響』ではイメージのゆるやかな横滑りみたいなことを使って、文芸評論家からは『残響』のやり方の方が評判がよかったけれど、私はいまは『コーリング』のように唐突だったり強引だったり見え見えだったりと、かなりバラバラな繋げ方の方がよかったと思っている。だって、世界ってそういうものだからだ。占いというのも一種の科学というか秩序を持った思考法で、占いもまた科学と同様に世界の中から関連のある現象(形象)を探し出す。つまりこれが文芸評論家にも評判がよかった『残響』のゆるやかなイメージの横滑りなのだけれど(この「横滑り」という言葉は、わかる人にはわかるのだが、ヌーヴォー・ロマンの作家のロブ=グリエの「快楽の漸進的横滑り」(だったけ?)という書名をイメージしていま私は使っていて、蓮実重彦の影響下にある評論家は全員ロブ=グリエに関する知識を共有している、ということが、この「横滑り」という言葉には示唆されているわけ)、人はもっとずっと無根拠に、または直観的に世界の連関を見つけ出す。形象なんかどこにもなくても、ひとつの(はずの)流れでシークエンスが移れば、読者はそこに連関を見る。見なくても感じる。それでじゅうぶん、というか世界とはそういう風に人間の開けてくるものなんじゃないかと思う。
 だから『コーリング』の、あるときは自然に移り、あるときはガチャンガチャンと昔のテレビの回すチャンネルのように、音を立てて軋み(きしみ)ながら移っていくのが、世界というものなのではないかと思う。――全然関係ない話だけれど、テレビのリモコン第1号機はそのガチャガチャ回すチャンネルを遠隔で回すという、ローテクというか力業というか念力というか、いま思うととてもシュールなものだった。私が『コーリング』でイメージしたガチャンガチャン回すチャンネルというのは、人間の手で回すチャンネルでなくて、このリモコンでガチャンガチャンと一人で回っていくチャンネルのことだ。子ども時代に面白いと思ったものは、このように不思議なくらいに強くイメージの生産に関与している。もうひとつついでの話を書くと、この「軋み」というのが文体や語り口の起源のひとつで、人それぞれ微妙に異なった外界の処理とそれの再構成(定着)を経たものが、既成のシステムであるところの言語に、無理をして「収めよう」「折り合いをつけよう」という苦労の形跡が軋みで、それが個々の文体や語り口となっていく。だから、文体というものは言語からみるだけではダメで、語ろうとしている情報や世界観を既成の言語による情報の構成と照らし合わせていく必要があるわけで、そのことは『小説論』の中で極力緻密に考えていく。
 このガチャンガチャンの軋みも含めて、『コーリング』の繋がっていき方は素晴らしく、文句がないと思う。が、しかし、それが文句がない理由は、本当のところ手法によるものではない(『コーリング』や『残響』のような小説を書くと手法のことばかり言われて本当に嫌になる)。全体を貫く「せつなさ」のようなものだ。あるいは、それぞれの人間が別の環境にいてもかつての環境を基準にして今いる環境を測定しているような、心の態勢(?)のようなものだ。少なくとも作者にとって、最も中心になってこの小説を牽引している人物は美緒だ。
 このホームページのインタビューで私は「風俗っぽい女の子が好き」を連呼したけれど、その結晶が美緒だ。『プレーンソング』のよう子についての説明でも書いたけれど、美緒という女の子もまた実際の女の子をモデルにしたのではなくて、街で見たり、テレビの族(暴走族)のドキュメンタリーで見たり、西武時代の職場にアルバイトで来たりした女の子たちと私が、実際に接したり観察したり想像したり妄想したりしたことの集積なのだけれど、ある意味でよう子が1枚の写真からしか膨らませていないのと違って、美緒には彼女たちに対する私の十何年間(?)にわたる蓄積があって、だから美緒は私にとって一番思い入れがあり、ある意味では一番リアリティがある人物なのだけれど、美緒に関しては、よう子や『季節の記憶』の美紗ちゃんに対してのような感想を一度も聞いたことがないのはどういうわけなのだろうか。
 作者の過度の思い入れは読者に伝わらないのか邪魔なのか、それとも私の未熟さで「書けている」と本人が思っているほど書けていないのか、それとも『コーリング』の構造上、「誰か一人」という印象や感想を生み出しにくいのか、それともたんに風俗っぽいような族あがりのような元スケバンのようなタイプが単純に支持されにくいということなのか……。それとももっとずっと本質的な問題として、大江健三郎の『同時代ゲーム』なんかに出てくる手紙の発信先の妹とか『豊饒の海』第1巻『春の雪』の松枝清顕の許婚の聡子のように、物語の外にいて(男たちが牽引する=もがく)物語を別の視線で見つめるのが(『プレーンソング』の電話のゆみ子もその系列だ)、文学において最も座りのいい女性像で、物語の牽引役として救いがあるかどうかわからない役割を振られる女性というものが、小説の中でどうしても馴染みにくい、ということなのだろうか。
 話は前後するが、『コーリング』の一番元となったイメージは、単行本のあとがきにも書いているとおり、私が西武のコミュニティ・カレッジというカルチャーセンターにいた頃に、生徒たちの発表会で見た、バレエのステージの構成だった。10人ぐらいを1ユニットとする5、6ユニットが直線になったり同心円になったりといろいろに形を変えて、じつに多彩な動きを見せるのだが、1人1人を見てみると1人1人の動きはすべてのユニットを通じて完全に同じで、この構成はたんなる「面白さ」を超えて私には「啓示」のようなものだった。世界の根本の法則を垣間見たような気分だった(思えば、『もうひとつの季節』の中で松井さんがこれに似たようなことをしゃべっている)。人間というのは、私を構成するときに、“世界を俯瞰しているような〈私〉”と“俯瞰された世界の一員である〈私〉”という二つの〈私〉を軸にして、〈私〉間の非常に頻繁で複雑な往復運動(往復演算?)を持続させながら私を維持している、というのが最近の私の〈私〉観だけれど、その〈私〉観にもこのステージ構成は関与している。といっても、この〈私〉観がはっきり出てくるのは『残響』になる……。
 で、話変わって、単行本46ページの駅のホームで長い髪をしなやかな手つきで左右に分けて、下を向いて唾を吐いた大人びた女子高生は本当の話。だいたいこういう場面は本当にあったことしか書かないもんだと思う。その子と友達はポケベルを手に持って、3341が「さみしい」で6741が「むなしい」で072が「オナニー」としゃべりあっていた(ということは、もう一人はポケベル用語に熟知していなかったということだ)のだけれど、私は彼女たちが「さみしい」「むなしい」という言葉を頻繁に使っているらしいことが、とても印象に残った。ポケベルからあっという間に携帯電話へとツールは変わったけれど、「さみしい」「むなしい」の気分はツールと代が変わっても変わらずにつづいている。
 少年野球のヒゲパンも本当にいた人物。その後、新聞配達をしている彼と出会って、「まだ、野球やってんの?」「もう、やめた。かったるくて――」という会話を交わしたのも本当。「かったるい」「たるい」「たりぃ」という言葉は最近のように思われているけれど、鎌倉あたりでは「やっぱ」と同様、けっこう普通に使われていた。ま、方言みたいなものですかね。そんなことはいいとして、私はあのときのやりとりとその光景をこれからもずうっと忘れないだろう。ヒゲパンのモデルになった男のこともずうっと忘れないだろう。でも、ヒゲパンが稲村ガ崎小学校のチームの監督だったというのは本当ではなくて、本当は御成(おなり)小学校のチームだったのだけれど、「御成小学校」では鎌倉以外の人には小学校名かどうかも定かじゃなくなる可能性があるので稲村ガ崎小学校にした。と言っても、小学校ごとにいわば公認のチームと勝手に集まったチームがあって、ヒゲパンが監督をしていたのは当然といえば当然のことながら「勝手に集まったチーム」の方だった。私のチームも当然、そういうチームで、本当にものすごく弱かった。で、本当はヒゲパンは「ヒゲパン」ではなくて、いっつも赤いシャツを着てたから「赤シャツ」だった。でも、「赤シャツ」じゃあ、『坊っちゃん』のイメージが強すぎて。
 そんなこんなで『コーリング』には私が長年記憶していることやその頃に見た印象深いことがいろいろなところで盛り込まれている。私が『コーリング』に対して強い思い入れがあるのは、そのような記憶や印象を作品の中に「入れることができた」ということが強く作用しているのかもしれない。しかしそれはまあ本当に作者しか知らないことで(でも本当にそうだろうか)、そこが伝わらなければ、というか共有されなければ「『コーリング』? うーん………」という反応になるのかもしれない。が、やっぱり私としては、『コーリング』と『残響』に対する反応の芳しくなさは、〈手法優先〉のような外見によるところが大きいのではないかと思う。しかし、ああいう書き方をしなければたぶんああいう気分は書けなかっただろうしなあ……。あ、それと『プレーンソング』以来作ってきた「保坂和志」のイメージと違ったというところも小さくはないだろう。だったら『コーリング』を書きそうな他の小説家によって発表されたら、“私の読者とは別のところ”ということになるけれど、とにかくどこかではもっと受け入れられたかもしれない。「その作品にふさわしい著者名を冠することで作品がもっと流通する」のならば、それもまた面白いんじゃないかと思う。何十年後かはそういう風になっているかもしれない。作詞作曲家と歌手が別のようなものだ。
 この『コーリング』が94年12月号の「群像」に掲載されると、はじめて「文学界」の編集部から「お目にかかりたい」という連絡があった。これはどういうことを意味しているかというと、「芥川賞の候補の範囲内の作家になった」ということを意味している。しかし驚く、というか今となっては驚きを超えて「???」なのは、保坂和志はデビューしてそろそろ丸5年になろうとしていて、『東京画』や『猫に時間の流れる』という小説をすでに書いているというのに、それらの作品は芥川賞の候補の候補にすらなっていなかったのだ。芥川賞の候補はまず「文学界」の編集部内で決められる(らしい)。そこでその編集者いわく、「『コーリング』は編集部内の5人のうち3人が推したんですけど、その上ではねられました」。
 私のように1万部いかない小説家にとって、芥川賞は経済的に何と言っても魅力だ。賞金100万円はたいしたことないけれど、「芥川賞受賞」という帯さえつけば、印税が「×百万円」になる。私はあくまでも「野間文芸新人賞と三島賞と芥川賞は新人賞として同格」という立場をとっているから、賞の「名誉」の方はほしくなかったけれど、カネはほしかった。でも、その編集者の話を聞いて、「芥川賞とはソリが合わない」ことを確信して、「今度の小説は『文学界』に載せてください(その方が候補になりやすいから)」というような言葉に「はい、はい」と空返事をして、芥川賞の対象にならない長い小説を書き始めていて正解だったと思った。いや違った。私は、その編集者に「いま長いのを書き始めちゃったから、当分芥川賞の対象になるような小説はあなたに渡せない」と言ったのだった。
『季節の記憶』のところであらためて書くと思うけれど、私が『季節の記憶』のような長い話を書くことにした理由のひとつは、「100枚前後の小説を書いていると、発表するたびに、『芥川賞の候補になるかなァ』なんてつまらないことに煩わされるから、候補にならないとわかりきった長さのものを書こう」というものだった。私だって社会の一員で経済活動に参加しているかぎりは、そのかぎりにおいて「芥川賞がものすごくほしかった」のだ。でもそれに煩わされるのはもっと邪魔くさかったので、「いらない」の方を選択した、ということだった。だからもちろん『この人の閾(いき)』で受賞したとき(このやりとりの半年後のことだ)も、「歴代の受賞者の名前を見ると、日本文学という大きな山脈を形作っていて、この大きな山脈の一員に自分が仲間入りするかと思うとそら恐ろしいような……」という類の感想はまったく持たなかったし、心にもないようなことを口にするようなことも当然しなかった。(しかし、芥川賞と直木賞の認知度の絶大さは貴重で、この二つすら認知度を失ってしまったら、文学は本当に文学としてあまりにストイックな創作態度を求められることになって、「なりたい」と思う人がさらに減るんじゃないだろうか。ここ数年の日本サッカーを見ればわかるように、どの世界もある程度のアタマ数が揃わないことには、能力のある人も出てこない。)

『残響』は96年の4月に書き始めて8月の頭に完成した。『季節の記憶』の次に書いた小説で、『残響』以降、私は『〈私〉という演算』『もうひとつの季節』『生きる歓び』と3冊の小説を出してはいるけれど、『もうひとつの季節』は『季節の記憶』の続篇であり、ほかの2冊は私(ぼく)が考えたことや私(ぼく)に起こったことをそのまま書いただけだから、『残響』を最後にいまのところ私は新しい小説世界を構築していないということになる。それはともかく――。
『残響』をこのあいだ久しぶり読み返してみて、作品世界の暗さに驚いた。「また書け」と言われても『コーリング』なら書くけど『残響』はちょっとと思う。どうしてそういうことになったんだろうと思う。だいたい何をして私は『残響』のことをそんなに「暗い」と感じているのだろうか。それさえもわからない。
 この小説でも牽引役は堀井早夜香で、早夜香は美緒とほとんど同一人物と言ってもいい。「どこが同じ?」と言われたら私は「そんなこともわからないのか」と言い、「どこが違う?」と言われたら「どこも違わない」と答えるだろう。美緒は勤め先が決まっていない。早夜香は一緒に過ごす相手がいない。こんな状況、私には彼女たちにしか生きてもらうことができない。他の女の子だったら耐えられない、というか、まあ、様にならない。「暗さ」の原因は早夜香ではない。どうも野瀬俊夫と別れたその妻の彩子にありそうだ。
 だいたい2人が飼っていたという猫はどうなったのか。彼らのあとに住んだ原田ゆかりが知っている2匹の猫は野瀬夫婦が置いていった猫なのではないか――という推測を『残響』を読むたいていの人がしたようだけれど、じつは、信じがたいことに、そんなこと私は考えもしなかった。家の回りをうろついていたり、曖昧に住み着いていたりする猫の2匹や3匹、必ずいるものだからだ。しかしこんな単純なことに気づかずに私が書いていたということは重要だと思う。もし気づいていたら私はこの2匹の猫を登場させられなかったか(可哀そうで)、わざわざ「この2匹は野瀬夫婦の残していった猫ではない」と書いていただろう。しかし、そういう一文を書かなかった今となっては、私自身さえも「この2匹は野瀬夫婦の残していった猫なのではないか」という懸念を芽生えさせ、読み進につれてますますその懸念を強くしながら読むことを余儀なくされる……。それはまさしく普段の生活の中で私が猫を見ながら想像していることで、私は『残響』を読みながら、普段経験するほとんど一番といってもいいくらいに“したくない想像”を自分の作品によってさせられていることになる。が、そんなことは猫に関心のない人にとってはたいしたことではないだろう(だいたい読者は『残響』のことを私ほど「暗い」と思ってはいないかもしれないのだし)。
 そんな猫の想像を誘発するのは、野瀬夫婦のかなり突然だったらしい別れだ。野瀬俊夫は彩子から言い出された突然の別れをいまでも引き摺っている。俊夫にとって、自分のショックなんかはほとんど問題になっていなくて、そうなるに至った彩子の心の変遷を想像することが厳しくて仕方ないのだ。でももしかしたら事はもっとややっこしいかもしれない。183ページの「29歳で彩子とつき合いはじめたとき、17歳だった頃の記憶を話し、22歳だった頃の記憶を話し、……」という、恋愛の始まりのわくわくするようなものがいつまでもつづかないんだ、ということをわかりすぎるくらいわかってしまった、と、過剰に感じているのが野瀬俊夫という男で、彼は自分のそういう気持ちのあり方が妻の彩子を巻き込んだ、ということもたぶん考えているだろう。が、彼はそこからの回復の方策はいっこうに考えていない。――そして、この関係が彼らの家にあとに住んだ原田ゆかりと啓司の夫婦にも暗示されている。
 というこの構図を、私はやっぱり少しも念頭に置かずに書いていた。私の注意はひたすら、ゴルフ練習場の老人とそれを見る電線のカラスと、その両方を見る野瀬俊夫、という三者(ないし、“自分を含めて「三者」として見る野瀬俊夫”という四者)に投入されていて、『残響』を書く時間の4分の3くらいは、野瀬俊夫が何を考えるかに費やされていた。が、ここで野瀬が考えていることはそのまま「恋愛の始まりのわくわくするようなものがいつまでもつづかないんだ」ということを生産している、と私は考える。
『残響』を書き出すより前、私はこういう場面で始まる小説を書こうとしていた。
 塾の進路指導を終えて、帰りに駅前の喫茶店に入った父と息子(中学2年)がいて、息子はひたすらパズルの本を読み耽り、父の方は進路指導の場面を思い返しているのだが、それ以上に、こうして息子と2人で喫茶店にいる光景をもう一人の自分が眺めているような気がする。
 ――というもので、この〈私〉の生成のメカニズムは『残響』の野瀬が感じているのとまったく同じことだ(これは健全な“生成のメカニズム”であって決して離人症のような“病気”ではない。もっとも、それを意識することが病気でないかどうかはわからないけれど)。『残響』にはこれにさらに「動作の軌道は物質世界にどのように記録(記憶)されるのか」という考えが加わることになる。つまり話が戻るけれど、私は野瀬俊夫の考えを作品の中で少しは前に進めることに「書く」労力の4分の3くらいを投入したということだ。
 作者としてはこの『残響』を、堀井早夜香の無手勝流に考えを進めてついにドツボにはまっていた半日から抜け出すプロセスに共感してもらうことと、野瀬俊夫と一緒になって「うーん、どういうことなんだろう」と考えてもらうことを、主に期待した(と言っても、その「作者」とは「いまの私」であって、「当時の作者」が本当のところどう考えていたのかの忠実な再現ではない。それはこのホームページ上のすべての作品解説について言えることだけれど)。ところが、評論家は全然そういう風に読まなかった。つまり、早夜香や野瀬の内側のプロセスの進行にはまったく関心を持たず“批評”ばかりしていた。
 ――これは読者である人たちには想像がつかないことかもしれないけれど、評論家による批評しか読むことができなくて、読者が「読みながらどのように感じた(一緒に考えた)か」が、事実として一つも作者である私のところに届かなかったら、私は読者が「読みながら何をに感じた(一緒に考えた)か」ということについて、まったく確信が持てない。小説家のタイプによって、読者からの手紙の多い人と少ない人がいて、私はすごく少ない。だいたい1冊本を出して1通しか手紙が来ない。ホームページによって、私の小説を読む人たちが、「読みながら考える」人たちであることを確認できたことは、私にとってとても大きなことで、その確認ができていたら私は『〈私〉という演算』を書かなかっただろう。なぜなら、評論家の反応にアタマにきて(いや、「失望して」かもしれない)、「小説というのは、手法や形式や文体を論じるものではなくて、読みながら考えるものなんだ」ということを示すためには、ひたすら考えてみせるしかない、と思って始めたのが『〈私〉という演算』に収録された短篇群だからで(同じ主旨のことを『アウトブリード』収録の「『季節の記憶』の記憶とそれ以降」というエッセイでも書いている)、それについては『〈私〉という演算』で書きます。
 あ、それから最期になって、単行本のあとがきの繰り返しになるけれど、高野文子の『棒がいっぽん』(マガジンハウス刊)に入っている『奥村さんのお茄子』というマンガに感動しなかったら、「もう一度『コーリング』みたいな書き方をしたい」と思わなかっただろう、つまり『残響』は書かなかっただろう、ということを、『奥村さんのお茄子』への感謝を込めて書き添えておきます

以上