お母さんはすぐにちっちっちっと言う。人差し指を振りながら、ついでに頭も振りながら舌を鳴らしてちっちっちっとやる。今朝は目玉焼きの黄身に向かってやっていたし、ゆうべお風呂の蓋に張り付いた髪の毛に向かってちっちっちっとしていた。小鳥のさえずりみたいにも聞こえるけれど、意地悪な女の舌打ちみたいにも、嫌みな女のこれ見よがしの警告のようにも聞こえちゃう。ちっちっちっというのを聞いているのは風呂の蓋でも、シャワーの蛇口でも壁でもなくて、私だから、ちっちっちっはみんな私の耳の中に入ってくる。
行列して入ってきて、どんどん進むもんだから、もう体の隅々までちっちっちっは行き渡っていて、この頃は許容量を超えたちっちっちっがおしっこやうんちに混ざって少しずつ放出され始めた。家のトイレでするのには困らないけれど、学校とかのトイレで用を足すと、ハンナちっちっちっはやめて、と友だちに言われる。だんだん我慢するようになって、我慢しすぎてあわててトイレへ行くとちっちっちっもあわてて早口でちっちっちっとやる。音も大きくなっていて、あたしには「舌打ちしっこ」というあだ名がついた。
許容量を超えたちっちっちっは排出されてすめばいいんだけれど、問題はそれだけじゃないんだ。耳の奥のどこか狭くなったところでつかえて困る。つかえた所でちっちっちっは止まったままで行進し続けて水風船みたいになる。そうすると爆発してちっちっちっは飛び散る。「ち」や「っ」がいろいろなところに突き刺さって大変なことになる。左の手首のガングリオンでしょう。左の膝のガングリオンでしょう。
ガングリオンっていうんだとわかったのは、病院へいったからなんだけど、整形外科の医者はぜんぜん心配ないし、よくあることで大きくなったり小さくなったりなくなったりすることもあるけど、嫌だったら切ることもできるけど、と言ったからなんだ。それで死ぬこともなければいいかと思った。
それがこの頃、左膝のガングリオンが鶏の卵ぐらいになって、しわの寄り方で人面に見えないこともない。ちょうど、左目が潰れた感じの顔で、よく見るとお母さんに似ている。試しに口紅を付けて髪の毛をフェルトペンで描くとガングリオンは、すっかりお母さんになった。お母さんが私に向かってちっちっちっとやるとき、私も左の膝を揺すってみる。お母さんとガングリオン母さんはちっちっちっに合わせて顔を振る。お母さんの突き出された人差し指にはピアスのついた赤い付け爪があった。それを見ながら、ガングリオン母さんのいる膝を振り続る。
お母さんには、ガングリオン母さんのことは知らせていない。だれど、まあくんには気づかれちゃった。だって、そりゃあそうだ。あたしたちはラブラブだし、まあくんはあたしの体については凄く執着しているから、なんだって知っていることになっている。しっこするたびにちっちっちっが溢れることだって、最初に気づいたのはまあくんの方だった。
「おまえ、しっこ止めろ」とまあくんが言ったのは、ふたりで学校の来賓用トイレの中にいてあたしがしっこをしている最中のことだった。あたしたちはここでよくデートしていたし、それから、いろいろのことをしてみたけれどまだ誰にも見つかっていない。そればかりか、2つ並んだ個室のもうひとつの方や手洗い場で来賓が、それもたいていは父母の人たちだけど、先生や学校の悪口を言ったり、明らかにゴシップのたぐいの職員室人間模様を憎々しげに話したりしているのを聞いた。まあくんはその度に笑い出したくなるあたしの口を手で押さえたり、手で押さえる代わりにキスしたりしたから、それは楽しかったけど。たまにあたしたちの立てこもっている扉をドンドン叩きながら、大声で壊れてるのかしら、まったく管理が悪いんだからと怒鳴られもしたけれど、そんなときは声を殺して笑うのに疲れた。
しっこを止めろと言われてぎゅっと力を入れたら、半分止まってぽたぽたとしっこがたれた。そのぽたぽたにゆっくりとちっちっちっという音が重なり、まあくんは最初あたしが腹話術かなんかで遊んでいると思ったらしくあたしの口元を見た。あたしは口を開けて舌を出してインチキなんかしていないことを知らせた。そのとたん、ぽたぽただったしっこが、また元通りに出始めて、なんだか我慢してた分よけいに勢いよく出て、ちっちっちっも早口になった。まじかよおと言いながらまあくんはしゃがんで覗き込む。そして、ちっちっちっの出所を理解した。おまえ、すっごいことになってるぞお。まあくんはうれしそうだった。
その日、まあくんの家に寄っておばさんに挨拶して、まあくんの部屋で勉強するとか言って、セックスした。でも、まあくんはセックスの最中にちっちっちっが溢れてくるのを楽しみにしていたみたいだけれど、途中でおばさんがケーキとハーブティを持ってきてくれたり、あたしのケイタイが鳴ったりしてそこまではいかなかった。
まあくんとセックスするときは裸になったことがない。だって、来賓用のトイレだったり、ケーキばっかり持ってくるおばさんがいるまあくんの部屋でしかしたことがないから、全部脱げるほど気は許せない。だからあたしたちは裸でセックスすることにあこがれている。
親戚のおじさんが死んでお母さんが泊まりがけで大阪まで行くことになった。言い忘れたけど、お父さんはいないのね、母子家庭というやつだからあたしの家。働き手はお母さん、デパートの総務にいるんだ。でも、お母さんにはボーイフレンドもいるし、そのひとを社長ってお母さんが呼ぶから、あたしも社長って言ってるんだけど、ぜんぜん社長じゃなくてタクシーの運転手なの。その社長はあたしにもお小遣いくれるし、ねだればけっこうブランドのお洋服も買ってくれる。社長は遊びに来るけど、泊まっていかない。別に家庭があるのかも知れないれど、あたしには関係ないからしらん振りする。大阪に行くと決まってお母さんはあたしを誘ったけれど、期末テストも近いし、学校も休みたくないよおと言うとすぐ諦めて社長を誘った。1泊のはずが社長も行けるとなると、すぐに2泊3日の旅行に早変わりした。そして、まあくんはどんな嘘ついたのか、2泊の外泊許可をもらってやって来た。
ついでだから学校も休んで1日中裸でいようぜとまあくんが言って、コンビニの袋を2つも下げてきた。なんだか凄いことが始まりそうでわくわくする。まあくんは玄関でズボンを脱いだ。それからいろいろ脱ぎながらどんどん家の中へ入ってきて、あたしの部屋のベッドの前に立ったときには2個のコンビニの袋以外は何も持っていなくて、何も着ていなかった。テナガザルみたいで笑った。おまえも脱げったら、と言いながらまあくんはコンビニの袋をかき回す。中からコンドームを出して机の上に置きながら腕時計を外した。
あたしは急いで脱いだけれど、左膝のガングリオン母さんにフエルトペンで髪を描いていたのを忘れていて、まあくんに負けない素っ裸になったときにさえ思い出さずにいた。おまえ、と言ったきりまあくんはしばらく何も言わなかった。そして、まだまあくんが何を見たのかも知らずにいたあたしに、まあくんは近づいて頭に手を置き、厳かな声で言った。おまえ、いろいろ壊れてるな。
まあくんはなんだか様子が変だ。立たせたり座らせられたりして、やっとベッドに横になったけれど左膝のガングリオンをしみじみ見ているばかりで、キスもしなければ抱き合うこともしない。ちょうどドクターと患者のような距離がベッドの上のあたしと、突っ立ったままのまあくんの間にあった。おまえ、他には? まあくんは不安そうな、でも本当はうきうきしてたまらない気持ちを抑えているらしい上擦った声で訊く。
ここにもあるよ、ガングリオン。左手首の内側に1つと、外側に1つあるのを教える。そうしながら見ると素っ裸のまあくんのペニスはなんかよけいなもののようにぶら下がっている。こんなふうなまあくんのペニスを見たのは初めてだった。まあくんはあたしの左手を握ったまま、ビー玉ぐらいの大きさのガングリオンを反対の手の人差し指でそっと触ってみている。痛いと訊くから別にと応えた。ふーんと言ってぎゅっと押すから、痛いと言った、ホントはなんにも感じなかったけど。ビクッとしてまあくんは指を放したけど、握った手首には逆に力が入っている。それから、もっとあると訊くから、くるぶしに出来はじめた小さなガングリオンを教えた。
「おまえ、ちょっとまっすぐになって動かないで」
まあくんはあたしに仰向けになるようにいって、しばらく上からまじまじと見ていたけど、机の上のペン立てからフェルトペンを取ってベッドに乗った。小さなベッドなんだから、本当に。金色のパイプで出来ているベッドは脚が猫足という先がくるんと丸まった猫のつま先みたいになっている。こんなのに寝てみたいなんて乙女チックと喜んでお母さんが買ってくれた。だけどこのベッドは小さくて、あたしひとりでも3つのポーズしか取れない。右向きと左向きと仰向けと、あとうつ伏せも出来るかも知れないけれど、あれは好きくない。
まあくんが乗って、ベッドは悲鳴のような音をたてた。まあくんはあたしの左目と右目、左頬と右頬、左肩と右肩というふうに見比べて、動かないでねと言ったと思ったら、フェルトペンの蓋を口でくわえて外してプッと吐き出した。音は大きかったけれど蓋はまあくんの唾液を付けてあたしの胸の上に落ちた。くすぐったくて体をよじると、だめ、とまあくんの声がした。まあくんはあたしの上にまたがって、喉仏の下当たりにフェルトペンの先を付けた。そして一気におへその方へ向かって線を引いた。陰毛のはえているところまでくると陰毛を指でかき分けて恥骨の丘を縦に割ってフェルトペンはすすむ。途中からあたしは腰の当たりや太股の当たりにぴたぴたとぶつかるものを感じていた。最初は区別が付かなかったけれど、ぴたぴたにもふた通りあって、柔らかくて不思議な優しい感じの垂れさがったペニスと皺くゃの温かい睾丸の微妙に違う感触だった。どん詰まりという所まで行って、あたしは裏返された。今度はぴたぴたがもっと判った。どっちがどっちであるかがはっきりと判ったときうれしくなった。肛門の上でフェルトペンの動きが止まった。
そうすると、ぴたぴたの感触が変わって重苦しくなり、いつもの知っているまあくんのペニスに戻った。あたしは自分で裏返ってまあくんの体を見た。まあくんなんか52キロしかない、背は178センチもあるのに。痩せているのは好きだし、ツルツルも好きだけど、そんなまあくんの体にはさっきまでのぴたぴたの方が似合っていた。あたしたちはなんだかそういう機運になってセックスした。まあくんはコンドームを2箱も買ってきていて、腰が抜けるってやってみたいと言った。3回コンドームを取り替えた。あたしはひりひりしてきた。下腹も痛くなった。もうやだと言ったら、おれも痛いと言ってまあくんはあたしの上から降りた。こういうときは抱き合って眠るはずだと思っていた。シーツを胸までかけてまあくんの腕枕で寝るんだと思っていたのに、まあくんは勝手に両の手を胸の上で折り畳んで眠り始めていた。あたしは仕方がないから横を向いてまあくんにお尻をつけて寝た。
よく寝たと思う。気がついたときには夜になっていて、まあくんはあたしの背中でもぞもぞ動いていた。いくらでも出来るぜ。とまあくんはうれしそうだった。あたしもうれしかったけど、こんなふうに裸で抱き合ってセックスしたことがなかったから、いつものほうが気持ちいいような気がしていた。でも、まあくんは気持ちいいぞお、いいぞおと言ったり、うううううううって言っている。そうかまあくんはこれがいいんだと思っていたら、突然動きが止まっておまえなんか言えよといった。なんか食べたいと言ったら、これが済んでからなと言われた。おまえ、真面目にやれよとまあくんはマジな声で言った。
まあくんとカップラーメンを食べたのは8時を過ぎていた。スナック菓子とチョコも食べた。ジャスミン茶も飲んであたしたちは気分直しにシャワーに入った。そこでまあくんは左膝のガングリオンを洗ってくれた。それから、消えかかったフェルトペンのあともよく泡立てたスポンジで擦った。そうしているまあくんの顔は口が尖っていてぴたぴたもぽわんとなっている。そのあとあたしはビデオで「ガメラ三部作」を見ていて、まあくんはフェルトペンであたしの体をいたずらしていた。
真ん中に引かれた線で、あたしの体は2つに分けられていた。こっちが壊れている方だ。とまあくんは左半身を撫でて、左の肩胛骨の下の当たりにLOVEと書いた。
まあくんは熱中するタイプだとは思っていたけど、こんなことに熱中するとは思わなかった。まあくん、小さいときからお絵かき好きだった、と訊いたら普通と応えた。塗り絵の方が好きだったよって言いながらフェルトペンで左の乳首のところに細かなタッチで、何か描き込んでいる。くすぐったいし、何が描かれているのか気にもなったけれど、「ガメラ」は気になるし、ぴたぴたの方もどうなっているのかたまに覗いてみなくちゃ。おまえ、動くなっつうの、まあくんは怒ってあたしたちはまたセックスをした。
腰が抜けるほどしたいと言っていたのにまあくんは、終わるたびにちょっと休ませてという。そいじゃあ、シャワー入っていいと訊くと、だめせっかく描いたのにという。でも、自分の体がどういうふうになっているかも見てみたい。ひりひりするし、洗わないと痒くなるかもしんないし、絶対シャワーするというと、俺も行くと付いてくる。鏡を見て驚いた。
なんでえ、なんでこんなもの描くの? なんかきったなくない、へんじゃん。きったなくないよお、凄くいいぞお。これなんか、特にいいべとまあくんが指したのは左の脇腹に描かれたペニスの絵だった。そのペニスは実物のまあくんのよりも二周りは大きかったけれど、ぽわんと垂れ下がっていてしわの寄っている部分とか、ぽこんとしたところとかが丁寧に描き込まれている。やだなあと言おうと思ったときに左乳首に描かれたものの意味が判った。これってもしかして、あたし?
驚けば驚くほど、まあくんはご機嫌になった。だから、体を洗ってせっかく描いたものを消されるのを嫌がって、俺が洗ってやるってばあと言ってシャワーのお湯を洗面器に入れている。おいここにまたがれ、と言う。いい、それだったらトイレのビデ使うからと言うと、なんでえ、いいじゃん洗ってやるってばあと言っていたが、あたしはかまわずトイレに入っておしっこをしながら考えた。裸で2泊3日というのはいろいろ出来るものだと思うけど、指を折って数えるとさっきまででまだ8回しかしていない。ちっちっちっとしっこが鳴る。そうだよ、ちっちっちっだよ、まったく。
レトルトのカレーが食べたいと思ったけど、面倒なので電子レンジで食べられるものを探す。冷凍庫にたこ焼きがあった。たいやきもある。焼きおむすびを見つけてそれを食べた。食べながらたこ焼きもチンした。まあくんはそれでもまだ食えると言って、たいやきもチンした。午前1時になっていた。9回目の途中でまあくんが、痛いと言いだした。あたしだって痛いよと言うと、痛いだけなのと訊いた。まあくんはと訊くと、今は痛いだけとつぶやいた。あたしも。洗って寝たほうがいいよ絶対。膝も痛いんだ。まあくんの膝はふたつとも赤くなっていた。あたしの左膝のガングリオンお母さんは相変わらず左の瞼を閉じたまま赤くも青くもならず、ただ、心持ち少し太ったように見えた。ガングリオンお母さんは大きくなっていた。揺すってみたけどちっちっちっもなんだかかわいくない。
まあくんがいびきをかくとは思わなかった。歯ぎしりもしている。ちっとも眠れないのはそのせいばかりではない。もともとふたりで寝るのには小さすぎるベッドなのに、まあくんはお構いなしで眠ってしまった。カーテンの隙間から入った街路灯の明かりが机の上を照らしていた。まあくんが使ったのと別のフェルトペンが机の上にあった、蛍光ペンの隣に。塾で使っている英語のテキストと英会話のレッスンテープの入ったケースがその横にある。ラジカセがあってコンドームの箱があった。箱は蓋が開いたままになっていて、中から桃色のカバーに包まれたひとつがはみ出している。
コンドームの箱は今日だけの特別だけど、あたしの机の上っていつも同じようだ。見ているだけでも落ちつくし、そこに座っている自分の姿が好きなんだ。あたしはいろんな自分が机の前に座っているのが想像できる。小学校の頃の自分、中学の頃。なんだか、どの自分もくつろいでみえる。フェルトペンを取りにベッドを降りた。ついでにカラーペンも探した。
ベッドに戻ってシーツをめくるとまあくんは右手を心臓の上に置き、左手でペニスを覆うような姿で眠っている。フェルトペンをお腹に当てると、ぎぎぎと歯ぎしりがして一瞬いびきが止まったけど、かまわず描き始めた。あたしは絵は上手い。小学校のときからずっとほめられ続けているんだ。火の用心や動物愛護週間のポスターで内閣総理大臣賞とかも貰ったことがあったはずだ。でもホントは絵が上手いんじゃなくて写すのが好きなんだとこの頃気づいた。
スケッチって好きだ。一番好きなのは絵はがきとかきれいな絵とか写真のスケッチ。まあくんの腹は柔らかくて、あんまりいいスケッチブックではない。描きにくかったけれど、慣れてくると膚にインクがしみ込む早さが判ってきて、ぼかしたりかすれさせたり出来ることを発見する。あたしは机の上をまあくんの腹に写す。コンドームの箱はどうしょうかと一瞬考えた。コンドームの箱が机の上にあることが大切な気がして、そのまま写した。1時間もしないうちにまあくんの腹はあたしの机になった。そうしたらなんだか暇になって勉強した方がいいような気になって、本物の机の前に座った。
勉強をしていたら、誰かがくしゃみをした。まあくんだと思った。タオルケットをかけてやろうと立ち上がったとき、ふたたびくしゃみの音がした。あたしは椅子に座り直して、自分の膝にタオルケットを掛けた。くしゃみをしたのは左膝のガングリオンお母さんだった。あたしはその夜、くしゃみだけではなくちっちっちっとつぶやくのも聞いたし、それに合わせて首を振るガングリオンお母さんを見たりもした。励まされているような気分も少しした。
まあくんをお尻でぐいぐい押してベッドで少し寝たけれど、1時間もしないうちに目が覚めた。午前4時だった。
「まあくんココア飲もう」
あたしはこの時間になると目が覚める。それが習慣になったのは中学の頃からだと思う。高校は週の最初と最後に、国語の漢字と英単語の豆テストがあった。1年の1学期はそうだったのだけど、2学期になって毎朝、子豆テストが始まって漢字に英単語、地理、歴史の年号テストと人物テスト、化学式に化学記号、計算テストが加わってたっぷり、120分はテストタイムになってしまった。でも、それって、快感なの。
120分のテストタイムにすっきりすると、あとは1日がさわやかなのね。便秘が治ったみたいに。それに、あとは寝ててもいいんだし、もちろん睡眠不足は解消しなくちゃあならないから、授業中に寝るんだけど、あたしはたいてい国語とか英語とかの時間に寝るの。数学とかも、たまに。そいで、その他の時間にこそ絶対寝ない。みんなは逆だよ。
「うっそお、ハンナなんであんな退屈な授業聞いてられんの、まじ、しんじられなあい」 とか、言われるけど、あたしは好きだな、倫理とか地理とか保健とか。なんか、隅っこって言う感じで。先生も、全然おもしろくなくて笑わしてくれたりも出来ないの。人気ない、暗くって。なんか、あきらめて黒板の前でしゃべっているってふう。でも、そういう先生たちって、へんなテスト作るんだ、仕返しみたいに。だから、あたしはねじくれたり、ひん曲がったようなくだらない問題を満点するために、目玉ぐりぐりさせて起きてるの。だって、いくらなんでも、教科書にも載っていなくて、授業でも話されなかった問題は出せないじゃない。そんなことしたら、あたしは絶対引き下がんない。でも、まだそんな事態は起こらない。つまんない。満点は続くけど、ドラマがない。
そんなわけで、森永ミルクココアは午前4時のお友達だ。楽しいスクールライフを送るための大切なアイテムだ。まあくんともこの時間をともにしたいと思って、カップはふたつ。でも、まあくんは起きない。仕方がないから、机に座って勉強した。一晩中、ヤルと言っていたくせに まあくんはずいぶんと寝ている。いいもん、勉強楽しいから。
まあくんが「おおっ」と声をあげたのは、8時過ぎだった。
あたしは、いつもなら2時間で終える朝勉をたっぷり倍以上も時間を掛けてやったので、テストがやりたくてやりたくてたまらい気分になっていた。
「なんだこれ」
忘れていた、まあくんに描いたんだ。まあくんは、お風呂へ向かって裸のまま走った。あたしは気に入っている、まあくんに描いた絵。
「消しちゃ駄目」まあくんの後を追う。
お風呂場の大きな鏡の前で、まあくんはぽかんとしていた。
「なんで描くかなあ、こんなもん。教科書やテキストじゃん。おまえさあ、絵上手いんだから、もっとさあ、テーマとかないの」
あるよ、だから描いたんじゃん、それ。と言うと、まあくんは頭を振りながら、ダッセエとつぶやいた。あたしだって、いやだよこれ、と言うとまあくんはぶすっとした顔で、あたしの体に描いたものを見ている。
「ねえ、これって、まあくんのテーマな訳」
「うん」
あたしたちはしばらく鏡に映った自分の体に描かれた物を見ていた。あたしの体に描かれた物は、勃起したペニスが2個とぽわんとしたペニスが2個。どれも実物より大きい。それから、あたしらしいものが1個。そして呪文のように描かれたLOVEの文字。やだ、まあくん自分の名前も書いて。なんだか変。全然、似合っていない。
左膝のガングリオンお母さんが、大きな声でくしゃみをした。
「うわあぁぁぁ」
まあくんが叫んだ。だって、ちょうど視線がその辺にあったときだったから、はっきりと見えたんだ。左膝のガングリオンお母さんが、ハクションと口を開けたところを。
あたしは昨夜、まあくんが寝ちゃった後に気づいていたけど、ずっと忘れていた。くゃみをされて思い出したけれど、左膝のガングリオンお母さんはちっちっちっと言うこともできるんだった。それを言おうとしたときは遅かった。
「ちっちっちっ」と舌打ちする声が聞こえた。
「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
まあくんと鏡に映った左膝のガングリオンお母さんは見つめ合った。あわてて股間を両手で隠しながらまあくんは、こんにちはと言った。
膝のお母さんはちっちっちっをやめて、まじまじとまあくんを見る。まあくんは、少しずつ後ろに下がりながら、お風呂場の入り口近くに置いてあったバスタオルを掴むと躍りかかるようにあたしの足に飛び付き、左の足にバスタオルを押しつけた。
「乱暴はしないでってば」
まあくんは聞く耳を持たない。バスタオルで膝をぐるぐる巻きにしょうとしている。左足が独りでに動いて、ちょうど膝の当たりにあったまあくんの鼻をめがけてなのかどうかわかんないけど、なにせ鼻の一番高い辺りに膝蹴りがヒットした。まあくんは、お風呂場の水色のタイルに腰を付く。
「いてえ」
その拍子にバスタオルは膝から落ちて、膝のお母さんが顔を覗かせた。真っ赤になっている。膝のお母さんの顔面は真っ赤になった上に、どんどん腫れ上がっていく。まあくんは顎を押さえて、うずくまる。押さえた指の間だから血が滴った。
「ううっ」という呻り声が、どっちの口からあがっているのか判らない。膝のお母さんはまあくんに頭突きを喰らわせたのだった。
あたしはまあくんの鼻血を冷たい水で絞ったタオルで拭いた。そして、膝のお母さんにもあてがった。口のところは塞がないように気を付けながら。
「おまえ、おかしいべえ、ぜったし」
まあくんは涙声だ。あたしはそんなこと言われても困る。
「ちっちっちっ」
押さえていても判るほど、膝のお母さんは腫れ上がった。もう、膝のお皿にカボチャが乗っているような具合になっている。
「ちっちっちっ」
「まあくん、こんなんなってるう。どうしょう」
あたしはそっとタオルを外して、愕然となる。まあくんも、さらに驚きが重なったせいで口を開けたまま、見入ってしまう。
「ちっちっちっ」「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
凄い勢いで舌打ちが続く。
「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
「痛いんだべ」
まあくんはそう言った。あたしはなんにも痛くない。痛いのは膝のお母さんだけだった。
「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
「冷やすか」
まあくんが冷蔵庫から氷を取ってくる。あたしはそれをビニールの袋に入れて膝のお母さんに当てる。
「ちっちっちっ」
声は小さくなっていく。ほっとして顔を見合わせるとまあくんは鼻血を頬にこびりつかせたままだった。そして、あたしがまあくんのお腹に描いた机や教科書には鼻血が飛び散っていて、かわいい具合の赤い赤い水玉模様になっていた。
まあくんがカップスープを作っている間に、私はベッドの頭の方に枕を重ねてそれにもたれながら、延ばした左膝のガングリオンお母さんが「ちっちっちっ」と言うのを聞いていた。声は苦しそうで、「ちっちっちっ」は、少しずつ間延びして、そのうえ「ち」が、「つ」になって「つ、っつっ、つ、っつっ」とモールス信号みたいになってきた。いくら氷で冷やしても、熱は下がらない。カップスープを持ってまあくんが戻ってくる。
「おばさん、大丈夫ですかあ」
まあくんは左膝のガングリオンお母さんに顔を近づける。左膝のお母さんは、腫れ上がってボールペンで引いた線のような瞼を振るわせながら、こう言った。
「なにか、着なさい」
まあくんはパンツを履いていたのに、そう言われて首をすくめただけだった。そして、あたしの耳元で、おまえ、悪いけどなんかかぶせていい、と聞いた。あたしはスカーフの入っている引き出しをまあくんに教える。まあくんは引き出しを開けて、スカーフの端を持って少しだけ引き出してあたしに見せる。それはだめ、ビームスで買ったばっか。左膝のお母さんは耳ざとく、なにが起こっているのか知ろうと糸のようになった目でまあくんをうかがう。あたしは左膝のお母さんのその目をそっとふさいで、早く、と声を出さずに唇だけで言う。ちがう、それはもっとだめ。フクゾウの新柄だから。それは、エルメス、社長がくれたの、だめにきまってるじゃん。なに怒ってるの、やだなまあくん。仕方がないじゃん。やだ、なんで開けんの、そこ。下着入れだよ。えっ、それ使うの、どういうふうに? ええっ、なんか、ちいちゃくない? あたし、Bだよ。いいけど、大丈夫かなあ。
ブラジャーはハーフカップのにした。色は黄緑。オレンジの小花が肩ひもの付け根のところと、胸の谷間のところに付いているやつ。左膝のお母さんはブラジャーへ入れられるとしばらくの間だ大きな声で「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」とやっていたが、すぐに元通りに「つっつっつっ」となって、だんだんと声は小さくなっていった。死んじゃったんじゃないと訊くと、まあくんは困ったような顔であたしを見て、頭を振った。左膝のお母さんは、ハーフカップのブラジャーに収まりきれずに、鼻と頬の途中から顎にかけて、外に出ている。だから口は出ていて、今は苦しそうにゆがめている。小鼻が息をするたびにひくひくとなっていた。まだ、生きている。
まあくんがバァファリンを割って、マッチ棒の先より小さいバァファリンの欠片を左膝のお母さんの口へ押し込んだ。あたしたちは、冷めてしまって、すっかり不味くなったカップスープをベッドに並んで飲んだ。腰が抜けるというのを試してみたかったのにね、とまあくんに気を使って言うと、まあくんは急に元気付いて、おまえは動かないでいいからとかなんとか、もぞもぞ言いながら机の上のコンドームに手を伸ばした。まあいいか、ブラジャーの中から見えないんだし。
でも、まあくん、赤玉出るって本当かなあ。もうおしまいって、印に。それまでするって、なんか、大変そうだよ。あたしははっきり、痛いと言えない。でも、まあくんが入れたり出したりするたびに、すりむいた傷を擦られるような痛みに泣きそうになる。黙ってろって、おまえ、なんでこういうときに、そんなこと言うかなあ。まあくんは、そういった後、ああーあ、と声を挙げてあたしから離れた。そして、ひとりでシャワーを浴びて、あたしがまあくんのお腹に写生した机の上の絵をすっかり洗い流してしまった。あたしも、シャワーを浴びたいし、まあくんのポリシーの絵も落としたい。だって、汗とかでにじみ出している上に、まあくんの体とこすれて、凄く汚くなっていたし。でも、左膝のお母さんはやっと眠りについたところで、シャワーを浴びるなんてとんでもないことのように思えた。まあくんからは石鹸のいい匂いがした。あたしからは、生臭い臭いしかしなかった。
トイレのビデを使う。左膝のお母さんはいびきをかいている。まあくんとふたりで、そっとブラジャーを外してみる。赤みが引いたように見える。しかし、相変わらず大きさはカボチャぐらいあった。膝が重いので、すぐベッドへ戻る。
「取ったら、死ぬのかな」
まあくんが左膝のお母さんを見ながら言った。
「まあね」
きんきんとした声だった。
あたしはまあくんを見た。まあくんはあたしを見ていた。あたしたちは互いの口元をじっと見て、じきにそれがそこから出た言葉ではないことを知った。あたしたちは次に、左膝のお母さんを見た。左膝のお母さんは熟睡していた、寝息といびきを少しの周期で繰り返していた。まあくんはあたしを立たせた。そして、腰を引いて今にもすぐに逃げ出せるというふうな姿勢で、あたしの周りを回り始めた。そして、二周もしないうちに、きんきん声の主を見つけた。
あたしの左肘の外側には、やはりガングリオンがあって、大きさはウズラの卵ほどだったけれど不釣り合いに大きな口が開いていた。けれども、左膝のガングリオンと決定的に違うのは、左肘の方には人面ではなく、口角があがったまるでピースマークのような口だけが付いていたのだった。
「おまえ、もう、なにが起こるかわかんないな」
まあくんの声は、少しも上擦っていなくて頼もしかった。しかし、まあくんに頼っても仕方がないと思った、あたしの体だし。
まあくんはピースマークの口へ向かって言う。
「耳はあるの。あるんだよね、話が聞こえるんだから。目はないようだれど・・・僕たちが見えるの?」
容赦のない返事が返ってきた。
「馬鹿みたいだ、おまえたち」
キンキンとした声は鼻の奥を抓るようにして、頭の中に響いていく。涙が出そう。
まあくんのむっとした顔をみながら、あたしはこれから自分がどうなっていくんだろうかと、少し考えていた。そもそも左膝のガングリオンお母さんは、ウズラの卵ぐらいの大きさだった。ひと月ぐらい前から、ハンナの足ヘン、って友だちに言われるようになって見ると、なんかでかくなってきたみたいだった。恥ずかしい訳じゃないけどヘンヘンとか言われるのもうざいし、包帯とかサポーターとかもしてみた。そしたら、左膝のガングリオンは刺激されたのが悪かったのか、すぐにジャガイモぐらいの大きさになっちゃった。だから、あたしはまた、包帯で巻いて隠した。なんか溜まったらしいのと言ったら、水ねって言われて、それから水が溜まったことになって一件落着して、あたしは正々堂々と包帯とかサポーターとかしている。たまに、カラー包帯とかも買うんだ。オレンジとかブルーとかきれいな色があって、溜まったものが水であれ、なんであれ、あたしはけっこう包帯ライフを楽しんでいたって訳。
「ハンナってば」
まあくんが肩を揺する。見上げると今にもキレそうなまあくんの顔があった。
「きゃあはははは、ぎゃあはははは」
肘をひねってピースマークガングリオンを見た。口角はますます持ち上がり、気分は極楽という形になっている。口以外は他にはなんもなかった。つるっとした卵のようだった。
「ぎゃあ、ぎぁあ、ぎゃあ、ぎぁあははははははははは」
鳥みたい。真っ赤なたてがみと紫の胸毛、黄色の羽にオレンジの翼。そして尖った嘴は空の青。すっごくケバイ鳥、なんかかわいそすぎる醜くて、あたしの体なのに。
不意だった。私に相談もなく、まあくんはピースマークガングリオンの口をガムテープで塞いだ。あっという間の出来事で、第一、ガムテープなんかどこから持ってきたのかと不思議だった。だからあたしは訊いたんだ。
「どこにあったの、そのガムテープ」
「おまえこんな時、そんなことしか訊けないの」
まあくんはそう言いながら、もう一回ガムテープを切って、ピースマークガングリオンの口を塞ごうとあたしに近づく。
「ねえってば、どこのあったのよ、まあくん」
あたしは返事を訊くまで貼らせてあげないというふうに、左の腕を背中に回した。ついでにガムテープを外す。そして後ずさる。
「玄関の靴箱の上」
まあくんのふてくされた声。また、出しっぱなしなんだ、母さん。出かけるたびに、洋服についた細かなゴミや髪の毛をガムテープを小さくちぎってぺたぺたとするんだけど、ガムテープの本当の置き場所は、ファックスの乗っている台の右側の引き出しということになっている。使ったら、あった場所に戻すということが出来ないのだ、あたしのお母さんは。でも、なんで?
「なんで、ここにあるの、ガムテープ」
「あのさあ、やめてくんないかなあ、そういう言い方。この家へ入って来たときに、持ってきたの、玄関から」
あたしが黙っていたらまあくんは言いにくそうに、これで遊ぼうかなあとか思ってさ、と言った。それで思い出した。あたしたちはこの二日間で、セックスを極めるのだった。どんなことかは、やってみないとわかんないけど。ふうーんと言うとまあくんの機嫌は直って、こんなことは早めに切り上げなくちゃ、と言った。いろいろしなくちゃならないことがあるのを思い出したというふうに。
まあくんにガムテープを渡したときだった。背中に回していた左肘の、ピースマークガングリオンが噛んだ。
「イッ、タアーイ」
歯があるんだ、こいつ。
「だから、貼っときゃよかったんだよ」
すぐに放したけれど、背中には歯形が残っているとまあくんは言う。まあくんはピースマークガングリオンをぐるぐる巻きにする。ガムテープで幾重にも巻かれた肘は、くの字型に曲がったまま動かない。あたしは体の自由がかなり制限されていて、なんだかギブスをはめられた感じになっている。そう言うと、まあくんは生唾を飲んだ。考えていることは判る。あたしも別に嫌じゃない。それどころか、おもしろそうだとちょっとドキドキもする。でも、ガムテープよりはロープの方が普通じゃない? やだって、スカーフは。宝もんなんだから、って言うのにまあくんのばあか。あたしシャワーへ入りたいよ、マジに。
あたしたちは、代わり番こに縛ったり、縛られたりしたけど、それはけっこう疲れただけで、体育会系のセックスだと思った。あたしは体育も得意だけど、まあくんは文化系だな体が。想像も大切だけど、実践って体力だよね、やっぱし。手先の不器用なまあくんて、縛るの下手。なんで出来ないかなあ、ちょうちょ結び。全部堅結びでしょ、ほどくの大変じゃん。だからって、ゆるいのも、めっちゃだめ。気を遣ってくれるのは判るけど、すぐ抜けるとしらけるし。気持ちが拡散しちゃって、エロくならない。でも、まあくんは違うんだよなあ。別人みたいだよ、まあくん。凄い発見だった。まあくんは目なんか寄っちゃって、唇なんか白くかさかさになっちゃってて、なんか、技術家庭の授業で椅子とか作っているって感じで、あたしを縛ったんだよ。
あたしはベッドの真鍮のポールに縛られて、あんまり見ちゃ悪いかなあと思いながら、薄目でまあくんを見上げる。痛い目にあっているのはこっちのはずなんだ、縛られてるんだから。でも、凄い痛い目に遭っているって顔で、大粒の汗を首のところからぽたぽたとあたしの上に落としているのはまあくんで、ううん、ううんと唸っているのもまあくんなんだ。汗はすごく臭かった。
あたしたちはガングリオンのことなんか気にしているどころではなくなった。ふたりでシャワーを浴びて、互いに洗った。そして、気づいたのだけれど、あたしたちは、すっかり痛くなっていて、石鹸もしみるし、温めのお湯にさえ飛び上がるくらい痛んでいた。
「身が軽くなったと言うよりも、頭がスウスウするよ」
まあくんはそう言った。
「赤玉、出たのかな」
と訊いたら、まあくんはペニスを引っ張りながら、こんなに縮こまったのは初めてだと、すこしうれしそうな声で言った。見るからに、ひどい目にあった後の様子で、皮を剥がれたウサギみたい。あたしのだって、ひどいことになっているんだろうと思った。シャワーを浴びながら肘のガムテープも、膝のブラジャーも外して、よおく洗った。ガングリオンたちは、黙ったまま、洗われていた。
シャワーを出て、カップラーメンを食べる。ガニ股でベッドへ戻った。それから、あたしとまあくんは並んで、左膝のガングリオンお母さんと、ピースマークガングリオンをしみじみ見ていた。ふたりとも、黙ったままだった。
口を開いたのはまあくんだった。
「病院、行けば」
確かにその必要はあった。左膝のガングリオンお母さんはカボチャの大きさのまま、顔中が青痣になろうとしていた。左肘のピースマークガングリオンはガムテープでぐるぐる巻きにされたのがショックだったらしく、かわいく吊り上げていた口角がすっかり下がり、今ではへの字口になっていた。
「なんか、見慣れたよなあ」
とまあくんが言う。あたしはまあくんのペニスを見た。確かに見慣れると、どんなものも奇異に思えない。
「なんか愛着湧かない?」
まあくんはそう言ったあと、あくびをする。ふわっと空気が動いて、それに合わせたように、声がした。
「ちっちっちっ、ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
まあくんはふざけん坊だ。真似てちっちっちっと首を振った。
ベッドに横になったまま、「ピザでも食うか」とまあくんが言う。あたしはピザよりスパゲッティが食べたい。でも、宅配のスパゲッティなんてないからあきらめてうんと言う。まあくんはふざけて、それとも食うか膝と肘、と言った。静かにしていたガングリオンたちが騒いだ。あたしは、まあくんに目で止めてと訴えた。
まあくんってこういうところがある。人差し指で左膝のガングリオンお母さんの額辺りを突ついている。
「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
「ギャアアアアア」
ガングリオンたちの声は必死で、まあくんの顔はにやにやしている。
あたしはこの顔に見覚えがある。1年ぐらい前になるんだけど、まあくんのクラスでいじめがあって親とか先生とかが出たり入ったりして騒がしいことがあった。そのこと自体にまあくんが関わっていたわけじゃないんだ。だけど、何人かが学校を辞めていったりしたぐらい大きな事件だったのに、まあくんはずっと部外者でそのくせいじめた子のしたこととか、よく知っていて、あたしに事細かに話してくれたんだ。あの時、まあくんとあたしは学校のそばのコンビニの前の公園でなんか食べていた。ここでなんかを食べると、必ず鳩が来る。その日も鳩がいた。そして、あたしたちの方へ向かってちょこちょこと走ってきた。
「あほだよな、あいつらさあ。まじ、むかつく」
まあくんが言うあいつらとは誰のことだったのだろう。あの時は気にもならなかった。でも、そう言った後だった。まあくんの足下に群がった数羽の鳩へ向かって、まあくんはなにかをかけたのだ。なんだったのかな、あれは。ああ、ラーメンだった。カップラーメン。黄色いロゴが目立つやつ。食べかけだったから麺も宙を飛んだんだ。たいていの鳩は身をかわして飛び上がった。だけど、どうしても飛べない奴がいたんだ。
どうしてそうなったのか知らないれど、その鳩には左の足がなかった。あたしたちは頭から麺を垂らしたその鳩が、食べかけのラーメンの熱い汁もたっぷり浴びたことに気づいた。だって、ごろんとなっちゃったんだもん、鳩。あたしは頭がパニックになって、声も出なかった。鳩は片側の羽だけバサバサさせていたけど、すぐにおとなしくなった。代わりに片一方しかない足をピンと延ばして、赤く甍の模様のあるつま先で空気を蹴飛ばしたんだ。あたしは鳩とまあくんの顔を見比べていた。早くまあくんに何とかして欲しかった。
でも、まあくんはにやにやしていた。確かに変な格好だったよ、鳩は。それにかわいくなんかないよ。でも、にやにやすることはないよ。あたしは大根を抜くみたいに地面から一本ずつ足を剥がして鳩に近づき、抱き上げようとしたんだ。でも、顔の近くに人間の手が見えちゃったからなんだと思うけど、鳩はくるくると頭を回しながら口を開けて威嚇した。これ以上そばに寄れば突つかれそうだった。あたしはまあくんに何とかして欲しかったよ。でも、まあくんは不思議なものを見るように、ぽかんとした顔であたしと鳩を見ている。
「まあくん、死んじゃうよ」
あたしはそう言ったけど、半分は泣いていたと思う。何回もそう言い続けた。まあくんが鳩を掴んだのが見えた。まあくんは鳩を掴むと別人のようになって、というか、もとのまあくんに戻って水飲み場の所へ行き、鳩を洗って体操着で拭いたんだ。鳩は洗われて明らかに元気になった。あたしはなんにも出来ずに見ていただけだった。でも、地面に下ろした鳩が歩き出したとき、あたしたちはなんだかいいことをしたような気になっていて、そもそもひどいことをしたのは自分たちのくせに、そんなことはすっかり忘れていた。終わり方がそんなものだったから、あたしはまあくんのにやにや笑いにどんな意味があったのか、どうしてにやにやしたのか聞くこともなければ、考えることもなかった、今まで。
「まあくん、死んじゃうよ」
あたしはそう言った。人差し指で額を押したからって、いくらガングリオンでも死にはしないと思う。だけど、たとえガングリオンでもにやにやとされたら傷つくし、にやにやしているまあくんを見るのもいやだった。
「すぐに、止めなさい」
声は手首からした。まるで、小さな子どものような声でとても怒っていた。左手の手首にはビー玉の大きさのガングリオンが出来ていて、小さいながらちゃんと顔になっていた。まあくんは、左膝のガングリオンお母さんを突ついていた人差し指で、お子さまガングリオンを触ろうとした。そして噛みつかれた。
あたしたちはピザを注文した。マヨネーズ味でポテトとコーンの乗ったやつ。午後7時のニュースを見ながら食べた。まあくんはもとのまあくんに戻っている。今度も、どうしてにやにやするのと訊かなかった。訊かなくとも判った。まあくんは、時々、凄く意地悪になる。そして、弱いものに当たる。でも、時々って、曖昧だなあ。
「おまえ、時たま、すーげえ声で死んじゃうっていうのな。前も聞いたことあるし。あれ、やめてくんない」
まあくんはそう言って、ピザを口に入れた。まあくんもあの時のことを憶えているんだ。左足のない鳩のこと。でも、自分のしたことを憶えているんだろうか。
「それから、前から思っていたんだけど、おまえ、その上目遣いやめろよな。スゲーエ意地悪に見えるし」
頭の中でガランガランと鐘が鳴ってるみたいだった。まあくんが、あたしを意地悪だと思っていたなんて。
ガングリオンを、どうするつもりなのかとまあくんは訊かない。それは私にとっては気楽でいいのだけれど、なんだか突き放されたようでもあって寂しい。よくいるんだよ、べたべたしてなんでも男の言いなりって女が。でも、男の言いなりになって全然嫌じゃないんだろうか。あたしは嫌なんだ。でも、それをいやだと言っちゃうと男って顔色変えて怒り出すか、くるっと後ろむいちゃってバイバイになっちゃうんだ。大人の男って違うんだろうか? まあくんにそれを求めるって無理な話なんだろうか。あたしはうつむいて口数少なくなっちゃう。そして、たまに見上げる。それが、まあくんの言う、上目遣いの意地悪そうなあたしなんだ、きっと。
「これ、食っていい?」
最後の一切れを口に運びながら、取って付けたように訊く。やだ、あたしも食いたい。と言えたらいいのに。ひとつの時は、どちらかが譲らなくちゃいけない。人ってこういう関係なんだと思う。合意なんかあるもんか。そもそもあたしは我慢して、ピザを食っている。スパゲッティはあきらめた。こういうことの積み重ねなんだ。セックスだって、あたしは痛いだけだ。早く赤玉が出てまあくんがお釈迦になれば、すっごくさわやかな気持ちになれると思う。だって、あたしはセックスに我慢しているんだ、嫌われたくないから。 でも、それだけでもないな、やっぱ。まあくんがいろんな顔したり、あたしの体にいろんなことしたりするのは好きなんだ。その時のまあくんは、たぶん、地震がきても雷が落ちても寄り目になったまま、はあはあと言っているに違いないもの。でも、まあくんがあたしとのセックスで得られる快感の大きさは、地震や雷の恐怖よりも深いと言えるのだろうか。それって、私の価値なんだろうか。
「おまえ、なんか辛くない? ふつう怖がるべ、ヘンなのできて」
まあくんはミネラルウオーターの瓶に直口で飲んでいる。なんだか、無性にそれが不潔に見える。あたしはあのあと飲めそうにない。
「気持ち悪いよなあ」
べつに、と応える。なにかを感じてまあくんは首をすくめる。一瞬まあくんの心が透けて見えた。まあくんは帰りたがっている。ちっともかまわないよ、帰ったら。まあくんは、びくっと震える。ケイタイが鳴る。アルプスの少女ハイジは、あたしのケイタイだ。
「スーザン、お留守番どうお。今どこにいるの? 予備校? それともどこかのお店? なんか困ったことはない? 隠しちゃ駄目よ、ちっちっちっちっ」
母さんが受話器の向こうでちっちっちっちっと人差し指を振っている。着け爪はしていないはずだ、お葬式だもの。でも、もう終わっているに違いないから、派手なやつがくっついているかも知れない。
「スーザン?」
母さんは心配そうに声のトーンを落とす。スーザンってなんなんだろう。あだ名って勝手に付けられちゃうものだから、あたしが気に入らなければ面と向かって、そういうふうに呼ばないで、と言えばいいんだ。ウサギちゃんとか、ミンクちゃんとか呼ばれないだけましかも知れない。スーザンの前はスージーで、ステファンというのもあったけど男の子の名前でしょうと言ったら、母さんは一度しか使わなかった。マームというのが気に入っていたみたいだった。多分、母さんはイメージを風船のように膨らましては、あたしをスーザンにしたりスージーにしたりするんだろうけど、なんで川口ハンナじゃいけないのか。いつか訊いてみたい。
「いつ帰ってくるの?」
「ちっちっちっちっ、なにかやっているんじゃないでしょうね」
まあくんが立ち上がって部屋を出ていく。母さんは勝手に今夜宿泊する奈良の旅館の話を始めた。あたしはピザを食った話をし、明日の夕方には戻るという母さんがおみやげに欲しいものはあるかと訊いたので、鹿の糞と言ってちっちっちっをされてしまった。ケイタイをたたむと、小さくなったピンクのケイタイに母さんが閉じこめられたように思えた。早く、帰ってきて欲しい。
廊下でまあくんが自分のケイタイで話している。相手は友だちっぽい。声は明るいし、口調も軽い。笑ったりしている。あっ、こんな声でずっと笑っていない、まあくん。
「まじ、あはははは、やべえー、あはははは、あははははは。うーん、そうなん。でもさあ、そうそう、だべえー。あははははは、はははは」
あたしは部屋へ戻る。まあくんに帰って貰いたい。ケイタイはなかなか終わらず、あたしは机に向かってドリルを開く。ああ、なんて楽しいんだろう。漢字の検定を受けようかな。英検は一級を取りたいんだ。もうじき、受験する。ずっと、試験のある生活をしたい。ヘッドフォーンを付けて、英語の聴き取りをする。つまんない、憶えちゃったもの。聴き取りながら、ノートにうつしていくと中指がつって気持ちがいい。
「悪いけど、俺、用事出来ちゃったから一度帰るな。また来るから」
まあくんは洋服なんか着ちゃってる。
「よかったよ、母さん今夜中に帰ってくるかもだって」
考えてもいなかった言葉が口から飛び出した。
「まじかぁよお。やべえじゃん」
「うん、だから、持って帰ってコンドームとか」
おお、と応えたまあくんはてきぱきとゴミを集め、半透明のビニール袋に突っ込んだ。袋はペットボトルやお菓子のからや、使ったテッシュとかコンドームの小袋とかで膨れあがった。どうするというので、持っていってと応えた。そうだよ、絶対持って帰れよ。
まあくんは、ぶらぶらと袋を振りながら帰っていった。あたしは換気扇を回して空気を入れ換えた。それから、シャワーへ入って、まだ時間があったので予備校へ向かった。
模擬テストの結果が廊下に貼ってあった。横浜校では6番だったけれど、全国に散らばるチェーン校をあわせた中では73番だった。目の奥がぎゅっとなった。途端、膝の包帯の中で「ちっちっちっちっ」と声がした。本当だよ、ちっちっちっだよ、まったく。
あたしは授業には出ないで、職員室に寄ってテストの得点表と解答用紙を貰った。正解の用紙もくれたけど、それは予備校の玄関をでたところで丸めて捨ててしまった。こんなものなんか、いるもんか。急いで家に戻ると、すっかりまあくんの臭いの抜けた部屋の机の上にテストの得点表を開いた。鼻歌がでた。それに併せてハモル声がした。
ちっちっちっちっちっちっちっちっ、ぎゃあ、ぎぁあ、ぎゃあ、ぎぁ、あああああ。
そして小さな子どもの声で、赤とんぼが歌われた。あたしはじっと見た。左手首の内側に出来たビー玉ぐらいの大きさのガングリオンは、ゴマ粒ほどの目をいっぱいに見開き、米粒ほどの口を縦に横に目一杯に開いて歌う。あたしは名前をつけてやった。マルコだよ、絶対。
あたしはもう普通の女子高生ではなくなった思う。どこがって、体が。だから、体をもっと見なければならない。傾向と対策、そうだよ。
一番大きな鏡はお風呂場にある。お風呂場に行くと、ひとりでゆっくり浴槽に浸かりたくなる。いい匂いのするオイルを入れて、あっ、FMで英語放送も聞かなくちゃ。膝のガングリオンお母さんが溺れないだろうかとか思うと、いつもしていたことが普通に出来ない。浴槽からお湯を汲みだしては、ガングリオンたちを避けて体に掛ける。体が温まると縮こまっていた心が広がるような感じがする。ひとりになれてうれしかった。浴槽の縁に座って、ゆっくりと自分の体を見た。
ガングリオンたちは飛び出していた。飛び出したガングリオンたちは体から出た芽のようだった。そこから枝が伸びて行くみたいな感じで、自分の体が新鮮。
左膝のガングリオンお母さんは小型のカボチャほどあって色は、今まさに青痣になろうとする赤痣という感じの紫色で、絞ったタオルで顔を拭いてやると、静かな声でありがとうと言った。こんなに腫れては本物の母さんには似ていない。ちっちっちっちっと言うとき以外は。ピースマークガングリオンは左肘にあった。最初見たときはウズラの卵ぐらいの大きさでつるんとしていた。今は、鶏卵ぐらいになっている。口角はあがっていて笑っているように見えた。肌はつるんとしていたが、わずかの間に額の当たりに縦に二本のしわが出来ていた。左手首のマルコは美形だ。鏡に背中を映したのは、なにかの気配があったからだった。左の肩胛骨の真ん中にお焼きのような形に盛り上がったガングリオンがいた。
「こんにちは」
取りあえず挨拶をすると、お焼きのガングリオンはプッとおならのような音をさせただけで、なにも返事はしなかった。体をいろんな方向にずらせてなるべくよく見えるようにチャレンジしてわかったことは、このガングリオンは顔というよりお尻に似ていた。尻の真ん中には巾着のようにすぼまった穴があって、そこからプッと音をたてて空気みたいなものが出てくる。やだ、臭かったらどうしょう。今のところ、臭いはしない、と思う。
これで四つだ。みんな左側だった。まあくんが引いた線を思い出した。体の真ん中から、右と左にあたしを切ったあの線の左の中にガングリオンたちは収まっていた。あたしは左側が壊れたのかも知れない。なにか、大切な袋が破けて、そこから栄養やら滋養が溢れて眠っていたあたしの欠片に命を与えちまったのかも・・・なんて乙女なこと考えられないよ。あほくさ、あほくさだけど、あたしは笑えない。あんまりリアルだから、生きることが。肉が先だな、精神なんて糞みたい、へ。
「ちっちっちっちっちっちっちっちっ」
あたしは左膝のガングリオンお母さんにフエルトペンで髪を描いてあげる。口紅とか頬紅とかは今日は無理だ、腫れすぎていて。ピースマークガングリオンには三日月形に眉とつぶった瞼を描く。人差し指で、額のしわをマッサージすると口角がすーっと上がる。マルコには口づけを。
あたしは明日学校へ行けるのだろうか。こんなで。考えても仕方がないから、勉強した。模擬テストの間違いは些細なところだった。
「細部にすべてが宿る」
マルコ、そんなこと言っちゃって、口づけ再び。
ハイジの曲が大音響で鳴り響き、ケイタイはまあくんだった。もう午前1時になっていた。おまえどうなったと言いながらなんか食べてる。どこにいるのと訊くと、コンビニの前でカップラーメン食ってると応えた。あたしもなんか食べたい。でも、まあくんには合いたくない。
「おばさん帰ってきた?」
食べながらケイタイするなんて最低だった。それに、まあくんの気持ちは見え透いていた。セックスしてガングリオンをいじめて、またセックスしてガングリオンをいじめて、そしてあたしを意地悪な女だとか言うに違いないもん。少しでも、考えたりすると目つき悪いと言うんだ。
「もう寝るから」
そう言ってケイタイをたたむと、まあくんと仲直りしたかった。クラスの誰かが言ったんだけど、一晩一緒にいるとうんざりする。でも、少しずつ慣れるって。逢いたいという気持ちが奥歯の歯茎の辺りに行列していて、涎が出そうになった。まるで犬みたいだと思ったけど、逢いたくて涎が出たとまあくんに教えてあげたくなった。でもそんなことをしたら、カップラーメンをほおり投げてすぐにくるに決まっている。だって疑っていたもの、母さんが帰っているのかどうか。結局、まあくんはガングリオンに対してよき隣人ではないんだから、あたしは涎垂らしても逢えないと思った方がいいな。
翌朝、母さんは社長と一緒に帰ってきた。玄関を入ったときから、ちっちっちっちっと舌打ちをしながら、薄墨桜のシールを貼ったつけ爪を振り振り、朝勉中のあたしの机にやってきた。
「なんでこんなに早いの」
まだ、6時前だった。
「スーザンの様子が心配だったから。社長がレンタカーで帰れば一番早く帰れるって言うから。心配したのよお、ちっちっちっちっ」
母さんはちっちっちっちっをしたあと、あたしの猫足ベッドに腰を下ろすと黙ってしまった。あたしは勉強している振りをして母さんの様子をうかがっている。母さんは、自分の足下に視線を落として、なにかを考えていた。母さんはなにか言うべきことがあって、早く帰ってきたのではないだろうか。あたしのせいではなく・・・。
台所では水道を出す音や、食器が触れあう音がしていて、いつもの朝のようだった。でも、あたしも母さんも、けっしていつものあたしと母さんではなくなっていた。そういう、取り返しのつかないことが、たがいの身に起こっているということが、どうしようもなく伝わって、固まったまま、社長が朝食の用意を終えるのを待っていた。あたしたちは、それぞれの問題を今話し合う気はなかった。
「錦のう巻き。それから、奈良の柿の葉寿司。すぐき漬けに、柴漬け。あとは、ほら、これは花びらの簪」
社長はみそ汁をよそりながら、テーブルの上に並べられたものを説明している。たまに作ってくれる社長の手料理は、すこしうざい。品数も多いし、それに併せて口数も多くなるから、その時だけは早く出かけてくんないかなあと思う。帰って欲しいというのが本当の気持ちだけど、それを大切にしすぎるとなにかの折りに口からポロンと飛び出してしまう。だから、本音も嘘音もほどほどがいいよ。そして、黙っているのが一番だ。
「ちっちっちっちっ、スーザン、もう少し食べなさい」
母さんがそう言ったときだった。しーっと唇に人差し指を当てて、社長が聞き耳を立てた。あたしはすぐにわかった。左膝のガングリオンお母さんだった。
「ちっちっちっちっ」
それはちいさな声だったけれど、間違いはなかった。
「あらいやだ、スーザン、腹話術?」
「まだ、練習中」
慌てて席を立つと左膝のガングリオンお母さんは声をひそめたけれど、背中のお尻ガングリオンがプゥとした。
「失礼」
そう言いながら走り出てきたけど、あたしは泣きたかった。もう泣いて、母さんどうにかしてとか言って、抱きつきたかった。けど、社長がいたし、母さんには母さんの問題があるのだと思うと、はやく部屋へ引き上げて対策を考えなければならないという気がした。ひとりだし、まあくんはまったくの他人だった。身内の母さんでさえ言えなかったんだもの、仕方がないかも。でも、それって恋人の考えることじゃないな。
一番の問題はプゥだった。臭いこそないけれど、音は完全におならだ。それも背中で。お尻のちょっと上だから、紛らわしい。というか、ほとんどそうとしか聞こえない。学校なんか行かれない。ケイタイが鳴った。
「どうしたあ」
まあくんはさも心配しているという感じの声。あたしは疑っているわけじゃないけど、頼らないよ。涎が出そうだ、逢いたくて。
「あれ、どうしたあ?」
やっぱり駄目だと思う。まあくんは心配しているけど、でもそれって信頼できない。いつ、にやにや笑いが始まるかしれない。
「べつに、今日学校行かない」
「おまえ、なんか、怒ってるべ。いいけど、怒ってるならそれで」
まあくんは簡単にケイタイを切った。あたしも呼び出しをサイレントにして、ケイタイをふたつにたたんだ。まあくんとつながっていると感じるとき、ふたつある。ひとつはセックス。もうひとつはケイタイだった。
でもセックスは腰が抜ける前に、痛くなってしまった。擦れるという痛さは、つながるという喜びが実は体の喜びではないということの証のような気がする。ケイタイだって、つながっているという気分だけだし、それだってつながっていたいという気持ちとは関係ない。だって、あたしはもうつながることなんてあてにしていないもの。悲しいけど。
ハンナ、あたし不感症かもと相談されたことがあった。クララは親友。でも、互いに恋人が出来てダブルデートもしたんだけど、クララの3人目の恋人が風俗関係の男だったので、何となく疎遠になっちゃったんだ。クララはあんまり学校へ来なくなっちゃったし。言い忘れたけど、まあくんはあたしにとって2人目の恋人なんだ。前の恋人は、クララに取られちゃったし、まあくんだって、ほんとはクララに気があったんだ。時たま、ぽおっとした目でクララのこと見ていたもの。クララはかわいいとか美人とか言うんじゃないし、痩せてはいるけどスタイルだってモデルってわけでもない。でも、もてる。気がつくと男がクララを見ている。最初はよくわからなかった、なんでだか。今でもよくわからない。 だけど、クララの体の先っちょ、指先とか首とかつま先とか、なんかそういう所々がゆっくり動くことを発見した。それは生き物のようだ。気がつくとあたしもクララの指を見ている。人差し指が優雅に曲がる感じとか、それに併せて4本の指もゆっくり動くんだけれど、なにかエロいことがクララの指の先っちょで起こっているんだと想像させるものがあるような。でも、クララは意識していたわけじゃないと思う。ただ、ゆっくりだったんだ、動きが。
なんだかクララはエロいことを得意にしそうな感じがした。けどクララは案外さっぱりしていて、女とのつきあいもよかったんだ。あたしはクララにいろいろ訊いた。
「あたしは、一番好きな人とはつき合わないんだ」
クララがそう教えてくれたのは、まあくんの前の男、重田とのことでなんだかうざい思いをしていたときだった。どうしてと訊いたけど、クララは応えてくれなかった。でもそのあとすぐに、風俗関係の男とつき合っちゃったんだ。
「セックスってさあ、いいもんだとは限らないよね。でも、ほんとはいいもんなのかも知れない。だってねあたし不感症なんだ」
マックのポテトが優雅にクララの口の中に吸い込まれていった。何回か噛んで、喉仏の辺りを通っていくポテトがエロかった。あたしはマックシェークを思いっきりすすった。「ハンナはどう」
あたしはあるがままに言った。まだわかんない、でも、ずっとわかんないかも知れない。「じゃあ、なんでハアハア言うんだろう」
クララはそう言った。まるであたしがそう言っていることがわかっているんだという感じで。それから、あたしはセックスするとき自分がハアハア言っているのかどうか気になって仕方がない。
それから、クララはこうも言った。
「したいと思うじゃん、でも、それって出し入れじゃないのかもしれない。たとえばさあ、相手の無防備な顔とか、変な風になっちゃったアレとか、つるんとしたお尻とか、それから、まじ笑えるのは、靴下よ。裸に靴下、あれって間抜けじゃん」
あたしたちは笑った。
「それなのに、かわいいじゃん。でもかわいいって思うのって、キモワル。そういうのって、イヤなんだ。そういうつながりって」
クララは、だから一番好きな人とつき合わないと、もう一度言った。不感症って治るのかしらと首を傾げたクララに、治るって言うのは病気とかみたいにって訊いた。クララがコックリと首をおった。あたしはクララが運動場のトラックで隣を走っているような気になる。実は何周も前を走っているのに、何周か遅れのあたしと今だけ並んで走っているような気がした。久しぶりに思い出したら、クララに会いたかった。クララは私の体を見たらなんと言うだろう。
クララのケイタイに電話した。寝ているのかも知れなかった、応答がない。
あたしは背中のお尻ガングリオンの口の辺りというか、お尻の穴というかプッと音の出る場所にガムテープで蓋をした。それからいつもより多めに着込んだ。制服はあったけど、私服でもいいというのがあたしの通っている高校で、そこを制服にしたり私服にしたりとみんなはさりげなく考えてやっているわけで、あたしはほとんど制服で行くけどまあくんは制服を着たことがない。
今日は私服にする。スカート長めにしないとね。背中も瘤みたくなっちゃうといけないから。肘のところも手首のところもふんわりとしたものを着たかったけど、そんなものは
持っていなかった。
「ちっちっちっちっ、ヘンよ、スーザン。センス悪い」
母さんは玄関でそう言って着替えさせようとしたけれど、あたしは考えに考えてこれにしたんだから、今更着替えられるわけがない。靴を突っかけて飛び出すと、ケイタイが震えていた。音を消していたんだった。相手の番号を見るとクララだった。
「なんの用?」
愛想のないクララの声。しわがれて不機嫌な声。
「ちょっと逢えない?」
「なんで?」
歩きながら理由を言うのは面倒だったけど、あたしは言った。
「いいけど、家に来る?」
そういった後、クララは一緒にいる誰かに出て行けと怒鳴った。ケイタイから、クララの怒鳴り声が響いた。
クララの家は初めてだった。家と言うより部屋で、5階建てのマンションなんだけど細長い箱のような建物だった。外側に貼られた黄土色のタイルがテカテカしていた。
「あたしは誰かをこの部屋に入れたくないんだ」
クララは申し訳のようにそう言った。足を踏み入れた途端に、そう言いたい気分はわかった。入り口にはゴミの袋がいくつも重ねられていて、少し臭った。クララのマンションの前がゴミの収集場所で、今そこで山のように積まれたゴミを見たばかりだった。あたしはクララの部屋のゴミを4個持った。クララは絶対必要がないからと言ったが、あたしがゴミを持って出ると自分も4個持って出てきた。あたしたちはゴミの上にかぶせられたカラスよけのネットを持ち上げて袋を投げ入れた。
「ダッシュ」
かけ声をかけるとクララが走った。あたしたちは4往復して合計30個以上のゴミ袋を捨てた。途中でゴミを袋に詰める作業もしたので、けっこう時間もかかった。ついでだから掃除機を掃除して、それで部屋も掃除した。
「なんか、ふたりですると楽しいね」
クララがそう言った。あたしは別に楽しくはなかった。でも、そう言うクララはずいぶん辛かったのではないかと思えたので、うんと言った。途中で、もういいよ、止めようよとクララは何回も言ったけど、止めることが出来なかった。流しとお風呂場とトイレは苦労したけど、クララは掃除が出来なくなる魔法がとけたみたいに手際がいい。あたしたちは夕方まで1LDKを片付け続け、仕上げにかびの生えたシャワーカーテンと埃で灰色になったレースのカーテンを外して、新しいカーテンを買いに出かけた。
クララはレモンのスライスの模様のシャワーカーテンを、さっぱりしていて清潔そうだという理由で選んだ。レースのカーテンは一番ありきたりのにした。
「なんか食べよう、おごる」
クララのお薦めの店であたしたちはラーメンを食べた。クララは慣れた手つきで、ニンニクとショウガと豆板醤をそれぞれスプーンで山盛りに入れた。替え玉をして、スープも全部飲んだ。そこは一度も入ったことのない感じの店で、食べたものも今までだったら決してオーダーしないものだった。あたしはあっさり系が好きだし、こういうのって、おやじの食べ物みたいで嫌だったから。美味しかったけど、すぐに自分が臭うようで気になり始めた。
帰り道、お風呂に入りたいと言うと、クララがにごり湯のもとを買った。そのとき、あたしは自分がなんのためにクララの家へきたのか思い出した。なぜだか、ガングリオンたちは静かにしていたし。
「ひえーっ」
クララはそう叫んだあと、しばらく黙ったままでガングリオンたちを見て回った。あたしたちは裸で浴槽にいた。
「人面痩っていうんじゃない」
「口もきくんだよ」
そう言ったときだった。左膝のガングリオンお母さんがつぶっていた瞼を開いて、クララを見た。そして言った。
「なにか着なさい、ちっちっちっちっ。なんで裸なの、ちっちっちっちっ」
クララは肩をすぼめて浴槽に浸かった。
「ハンナ、それって病気じゃないね」
そうかあ、病気じゃないと思うよ、あたしはいつもと同じだし、元気だし。整形外科の医者が言ったガングリオンの域は越しているようだし。口まできくんだからも、ただのガングリオンではないに決まっているけど。だから、頭を振った。
「よーく思い出しなよ、なんか原因とかない? もしかして、ハンナの家の人に同じようなソレ、ある人いない?」
「父さんは知らないよ。もう、ずーっとあっていないし。母さんはないと思う」
「呪いとかじゃないだろうね」
クララの声は秘密を打ち明けているように密やかだ。ぞっとするような感じがした。その感じは気分だけじゃなくなっていって、最初は背骨の辺りをわさわささせていたけど、だんだんと背中がこわばって突っ張り、痛くなった。
突然、ボンという大きな音がして、背中がスウスウした。クララはキャアとか言っちゃって、裸のまんま、飛び出していった。あたしはそっと背中に触ってみた。背中は指が触れてもなにも感じなかった。指の方はちょっと、ヌルッとした。見てみたけど、血とかそういうものはついていなかった。ただ透明な液が右手の人差し指と中指と薬指についていた。臭いはなかった。
「だいじょうぶ」
クララが覗いた。あたしはクララに背中の様子を訊くしか道はなかった。クララは、左の肩胛骨の辺りが破裂したみたいだという。
「でも、血とか出てない」
あたしは泣きたかった。よその家で、しかも裸で、背中が破裂したとはどういうことなのか、でも泣くのは後でも出来る。
「痛くないの」
そうクララに訊かれて、初めて気がついたけれどどこも痛くない。ボンいう直前までは痛かったのに。その代わり、スウスウしてとても寒い。
「救急車とか呼ぶ?」
「呼ばない」
あたしはクララに働いて貰うことにした。クララは逃げ出したくて仕方なさそうだったけど、だんだんと興味が湧いてきたらしくて手際もよくなって行く。クララはお化粧用に使う鏡を集めて反射に反射を重ねて、あたしに背中が見えるようにしてくれた。それから、懐中電灯をあててよく見えるようにもしてくれた。
血が出ない訳がわかった。痛くない訳も。背中のお尻ガングリオンがプゥをするので、お家を出るときにガムテープで穴を押さえたのだ。あたしはクララのお風呂場、と言うよりはトイレルームの端っこに取りつけられているだけのバスで、すっかり裸になったつもりでいたけれど。背中のガムテープを剥がし忘れていたのだった。
溜まっちゃったんだ、ガス。だから爆発して、お尻ガングリオンが爆死しちゃったんだ。
クララは、よかったじゃんひとつ減ってと言ったけれど、あたしはスウスウして風邪を引きそうだった。別れて外に出ると、もうすっかり夜になっていて、夜風が身にしみた。予備校へ寄って次の模擬の予約をした。それから、授業に出て終わりまでいた。ケイタイで家へ電話をしたけど、誰も出なかった。母さんはどうしたのだろうと思った。でも、ひとりぼっちの家に帰りたくなくて、マックに寄ってポテト食べながら勉強をした。左膝のガングリオンお母さんがくしゃみをし、ソレを合図のように肘のピースマークガングリオンと手首の子どもガングリオンが、くしゃみを連発した。あたしを見ている人の顔が見る見る間に、固まっていくのを見るのは辛い。ガングリオンたちはのくしゃみは治まらず、あたしはここにもいられなくなって外へ出た。ほんとに今日は寒い。あたしだけだと思うけど。
コンビニの前にまあくんのスクーターがあった。まあくんは家庭教師の来る日だったはずなのに。雑誌のコーナーで立ち読みしているまあくんがガラス越しに見えた。あの辺りはアダルトのスケベ雑誌。コンビニは明るくて、例えそこがアダルトのスケベでも、まあくんは清潔そうでいい感じに見えた。
お尻のポケットが四角く膨らんでいた。あそこには、コンドームが入っているんだ。奥歯の歯茎がうずいて、涎が出そうだった。あたしはコンビニから離れた。離れてもしばらくはまあくんを見ていた。
「ちょっと、いいかしら」
母さんはそう言ってあたしの猫足ベッドに腰を下ろした。11時を過ぎていた。母さんはさっき帰ってきたばかりだった。もう少しでやだと言いそうになった。
母さんの話が、見えてるわけではなかったけど、相談と称して母さんがグチャグチャ言うのを黙って聞いたり、相づちとか強要されたり、ひどいときには答えを訊いたりされても、あたしは絶対に冷たくできない。それはふたりだからだ。あたしたちはふたりだった。ずっとふたりで、これからもふたりなのは変わらないと思う。社長がいても変わらないし。
あたしはいつものように、母さんの繰り言が始まるのをワークブックの頁にしおりを挟んで待っていた。なんだか、月の明るい晩だった。窓の外にゆずり葉の木があって、その葉っぱの上にロウを塗ったように白く月の光が乗っていた。葉っぱは鈍く輝いていた。
「結婚するから」
声は素っ気なかった。うれしい気持ちも、晴れがましさも、見あたらなかった。そして、指先のつけ爪を見ながら細かなプランを話した。結婚式はサンフランシスコでして、そのまま西海岸でハネムーンを過ごすという、とんでもなく陳腐なそれでいて具体的な計画だった。母さんの左手の薬指には、見慣れない細かなダイヤが詰まった指輪がはめられていて、スターダストのように輝いていた。
あたしはため息をついたけれど、それはあきらめとか、がっかりしたとか言うものじゃなくて、ただ、あたしの置かれている状況との落差に息が固まりになって喉を転がりだしただけだった。
「ちっちっちっちっ、反対してもいいのよ。遠慮はなしよ、スーザン」
見ると、母さんはあたしの目を覗き込むようにしながら、人差し指を立てて、ちっちっちっちっと言う。
「スーザンったら、マミィのことちゃんと見て」
スーザンって誰だ。マミィって、だあれ? 破れた背中が熱くなった。
「ちょっと、質問していいかしら」
左膝のガングリオンお母さんがスカートの中から声を挙げた。
「やだ、スーザン、もちろんよ。でも、変な話し方はやめてね、ちっちっちっちっ」
人差し指があたしの口の前で振られた。あたしは言うことにした。
「そこじゃないよ、しゃべっているのは」
と言うと、母さんはぽかんとした顔になってあたしの目を覗いた。母さんの瞳の採光がこんなに薄い色だとは気づかなかった。薄い目の色は母さんの心のうつろいに似て、ふわふわと頼りなげに見えた。
あたしがスカートをめくって左膝のガングリオンお母さんを見せたのは、もう、母さんとはふたりきりだという幻想が消えたからだと思う。あたしは孤独だということが、わかった。こうやって、自分が孤独だと知らされるのは不幸だ。と、思う今はほんとに不幸だった。
左膝のガングリオンお母さんは両目をしっかり開けて、口を心持ち尖らせいてた。そして、まあくんに膝蹴りを喰らった顔面はすっかり青痣になっていて、小振りのカボチャほどの大きさだった。
「なんなの!」
母さんが訊いた。
「質問、いいかしら」
左膝のガングリオンお母さんが重ねてそう言った。
「なんなよ、これはいったい」
今度の母さんの声は、つぶやくようだった。膝が揺れて、ガングリオンお母さんが母さんへ向かってちっちっちっとした。母さんは立ち上がって扉へ向かいながら、大きな声で社長を呼んだ。声に色があったら、真っ赤な声だったと思う。
あたしは立ち上がって、扉につかまってやっと立っている母さんを、蹴飛ばした。母さんは廊下に飛び出し、前につんのめって前転をしながら狭い廊下を、ピンボールの玉があちこちにぶつかりながら転がるようにぐるぐる転がっていた。その先は階段だと思ったとき、階段を上ってきた社長が二階の廊下に足をかけて、後ろに残した足で最後の階段を蹴ろうとしていたところだった。
母さんと社長は階段を転げ落ちた。ふたりとも何も言わずに落ちていったから、人間がものにぶつかる時にたてる思いもよらない重い音がよく響いた。廊下には母さんから剥がれたつけ爪が落ちていた。
「質問いいかしら」
左膝のガングリオン母さんがそう訊くので、あたしはつけ爪を眺めながらどうぞと応えた。
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