耳の奥でチリチリと音がするような暑さの中で、僕の身体はこれ以上ないほど泥んこまみれになっていて、一面見渡す限りの田んぼのどまんなかで、ただひたすらボーリングマシンの操作に専念していた。でも、どれくらい自分が泥んこまみれなのかを知ったのは、こないだからちょくちょく通っているカキ氷屋さんで、同い年くらいの女の子たち数人がやってきて、僕の顔をみるなり「きゃー」と声をあげ、そのあと人の顔を指差してケラケラ笑った時だった。
「なんだよー、おまえら、人の顔見て笑っちゃったりすんな」
僕はあまり本気じゃなくそう言い返したのだけれど、その時、自分の目のまわりや口元のまわりがなんか突っ張っている感じがしたので触ってみると、そのゴワゴワは全部泥が乾いて固まったものだということに気付いた。それで、手でこするとテーブルの上にポロポロと泥が落ち、最悪なことに食べかけの氷の上にもそれは落ち、ミルクイチゴがミルク泥イチゴになってしまい、そうなったらもう自分でも笑っちゃうしか手はないのだった。
僕が今年の夏休みはボーリングのアルバイトをすると言ったとき、友人のHは案の定ボーリング場と勘違いし、「いいなぁ、俺もそういうのやりてぇ、俺なんか印刷屋だぜ、印刷屋」とはき捨てるように言ったものだ。とはいうものの、実を言えば僕自身もこのアルバイトの話が来たときに、Hと同じ過ちを犯してさっさと引き受けてしまったのだけれど、よく話を聞いてみると、現場に一ヶ月ほど泊まり込みになるからそれなりの用意をして来い、などと、なにか奇妙な話になっていて、なるほどボーリングとは地質調査の一環で、地面に鉄パイプを打ち込んで地中深くから地質サンプルを採取する仕事なのだということを、ようやく理解したのだった。
大学受験の浪人中の夏休みに一ヶ月もそんなことをするからには、既にその時点で大学受験の失敗が決まっているようなものだけれど、どっちにしても大学は行く気がないから、あとは親をどう説得して諦めさせるかだけだった。というか、親はもう諦めているかもしれなかった。
「しばらく帰りませんが、別に蒸発するとか家出するつもりではありませので、あわてて警察に届けたりは絶対にしないで下さい。自分の将来について、一人になってじっくり考えたいだけなんですから」という嘘ばっかりの置き手紙を一通、台所のテーブルの上に残してきたのだけれど、それが通用したのかどうか、今のところそれほど真剣に探されていないような気がする。少なくとも友人Hに電話して確かめた時には、一度だけ母から僕の行き先についての電話があったということだったが、特に心配しているようでもなかったという話だった。
僕がこのバイトをしようと思い立ったのは、実は、この一ヶ月間でもらえるバイト料で、秋になったらアメリカのソルトレイクシティに行きたいと思っているからだった。その町に行けば慶子に会える。ただそれだけで、慶子に会ってそれからどうしようなんて、これっぽっちも考えていないけれど、とにかく半年前に突然、それこそ僕の前から蒸発するようにして留学してしまった慶子に逢いたいという思いだけは抑えようがなく、彼女の気持ちなんてもはやどうでもよくて、この思いを掃き出す必要が今の僕にはあった。
それとこれとは全く別な問題なのかもしれないけれど、本当のところもう学校はたくさんという気がしている。幼稚園、小学校、中学校、高校と、いったい何年間に渡って人の人生を拘束してきたというのだ。もう自由にさせてくれ・・・・だからといって、あれをしようとかこれをしたいとかいう希望が特にあるわけでもないけれど、とりあえず決まった時間に決まった場所に通うという人生は、これでもう卒業したいと、そう願う。
「あなた、今が人生で一番大切な時期なのよ、そんな歳になって自分が何になりたいのかまだ決まってないようじゃ、これから先が思いやられるわ」
母親はそんな風に嘆くが、それじゃあ、人生であんまり大切じゃない時期っていうのはいったいいつなんだって聞き返したくなるし、十八やそこらで自分の将来をキッチリ決めてるやつって本当にいるのかと、そう思ってしまう。少なくとも僕のまわりにそんなやつはいない。・・・・ってことは、僕を含めた僕のまわりの連中は、揃いも揃って先が思いやられるやつばかり、ということになるのかもしれない。
自分が何になりたいか?
そう思って実際になるやつはいるのだろうか?
いや、きっといる。小さい頃からジャンボ機のパイロットになりたいと思って、実際ジャンボ機のパイロットになるやつは必ずいるわけだし、かと思うと、そんなことを考えている暇もないうちに、バイオリンの名手とかになっていたりするやつもいて、そういうやつは大人になって、自分の将来は小さい時から決まっていた、と顎でも撫でながら人生を振り返るのだろう。
僕は今ジャンボ機のパイロットになりたいか?
それを考えるとおかしい。
僕がいまジャンボ機のパイロットになりたいといったら(もちろんなりたくはないが)、母親はいったいなんて答えるだろうか。五才の僕がそういえば「あら、そう、なれるといいわねぇ」と笑って答えるに決まっているけれど、十八才の僕がそういえば「バカ! なに考えてるのあんた」と怒るに決まっている。
僕の父親は地方公務員なのだけれど、父親は自分で自分の職業を言うときには「しがない役人ですから」と、必ず「しがない」をつける。それが照れなのか諦めなのかはよく分からないが、その言い方はほとんど母親に向かって発せられる言葉なので、ひょっとしたら母親は、父さんの職業に不満を抱いているのかもしれないと思うときもある。それでも僕が、「将来は立派なサラリーマンになりたい!(そんなやつがいるのかどうか知らないが)」とでも答えれば、母親はとりあえず満足するのかもしれないが、どう考えても今の僕は、「大きくなったら何になろうかなぁ」と、一生そう思っている人間になるに違いないと、そう確信している。実際問題として、大学にいって会社に就職して、あと何十年生きるか知らないけれど、それを考えただけでもうんざりしてきて、胃が痛くなるような気分がする。まだやって来てもいない将来に思い悩んだりして、こんなに若くして胃潰瘍になるのはごめんだ。
「おい!、水が足りねぇぞ、さっさとバケツ持ってこ〜い!」
機械音にかき消されまいと大声を張り上げたのは、この現場での唯一の相棒、いや親方である生沼さんだ。生沼と書いて「おいぬま」と読むというので、「それじゃ、東京オリンピックの東洋の魔女とかにいた「おいぬま」と同じ苗字ですね」と言ったことがあったけれど、彼は「ははは、あいつは俺の従姉妹だよ、親戚親戚」と、実に誇らしげにそう言った。実際のところは分からないが、その魔女の方の「おいぬま」の母親とか兄弟とかの名前をスラスラ出しているところをみると、案外本当の話しかもしれないと思う。
「早くしろ〜!」
「は〜い、分かってま〜す!」
夏の日差しに磔(はりつけ)されているような日陰のないこの現場で、生沼さんの身体は本当に火がついて燃え出しそうだけれど、吹き出す汗とあたりかまわず飛び散る泥が、ようやくその燃焼を抑えているようだった。ランニングシャツからはみ出た肩から二の腕にかけての筋肉は、まるでサラブレッドの脚のように隆々としていて、十馬力のボーリングマシンをねじ伏せるだけのパワーを十分に秘めているように見える。もちろんそれだけ見事な肉体を持った生沼さんの自慢の種は、やっぱり自分の肉体で、女の前ではもちろん男の前でも子供の前でも、ことあるごとに腕の筋肉を盛り上げて見せる。
僕がもたもたしていると、ふたたび生沼さんの怒号が飛ぶ。
「ほれ、バケツ持ったくらいで、なにふらついてんだ!」
そういって生沼さんは自分の二の腕を、ぺろりとひと舐めし、
「おぅ、いい味だ、塩気が足りねぇからなぁ。これが元気の素よ」と、汗と泥のまじった液体を飲み込む。
「ぼーず、鍛えろ鍛えろ! 身体の中心は腰だぞ腰!」
生沼さんは腰をくいくいと前後に動かして見せる。それも生沼さんの得意のポーズの一つだ。
たしかに貧弱な腰つきの僕だけれど、それにしてもこの仕事で、初めて自分が持っている能力以上の肉体的な力を発揮したと思う。こんな重いものを二人で持てるわけがない、というようなボーリングマシンの解体部品を、生沼さんのかけ声と気合いにのせられて、なにがなんでも持ち上げてしまった自分に驚いているくらいなのだ。いや現実にそんな力を出せたのだから、それも能力の内だったわけで、ひょっとしてこういうのを火事場の馬鹿力というのかもしれないが、もしそうだとしても、こう毎日火事ばっかりでは身体がもたない。実際、今の僕の身体は、一旦バラバラにしてもう一度組み立て直したものの、なんか部品をつけ忘れたように、関節という関節がぎくしゃくぎくしゃくしている。おまけに身体の節々が痛みと熱で腫れ上がっているような感覚がある。生沼さんは「そんなもん、一週間もすれば慣れちまうわ」と言うけれど、それは身体を酷使することで自然に鍛えられ、体力がワンランクアップするというような意味ではなく、単に痛みや熱や腫れに慣れるという意味なのだということを、そのとき理解した。
現場の作業は、夕方五時までと決まっている。それでも朝は八時から始まるので、休憩時間を除くと、きっちり八時間は働かされることになる。何トンもあるボーリングマシンを解体し組み立て直し、そうやってあらかじめ指定されている調査地点まで何度も移動するのだけれど、それがまた重労働だった。いったん、マシンを設置してしまえばあとは機械まかせだからなんということはないのだが、その調査地点から次の調査地点までのおよそ二十メートルを移動させるのが、なんといっても大変で、移動だけで軽く三時間はかかってしまうので、一日フルに働いても、せいぜい二、三ヶ所程度の調査しかできないのだった。
この現場に入る前に、調査地点は全部で三十五ヶ所と聞いていて、それが百ではなく三十五という数字だったので、根拠もなく、なんとなく大したことないような気がしていたけれど、実際に仕事に入ると、残り二十五ヶ所と聞いて「げっ、まだそんなに」と、暑さのせいではなく気が遠くなった。
今日の作業が終わると、残りはあと二十三。この現場に来て今日でちょうど五日目だから、予定通りなら、あと二週間もかからない計算ということになる。そうすれば、八月をあと一週間ほど残して終わることになるけれど、それでもバイト料は一ヶ月分くれるという約束だから、案外おいしいことになるかもしれない。それに、このバイトの日当は印刷屋でじめじめ働いているHの三倍ほどになるし、短期決戦としては最高の仕事なのではないかと思う。
ただし、足腰の震えが宿に帰って風呂に入るまでなかなか止まらない、という欠点を除けばだ。
夕方になって浩一が僕らを迎えにやってきた、というか、ふらりと遊びにやってきた。手には釣り竿とプラスティックのバケツを持っていて、たぶんフナを釣りにでもきたのだろう。そのフナを宿の賄いのバアチャンが甘露煮にして、僕らの夕食に出すのだけれど、この町にたくさんあるパルプ工場やらセメント工場などの廃液の匂いが染み込んでいて、とても食べられたものではない。生沼さんも「ババア、こんなくせぇもん食えるかよー」と文句を言うのだが、バアチャンはフナをひとつまみして、「な〜んもせんわ、匂いなんて」と、入れ歯のくせに平然とフナの骨を噛み砕き、これみよがしにごっくんと音を立てて飲み込んでみせるのだった。
浩一は僕らが泊っている宿屋の息子で、たぶん中学生くらいの年齢だろうけど、実際は小学校へ通っている。それは知的傷害があるせいで、そのことでいじめられることもしょっちゅうだという話だけれど、本人はいたって陽気で、昨日も校門の前でだれかにオシッコをかけられたといって帰ってきて、「そいつの上ばきの中にちゃんと僕のオシッコも入れといた」、といってケラケラ笑っていた。
「浩一、今日はどうだ? フナ」
生沼さんが声をかけると、
「つ、つれんよ、今日は」
唇の右上が少し引きつれたようになっているせいかどうか、浩一はちょっとどもる。
「そかそか、いいやね、どーせ臭くて喰えやしねぇんだから」
「で、でもこれとれた」
バケツの中を覗き込むと、一瞬亀かと思ったら、そこには型のいいスッポンが一匹入っていた。
それを見た生沼さんは、大げさに驚いてみせて、
「ひょー!、今晩はスッポンスープかぁ、どうすんだよー、俺に精つけさせてぇ、姉ちゃんとやれってか?、おれじゃもたねぇよー、がははは」
そういって笑った。
浩一には玲子という姉が一人いる。僕と同い年の十八歳だが、同じなのは年齢だけで、体重はたぶん僕の二倍近くはあった。そのせいで顔の可愛いらしさが埋没しているけれど、三十キロほどダイエットすれば、その可愛らしさが表面に浮き出てくるに違いないと思う。
浩一が来たことがきっかで、五時までにはまだ三十分ほど時間があったが、今日の作業は終了ということになった。
機械のスイッチを切ると、一気に静寂が戻って来るはずなのだけれど、頭の中ではまだ当分マシンの音が止みそうになかった。それに混じって、まだチリチリという音も残っている。
この仄暗い急な階段をのぼる時はいつも、最初に来たときの、あの感触を思いだす。
何時間も電車に揺られてこの町の駅に降り立ち、渡された地図を見るまでもなく、「わたや」というこの宿屋を発見した。なにしろ駅前の小さなロータリーに面したところにある、駅前では唯一の食堂兼宿屋なのですぐにわかった。到着したのは午後十時を過ぎていて、もう外を歩いている人は誰もいなかった。この駅で降りたのが僕一人だけだったせいもあって、なんかとんでもない田舎に来てしまったような気がしていた。どこからだろう、カエルの声が聞こえてくる・・・・
「わたや食堂」はすでに閉まっていた。でも中から何人かの人の声が聞こえて来ていた。なんだか酔っぱらって喧嘩でもしているような男と女の声だ。二人ではない。数人の男の中に女の声が混じっている、という感じだ。ガラス戸の内側にしまわれた暖簾が邪魔で中が見えないので、なにがどうなっているのか分からないが、けっこう不穏な空気が漂っているようだった。
そこから入るのを諦め、他を探すと、横っちょの狭い路地に面して「宿・わたや」の玄関があった。玄関といっても旅館のイメージとはほど遠く、ごく普通の家の裏木戸といった感じで、ガラガラと引き戸を開けて中に入るなり、たたきに脱ぎ捨てられていた何足もの履物を踏んづけてしまい、それを足で左右に払いのけ、居場所を作ってから「こんばんわ〜」と声をかけた。
玄関からまっすぐ前にのびた廊下の奥の方からは、テレビの音も聞こえてくるが、誰も出て来る気配はない。玄関の左脇にはものすごい急な階段があり、上の方を覗いて見たのだが、なんの照明もなく、どういう具合になっているのかさっぱり見当がつかなかった。
もういちど呼びかけてみる。今度は階段の上に向けてだ。
と、暗闇の先の廊下の頂点でパチンという音とともに裸電球の明かりがついた。
「は〜い」
可愛らしい女の人の声がする。
下からは手暗がりでよく見えないのだけれど、その女の人の影だけがくっきりと浮かび上がり、その影が・・・・あまりに巨大で、声の質との違和感にちょっと驚いてしまう。次にかけるべき言葉が出てこない。
オロオロしていると、その影がドンドンと地響きを立てながら下へ降りてきて、僕に覆いかぶさるような位置で止まった。
「だれ? あんた」
その巨大な影の横からもう一つ顔が飛び出した。後ろにいたらしいのだが、小さくて、というより前が大き過ぎて、見えなかっただけなのだ。
大きい身体の持ち主が姉の怜子で、後ろに隠れていた少年、それが浩一だったわけだけれど、その浩一は僕を見るなり、挨拶もなにもなくいきなり喋りはじめた。
「僕が無線技士になるの知ってる? それがもしダメなら歌手になるのさ。こないだ××町の公会堂で西城秀樹が来て、握手してもらったし、なれると思う」
「なれっこないって、歌手なんて、あんた音痴じゃん」
姉の怜子は初対面の僕の存在よりも弟の言葉が気になるようだった。
「なれるわい!、わーーーっ!」
いきなり浩一が泣き出した。
僕は一瞬にしてその少年に知的な傷害があることを悟ったが、これまでにそういう人物と接したこともなく、どう対処していいかわからず、「うんなれる、なれるに決まってる」と、嘘を塗り込めた慰めの言葉を投げた。
浩一はニコニコしながら、
「そっか、やっぱり無線技士になろっと。こないだトランシーバー買ってもらったし」
「いくらトランシーバー持ってても、無線技士なんかなれないの!」
またもや怜子がミもフタもない言葉を発して、これじゃあまた少年が泣いちゃうじゃないかと思ったのだけれど、今度は、「そだね、やっぱし歌手にしよ」と姉の顔を見ながら笑った。
姉も笑いながら、
「ははは、なりなよ、音痴な歌手にだったらなれるからさぁ」
二人は僕が何者かという疑問をすっかりほっぽりだして、姉弟の日常会話をしてしまっている。
「あのぅ、ここに生沼さんていう人いますか?」
僕がそういうやいなや、二階の廊下から聞き覚えのある男のだみ声が聞こえてきた。
「おぅ、きたかきたか、さっさと上がって来いや〜」
やっぱり手暗がりで顔は見えないけれど、筋骨たくましい男のがたいが階上に浮かびあがり、右手には一升ビンらしき物がぶら下がっていることも同時に確認できた。
僕が靴を脱ぐと、階段の途中にいた二人は道をあけようと壁際に寄ったのだけれど、姉の身体は僕の通過を避けきれず、彼女のオッパイの感触をこれでもかと受けとめながら、ようやくすり抜けることができたのだった。そのオッパイの感触は思いも寄らぬほど性的で、薄暗くて悟られなかっただろうと思うけれど、たぶん僕の顔は赤くなっていたし、彼女の呼吸がほんのちょっと荒くなったのは、やっぱり性的な反応なのだろうか、なんて勝手な想像をしてしまった。いやそうじゃない、単に、僕を通りやすくするために、息を詰めてみたからに過ぎない。
二階に到達すると、生沼さんがにやにやしながら言った。
「おい、ぼーず、いま怜子のオッパイに、ギューギュー身体を押しつけていたろ?」
「そんなことしてませんて!」
僕は冗談と分かっていながら、やけに声を張り上げてしまった。
「そうかぁ? まいいや、あそうだ、おまえは今から『ぼーず』、そう呼ぶことにする、いいな」
「はい」
怜子と浩一を階下に追いやり、部屋に入ると、生沼さんはまず空のコップを持ち出してきて、いきなり僕に差し出した。
「ま、とにかく飲めや」
「あ、すんません、まったく飲めないんです」
「なにおぅ? 未成年だからか?」
「いや、そうじゃなく、体質が合わなくて」
「そっか、それじゃしゃーあんめぇ、まいいや、酒も減らねぇし、はははは」
そういって生沼さんは勝手に飲みはじめた。
僕が荷物を解いている間、生沼さんはぐいぐいコップを空けていたが、そのうち一升ビンを抱えたまま畳に横になってしまった。今までにも相当飲んでいたらしく、部屋のあちこちに空の一升ビンが散らばっている。数えてみると空の一升ビンが5本あって、それは生沼さんがこの現場に入った日数と合致しているので、たぶん一日一本一升ビンを空けているという勘定だ。そして、いま生沼さんが胸に抱え込んでいる一升ビンは五本目というわけになるけれど、お酒はまだ四分の一ほど残っている。ということは、これまでのペースを想定すると、これから生沼さんはもう一度起きて、お酒を飲み直すということになる。時間は今十時三十分、夜中にでも起きて飲むのだろうか、それとも朝早く起きて飲むのか? まあ、どっちにしても、この人はこれが生きがいで、しかもこれで人生を失敗するのだろなと、そんな気がする・・・・。
あらためて部屋を見回すと、六枚の畳に小さな床の間みたいな空間がついているだけの、実に殺風景なものだった。隣部屋とは合板ベニヤ一枚で仕切られているらしく、趣味のよくない花柄の壁紙に寄りかかると、ぐにゃりと撓んで、あわてて身を起こさなければならなかった。古い天井板には何度もの雨もりでできたと思われる、不定形なシミがいっぱいついていて、それはまるで僕の「不安」の形のように思われた。そして、部屋のまん中には、星飛雄馬のオヤジがひっくり返すちゃぶ台そのものが置いてあり、生沼さんが食べ散らかしたイカの薫製やらミニサラミがお皿から飛び出して、ちゃぶ台全体に広がっている。
僕はサラミを一つつまみ口に放り投げる。
それにしてもこの部屋の空気のアルコール含有量は多すぎる。僕だったら飲まなくても酔っぱらえるほどだ。
腰窓を開け放つと、そこは駅前ロータリーに面した方の窓だったのだけれど、右手の方から潮の香りがやってきて、ぷうんと鼻をつき、ここが浜辺からそう遠くないことを初めて知った。耳を澄すますとかすかに波音が聞こえてきたりして、ちょっといい気分になっていたのだけれど、それを打ち壊すように、いきなり、階下からガラスの割れるものすごい音に続いて、女と男のどなり声が耳に飛び込んできた。
「冗談じゃないよ、何様だと思ってんの、アンタ!」
「うるさいよ、このアバズレ。お前こそ何様のつもりだよ、なにが東中軒●●の孫だ、そんなやつぁ、もう誰も知らねえぞ〜」
下を覗くと、道路に散らばったガラスの破片が街頭の明かりに反射してキラキラと光っている。どうやら、割れたのは食堂の入り口付近のガラスらしい。
ついで、乱暴に食堂の引き戸が開けられたかと思うと、中から上半身裸の男が誰かに突き飛ばされるようにして、勢いよく外に飛び出してきた。手には今まで着ていたと思われる背広の上着とワイシャツらしきものを抱えている。そして、それを追いかけるように、今度は下着姿のままの女が、手にビール瓶のようなものを持って出てきた。肩が揺れているのは怒りのせいだ。
「あんた、それでもこの町の議員さんかい?」
「当たり前だ、公正な選挙によって選出された町議会議員だ、それがどうした!」
「どうしたもこうしたもあるかい、このやろ〜!」
女は手にした瓶を男に向かって投げつけた。男は小脇に抱えていた背広の上着であやうくそれを振り払い、瓶はロータリーの脇に置いてあるベンチの角に当たり、夜の道路に粉々にくだけ散った。
こんな騒ぎになっているというのに、町は眠りから覚めないらしい。ロータリーをぐるっと見渡しても、今日という日はもうおしまい、といった感じで、どこからも誰か出てくる気配はない。ひょっとしたら、この店でのこんな騒ぎは日常茶飯事で、近所の人たちは「酔っぱらいが、またやってるよ」とでも思っていて、気がつかないフリをしているのではないか、そんな気もするのだった。
生沼さんも生沼さんで、相変わらず一升ビンを大事そうに抱えたまま、あっちの世界に行ってしまったままだ。
僕は何かすべきなのだろうか?
そんな風に考えてもみたが、ついさっきここに来たばかりの僕にいったい何ができるというのだろう? ここは黙って様子をみるしかない。そう結論した瞬間、食堂の入り口から、どやどやとばかりに五六人の人たちが出てきて、いまだ相手につかみかからんとしている女と、逃げ腰ながら回らない口を無理矢理回して、女に向かってあらんかぎりの悪態をついている男の間に割って入った。見ると、さっきの姉弟もそこに混じっている。
すると、姉弟の母親らしき人物が二人に向かって、
「あんたらはもういいから部屋に戻って寝なさい! 子供が見るもんじゃないの!」
「だってぇ、面白いんだもん・・・バル〜、バルバル〜、バルルルルルル・・・・」
弟の方がそういったかと思うと、いきなり全速力で駆け出し、オートバイのエンジンの口真似をしながら、ロータリーをぐるっと一周して戻ってきて姉に言った。
「ハァハァハァ・・・・寝よう、姉ちゃん。明日は鈴木のおっちゃんとフナ釣りに行くし」
「そだね、寝るか」
二人はそう言ってさっさと店の中に引っ込んで行き、その間も男と女の口喧嘩はいっこうにおさまる気配は見せなかったのだけれど、なんだかお互い言うことのレベルがだんだん下がってきたような気がした。クソババアとかハゲとかの単語の応酬ばかりで、喧嘩の原因がなんだったのか僕が知らないのは当然だけれど、その二人にとっても、最早、原因なんてどうでもよくなっていて、そのうち、おまえの母ちゃん出〜べそ、とでも言い出すのではないかと、そんな感じさえするのだった。
その二人の周りに残っている大人たちは、三人いて、一人はさっきの姉弟の母親らしき人物、もう一人はタオルを頭に巻き、調理人のような格好をしているので、この店の主人、つまり姉弟の父親らしき人物だ。そしてもう一人は老婆に見えるのだが、関係まではよく分からない。
今度はそのおばあさんが男の前に立ちふさがり口を開いた。
「東中軒●●を知らないなんて、そりゃモグリさ、浪花節界で私の父親の名前を知らないやつはいないんだから」
男はあっけにとられたような顔つきで、
「あははは、モグリもくそもあるかい! 残念ながらあたしは浪花節界の人間じゃねぇんだ、政界の人間なんだから」
「消えろー、このエロおやじ!」
下着姿の女が、いつの間にか手にしていた金属片(たぶん栓抜きかなにかだ)を、間に入っていた三人の肩ごしから男に投げつけた。
それは見事に男の額に命中し、小さい硬い音を残して闇に消えた。
「あいてててて」
男はたまらず、頭を掻きむしりながらその場にへたり込み、「いてえよー、いてえよー」と子供みたいに騒ぎ始めた。
と、僕の背後から生沼さんの声がした。
見ると、目はつむったままだが、いつのまにか頭をちゃぶ台に乗せていて、うわごとのように叫んでいる。
「安江〜、安江〜、どこにいるんだよ〜、お〜い、安江〜」
その声が階下の路上まで届くと、その下着姿の女がこちらの方へ向き直り、僕とばったり目が合った。いや、僕が部屋の明かりを背負っているので、やはり手暗がりになって、彼女からは僕の顔までは見えないだろうと思われた。
「あらぁ、ヌマちゃん、待っててねぇ、いま行くからねぇ」
案の定、彼女は僕のことを生沼さんだと思っているらしく、今までとはまったく違う女っぽい喋り方でそういって、派手に投げキッスを送って来たのだった。
僕はとりあえず、手を横に振って生沼さんじゃないことを伝えようとしたがうまくいかず、それを「おいでおいで」と勘違いした彼女は、自分でこしらえた喧嘩の騒ぎをその場に置き去りにして、さっさと食堂の中に引っ込んでしまったのだった。
「安江ちゃ〜ん、おじさんは寂しいよ〜」
生沼さんはまだそんなことをほざいている。
僕はたぶん、今日この部屋から追い出されるのだろう、そんな気がしている。
仕事がなかなかはかどらないのは天候のせいじゃなく、仕事をしないせいだ。
僕がここに来てすでに十日経つけれど、ちゃんと仕事をしたのは最初の五日間だけで、あとは現場に出たり出なかったり・・・・この宿屋でうだうだしたり、浩一や怜子と近所の川までフナ釣りに行ったり、歩いて五分ほどの海岸まで散歩したり、そんなことばっかりしているのだった。
人ごとながら心配になるので、「いいんですかぁ? 仕事、まだ十二本も残ってるじゃないですか、現場」、と訊ねたこともあるのだけれど、生沼さんいわく「ば〜か、したことにすりゃいいんだよ」と、笑いながら平然と答えるのだった。
その意味を聞くと、嬉しそうに手抜き工事についての解説をし始める生沼さんだった。
「だからよ、一ヶ所につき支持基盤まで、だいたい二十メートルくらい掘るわけだ。そこをだな、二メートルくらいにして、あとは他の場所で採取したサンプルをうまくくっつければいいってことよ。みんなそうやってるんだから、いいんだよそれで」
「そんなことして分からないんですか?」
「ははは、分かるもんかい。ところでボーズ、お前、新幹線乗ったことあるか?」
「そりゃ、何回かありますけど」
「そーかそーか、よく乗れるなぁ、あんなもの。俺なんか怖くて乗れやしねぇよ、ははは」
「?」
「だってよー、俺や仲間たちもみんな新幹線現場のボーリングの仕事してっけど、やっぱりそれよ、三本に一本はガセよ、適当にサンプル提出してるだけ。あ〜怖ぇ、そのうちひっくり返るぞ〜、新幹線」
なるほど、世の中というのはそういう風にできているのかと、妙に納得した。
生沼さんは発注者である会社に対しても、決してへいこらしようとはしない。自分でトラックとボーリングマシンを買い、仕事があると、全国どこでも飛び出して行くという、いわばフリーの仕事師で、「面白くないことがあればいつでもケツを割ってやるわい!」、という意気込みと、
「トラックとマシン持ち込みで食いっぱぐれることはないし、頭を下げて仕事をもらったことだって一度もねぇよ」という自信に満ちあふれているからだ。実際、単に社員として現場で働く場合と、生沼さんのように全て自前でまかなう人では、もらうギャラには雲泥の差があるらしい。
生沼さんは口癖のようにこういう。
「ま、ひと現場済ませりゃ、三ヶ月は遊んでいられるからな」
でもそれは大げさで、三日に一度くらいかかってくる生沼さんへの電話は奥さんからで、「うるせぇな、なきゃないなりになんとかしろよ」という生沼さんの言葉からして、生活が楽じゃないことは確かだった。
それなのに、頑張って仕事をしようとしないのが生沼さんという人なのだけれど・・・・。
ところで、いま仕事をしない理由について、生沼さんは詳しいことを話してはくれない。でも、電話でのやりとりを聞いていると、この仕事を発注した会社となにかモメているらしく、「そっかよ、そっちがそういうつもりなら俺にも覚悟があるからな!」なんていう言葉が漏れ聞こえてくる。どうやらその覚悟というのは、仕事をしないで昼間っから安江さんと二人で酒を飲みながらいちゃいちゃすることらしい。そうなると、当然のことながら僕はほったらかしになるわけで、「ぼーず、お前は怜子や浩一と一緒に遊んでろ、心配すんな日当はちゃんと出るから」、そういって、安江さんを部屋に呼び込んでは襖をバタンを閉めるのだ。
そして、そんな時は決まって浩一が階下からやってくる。
「たーちゃん、始まった?」
浩一が音も立てずに階段をあがってきて、声をひそめてそうきいた。たーちゃんというのは、僕の苗字を縮めたアダナだった。その後に続いて怜子も大きな身体を小さくしたつもりで、忍び足でやってくる。
僕たち三人は薄暗い廊下にぺタリと座り込み、襖に耳をつけてみる。もちろんちょっとした悪ふざけのつもりであって、真剣に興奮してしまおうと意気込んでいるわけではなかった。怜子や浩一はともかく、僕にはちゃんと彼女もいて性体験もそれなりにこなしているわけだから、男と女のその声が珍しいわけではない。
襖の向こう側からは、生沼さんの唸るような声と、安江さんの実になまめかしい、大人の色気を含んだ声が漏れてくる。
「いやん、だめん!」
そういったのは安江さんじゃなく浩一で、腰をくねくねさせながら僕と怜子の顔を笑いながら見比べた。
安江さんの声がひときわ高くなったと思った瞬間、襖が突然「ガラッ!」と開けられ、目の前に素っ裸の生沼さんが仁王立ちして・・・。
「ぎゃー!」
最初に悲鳴をあげて逃げたのは怜子だった。それもそのはず、僕たちの目の高さあたりに突然生沼さんのおちんちんが突き出されたのだから無理もない。それはなぜかダラリとしているものの、僕もあやうくそのモノに顔をくっつけそうになって、後ろに飛びのき、浩一をその場に残して怜子のあとを追ったのだった。背後では生沼さんのうがいをするような笑い声が長いこと響いていた。
この宿屋はもともと行商宿で、この町の神社の祭りとか花火大会などに出店するテキ屋さんたちが利用するのだという。今はたまたま時期が外れているらしいのだけれど、あと二週間ほどするとドヤドヤと客がやってくるという話しだ。それまでにこちらの仕事も終わらせるということになっているそうなのだが、この分では当分終わりそうにもない。
町のイベントはそう度々あるわけじゃないので、ほとんどこの宿屋は暇といっていい。だから、こうして僕らのような現場仕事がある客は貴重な存在ということになる。この二階には僕らの部屋の他に八つほど部屋があり、その一つは一応広間ということになっていて、朝食はそこで食べるということにもなっているのだけれど、そこで食べたことは一度もない。たいてい、下の食堂に行って好きな物を注文して食べている。生沼さんが金は心配しないでなんでも好きなもん飲み食いしろ、というのでそうしているのだけれど、所詮小さな中華屋なので、ラーメン、餃子、チャーハン、肉野菜炒め、ラーメン、餃子、チャーハン・・・・の繰り返しになっていて、時々自分のお金を使ってよそに食べに行くこともあった。
こんな宿屋に、一人、宿泊ではなく住んでしまっている男がいる。浩一をよくフナ釣りに連れて行く鈴木さんというのがその人で、六十歳くらいだとは思うけれど、この宿から歩いて十分くらいの所にある国道沿いのガソリンスタンドに勤めていた。ここにたった一人でやってきて、いきなり住み始めてもう五年になるというけれど、噂では何か重大な犯罪を犯して逃げているのではないか、というようなことも言われている。でも、誰もそれを本気で疑っているわけでもなくて、警察に届けたりとかしないし、その五年間の間に、一度も家族とか身寄りとかに電話しているところも見たことがないということだったが、直接本人に事情を訊ねるということもないまま今日に至っているという話だった。
鈴木さんというのはちょっと変わった人で、僕は彼の肉声を聞いたことがない。それは、いつも腹話術の人形を持っていて、自分の代わりに「キー坊」に喋らせるからだ。時間帯が合わないせいか、めったに会うこともないのだけれど、初めて廊下で出会ったときもそうだった。
例の裏返った声で、
「やー、こんにちわ。ぼくキー坊、こっちの髭生やしたオヤジは鈴木って言うんだよ、よろしくネ!」
「はい、よろしく、ぼくは片山といいます」
こういう時は、自然に僕の視線はキー坊に向かい、自己紹介もキー坊にしてしまう。
「そっか、片山くん。仲良くしようね」
「・・・・うん」
あらためて鈴木さんの方を見て、僕はどこかぎこちない目礼をしたのだけれど、鈴木さんは相変わらずキー坊の声で「さてと、それじゃオヤジと一緒に散歩でも行ってこようかなぁ」とひとり言をいい、その腹話術のテクニックがあまりにも下手くそで、単に裏声で喋っている奇妙なオヤジにしか見えなくて、内心大笑いしたのだった。
ところで僕は、この宿屋に来てから五日目に、結局荷物を他の部屋に移すことになった。それはもちろん、毎晩のように安江さんが部屋に来るからで、僕もいちいちその度に追い出されるのもかったるいので、その方が好都合だった。どうせ部屋はがら空きなのだ。
好きな部屋を使っていいと宿の主人に言われたけれど、どの部屋をとっても同じようなものなので、とりあえず、西の角部屋、そこからはちらっと海が見えたので、その部屋に定住することにした。すると、いつしか浩一が夜になると布団をずるずる引きずりながらやってきて、僕の隣にさっさと敷いて寝るようになった。
「たーちゃん、またなんか面白い話してくれよー」
僕がよく話してあげるのは宇宙人の話しとか、ブラックホールとかの話しだった。もちろん僕も本当に詳しいわけではないのだけれど、誰にとっても未知のことは面白いだろうと思われ、特に浩一には障害があって、言ってみれば知らない事だらけなので、きっとこの世の中は面白いことだらけなんだろうな、とそう思った。
といって僕が知ってることもそんなに多いわけではないけれど、何かを知ろうとして本を読んだりテレビを見たりしてると、知れば知るほど、知らないことともっと知りたいことが増えてゆくばかりで、結局、何かについて全てを知ることなんて、最初からできるものではないのだと思い知らされる。僕がこの世の中について知っていることの全てを、もし書き出したとしたら、いったい何ページの本になるのだろうかと思う。そんなに厚くないような気もする。そして、浩一の本だって同じ厚さくらいあるかもしれないけれど、たぶん、一字一字がものすごく大きいのだと思う。
「ねぇねぇ、たーちゃん、宇宙人ってさ、なんでタコみたいな脚してるの?」
「んー、宇宙人だからといって必ずしも脚がタコみたいに細いとも限らないかもしれないけど、たぶんそいつは、地球より重力が小さい星に住んでいるんで、脚がそれほど太い必要がないからだと思うよ」
「ふうん、そっかぁ、でもさ、ウチのねえちゃん脚太いよねぇ、じゃ、ねえちゃんっひょっとして宇宙人かも。地球より重力がおっきい所に住んでたんだぁ、そうだそうだ」
「ば〜か、あれは単におデブなだけ、あ、そんなこと言っちゃダメだからな、ねえちゃんに」
「あはは、姉ちゃんの脚は、たぶんこの町で一番太いぞ〜。それにいじわるだし・・・・」
・・・・だし、に続く言葉を考えつかない浩一は、だんだん眠くなってきて、しまいには「重力ねぇ、重力ねぇ」と、むにゃむにゃ言いながら眠りについてしまった。
翌朝、三日ぶりに現場に出かけることになり、宿の婆ちゃんにお弁当を作ってもらった。
最初のうちは現場から昼食をとりに、わざわざトラックで国道沿いのドライブインまででかけていたのだけれど、このところずっとさぼっていたおかげで、さすがに仕事がおしてきたのか、生沼さんも真剣に働く気になってきたようだった。僕にしてみれば、日当さえもらえれば、まあどっちでもよかったのだけれど、いつまでたってもアルバイトが終わらないというのもちょっと困るので、一応、久しぶりの仕事に張り切った笑顔をつくって見せた。
トラックが国道を外れ、川沿いの道に入ったところで生沼さんがこう言った。
「今晩なぁ、人足が二人来るぞ。そうなりゃあ明日っから仕事は早ぇよ、ガーッとやればあっという間に終わっちまうわ」
「え、そうなんですか?」
「さっき会社に話しつけてな、今日はもう八月二十日だから、なんとか今月中にこの現場をやっつけなきゃいけねぇだろ、って」
「はぁ、ということは、手抜きは・・・・しない、と」
「はははは、するかいっ! こないだの話は、例えばってことだ。ま、どうしようもないと、そういうこともあるだろう、ってことで、俺はしねぇよそんなこと。あれだよ、新幹線なんか安全安全。・・・・ボクなんか通勤に使ってるもの。遅刻すると課長がうるさくてさ・・・・」
「通勤・・・・なんて、してないじゃないですかぁ」
「あ、そうだっけか? ボクったらもう、ぎゃははは」
その日一日の仕事は機械のセッティングと調査地点の入念な下調べだけで、実際に機械を稼働させることはなかった。今晩やって来るという人足たちに、とりあえず現場の状況を把握させる必要があるということで、生沼さんは長い間土をいじくりまわしていたかと思うと、これまで採取したサンプルのプラスティックケースを、小川の土手に横一線にいくつも並べて、なにかよく分からないが、ぶつぶつひとりごとを言いながら、グラフのようなものをノートに書いていた。
生沼さんがノートに何かを書くというだけで、それがものすごく知的な行為に思え、実際生沼さんの顔つきもいつもと違って、ときどき空を睨んだりして、なかなか新鮮だった。
その夜は、新しい宿泊客が二人増えるというので、なんとなく宿のみんなも盛り上がっていて、
浩一や怜子も、用もないのに生沼さんの部屋に来て、階下の店から持ってきたジュースやらコーラやらをガブ飲みしているのだった。
生沼さんは相変わらず一升ビンを抱え込んでいるが、今日はあいにく安江さんがどこかへ出かけているので、その分いつもより早いペースでお酒が進んでいるようだった。
「おっせぇなあいつら、なにやってやがんだ」
柱時計の針は、すでに午後九時を回っている。
「おい、この時計合ってんのかぁ?」
生沼さんは塗りがすっかり剥げ落ちて下地のプラスティックがむき出しになっている柱時計を睨みつける。
「東京から来んの? その人たち」
生沼さんの質問を無視して怜子がそう尋ねると、生沼さんは怜子に空のコップを渡し、
「怜子、飲め、おれはちっと酔っぱらっちまった。やべぇや」
あいよ、と言ってあっさりコップを受けとり、生沼さんにお酌してもらったりしている怜子を横目で眺めていた浩一が、
「たーちゃん、まあ、どうぞどうぞ」
といって、気が抜け始めたコーラを、ジュースがいくらか残っているコップの中に注いでくれた。
その時、玄関の扉が開く音がして、
「いるかぁ、おいぬまぁ〜、わしだわしだ〜、一人連れて来てやったぞ〜!」
いきなりそんな声が階下から聞こえてきた。
僕はとりあえず生沼さんを「おいぬま」と呼びつけにした「ワシ」と名乗った人にちょっと驚き、いったいどういう関係なんだろう、と興味が湧いた。
生沼さんはでかい声で「は〜い!」と返して立ち上がろうとしたが、かなり足元がふらついてしまい、開け放してある襖の所にたどりつく前に、その二人が部屋の前に姿を現してしまった。
僕らが彼ら二人に興味の視線を向けるのと同時に、その二人は、この部屋にいる奇妙な組み合わせにやはり興味を持ったらしく、怜子といわず浩一といわず僕といわず、キョロキョロと眺め回していた。
生沼さんとそのワシさんが襖の所で立ったまま握手をし、ついで生沼さんが「まあ、入れや」と言って、ワシさんが連れてきた人物を部屋に招き入れた。
ワシさんがその人物に「ま、座れ」と言ったが、その男は立ったまま、両手を膝のところに当てて、「自分は、安田と申します。いつも滝山のオヤジさんにはお世話になっております。ひとつよろしくお願いいたします」と、とても礼儀正しく生沼さんに挨拶をした。
僕はその礼儀正しさにどこか違和感を覚え、この人はきっと、自衛隊出身者か、警察官か、そうじゃなければヤクザだろうと、そう推察した。
あとで分かったことだが、その人はヤクザだった。
いや正確に言えば、元ヤクザだ。
生沼さんと滝山というオヤジさんと安田と名乗った元ヤクザは、僕らの存在をまったく無視するように、さっさと酒盛りを始め、それぞれの関係や近況について話し始めた。
滝山さんが生沼さんを「おいぬま」と呼びつけにし、生沼さんが滝山さんを「オヤジさん」と呼ぶ理由も、やがて明らかになった。
「生沼よ〜、ありゃあ、何年前だったけかなぁ?」
「もう八年になりますかねぇ、オヤジさんが池袋の○○署に現役でいた頃ですから」
「そうかそうか、もうそんなになるとは。ま、大したことなくてよかったよな。相手もアバラ一本と右腕一本折れただけで済んだし・・・・はははは」
「またそれを言う、もうよしましょうよ」
「ばかやろー、なに言ってんだ、俺はこれでも苦労したんぞあの時、お前の女房に泣きつかれて、なんとか罪を軽くしてやってくれって。あの喧嘩騒ぎに『過失』がついただけでもめっけもんじゃねえかよ。だいたいなぁ、お前は力が強すぎるんだよ、ま、仕事が仕事だししょうがねぇかぁ」
どうやら、そういう関係だったようだ。なるほど、それなら頷ける。
滝山さんが続ける。
「で、こいつはな、俺が四課の方に移った時に知り合ったやつでさ、こんなふうに図体はやたらでっかいんだけど、もともと極道には向いてない性格なんだ。いつだったか、こいつは懐にチャカ呑んでるやつを相手に喧嘩してな、たった一発殴ったところで「あ〜目が潰れた、イテェよもう勘弁してくれぇ」って言われて、それで手加減したらいきなり右足に一発食らったのよ。ダメなんだよヤクザなんだからそんな温情は。少なくとも五、六発は殴っておいて、それこそチャカもってないかどうかも確認した上で、念の為に、もう二、三発殴っておく・・・・と。それがヤクザってもんだろって」
安田さんが、ニヤニヤしながらそれを聞いている。
「いやぁ、自分はほんと極道には成り切れませんでしたわ。その前は実はボクシングやってまして、プロテストまでは合格したんですけど、試合中に相手が出血したとたん、なんか気ぃが弱くなっちまいまして、あ、これは自分は格闘技には向いてないな、って感じて、すぐに辞めましたわ。でもって、ふらふらしてるうちに、ま、極道になっちまったんですけど、やっぱり、自分は喧嘩が強いじゃないですか。だけど、相手がなんか弱るところみると、もうそれ以上痛めつけられない、っていうか、もし相手が死んじゃったらどうしよう、って、それ考えただけでもう手が出なくなっちまうんですわ。結局、自分って弱虫なんすかねぇ」
「ねぇねぇ、鉄砲で撃たれたとこ見せてよー」
浩一がそういいながら、安田さんのズボンの裾をさっさとまくりあげる。
安田さんは「こらこらよしなって、坊や」といいながらも、どこかまんざらでもない様子で、
「そこからじゃ見えないから・・・・」、そういいながら、自分でズボンのベルトをゆるめ始めたのだった。
そうすると、僕も怜子も、そして生沼さんさえ興味津々で、安田さんの仕草をじっと見詰めてしまう。滝山さんはもう見慣れているらしく、それにはまったく興味を示さず、コップに酒を注ぎたしている。
スボンの下から現れたのは、思ったよりもずっと小さい、例えば僕が小さいころに転んで竹を突き刺してしまった向こう脛の傷痕よりも醜くない、わずかに肉がひきつれているような跡があるだけだった。
「・・・・ふぅ」
なぜそんなことに人が期待するのか分からないけれど、とにかく僕は、いや僕だけじゃなく他のみんなも、もっと凄い、目を覆うばかりの傷痕を想像していたに違いなく、それがあまりにも呆気なかったので、見たとたんプツリと緊張が途切れ、ほとんど息ばかりの溜め息がいくつか漏れたのだった。
それどころか生沼さんは舌打ちともとれる声を発したので、僕はもしかして「ふざけやがって、人に見せるほどのものかぁ?」なんていう声が聞こえるのではないかと内心ヒヤヒヤしたのだけれど、さいわいその音は舌打ちのそれではなく、つまみのスルメを噛み切る音だったのでホッと胸をなでおろした。
それでも気まずい空気が狭い部屋いっぱいに広がっていて、それをまた安田さん自身も十分感じ取っているものの、どう対処していいか分からず、ズボンの端を持ったまま、それ以上脱ぐでもなく着るでもなく、人を窺うような視線だけが僕たちの間を行ったり来たりしていたのだった。
そんな時、滝山さんが救いの手を差し伸べるような発言をした。
「まぁな、二十二口径の傷だから、そんなもんよ」
それが慰めや言い訳になっていたのかどうかよく分からないが、少なくとも安田さんがズボンを直すきっかけになったことは確かだった。
ベルトを締めなおした安田さんは、後頭部を何度もなでながら、気まずそうな笑いを浮かべていた。
浩一が口を開く。
「ねぇねぇ、そんで相手の人殺しちゃったの?」
怜子がそれに答える。
「さっきからなに聞いてるのよ、そんなことはできないって言ってるでしょ」
「結局、安田は優しいんだよなぁ、人間が、はははは」
滝山さんはそういって安田さんの肩を叩き、笑いを促すように生沼さんさんの方を見やったが、生沼さんはうつ向いたまましばらく言葉を発しなかった。
少しの間があって、生沼さんが呟いた。
口調はかなり酔っぱらっていて、顔を上げようともしなかった。
「へ〜、そんなにアンタ喧嘩が強ぇのか、そうかよ、へ〜」
それはまさしく挑発ともとれる口調だったし、滝山さんもそれに気付き、安田さんの顔をちょっと複雑な表情で眺めた。
僕ら三人も、ちょっとした緊張感に包まれていた。
「強いっすよ、自分。負けたことないっす」
「ふん、そうかい」
生沼さんのその口調は、明らかに相手を小馬鹿にしたもので、顔をうつむけたまま右肩をぐるぐる回すデモンストレーションも、とても嫌な感じだった。
見ると安田さんも、すでにかなりお酒が回っているらしく、生沼さんのぐるぐる回る腕につられるように身体が揺れ、しかも、なかなか相手が顔を上げないことに苛立ちを感じはじめているようで、コップを握る手に力が入っているのが、ここからでも分かった。
そしてついに・・・・キレた。
「おい! 生沼〜! てめぇ、人と話しするときは、ちゃんと人の顔を見て喋ったらどうだ!」
そういって、あたりに淀んでいた濁った空気を、いっきに切り裂くように立ち上がった。
「なんだと〜、生沼だと〜、てめぇこそ、誰に口聞いてるんだぁ」
まるでその瞬間を待っていたかのように生沼さんもすかさず立ち上がり、お膳を挟んで二人は真っ赤な顔を突き合わせた。滝山さんと僕ら三人はあっけにとられてその様子を見守るだけだった。生沼さんと安田さんの間には火花はないけれど、裸電球があって、生沼さんが安田さんの顔を見るのに邪魔らしく、何度も手で払いのけるので、それはガシャガシャ音を立てながら揺れていた。
それでも事態はそれ以上進行することはなく、一旦切り裂かれた部屋の空気が再び凝縮し始め、僕らをまるごと固めてしまったように、誰も動かなかった。
なにかいたたまれない「間」があたりを支配していたのだけれど、そのいたたまれなさに堪え切れなくなった滝山さんが、ついに行動を起こした。
「なんだよなんだよ〜、おい、なにやってんだよ。やめろって、おい」
さっきまであんなに高圧的だった滝山さんの口調が、一転して祈るような口調に変わり、泣きそうな顔でよろよろと立ち上がった。立ち上がってはみたものの、生沼さんと安田さんはまったく滝山さんの存在を無視するように、お互いにらみ合ったままだ。
それでも、いつまでも黙ったまま睨み合っているのは、おそらく、二人とも自分にこう問いかけているからだ。
「俺はほんとうにこいつと喧嘩するのだろうか? 果たしてどっちが強いだろう。もし相手が強かったどうしよう」
ようするに、二人とも滝山さんが強引にでも止めてくれるのを、じりじりしながら待っているのだ。でも滝山さんは滝山さんで、二人の迫力に負け、触らぬ神に祟りなし的な雰囲気で、事態をただ黙って見守っているだけだった。
それにしても、ものすごい緊張感が僕たちを支配していて、ついにそれに堪え切れず、それまで置物のタヌキのように固まっていた浩一が泣き出してしまった。
「おね〜ちゃ〜ん、こわいよ〜」
「やめなよ〜、二人とも、大の大人がさぁ、みっともないって」
それはかなり勇気に満ちあふれた発言だった。大の大人とはいえ、生沼さんも安田さんもとんでもない行動にでるかもしれないほど十分に酔っぱらっていて、もしかしたら怜子にだって殴りかかるかもしれなかったからだ。でも、実際にはそんなことにはならず、まず、その発言をきっかけにして鞘を収めたのは生沼さんの方だった。
「ま、いいや、滝山さんに免じて勘弁してやるから、ま、座れ」
「な、なにぃ!」
いちおう歯向かってみるものの、さっきほどの迫力はすでに失われていて、そこが安田さんの本物のヤクザになれなかった欠点なのかもしれないと思った。
「ま、ま、安田、いいから座れって!」
滝山さんがそう促すことによって、安田さんは一度振り上げた拳を治める場所を見つけたかのようにおとなしく座り、一方生沼さんは再び一升ビンに手を伸ばし、「ほれっ!」といって、安田さんに酒をすすめたのだった。これは明らかに和解の申し立てだったのだけれど、それは、自分の方が大人だという自負によるものなのか、それとも、喧嘩したら負けそうだからやめとこう、という結論からなのか、僕にはよく分からなかった。
お膳の上にあてどなく浮かんでいる一升ビンの注ぎ口に、滝山さんの手が添えられた安田さんのコップがあてがわれたのは、それから五秒くらいしてからで、とにもかくにも一件落着。
それからしばらくして、浩一と怜子は部屋を出て行ったが、それと入れ代わるようにして安江さんが鼻歌まじりにやってきた。かなりお酒も入っているようだったけれど、それよりなにより、一見すると芸者さんみたいな格好をしているので驚いてしまった。アルバイトでコンパニオンをしていると聞いていたけれど、たぶん今日はその帰りだったのだろう。
「おう、安江〜、ったくどこで浮気してたんだよ」
いきなりニコニコして生沼さんがそういった。
「ほんと、体がもたないわよー、モテ過ぎちゃって。あら、今日はお客さん?」
安江さんが滝山さんと安田さんを見やると、二人はちょっと照れたような表情で、軽く会釈を返し、ついでに、生沼さんと安江さんの関係を探るように、二人は生沼さんの顔の表情を盗み見ていた。もちろん生沼さんもそんな二人の視線を感じていて、ちょっといい気になって、安江さんを招き寄せようとしたのだけれど、間が悪いというか、そんなことに気付かない安江さんが、
「それにしても、みなさん、いい調子ねぇ。ちょっとー、私にもいっぱいちょうだいよ」
そういって、いきなり安田さんの隣に座り、べったり肩を寄せたのが運のつきで・・・・。
それから十五分後、僕らは夜の闇に包まれた海岸の砂浜の上にいた。僕らというのは、僕、生沼さん、滝山さん、安田さん、安江さん、怜子に浩一、それになぜか鈴木さんまでそこにいた。そういえば鈴木さんは人形を抱えていない。初めてみる鈴木さんだけの鈴木さんだ。
ところで、どうしてみんながこんな所にいるのかというと、あれから話はこじれにこじれ、生沼さんと安田さんは、なんと決闘をすることになってしまったのだ。
「決闘で決着をつけようじゃねぇか!」
映画や劇画の世界でしか聞けないような台詞を堂々と吐いたのは生沼さんの方だったけれど、それを聞いた安田さんはまったく驚いた様子もなく、そこはさすがに元ヤクザというところなのか、
「決闘、上等じゃねぇか」と、腕まくりをひとつして見せた。
そこで滝山さんがようやく調停役としての本領を発揮して、
「おいおい、子どもの喧嘩じゃあるまいし、殴り合ってどうすんだ、どうだ、ここはひとつ一本勝負の相撲で決着をつけるってことにしないか」
そういって、二人をしぶしぶ納得させたのだ。
それで、生沼さんの発案で、場所は宿から歩いてさほど遠くない砂浜ということに決まったのだった。怜子と浩一がのこのこついてきたのは、僕が二人に懐中電灯を借りに行ったからで、こんな刺激的なことに興味を示さない二人ではないことは明らかだったが、それにしても、そこにたまたま居合わせた鈴木さんまでついてくることになるとは思わなかった。
コンクリートの防波堤の上を奇妙な集団がぞろぞろ歩き、目印の二本松のところで砂浜に降りる。
風がまったくないので、まるで湖のように静まりかえっている黒いかたまりの海を感じるだけだ。
そのかたまりに向かってしばらく歩き、怜子と浩一が懐中電灯で砂浜の一角を照らし出す。別にだれに言われたわけではないけれど、そこに土俵を描いたのは僕だった。
行司役はもちろん滝山さんなのだけれど、なんだかしらないけど、ここに来るまでのあいだに、いつの間にかこの勝負は安江さん争奪戦みたいなことになっていて、当の安江さんは、そんなことを自分の意思とは関りなく決められたことに腹を立てるわけでもなく、というよりむしろ、そのことが嬉しいらしくて、さっきからキャーキャー騒いで、ときおり、僕のしらない浪花節の一節を唸ったりしていた。
「ねっ、見て見て! おもしろーい!」
先頭を歩いていた浩一がそう叫びながら懐中電灯を空中に向かってぐるぐる回すと、サーチライトみたいな光の帯が闇の中で踊り、それを見ていた怜子も同じように光の帯をつくり、浩一のつくる光の帯を追いかけるようにして、二筋の光のダンスが始まった。
「おねーちゃん、面白いねぇ」
「すごいすごい、今日は星が出てなくて暗いから、すごく遠くまで光が届くよねぇ」
怜子はそういって、浩一がつくる光の帯を追いかけるのをやめ、今度はゆっくりと、大空のどこかに落とした落とし物を探すように光を動かした。
僕たちはなんとなくそれを眺めていたのだけれど、気がつくと、これから男と男の決闘が始まるというような緊張感がすっかりなくなっていて、光の帯が空から降りてきて砂浜を照らすと、そこに浮かび上がったのは、砂浜でゴロンと横になり頭の後ろで手を組んでいる生沼さんの姿だった。それは意気消沈というか戦意喪失というか、どっちにしてもこれから闘う人間の顔つきではなかった。もっともそれは安田さんも同じで、光に探し当てられた安田さんは安田さんで、そこいらへんでしゃがみこんでいて、意味もなく砂を掘り返したりしていたのだった。
「オヤジさん、自分は明日の朝、帰らさせていただきますわ」
すっかり力が抜けてしまったような安田さんの声が、暗闇の中から聞こえてきた。
「うーん、そうか、そうだな、そのほうがいいかもしれねぇなぁ」
「自分はやっぱりダメなんですよねぇ、もう絶対に酒は口にしないと、何度もそう誓ったんですけど、やっぱり、勧められるとどうしても・・・・」
「酒でしくじる人生、ってのもなぁ・・・・、生沼〜、お前も同じなんだから気ぃつけんだぞ〜」
「うぃーす」
聞いているのかいないのか、寝とぼけた返事だった。
滝山さんは大きな溜め息を一つつき、
「ったく、酒さえ飲まなきゃいいやつ、ってのはこの世にはひとりもいねぇよなぁ、だってよ、結局そいつは酒飲んじまうんだからな・・・・ははは」といって笑った。
「ははははは」
意味を理解しているわけもない浩一の笑い声がそれに続く。
相変わらず仕事がはかどらないのは、滝山さんと安田さんが、あの決闘(結局のところ決闘なんてしなかったわけだけど)の翌日そろって東京へ帰ってしまったせいだった。それに、一旦東京へ帰ってまた別の人間を連れてくるからと言い残していった滝山さんは、それから今日で三日たつけど、それ以来音信不通で、それをまた理由に生沼さんは仕事をしようとはしないのだった。
もう八月も残すところ一週間を切っているし、仕事が終わろうが終わるまいが僕は帰らなければいけないわけで、いったいどうなるんだろう、という気持ちになっていた。
その一方で、ここにずっといるのもいいかもしれないという気持ちもちょっと湧いてきていた。
ここで出会う人たちというのは、きっと詳しく事情を訊ねればそれぞれ将来に対する夢とかプランとかもあるのかもしれないけれど、少なくとも僕の目からは、今をそのまま生きているという感じがして、今の僕の気分にぴったりの人たちだったからだ。
何か目標を持って、それで自分を縛って、そこに向かってそれなりの努力をするというのが正しい生き方なのだろうけど、目標が持てない人は、いったいどうやって正しく生きたらいいのか、僕にはよく分からない。そもそも正しい生き方があるかどうかさえよく分からない。
今朝はちょっと奇妙なことが起った。
いつものように、階下の食堂へ降りて行き、最近自分のなかで流行っている「ラーメンライス」を注文しようとしたのだけれど、そこにいるはずの生沼さんの姿が見えないのだ。
「あれ、生沼さんは?」
「ん、そういえば、今日は朝から見かけないなぁ、どこかに出かけたかんじゃねぇのか?」
店の主人がそういうと怜子が奥から顔を出し、
「あ、トラックなかったよ、そういえば・・・・」
「現場行ったのかなぁ?」
まさかとは思いつつそういうと、今度は浩一が出てきてこう言った。
「安江さんと一緒にトラック乗ってったの見たよ、ぼく」
結局、その日一日トラックは帰って来なかった。いや、一日どころか次の日もまた次の日もトラックは帰って来なかった。
二人が姿を消して三日目の夜になって、ようやく安江さんから店の方に電話がかかってきた。その時はたまたま僕も食堂にいたのだが、電話に出たのは怜子だった。
「あ、安江さん、どうしたの? 生沼さんも一緒? いま、どこにいるの? ・・・・、うん分かった、ちょっと待って」
安江さんは怜子の質問には答えず、バアサン、つまり自分の母親に電話を代わるよう要求したようだった。
バアサンは電話を代わるなり、泣き出しそうになりながら怒鳴った。
「バカ、お前、なにしてっだ! 子供ほったらかしにしといて男と好きなことしてるなんて、なに考えてんだ、ほんとに! ・・・・。いいから、今すぐ帰ってこ。・・・・。やかましい! 生沼を出せ生沼を、そこにいるんだろが!」
「バアサン、ちょっと俺に電話を貸してみな」
今度は浩一の父親が電話を代わり、ひとしきり説教すると、次には浩一の母親に代わり、やっぱり同じように説教し、何度もすぐに帰ってくるように説得するものの、結局、話の途中で一方的に電話を切られてしまったのだった。
バアサンが諦めたように呟いた。
「だめだ、あの二人は。死んじまえ、ほんとに」
「バアチャン、そんなこというんじゃないって。ほんとにそんなことになったら、子供たちが路頭に迷うだろが。帰ってくるさすぐに」
浩一の母親がそういうと、父親が続いて言った。
「そうさ、どうせ長続きしやしねぇよ。なにが駆け落ちだぁ、笑わせるぜまったく」
僕には口を出す余地はなかったけれど、僕は僕で不安がいっぱいだった。このまま生沼さんが帰って来なかったら、いったい僕はどうしたらいいのだろう。僕がここを引き払う八月の月末まで、あともう三日しかないし、それでいて仕事はまだ半分も終わってないし、それより、僕のアルバイト料はいったい誰が払ってくれるのだろうか?
なんとかなるさ、そう声に出さずに呟いて、それが未来に対する不安を感じるときの僕の癖で、本当はどうにもならないことを自覚している僕自身への根拠のない慰めの言葉だということを思い知る。
どうにもならなくなるまで、あとどれくらいの時間が残されているか分からないけれど、僕は何もせずこの宿にいて、時が過ぎるのをただただやりすごしているだけだった。いや、そうでもない。生沼さんが安江さんと蒸発してしまったのは、もちろん僕のせいではあり得なかったのだけれど、それでも、会社や生沼さんの奥さんから電話がかかってくると、事情を訊かれるのは僕なのだ。さすがに会社の人は僕が単なるアルバイト学生だということを認識しているので、とにかく連絡がありしだい会社の方に電話を入れるように伝えてください、と丁寧にお願いされるだけだったのだけれど、生沼さんの奥さんは理屈もなにもなく興奮して僕を責めたてる。
「あんたねぇ、そばにいて何やってんのよー。探してきてよ、それでクビに縄つけてでも連れ戻してきてちょうだい。冗談じゃないわよほんと、ろくろく仕事もできないくせに、なにが女と駆け落ちよ、笑わせるわよ、頼んだわよ!」
いやそんなことを頼まれるわけにはいかない。どこに行ってしまったのか全然見当がつかない上に、なにをどうひねっても僕の責任なんてこれっぽちもないはずだからだ。
「はい、できるだけ探してみます」
本心とは別に、そう答えてしまう僕だったが、これもきっといつかなんとかなるさ、いや、なるようになるさ。
いつものように浩一と一緒に眠っていると、僕は体をユサユサと揺すられ、びっくりして目を覚ました。
部屋の中は真っ暗で、それが誰か見えないのだけれど、胸に置かれた手のひらの温度とそのボリュームで、それが怜子だと分かった。
「ねぇ、たーちゃん、私もこの部屋で寝ていい?」
その声にちょっと違和感を覚えた。いつもの、浩一のやることなすことにいちいちケチをつける時の刺々しさがすっかり失われ、夜中だから声をひそめているという事情以上に、どこかもの悲しいというか、寂しそうな声だった。
その様子が気にかかって、わけを聞いてやった方がいいのかもしれないとも思ったのだが、
「あ、いいよ、適当に・・・・」
そう答えただけで、怜子がごそごそと、たぶん自分で運んできた布団セットを敷いている気配に耳を傾けながら、再び眠りにつこうとしていた。
これで、壁際に浩一、まん中に僕、その隣に怜子と、奇妙な組み合わせの川の字となった。
暗闇の中で、怜子が僕に話しかける。
「たーちゃんの夢ってなに?」
「夢って、見る夢じゃなく、将来の夢とかそういうのね?」
「そうそう、なんかあるの? 夢。あたし好きなの、人の夢の話を聞くのが」
あらためてそう聞かれて、本当に何も思い当たらない自分に気がついて、ちょっと困った。
「・・・・べつにないや」
「えーっ、ないの? 嘘でしょ、たいがいあるもんよ、夢のひとつくらい」
「んー、ジャンボ機のパイロットになりたい・・・・」
「え、そうなの? そうかぁ、いいわねぇ、パイロット。なったらタダで乗せてね」
通じない冗談を言ってしまったようだけれど、訂正する雰囲気でもなかった。
「おぅ、いいとも、いつかね。ところで怜子の夢は?」
もちろん、怜子はそれを聞かれたくて、夢の話を持ち出したに違いない。
「簡単で難しい夢があるの」
「え、どんな?」
「えーとね、あと三十キロ痩せて、この家っていうか、この町を出る。ただそれだけ・・・・」
「・・・・」
僕はつい黙り込んでしまった。
「僕が三十キロ痩せたらほとんどここにいなくなっちゃうけど、怜子なら大丈夫、まだ怜子かなりそこにいる」というような軽口を返そうと思ったのだけれど、怜子の口調になんか切実な思いを感じてしまい、言葉にはならなかった。
僕が黙っているので、怜子も何か間の悪さを感じ取っているはずだった。
彼女はこれまでおそらく自分の体重のことで、何度となくからかわれ、嫌な思いをしてきたに違いないと思う。僕だって最初に怜子を見たときに、その事は気になったし、だから逆に彼女に対してはそういう類いの話題や冗談は禁物だなと、とりあえず自分の頭にたたき込んでいた。
それなのに、まさか怜子の方からそんな話を振ってくるとは・・・・いや彼女にしてみれば、自分が太っているという現実をまるで無視されたかのような態度に出られること自体が不自然で息苦しいのかもしれなかった。
「いいじゃん、オッパイ大きくて・・・・」
情けないことにそんなことしか言えない僕だった。
「ははは、そうね、ほら触ってみる?」
彼女はそういうと、真っ暗闇をものともせず、一直線に僕の手首を探り出し、それをいきなり自分の胸の上に持っていった。
そんなとき、あわてて手を引っ込める気分もないわけじゃないのだけれど、なんてことないちょっと大きさを確かめるだけさ、というような言いわけがましいひらめきも湧いてきて、結局、ものも言わず、されるがままに腕の力を抜いた。いや、抜いただけじゃなく、しかるべきところに置かれた手のひらに力を込め、その大きさを確かめるようにその表面を滑らせた。
怜子はノーブラで、シャツ一枚を通した巨大で柔らかいものの感触に、僕は素直に感動を覚え、だから僕の口から出で来た言葉は、「ほんとだ、こりゃおっきぃや、いやぁ、すごいすごい」なんて、なんかピント外れの褒め方だった。
「はははは、さ、もう寝よ」
そういって怜子はゴロリと背中を向け、本当に眠くなってきたのかどうか、それきり言葉を発しなくなってしまった。
「なあ、怜子、気ぃ悪くした?」
怜子はちゃんと起きていて、間を置かず答えを返してきた。
「そんなことないよ」
「そかよかったぁ」
そこでちょっと間が開いたのち、
「ねぇ、オッパイ触ってどんな感じだった?」
怜子が冷静な口調でそう尋ねた。
「どんな、って、気持ちよかった、うん」
「そっか、アタシもちょっと気持ちよかった、ははは、冗談冗談」
なんだか奇妙な会話だった。
でも、僕はふとあることを思いつき、それを言葉にした。
「ねぇ、寝るまでオッパイ触ってていい?」
「うん、いいよ・・・・べつに」
怜子は「べつに」とつけ足した、僕はそれがどんな意味なのかよく分からなかったけれど、仰向けになった彼女のシャツの下から手を忍び込ませ、今度は直に柔らかさの上に手を置いて・・・・いつしか僕は、そのまま眠りに落ちた。
了
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