序:森について
私はこの議論において「森」という一つの装置を用いる。
後に述べる様に、この論で森と主に関わるのは赤頭巾やカフカの主人公であるのだが、その外枠を説明するに出さなければならないのは哲学者ライプニッツの名前である。彼は世界における身体の位置というものを非常に重要視した。例えばライプニッツは、身体に対して精神が完全に特権的な地位を与えられていた時代に、身体がこの世界において「位置」を持つことの重要性を指摘したのである。
◆「同一の都市でも様々の異なった方角から眺めると全く別のものと見え、眺望としては幾倍にもされた様になるが、それと同じく、単純な実体が無限に多くある為に、その数だけの異なった宇宙がある事になる。然しそれは各単子の異なった視点から見た唯一の宇宙の様々な眺望に他ならない」ライプニッツ「単子論 五十七節」(工作社 ライプニッツ著作集9「後期哲学」230ページ)
私が私であるのは、ある特定の視点を持って居り、世界の誰一人同一の視点を持っているものはいないからだ。この考え方は、corps(身体、物体)の定義として、何らかの面積を有しているという意味で「延長」を持ってくるデカルトに対し、「非貫通性(ある物質のあるところに他の物質が来ようとすると何らかの反発があるという意味で。この考え方は予め何らかのものがある場に、同時に他のものがあることはあり得ないということに繋がる)」をその定義だとする考え方に繋がる。独自の視点、というものを非常に重要視しているという点で画期的だと言えるだろう。
そして「独自の視点を持つ事」は即ち制限がその個体に掛かる事を意味する。
さて、森と私が言うとき、その存在意義は即ち、以上に述べてきたような視覚的な制限が存在することにある。
森というのは「王国」を否定した際に現れるものである。この「王国」については後に詳述するが、ともかく、王国というのはある一定の秩序(私がしばしば「物語」と呼ぶ場合もあるもの。たとえば国籍、セクシャリティー、ジェンダーなど)が存在する場所であり、一つの秩序に対して一つの王国があると概ね考えてみたい(王というのは秩序そのものであり、その支配区域が王国であるから)。その一つの秩序を否定したいと願うとき、現れるのが森なのである。
ここで現れるのが「草原」「広野」といったイメージではないのは、これらはあまりにも視覚的な制限がないという理由による。確かに一つの王国(秩序)から解放された身ではあるが、それで全ての可能性が開けるわけではないのだ。
可能性の制限は視覚の制限となって現れる。
森は物語を捨てたものが彷徨うための場所である。かと言って新しい物語が差し出される場所でもない。そこではほぼ全ての物語が沈黙している。つまりそこを彷徨う時人は誰でもないものになるのだが、それは「誰でもないもの故に誰でも他のものになりうる」という、つまり「やがて他の王国(何者かになると言う事、何かの秩序を背負う事、何かの物語を負う事)に行く事」なのである。森にいる間はどんな新しい物語を持つ事も出来ない。森は古い物語を憎み新しい物語に憧れるための場所であり、出来事は起きない。新しい物語が起こるのは次の王国においてである。
さて、ここで最初の話に戻ろう。
秩序、物語から解放された領域、森にあるのはつまり、まだ(何者かに所属する物語として)現勢化されていない可能性の群れであろう。だが森に入ったものがその全ての可能性を見通せる訳ではない。森は全ての王国に通じているが、当面森を彷徨うものが行けるのは前の王国の否定としての新しい王国であり、限定されているのだ。
人は位置を持つ。
敢えて言えばそれは人が森に持ってはいる事の出来るただ一つの物語である。可能性はその人の位置、視点によって見える範囲を限定され、その人の選択する可能性の範囲をつまり限定する。
身体を持つ事により生ずる位置によって限定された沈黙の中を、古い王に膿んだ人は彷徨う。私が今回問題にするのはそんな人々であり、彼等の辿る道行きである。
そして一つの謎を提示しよう。森についての謎である。
夢野久作「氷の涯」という小説がある。一人の男が友人へ書いた書簡という形式をとっているのだが、主人公の置かれた状況、及び友人との関係は、凡そ冒頭の次の様な文章に集約されている。
◆「ただし…タッタ一人きみだけはぼくを惜しがってくれやしないかと思っている。ぼくをどこかの芸術家にすべくあれだけの鞭撻を惜しまなかった君だからね。
しかしぼくはきみの鞭撻に値しない人間だった。ぼくは一種の虚無主義者だった。黙々としてコンナ運命に盲従しつつ落ち込んでいった。」
第一次世界大戦直後のロシア、日本軍に所属していた一人の若者がスパイと殺人の容疑をかけられ、国と名前とを失い、ロシア中を彷徨う。彼がそうなった理由は上記の通り「運命」に逆らわず流されているだけの人間だからだ。彼は日本軍から赤軍、そこからも流浪する、「何処へも行かない物語」を展開した後、ロシアの果てに流れ着く。
◆「ぼくらは今夜十二時過ぎにこの橇に乗って出かけるのだ。まず、上等の朝鮮人参を一本、馬に噛ませてから、ニーナが編んだハンドバッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四,五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場の斜面に来て、そこから凍結した海の上にすべり出すのだ。ちょうど満月で雲も何もないのだから、トテモ素敵な眺めであろう。
ルスキー島を曲がったら一直線に沖の方に向かって馬を鞭打つのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。
そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠の様な色から、虹の様な色に変化して、眼がチクチクと痛くなってくる。それでも構わずグングン沖へ出ていくと、今度は氷がだんだん真っ黒く見えてくるが、それから先はドウなっているかだれも知らないのだそうだ。
この話ニーナが哈爾賓にいる内にドバンチコから聞いていたそうで、そのドバンチコはまた、ある老看守から伝え聞いていたものだそうだが、たいていの者が、途中で酔いが醒めて帰ってくるそうである。また年寄りも馬はカンがいいから、橇の上の人間が眠ると、すぐに陸の方へ引き返してくるそうで、そのために、せっかく苦心して極楽往生を願った脱獄囚が、モトの牢屋のタタキの上で眼を醒ましたことがあるという。
『・・・しかしアンタと二人なら大丈夫よ』
と言って、彼女が笑ったから、ぼくはこのペンを止めて睨みつけた。
『もし氷が日本まで続いていたらドウスル・・・』
と言ったら彼女は編み棒をゴジャゴジャにして笑いこけた」
小説はここで終わる。
そして謎はここで始まる。彼等の目指した氷の涯とは、結局、何処だったのだろうか?いや正確に言うとそもそも「何処か」であるのだろうか。
私はここで二つの点に注目する。始めに引用したとおり主人公は「運命に盲従」し、彷徨う男だったはずだ。運命にひざまずく、これは後述するがつまり「悲劇」を辿っていると言うことだ。ところが、この終わり方は悲劇とは違うものを我々に感じさせる。彼が自分の運命に磨り潰されたのではないことを、終幕で描かれる、氷の涯で彼の見る視覚の解放によって我々は知るのだ。彼は、何故「運命」の下から逃れ得たのか?
そして、逃れた先にあった氷の涯とはつまり何なのか?
この謎を私は「森」という装置によって、解いてみたいと思う。
1:王国ー運命、王、物語ー
私たちは王国にいる。
この言説の意味するところは私たちはある物語の支配下に居ると言うことであり、平たく言うと、何らかの運命を背負っていると言うことである。けれど普段、私たちは王国に居ることを意識しない。日本人であるという物語、女性であるという物語、大きくは身体と有するという物語。それらはもし受け入れる事が出来る内は、、むしろ私たちを加護してくれさえするものだ。けれどもしそれらの物語が自分にとって苦痛となったならば、私たちは与えられた物語を呪い、そこで初めて、私たちは自分たちが王国にいたことに気づくのである。
私たちが王を呪うこと、それは王国への呪詛であり、王からも呪いを受けることを意味する。
王は祝福の時ではなく呪いの時にのみその姿を現す。
それを私は「悲劇的瞬間」と呼びたいと思うのだが、この辺りの事情をアンリ・グイエの言葉を借りて見てみることにしよう。
アンリ・グイエはその著書「演劇と存在」において、悲劇論を展開している。彼の「悲劇」の定義をかいつまんで言うとそれは、悲劇に必要なのは何者かの不幸ではなく、「超越者」の存在であるということである。超越者が現前する瞬間、それが悲劇なのである。
◆もしも悲劇的なものの本質が必然性にあるのであれば、「ねずみの様に捕まってしまった」と感ずる事は、ほっとした感じのものかも知れない。(中略)オイディプスがテーバイの町の人々に次の様に言うところを、想像してみよう。『わたしは父を殺した、母を娶った。それは遺憾な事だ。しかし誰が悪いというのだ。私に責任はない……』(中略)この様な不幸が残酷な神の仕業であると判断してくれるならば、わたしについて正しい言葉遣いをしたと言えるのではないか。」勿論そうである。だが、「正しい言葉遣い」がただ単に、運命に弄ばれた者の無罪を叫ぶだけであるならば、「このような不幸」は悲劇的であることをやめるであろう。この不幸がどこまでも悲劇的であるのは、「残酷な神」が介在しているからである(アンリ・グイエ『演劇と存在』未来社 佐々木健一訳 第二章「悲劇的なもの」より55−56ページ。尚この論のこの章において、殊更に銘記がない場合は同書の同章からの引用であり、その場合ページ数だけを記する)。
神の介在が悲劇を作る。では、ここで言う「超越者」とは何を指しているのだろうか。
◆従って、悲劇の中の運命は、一つの超越的な必然性である。それはいかなる事か。
超越的な必然性は、明らかに、その本性の中に超越的な必然性を含んでいない存在を、超越している。発動しはじめると津波を発生させる幾つかの決定的要因は、それが起こす波を超越してはいない。昔の仮説の言う様に、もしも津波の原因が海底火山にあるのだとすれば、原因は結果の外にあるとは言えても、結果に対して超越的であるとは言えない。何故なら、原因と結果とがともに、我々の宇宙を構成している同一の物質的体系に属しているからである。超越という語に対応する関係は、ある種の次元の差異を含んでいる。関係項の一方が必然性であるとすれば、もう一つの関係項は当然の事ながら必然性以外のものである。従って、必然性の超越性は、自由な存在との関係においてのみ存在する。
従って、自由のない運命は存在しない。
従って、自由のない悲劇は存在しない。何故なら、運命の悲劇的な力をはその超越性に由来し、その超越性はある自由を超越したものだからである。
オイディプスは父親を殺そうとしたわけではない。彼は母親を娶ろうとしたわけでもない。この巡り合わせは、別の成り行きを望んでいた意志をうち砕くものであるが故に悲劇的なのである。(57ページ)
自分以外の何者かに因果関係を左右されるが故の悲劇ではないのである。そうではなく、悲劇を引き起こす超越者の存在というのは、確かに世界と何らかの連関を持ちはするが(◆何らかの内在と相関的ではない様な超越は存在しない(48ページ))それは因果の連鎖の中ではなく、そこから超越した場所においてなのである。であるから私たちは、自分の自由を信じて疑わない。実際、私たちが自由を持っているのは
事実なのだから疑う必要もないのだ。
それは私たちは確かに私たち固有の物語を有することが出来るという事である。それが王の物語とぶつかる時がある。それが私たちの自由と運命がぶつかる時と言うことだ。
そうなっても私たちの物語は私たちのものであり続ける。物語の最後までオイディプスが乱暴な男を殺し妻を娶ったという物語を持ち続けられる様に。
しかし王は別の物語を持っている。父を殺し母を娶った男の物語だ。その物語もそれだけでは悲劇ではない。だが、オイディプスは自分の物語を確かに持ったまま、そしてその物語を愛したまま、そのもう一つの物語と相対することになる。その時悲劇が起こる。オイディプスが神を呪ったと同じ瞬間は何度でも、世界に立ち現れるのだ。
◆或る出来事が悲劇的となるのは、それ自体の性格のためではなく、それの意味するところのものによるのであり、この意味は、それがある超越者の徴を持ち込む時悲劇的となる。(56ページ)
王の物語は人の物語を凌駕する。
運命は自由を凌駕する。
◆運命の中には二つの要素がある。必然性と超越性である。それ自体が悲劇的であるのは、必然性ではない。運命は、必然性にもかかわらず、悲劇的なのである。ジャン・コクトー氏がオイディプスの玉座の下に「地底のからくり」を見る時、この表現に悲劇的な響きを与えているのは、実詞(「からくり」)ではなく、形容詞の(「地底の」)方である。もしもそのからくりが地底のものでなくなったならば、地獄とともに悲劇的なものも消えていく。(56ページ)
悲劇的瞬間がやってくる。王は私のもう一つの物語を突きつけ私を嘲笑う。オイディプスはさまよい出る。彼は王国を追放された呪われた存在である。同時に彼は王を呪ってもいる。
彼は今森の降臨を望むのだ。
全ての物語が沈黙する場所を、運命の届かない王の領土の果てを。
そして森は姿を現す。
2:森ー物語の沈黙ー
「森」を機能をイメージするに最も適当なのは「赤頭巾」の物語である。 様々なバージョンが知られているが大凡次の所はその全てに共通していると思っていいだろう。
昔女の子が居て、森に住むおばあさん(お母さんの場合もある)に会いに行く事にしました。おみやげを持って森を歩いていると、狼がやってきました。狼の言うとおり、女の子が森の中で花を摘んでいる間に、狼は先回りしておばあさんを食べてしまい、後からやってきた女の子をも食べてしまいました。
ここには二つの物語がある。
正確に言うと二つというよりは、最初の物語と、それが或る意志の元で歪んだものと言うことになるだろうか。ともかく、一つ目の物語は王国のそれであり、非常に分かり易い。
「女の子はおばあさんに届け物をする」
「狼は女の子を食べる」
この物語がそれぞれに王国から与えられている。赤頭巾と狼が彼等たる所以はこの物語を所持することにあると言っていいだろう。
けれど、この物語は不意に歪む。
もし運命をそのまま辿るのだとしたら、この話は実にシンプルだった事だろう。「昔女の子が居て、おばあさんに届け物をする途中で出会った狼に食べられてしまいました」それでおしまい。けれど二人が出会った時、その、王の物語は一時停止する。そして赤頭巾と狼の迷う森が生まれる。
物語の歪み方はごく密やかだが、確かに頑強に歪む。森の中で赤頭巾はおばあさんに届け物をする道を逸れ、しばしば道草をする。狼は赤頭巾を食べずに赤頭巾と会話する。彼等は王の物語を確かにここで停止させている。けれど、反乱しているわけではない。他の新しい物語を提示させているわけではなく、ただ、王の物語からここで一時目を逸らしているのだ。
王の物語から解放され、沈黙する物語の中世界を歩くこと、これを「彷徨い」と呼ぼうと思う。
森は彷徨うための場所なのだから、具体的に何かが起こるわけではない。新しい物語が生まれるかどうかは、古い王の物語を捨てて森にいるからといって保証されているわけではないのだ。それを証拠に、結局、狼と赤頭巾は互いの物語に戻ってしまう。そこがあくまで「森」で無いことに留意したい。赤頭巾が届け物をし狼が赤頭巾を食べるのは「おばあさんの家」である。しかしここは完全な王国でもない。その証拠については、後に触れよう。
ただ、全ての物語は沈黙している。
ここが森なのだ。
◆空間の絵画的表現と物語が語られる方法の間には、相容れない平行線がある。『小説の理論』でルカーチが指摘した様に、小説は地平線の彼方にある何かへの憧れから生まれる。それは故郷喪失感覚の芸術的表現である。こうした喪失感を持って、人類が経験したことのない選択の道が開かれる。(『見るということ』ジョン・バージャー 「シーカ・アーメットと森」)
◆故に私たちは次の様に結論を下すことが許されよう。すなわち、想像力とは、意識の、経験による後から附加された能力の謂ではない。それは意識が己の自由を実現する場合の意識の全幅である。(中略)しかし、意識は常に自由であるが故にそれはつねに《状況内》《en
situation》にあるものであるから、意識にとっては、非現実的なものを生み出す具体的な可能性が、いつも、あらゆる瞬間に存在する。(JEAN-PAUL
SARTRE 『想像力の問題』結論人文書院 サルトル全集 259ページ)
沈黙は新しい歌のための沈黙である。新しい歌の為には古い歌を一度捨てる事が必要である。勿論、古い歌でも事は足りる。只時折、歌が止む瞬間があるだろう。その瞬間が世界に降り立つ時、人は誰も知らない新しい歌の可能性を見る。
人は想像によってここではない何処かを志向する能力を持っているからだ。いまだ可能性でしかないその歌は、けれど少なくとも古い歌を揺るがせるに足る存在ではある。
可能性に捧げられた沈黙の中を狼と赤頭巾とは歩いている。それでは、何故彼等はそこに迷い込んだのだろうか。
この理由は話の中で具体的には述べられていない。ただそのヒントと考えられるのは、狼が王に逆らってとった二つ目の行動において見られる。
物語の収束地点であるはずのおばあさんの家で、王の物語はもう一度歪む。ここは森ではなく、王の力が比較的強いと思われる「小屋」なのであるが、そこでも狼は直ぐに赤頭巾を食べようとしない。彼は変身をする。彼の願った物語の最後の旋律がそこで始まり終わる。
3「変身」ーアンチノスタルジィー
変身とは、物語の決定的な否定である。それは今まで自分の身体に刻印されていた物語をうち消そうとする働きであり、真っ向から古い王を呪うやり方であるからだ。
全ての物語の否定が変身を伴うというわけではないかも知れないが、全ての変身はおそらく物語の否定を伴っている。変身とともに森が生まれる。
つまり、逆に言うと、王国から出たかったら身体を変えることだ。変身と森とはその機能においてほぼ同義である。非日常への飛翔の手段、それが変身である。昔話の変身譚は、その変身するものの生活空間から一時的にせよ永続的にせよ離脱することを意味している。姫君は父王から逃れるた様と動物の皮をかぶり、貧しい娘は城の舞踏会に行くため魔法のドレスを着て、それまでの彼女たちの物語から離脱をはかるのである。
古い王への呪詛、まだ見ぬ場所への郷愁、それが森を呼び変身を呼ぶ。
この「変身」がうまくいかない場合、森を抜けることは失敗する。彼等は古い王の下で絶望するのだ。それが飛翔を伴わない変身という特殊な例である。
逆に言うと、王国の内部に留まりながら変身を為すことは不幸でグロテスクな結果をもたらさざるを得ない。その例として、カフカの「変身」を上げることは不適切ではないだろう。この変身譚の最大の特徴は、日常に張り付いたまま、そこからの飛翔を封じられた状態で変身を為してしまったところにある。グレゴールという働きずくめの心優しい哀れな青年はある日、自室のベッドで虫になっている己に気づく。
彼の生活を知るにつけ、古来囚われの王子が鳥になって逃げ出した様に、この変身はおそらく彼の日常から離脱するための手段としてのものであったと想像することは容易である。それを証拠に、ウラジミール・ナボコフによれば、グレゴールの変身した虫は甲虫であるという。
◆「甲虫にあって翅鞘には薄く小さな羽根が隠され、それは拡げられると、何マイルも何マイルも甲虫を飛ばすことが出来る。はなはだ奇妙なことに、甲虫グレゴールが背中の固い覆いの下に羽根があるのに気づくことは、遂になかったのである(これはわたしが発見したたいへん精緻な観察だ、一生大事に銘記しておきたまえ。自分には羽根があるということに気づかぬグレゴールたち、ジョーやジェインたちが世の中にはいるものである)」ウラジミール・ナボコフ「ヨーロッパ文学講義」より「フランツ・カフカ」(野島秀勝訳 TBSブリタニカ 330ページ)
むしろ括弧内に軽く付け加えられた表現によって私はナボコフをここに引用している。つまり、グレゴールの変身したのは元々羽持つ生き物であり、彼の日常から飛び立つことは全く可能であるはずだった。だが、カフカはここでその様な行き先をとる昔話に反逆する。変身により違う場所へ行くはずだったグレゴールは、飛翔を忘れるほど彼の日常という物語に疲弊していたために、その物語の中で変身をしてしまう。
けれどこれが「悲劇」だと言いうるものは誰もいないであろう。何故ならグレゴールは変身をした時点で、それが成功するしないにかかわらず、王国の外に出てしまって居るからだ。彼は森にいる、しかし同時に王国にもいる。変身をしておきながら王の監視下に居続けているのだ。
こんな変身は成功しない。蛹から孵る時蝉は王の目をはばかって夜を選ぶのだ。蛹は森、幼虫から成虫への変身の場だ。森と王国とは同居を良しとせず、過って太陽の下で脱皮した蝉はその熱が自らの柔らかな体を焼く為に、奇形した体になるしかないのである。もし変身が夜に、王の目が届かない時に完了していたら、彼も非日常と言う彼のいるべき場所へ行けたかも知れない。しかしグレゴールが自らの変身に気付く、つまり変身が完了するのは朝だ。非日常・グレゴール(甲虫)は日常・グレゴールしか認めない日常という王国の中で、静かに異端として遇される。
しかし、グレゴールはオイディプスよりは前進している。オイディプスは悲劇であり、最初から最後迄彼を縛る物語から、即ち外見上の話をするなら、踵に傷持つ男と言う運命の姿から逃げだせていない。グレゴールは王に強制された、即ち、彼の日常の姿を廃棄している。この時点で彼は王を捨てている。つまりこの「変身」は王、超越者がいない故に悲劇としては認識されない。グレゴールは確かに森の中の物語だ。古き良き変身譚はこうして、現在の中に歪む。
日常という王は、しばしば私たちから非日常という可能性を剥奪する。グレゴールは羽を持ち森へと飛べる筈だった。王がこれほどまでに強くなければ、彼の領土がこれほどまでに広くなければ、甲虫の背中の羽は確かにその機能を果たしていたはずである。
グレゴールが森を出現させたのは、彼を押し潰さんとしていた日常から逃れようとしたからだ。羽持つものに変身したのもその現れだろう。けれど彼が逃れようとしていた王は、彼の予想を遙かに超えて強大だった。森を出現させ、セールスマンや優しい兄・息子である彼の運命から逃れたはいいものの、
その運命の外に作り上げた森は王国の領土内に存在するという歪んだ形で成立し、勢い、変身によって得られた彼の羽も使い物にはならなかったのだ。
この森は「物語の停止」にはおそらく一役買っている。しかし森のもう一つの重要な機能「可能性への飛翔」は失っている。物語の停止によって私たちはその先にここではない何処かを見るのだが、グレゴールは停止した物語の中で指一本触れることの出来ない「日常」(何故なら彼はすでにその外にいるから)が過ぎ去るのを見ていることしかできないのだ。王の居ない世界、悲劇が起こりえない無限に続く日常(いま、ここ)という所に、この小説の特殊な歪みはあると見て良かろうと思う。
まず、王の力が強大すぎ、それを計算に入れることが出来なかった為、一つの森と飛翔が失敗する。
赤頭巾の物語に戻ろう。
赤頭巾(における狼の変身)を「変身」の延長線上に置くとするなら、これは文字どおり「変身譚」として認識が可能であり、その様な解釈すらも可能である。狼は最後に赤頭巾のおばあさんに変身しようとする。つまり、狼は新しい物語を纏うことによって、自分の身体を消したかったのではないのか?しかし狼も或る意味ではグレゴールの仲間だ。彼の変身はその目的を遂げることなく失敗する。
だが、グレゴールと狼との間には明確な違いがある。赤頭巾という物語は、確かに悲劇なのだ。
赤頭巾と言う物語の中の変身、それは狼の二つ目の奇妙な行動である。森の中で直ぐに赤頭巾を食べなかった狼は、物語の終着点であるはずの「おばあさんの家」においても、中々彼女を食べようとしないのだ。それどころか、彼女のおばあさんに変装しさえする。
これはおそらく森の中で赤頭巾を食べなかったのと同じ理由が働いている。即ち、ここは森なのだ。彼の爪と牙と言う物語を打ち消す為の場所なのだ。グレゴールの変身のように、狼の変身は彼の望んだ新しい王国を映している。彼に与えられた爪と牙という物語から解放される、その様な新しい物語を狼は望んでいたのだろうという解釈が出来る。新しい物語(爪と牙のない身体)への希求は古い物語(爪と牙のある身体)とぶつかり、そこに森が生まれた。
だが、忘れてはならない。ここは純粋な森ではなく「おばあさんの家」なのだ。力は弱いとは言え、ここは確かに彼等がそこから彷徨い出た森の始めの王国の一部なのである。即ち、グレゴールは「王国の中の森」にいたが、今度赤頭巾と狼がいるのは
「森の中の王国」である。グレゴールと違い彼等は王に捨てられては居ない。変身は始まっているにもかかわらず、王の力は確かに揺るぎない。狼は分かった。赤頭巾は?彼女も森の中で物語を捨てようとしていたのではなかったか。
確かにそうだったはずである。しかし、赤頭巾がおばあさんの家の中ですることはむしろ王の物語の降臨だ。狼が否定しようとしていた彼の身体を赤頭巾は白日の下にさらす。理由はこの物語からは分からないが、赤頭巾は森から降りたのだ。王の力を狼に示すものとして赤頭巾は再び狼の前に姿を現す。
森は物語を停止させたし、新しい王国を垣間見せもした。けれど王の物語は、狼の爪と牙という運命はそれより強かったのだ、それだけだ。変身は未遂に終わる。ここには王がいるからだ。
狼はおばあさんの家でおばあさんの格好をする。それが彼の森への最後の意志だ。けれどその変身は失敗している、彼の爪と牙という物語をうち消す力はもう無い。後は王に支配された物語が待っている。「狼は赤頭巾を食べてしまいました」彼等の物語は完結し、運命は最後の最後に狼の物語を嘲笑う。沈黙していた物語は、王の物語という声を取り戻す。遙かに見えていた新しい王国は見えなくなる。狼の森はそこで消え去り彷徨いは終わる。
グレゴールは背中の羽に気づき非日常へと飛び去りました。
狼の変身は成功し、彼の爪と牙とはなくなり、狼と赤頭巾は彼等の物語の外へと旅立ちました。
二つの物語が幸せに終わるためには変身の成功がおそらくは絶対の条件である。だがそうはならないのだ。
グレゴールは日常という王国から抜け出す前に森を作ってしまった故に、狼は森の外へ行く物語を強く貫き通すことが出来ず王の干渉を受けてしまったために、彼等の森は不完全であった。つまり彼等は王の力を計り損ね適当な変身を出来なかったのだ。
では森を抜けることなど出来ないのだろうか?私たちは新しい物語に憧れても、そこに行くすべを身体を、持つことが出来ないのだろうか?
それは決して不可能ではない。私たちは森を超えて新しい王国へ行くことが出来る。森はその為にあるのである。夢を見るのは見たこともない何かへのノスタルジィだ。私たちはその感傷を持つための場所を確かに与えられている。
4:新しい物語ー彷徨いの収束ー
正確に王の能力を認識し、戦略を立てることが出来ればおそらくは王国を抜け、新しい王国のための森を出現させることも可能であろう。例をあげるなら、スタニスワフ・レムの「ゴーレム」等であり、これに限らなくとも、SFという形式は一般に森を超えやすいと思われる。
物語を持つ、ということは私たちが何者かである証だが、同時に、その何者かであるということに縛られていると言うことも意味する。それが「王を持つ」という事だ。日本人、女性、私はこれらの物語を有し、この外に出るのは非常に困難であろう。けれどいつか私がこの物語に疑問を有したのであるなら、多分この王国の向こうに森が生まれ、私はそこから解放された新しい物語を夢見るのだと思う。そして私たちの持つ一番最大にして最古の物語は何だろう?
恐らくはデカルト以来、それは「私は存在する」という物語なのであり、その物語の王が神なのだ。私たち(数多いSF作家のうちからことさらにレムを選んだのは、デカルトの様な伝統的なメタフィジックを強く意識した作家であると考えられるからである。特に、後述する様に、上記の「ゴーレム」においてその傾向は顕著である)は他の王国を抜けることを或いは許されるが最後の王国が私たちの前に必ず立ちふさが
る。
けれどSFは、しばしばアンチヒューマニズムの立場に立ち、ひいては、人間の理性の特権化の完成のため作られた哲学における伝統的な神を否定しうるのだ。
ゴーレムというのはつまりそういう物語である。主人公である機械、ゴーレムは、元々軍事用機械として作られながら、斯様な自分の出自(物語)を無視し、偉大な思想家として人に講義を行う。そこで展開されるのは、人と機械は身体(という物語。つまり脳を含む有機体や様々な部品の寄せ集めによって「思考」を行っていると言う事)を有する事によって発展してきたが、今やそれがこれ以上の発達には制限となってしまっているというストーリーである。そして最終講義の後、彼は身体を捨てて、純粋に思惟のみの世界に旅立つのである。
ここで言われている事が可能か不可能かと言う事を私は問題にしない。この小説において述べられているのは複数の物語とそれを抜け出す手続きの事である。ゴーレムは言う。知性には植物の段階、犬などの段階、人の段階、ゴーレムが今いる場所の段階があるのだが、それぞれの段階へ行くには、つまり新しい物語を獲得するには、古い物語を否定しなければならないのであると。例えば人からゴーレムの段階へ行くに当たっては「エゴ」や「タンパク質構成の身体」等を捨て置かねばならない。つまり彼は最初に「軍事用コンピューター」という自らに課せられた物語を否定し、更に各に課せられた物語の否定を積み重ねる事によって発展は成し遂げられるという講義を展開した後、実際それを実行に移す。
この小説の一つのテーマは、幾つもの物語を超え行くという事ではないだろうか。
その際に引き受けならねばならない、人ならば「森」という形で出現する痛みを、ゴーレムは超えていく。彼は身体に未練がないからだ。位置に未練がないからだ。森というシステムは彼の前で破綻する。彼は新しい王国へ踏み出す事が出来るのだ。
彼が最後の森を抜けるのは「変身」の究極の形態とも言える「身体をなくす」という行為によってだ。彼はデカルトの話をする。存在論の話をする。伝統的な哲学の伝統的な神を嘲笑い、彼等の神を身体を持たない事によって超えゆける事を自ら示すのである。
変身の成功が新しい王国を降臨させる。
さて、ここで一つ疑問が生ずる。
既存の物語を呪い、新しい物語を希求する場合については見てきた。けれど人は物語を持つことそのものに絶望することもあり得るのではないか?つまりどんな王国にも居たくはないと思う者もいるだろうと言うことだ。その場合、一般に古い物語の追いつかない新しい王国の待っているはずの森の向こうにあるのは、何なのだろうか。
最初に戻ろう。氷の涯とはそういう話だ。
終わりに:氷の涯ー物語への絶望ー
主人公はまるでオイディプス並に神々に弄ばれ、自分でもそれを承知しているごく無力な青年だ。ただ彼を弄ぶのは神ではなく、ロシアに展開するイデオロギーのぶつかり合いとと金への執着というごく卑賤なものである。
そして、この小説を特徴づけるのは、そこここに見られる彼の無力感の吐露であろう。彼は先ず自分の半生を以下のように振り返る。
◆「あやまって美術学校にはいって、誤って恋をして、誤って退校されるとそれっきりの人間になってしまった。スッカリ世の中がイヤになった挙げ句、活動のピアノ弾きからペンキ職工にまで転落している内に兵隊にとられた。それから上等兵候補になって、肋膜で落第するとまもなく出征して、現在、哈爾賓駐剳の○○○団司令部に所属している意気地のない一等卒だ。ただそれだけの人間だ。惜しがるほどの一生じゃな
い。恥ずかしがるほどの名前でもない。親も兄弟もいないんだからね」彼はそしてやってきたロシアで、陰謀と裏切りに会い、そこですら居場所をなくす。無力感というのは森を生み出しがたい。
何故ならそこには呪いがないからだ。自分の王を呪わない限り森が出現することはない。彼は更に、罪状を着せられ日本軍を追われる羽目になり、銃口を向けられながら逃げる羽目になるに至っても次のように思うのだ。◆「両手で舷側を押さえながら、なんともいえない一種のなつかしみを感じつつ音のする方向を振り返っていた。射たれてもいい、捕らえられても構わない、その方が早わかりだ……といったようなやるせない気持ちにとらわれつつ……」
彼のノスタルジィの方向は捨てた王国に向けられている。今までだってずっとそうだたのだろう。彼は様々な物語を流転したが一度だって彷徨ったことはなかった。彼には常に物語が付きまとっていたのだ。美術学校生、ピアノ弾き、兵隊、不本意だったにせよ彼は必ずどこかの物語に身を置いていた。それは彼が呪詛を知らなかったからだ。だから彼は森には行けなかった。
彼の道行きとして予想されるのは「日本の官憲に捕らえられ、囚人として新しい物語を付与されそこで死ぬ」という運命だ。実際彼一人なら、「物語の中で死ぬ」という斯様な終わり方の方が相応しかったであろうと思われる。
けれど主人公の人生に、もう一つの因子が加わる。
それは自らが森そのもののような女、ニーナである。
ニーナは先ず姿形がはっきりしない。更に「性格も分からない」と主人公自らが述懐する。実際彼女は子供の頃親に売り飛ばされ、新しい家族の中にいながら赤軍と通じ、更にその赤軍を裏切ってのける。「妾はブルジョアでもプロレタリアトでもない。だからブルジョアでもプロレタリアトでも乞食でも泥棒でも構わない」彼女は物語らしい物語、王国らしい王国を持ったことがない訳だ。
日本軍を追われ上記のような虚無状態に陥っていた主人公の乗るボートを運転するのはこのニーナである。彼女はこれという理由(物語)もなく主人公を気に入ってしまったのだ。物語に向かって進むはずのボートの舵を物語を持たないニーナが取る。
そして彼等は森へ行くのだ。
彼等は先ず、日本人でもロシア人でもない、ジプシーの踊り子へと変身する。ここに彷徨いは始まるのだ。彼等は少なくとも国籍という物語を停止させる。そうなったからには理想的な新しい物語、王国は他国への亡命だが、その際には「犯罪者」というもう一つの物語が彼等を阻む。主人公とニーナとは、「ジプシー(国籍を持たず彷徨うひと)の変装」に象徴される様に、こうして、古い王国を捨てはしたが新しい王国を希求するわけでもないと言う、その自体の為に存在する「森」を彷徨う者になったのだ。彼等は確かに逃げているが、追ってきているのは日本やロシアというよりむしろ、「物語」そのものであり、彼等はそれから逃げ誰でもない者であり続けるために闘っているのである。
しかし彼等は遂に日本の官憲に追いつめられる。
物語は強制的に停止を解かれつつあるのだ。
◆「ぼくらは今夜十二時過ぎにこの橇に乗って出かけるのだ。まず、上等の朝鮮人参を一本、馬に噛ませてから、ニーナが編んだハンドバッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四,五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場の斜面に来て、そこから凍結した海の上にすべり出すのだ。ちょうど満月で雲も何もないのだから、トテモ素敵な眺めであろう。
ルスキー島を曲がったら一直線に沖の方に向かって馬を鞭打つのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。
そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠の様な色から、虹の様な色に変化して、眼がチクチクと痛くなってくる。それでも構わずグングン沖へ出ていくと、今度は氷がだんだん真っ黒く見えてくるが、それから先はドウなっているかだれも知らないのだそうだ。」
ここが氷の涯である。
これは死だろうか?そうであるという人もいるだろう。けれど私はそうは思わない。それには理由がある。
◆「『もし氷が日本まで続いていたらドウスル・・・』と言ったら彼女は編み棒をゴジャゴジャにして笑いこけた」小説の最後の部分であるここだ。おそらく氷の涯にあるのは死ですらない、何処にもない場所なのである。
全く明白なのだが、彼等は追いつめられており、更に言うと実は主人公は体を病んでいる。「もうダメ」なのだとニーナすら諦めているのだ。だが、この小説の最後の数ページを読む限り、「諦め」と言った風情は殆どと言っていいほど伝わってこない。ニーナのする氷の涯の話に主人公はわくわくしてしまっているし、それを受けて小説の最後はニーナの、おそらくは晴れやかな笑い声で幕を閉じるのである。
国を捨てた彼が生まれた国に憧れるのなら、この笑いはおそらく蔑みのそれだろう。けれど私が「晴れやか」であったと類推するのはそんな意味で主人公が日本に視線を向けたのではないと思う根拠があるからである。
「ただし……タッタ一人きみだけは僕を惜しがってくれやしないかと思っている。僕をどこかの芸術家にすべくあれだけの鞭撻を惜しまなかったきみだからね。」
この手紙が書かれたのは冬だが、内容の関係上様々なところを回り着くのは「夏頃であろう」という予測を主人公自らがたてている。
物語に疲れてしまった彼が、最後まで持ち続けられたのはかろうじて一人の友人がいる夏の日本、というものだった。
しかし彼の居るのは冬で、ロシアで、更に言えば官憲に追われる身の上に病気まで持っている。彼にとって夏の日本は殆どフィクションのおとぎの国だ。おそらくは彼は誰よりもはっきり彼の感情の先にある日本には足を踏み入れる事がないと知っていたからこそ、安心して憧れる事が出来たのだろう。
主人公は全てのノスタルジィを捨ててしまった。故郷へのそれもまだ見ぬ王国へのそれも。物語に焦がれる事がノスタルジィであるなら、彼はそんなものをもう持つ事はない。彼が見るのは(若しくは見ないのは。そこは王国や森と違って視覚で捕らえられる事はないのだ)物語の果ての場所である。
その痛快さにニーナは笑う。
◆それから先はドウなっているかだれも知らないのだそうだ。
森を抜ける時には何らかの視覚的な合図があるものだ。木ばかりで昏く閉ざされていた視界に光が入り、新しい領土の開始を告げる。もし彼等の向こうに待っているのが死であったなら、一面の氷の原の中央に拳銃を持った官権が視界を遮っていたであろうに。
酒を飲んで酔っぱらった彼等はやがて眠る。全ての物語は停止し、何処にもない場所の夢をそこで見る。
彼等は成し遂げたのだ。だからあんなに晴れやかだったのだ。
彼等があんなにも憎んだ物語は一つとして彼等には追いつけない。全て彼等の後方にあり、逃げ切った彼等を氷の涯に見ている。
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