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| 大人になると夕方がなくなると誰かが言った。
その場にいた誰もがうん、そうだそうだ、と相槌を打った。わたしたちは午後6時に待ち合わせて駅前の居酒屋にいた。この日の夕方は電車で移動して、メンバーが揃ったところで居酒屋に移動して、飲んだり食べたりしているうちに終わっていた。だいたい夕方なんて、仕事中だしね、と他の一人が言う、そうだそうだ、とまたうなずく。 夕方のことを考えてみる。
例えば、以前勤めていた会社で電話をかけたときのこと。このとき時計は午後4時をちょっとだけ過ぎていたと思う。
わたしは小学校の5年生まで、満足に時計が読めなかった。デジタル時計が普及し始めたので、もう時計なんか読めなくても困らないと思っていた。時間なんか時計が無くてもだいたいわかるもん、とも思っていた。学校から帰って遊びに出かけて、ふとアスファルトの道路に伸びた自分の影を見る。全体に細く長く伸びて、指なんか年上の従姉にもらった別冊マーガレットの漫画の女の子の指先みたいにすらりと細く尖っている。わたしはその影の指の長さで、ああ、4時半くらいかな、と思う。もっと時間が経つと空で夕焼けが始まってだんだん暗くなってくる。そろそろ帰らなくちゃ。それでも遊び続けていると当然更にあたりは暗くなって、ゴムとびのゴムも良く見えないし、蝙蝠が電信柱の上あたりをくるくる旋回し始めると、もうご飯の時間だから
そんなふうに、わたしはなんとなく、午後4時半から6時台くらいを夕方と思っていた。だから、佐世保へ行ったときには、緯度のせいで夕焼けが始まる時間が東京よりも遅いのを、夕方が長いのだと思った。午後7時を過ぎても空は明るかった。佐世保のビジネスホテルの狭い机の前に腰掛けるとちょうど窓から空が見えた。小さな正方形の窓から見ていると、7時半過ぎた頃、西の空が赤いセロファン紙を透かしたように赤くなって、8時近くになってようやく西の山の端の、空との境目あたりがほんのりと残り香のよう赤さになって、その上の空が緑色や水色や藍色に変わって行った。どれも透明さの残る色だった。そのうちにさびしいのでつけっぱなしにしていたテレビでは歌番組が始まって、たまが「さよなら人類」を歌っていた。
西日になってからが長いようなのです。
もしも一人だけでこんな長い夕暮れを過ごすことがこの先あれば、わたしはまた手紙を書きたい。 佐世保の夕暮れほど美しい空は見えなかったけれど、夕方を始まりから終わりまで、ゆっくり過ごす機会がやってきた。それは、野球場、横浜スタジアムで。 ローソンで買っておいたチケットを手に、外野自由席の列の最後尾はこちら、というプラカードを持った係員を探す。4時30分に開門だから、30分も並べば十分だろうとわたしたちとしては早めに来たつもりだったのに、もうすっかり公園の周囲に沿うように列が長くなって、ぐねぐねとまがってコンビニの向かい側あたりまで延びている。公園を縁取るように大きな木が並んでいるから、木陰にいられれば暑くはない。けれど夏至を過ぎてかなしいくらい早く傾くようになってしまった太陽が、晴れていればそろそろ西日になりかけた容赦無い光を斜めに差し入れて来る時間だ。今日は白っぽく曇っていて、眼の下の頬骨のあたりが少しまぶしく感じるくらいだけれど。 このあたりに並んでいたら、座れるだろうか、と心配しながら夫と並ぶ。内野ならなんとか座れるかもしれないが、今日のチケットは外野だ。外野自由席は席数が少なく、少し出遅れると最上段の椅子のないコンクリートに新聞紙を敷いて腰を降ろすことになる。昔はこんなじゃなかったのにな。そうだね、朝起きて、お天気が良かったら、今日は野球でも見に行こうか、という話になって、おにぎりでも握って電車を乗り継いで、関内に着いたら球場で外野自由席のチケットを買って、がらがらではないにせよいくらかは座る場所を選べそうなスタンドで、椅子もベンチみたいな青い長い椅子で、ゲームが終わったら中華街に行けるかな、なんて思いながら、野球はそんな風に観るものだと思っていたのにね。 それでもベイスターズが優勝する前年の、日毎に応援の歌声や打ち鳴らすプラスチックのメガホンの音が大きくなっていくせいでラジオ中継のアナウンサーの声が良く聞こえなくなっていったことや、優勝を決めた夜の無料開放された球場の様子や、それから優勝パレードの、明るい大通りを11月の柔らかい光と降り続く紙吹雪に包まれていた選手たちの晴れやかな姿なんかを思い出すと、もちろん優勝したことは良いことだったんだと思う。1998年10月8日のあの夜の横浜スタジアムはとてもきれいだった。誰もいないグラウンドを煌々と照らし出す逆三角形の白く輝く照明。あのときわたしは、野球場は夜でも野球が出来るように、昼間みたいに明るいのだと、初めてわかったみたいな気がした。 開門になって列の先頭の人から我先にと階段を駆け上がる。夫が走ってくれたおかげでなんとか席を確保できて、かばんを椅子の下に置いて落ち着いてあたりを見回すと、もう冷たいビール、いかがっすかあ、と縦半分に折った千円札をじゃばらみたいに指に挟んで、紙コップを持った片手を挙げて、首を左右に振ってお客を見逃すまいとしている売り子があちらこちらを歩いている。横浜球場のビールの売り子は一番多いんだって。東京ドームよりも?東京ドームは女の子しかいないんだよ、それに生ビールしか売らない。だから高いのかあ、アンミラみたいだね。キリン生搾り、エビスビール、アサヒスーパードライ、みんな肩と首からお腹の前に下げた箱に缶ビールをぎっしり並べて、日除けのためなのか缶の上にタオルをかけている。日焼けもしているけれどお化粧もきちんとしている女の子の売り子同士がすれ違いざまにお疲れ様でーす、と微笑みを交わしている。何十本もビールが入った箱を抱きかかえるようにして、狭い通路を身体を斜めにしてすれ違う、二人の腕も足も、気持ちいいくらいに張りがあってつややかだ。 そのうちにポップコーン売りが来る、コーラを売りに来る。いなりずし、焼売弁当、唐揚げ弁当を売りに来る。なんだか急にお腹が空いた気になる。唐揚げ弁当を買う。早く買わないとお弁当は売りきれるし、ゲームが始まると食べ物どころじゃなくなるかもしれない。延長戦になって、ゲームが終わったら急いで帰らなくちゃならなくなるかもしれない。5時前にはお弁当を食べてしまうので、いつも5回裏くらいでふっくらと弾けて反り返ったポップコーンが食べたくなる。でもいつも買わない、特に理由はないけれど。 わたしたちがお弁当を食べている間、人工芝のグラウンドでは相手チームの選手たちが練習をしている。バッターボックスに入れ代わり立ち代わり選手が立って、打撃練習用のピッチャーの投げるボールを打ち返している。あのピッチャーはほんとはすごいのかもしれない。どんな球種でも投げられるんだろうか。次はカーブを打ちたいから、ちょっとカーブ投げてみてくれ、とか言われて投げられるんだろうか。だってストレートばっかりじゃ練習にならない。なんと言ってもコントロールが良くなくちゃいけない。ボール球ばかりだったらバッターは練習にならない。そりゃそうだよ、と夫に言われる。打たれてもいいんなら、プロなんだからストライクゾーンに投げるのなんてわけないんだよ、打たれちゃいけないと思って投げるからコントロールが悪くなるんだよ。なあるほど、とうなずいて今度は広い外野を見る。腰を降ろして足を開き膝を立てて、片方の膝を身体の前の地面につけるようなストレッチをしている選手たちがいる。両手はお尻の横からやや後ろあたりについて、両手に体重を預けるようにしている。傍らにはグラブが置いてある。ゆらゆらと地面に膝をつけたり離したりしながらバッターの方か、客席の方かどこかを眺めたり(ほんとうにどのあたりを見ているのかは、客席からは遠くて良くわからないが)、レフト側とライト側の外野スタンドの間のスコアボードの上の大型スクリーンに映し出される車のCMを見たり、チームメイトと話をしたりしている。 軽くキャッチボールをしながらお互い後ずさって、うんと離れた位置でそれでもまだキャッチボールをしている選手たちがいる。時折客席のどこかでホイッスルを長く鳴らすのが聞こえる。ファウルかホームランか、バッティング練習中の選手が打ったボールが客席に飛び込んでくるからだ。ピピー、とひときわ大きく笛がなる。わたしたちの座っているあたりにボールが飛んでくるらしい。打球が高く高く上がって白っぽい曇り空に紛れてもう全然見えない。今くらいの時間が一番見にくいんじゃないか、と夫が言う。薄暮というにはまだ早いけれど、薄く雲が広がっているせいでやたらに空は白っぽく、白くてちいさい野球のボールは気をつけていてもすぐに見えなくなる。間もなく座席のオレンジ色のプラスチックの背や客席を隔てる手すりにあたって、ボールが思いの外跳ね上がる。そのときになってようやく、ああこんなところに、と気がつく。 「カープの練習時間は、あと30分です」
お弁当も食べてしまって、球場の入り口で手渡されるオールカラーのタブロイド版のベイスターズの選手や森監督のインタビューや、選手の若妻の手料理の写真なんかが載っている4頁くらいの新聞みたいなのも読んでしまって、人工芝の上で身体を伸ばしたりひねったりしている選手たちを眺めるのにも飽きると、もうぼんやりするくらいしかすることがない。曇りの日の夕方は、夕焼けも見えないし早く暮れてしまうようだからつまらないけれど、野球場で過ごすには日焼けをそれほど気にしなくていいし、ちょうどいいと言えばちょうどいいのだけれど、せっかく空を眺める気になっているし時間もたっぷりあるのに空が少しも青くないなんてつまらない。 やがて両チームのバッテリーが発表され、バッティング練習用の金網が鮮やかな手際で片付けられて、代わってグラウンド整備の係員が道具を手に現れる。いつもどこから出てくるのか確認しようと思っているのに出すところを見逃してしまう蛇口にホースをつないで内野の人工芝に水を撒いている。もう一度昨日の試合のダイジェストがスクリーンに映るので拍手して、先発メンバーの名前が次々と発表され応援団のラッパがそのたびに鳴って拍手が起こる頃になると、指定席にもちらほらとお客が座るようになって、お客たちの白っぽい夏服で椅子のオレンジ色が占める割合がだんだんとちいさくなっていって、その頃には逆三角形の照明に少しずつ明かりが灯るようになる。そうなるともうほんとに夕方だ。明かりが灯ると急にあたりが暗くなったような気がする。子供たちが一列になってマウンドに出てくる。スピードガンコンテストが始まるのだ。抽選で選ばれた子供が(大人のこともあるけれど)一人二球ずつ、ピッチャーマウンドから、キャッチャーの構えるミットめがけて投げて、スピードガンで球速を測る。大人が投げても、100キロを超えることはなかなかない。子供の投げる球はたいていバウンドするか、ぜんぜん届かない。それでも身体は小さいのにちゃんとキャッチャーまで届いたり、思いがけず真っ直ぐの良い球だったりしたときは、おお、というようなざわめきがスタンドから起こり、それがすぐに拍手に変わる。 ボールを投げ終わった最後の子供が大きすぎる野球帽を片手で押さえながらマウンドを駆け下りて、入れ代わりにT字型の棒を持った男たちが現れて再びピッチャーマウンドを整備する。まもなくベイスターズの選手が守備位置につく。選手たちは拍手と歓声と野次とトランペットに迎えられ、サインボールを客席に投げ入れる。勇ましげなメロディをトランペットが奏で、それにあわせてメガホンを打ち鳴らす音が響く。何かに驚いたのか鳩が一群れ、球場の高くそびえる客席に丸く切り取られた空の端を横切って飛んでゆく。わたしは青い野球帽を被りなおす。ふっと心地よい風が吹き渡る。バックスクリーンの上の、球団の旗と日の丸が靡いている方向を確かめる。わたしが先ほど感じた風向きとは違う方向に旗が靡いている。風が巻いている、と夫が言
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