***私の小さな庭***

ふとぼんやりした時とか食事の支度をしている時とか歩いている時に、よく小さいころの記憶の断片が浮かんでくる。
お使いに行く時野良犬がいると遠回りしていたこと、お店でソースを計り売りしてもらって、お金を払った直後に瓶を落として割ってしまったこと、幼稚園で私の嫌いな男の子(カオル君というカエルのような顔をした子だった)がバケツの水をひっくり返したために、わたしの服が濡れて、先生が貸してくれた服が男の子の半ズボンと黒い足袋で、それが死ぬほど恥ずかしかったこと、家の近くの橋の上にMPが立っているので、そこを通れなかったこと、こうして書き出して見ると強く記憶に残っている事って、怖かったり、戸惑ったり、小さいながらもその場で何とか判断して対処しなければならないことが多いみたいだ。
まだ書くことも出来ず言葉で自己主張することも下手だった分、その感じは体の中に凝縮されているから記憶が鮮明なのかもしれない。そして本当は「犬が怖いからお使いはいや」とか「こんな男の子の服ははずかしい」とかちゃんと言いたかったし、カオル君なんか負けずにひっぱたいてやりたい、なんて思いが残っているのかもしれない。
そのころ家の前の川向こうの野原と、関東学院のグランドが私たちの庭だった。川の両岸には柵は無くて、一度近所の子たちと野原で遊んでいる時、髪の毛を縛るゴムを取りっこしていて、となりのお姉さんが川に落ちたことがあった。今なら役所の責任とかすぐに騒がれるのだろうけれど、その頃は川っぷちのぎりぎりのところを走る子供の方が悪いといって、親に怒られるのがせいぜいだった。春になるとしろつめ草の花が一杯咲いて、髪飾りや腕輪にしたり、縛って足を引っ掛けるわなや落とし穴を作ったり、何故かやぎがいたので、ちり紙を食べさせちゃったり、野原は子供達のかっこうの遊び場だったのに、誰の土地だったのか日産のショールームになってしまって私たちは一番良い遊び場を失ったのだった。それからわたしは関東学院の学生寮にもよく入り浸っていた.机と作り付けの2段ベッド以外遊ぶ物など何もない4人用くらいの暗い殺風景な部屋で、子供心にこの人たちはとても貧乏なんだわと思っていた。今思えば昭和30年代の初めに地方から出て来ている学生の家が貧乏なはずはないだろう。
ある時一人の人が文庫本を私に見せて「これ何て読むかわかる?」と聞いてきた。それはツルゲーネフの「恋愛」で、小さかった私はちょっと考えて「こいあい」と言ったら、お兄さん達は間違ってるとも合ってるとも言わずに笑っていたので、私はそれが正しくないんだとわかって、何だかからかわれたような気がして面白くなかった。
大学が夏休みになった熱い日のグランドで、私と弟が遊んでいた時、学生が一人でやってきて、私と弟とで生垣の中に作った秘密の家(と言っても葉っぱを少しよけて座れるようにしただけ)を見せたりして3人で遊んでいたら、その人は弟に飲み物を買いに行かせ、私に「僕の名前は南海の監督と同じ」と言ったのだけれど、私は野球を知らないので分からないと言うと、乾いたベージュの地面に棒切れでゆっくりと「つるおか」と書いた。そして何を思ったのか唐突に「キスしていい?」と聞いてきた。私がよくわからず「うん」と言うと抱き上げてキスしたのだった。そして明日も又遊ぼうねと別れたのだけど、次の日また弟とグランドに行って待っていても、とうとうその人は現れなかった。関東学院のグランドでは良く真っ白なグライダーを飛ばしていて、それを見るのがたまらなく楽しみだった。そしていつも地面は埃が舞っていて砂っぽかった。
 

               ***雪の海岸で遊んだ日***

16歳の年の冬、雪が3日も降り続いた。
私は学校に行きたくなくてさぼって休んでいたのだけれど、そのころちょっと好きだった上級生の人を何となく思い浮かべ、遊びに来てくれればいいのになぁと突然思ってしまった。思っているうちにどんどんその気持ちが大きくなってきて、どうしても来て欲しくなったけれど、電話番号を聞いた事も無かったのでどうやって、それを先輩に伝えたらいいのかがわからない。考えた末にとうとう私は家族のふりをして学校に電話して、Kさんを呼び出してもらった。(けれどこれは後日、クラスの友達にやったら失敗したことがあったのだけど)。Kさんと私はほんとにただの先輩、後輩でカップルでもましてや恋人同士でもなかったけれど、びっくりしたり面倒くさがったりしないで、どちらかといえばそういうことを面白がってくれる人だったので、「うん、いいよ」と言って、雪の中を電車とバスを乗り継いで、一時間ほどかけて家に来てくれて、玄関に現れた彼を見て私が笑うと彼も笑いながら「しょうがないなぁ」という顔をしたのだった。
せっかく雪がこんなに積もっているのだから、どこかに行こうよということになって、学校へ行くのはいやだったけれど、遊びに行くとなれば、雪はぜんぜんいやじゃなくて、私たちは雪の降る中を30分以上かかって夏には海水浴場になる野島海岸へ歩いて行った。雪で道が危ないのでもしかしたら手をつないでいたかもしれないし、傘をさしていたのでただ並んで歩いていただけなのかもしれない。飼い犬のベルを一緒に連れて来てあげれば良かった、と私は思った。雪はいつまでも降り続き、いつもは海水浴の人達が座るコンクリートの階段も雪に隠れ、遠浅の砂浜も一面の雪、松の木の有る公園も真っ白で、松の枝さえも緑が見えないほど雪が積もっていて、Kさんはその景色を見て、とてもうれしそうにはしゃいでいた。私たちは傘を置いて、松の木の回りを追いかけっこのように、走ったり、ころんだり、雪を投げあったりしながら遊んだ。ただそれだけのことをずっと、ずっと。野島海岸には私たち二人の他には誰もいなくて、雪は音も無く海の中にどんどん吸い込まれて消えて行った。
 

           ***S先生との再会の夜***

12年ぶりにS先生とお会いしてなべさんと3人で食事をした。
S先生は7人兄弟の末っ子で昭和20年4歳の時、一家で引き上げてこられて、すぐお父さんを亡くし、福島の田舎で大変な苦労をされた。その後お兄さんが東京で家を建て家族全員で身を寄せてからも、遠足にも行かれないほどの生活をしてこられた苦労人だ。昼間は仕事をし、夜は中央大学の法学部に通い公認会計士の資格を取った。7人兄弟の末っ子ともなれば、好きなことして気楽に生きていくことも出来ただろうに、公認会計士という大変な職業を選んで誠心誠意頑張ってこられたが、小さい時の栄養不足と仕事の疲れが溜まったからなのか、腎臓を壊し、週3回透析に通っているというので、びっくりしてしまった。確かに前よりやせていたけど、その割にはお元気そうで、食事も普通だしお酒もやってますよというのでちょっと安心。
私が転職したとてつもなく変な建設会社で仕事をしていたとき、先生は心の拠りどころだった。そのころの日々はS先生が会社に見える時だけが気持ちの救われるときだった。でもあまりにも理不尽なことが多く半年でやめてしまい、S先生の事務所を2ヶ月だけ手伝っていた。ただそれだけの付き合いなのに、先生はとても懐かしい感じがするし、いつも真面目で穏やかでにこにこしていたところが、久しぶりに会ってもそのままだったのでそう言うとそれしかないんだよと、恥ずかしそうにするところが又先生らしくてうれしかった。
同郷で年も近いせいかなべさんと先生は楽しそうに昔の田舎の話や、ストーブでお弁当をあたためる方法で盛り上がった。お弁当の数が多すぎて、ストーブの上から落っこちてしまったとか、にこごりだけがおかずの弁当が、暖めたらおかずは消えて汁とごはんになってしまった人の話は笑えるけど、ちょっとせつない。
福島なまりのことから言葉の話になり、東北は(先生は会津)は平家の落ち武者が流れ住んでいる関係で、方言の中にもその名残があるのだそうだ。例えば「にしゃ」は「おぬし」という意味で相手に向かって「にしゃあ、なんとかかんとか」というらしいが、これなどはもともと東北の言葉ではなく、京都から流れてきたのだろうと言っていた。「身しらず」というのは柿のことで、ある日先生は事務所の近くで偶然「みしらず」というお店を見つけ、多分そうだろうと思って入ってみると、やっぱり福島の人が店でその柿の話をしたのだけれど、何故柿の名が「身しらず」なのかはわからなかったらしい。もしそれが平家の落人の命名だとすれば、「身しらず」というのは都を終われ東北の田舎まで落ちてきた自分の境遇と照らして重なるところがあるのだろうか。なべさんの田舎にも「富山柿」というのがあって、昔、加賀藩で迫害されて東北に流れてきた人たちが、柿の木を持ってきて植え、「富山」の名をつけて故郷を偲んだんだろうという話だった。そもそも渡辺とか渡部のルーツは大坂の淀川で船の渡しの仕事をしていて、そこから北陸へ分かれ、さらに東北へと流れていったんじゃないかと、なべさんの親戚が作った一族の家系図のような本に書かれているらしい。
わたしは自分の家の歴史がわからないので、そういう話を聞くのはとてもおもしろい。人が流れていく様に言葉もそれに伴って移っていく。その語源をたどっていくことは興味深いことだと思う。
おいしいお料理と話で3時間もたってしまい、いつまたS先生に会えるかわからないけれど、透析に負けず、まだまだ頑張ってほしいと思った。楽しい夜でした。
 


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